たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

怒らないことと乖離すること

2013-12-23 21:47:51 | ココロ
知人がシェアしていたブログで「怒らない修行」というのを読みました。お坊さんが書いている様なので,それなりに考えられた内容かともおもうのですが。

ここで書かれている怒らない方法は「出来るだけ考えずに時間を経過させる」ことという風に読めました。自分が浅く読んでいる…という気はするのですが。

これを読んでおもったのは,乖離に似てるってことです。乖離っていわゆる精神的なストレスを受けた人が,自分の目の前におきている辛いことを現実と認識しなくなることです。例えば夢を見てるような感じで見てしまうとか,思考停止してしまうとか。

乖離は一般的にあまりよくないことの様に言われます。現実から眼を背けるし,現実の問題に対応できなくなるから。よく言う幼児に対するネグレクトとかも親が乖離を起こしているケースもあります。だとすると考えないことによって怒らない…っていいことなんだろうか?とか真っ先におもったのです。

とはいえ,一般に乖離が悪いことだといわれますが,自分を省みると,こういうことって良くあるよな…とおもいます。辛い状況を「早くこの時間過ぎないかなぁ」と思考停止して過ごすこと。また自分におきていることを第三者におきていること…という風に客観視して,辛さを半減させることも良くやります。

ということは乖離って悪いことじゃないのでしょうか?。たぶん正解は無いのだろうけど,程度の問題なのかな?という気がしてます。要は乖離になる自分を更に客観視できるというか,コントロールできるってことなんだろうなぁ…ということです。ですから真に対処しなくてはいけないことは乖離しないとか,感情的に怒っている自分に対しては乖離するとか,そういうことを選択的に行えるってことが必要ってことではないでしょうか?。怒ったら無条件に考えなくなるようではまずいようにおもいます。

さて,自分は余り怒らない人だと自覚してますが,自分が怒らないようにしているコツは,

  • 他人に期待しないこと

  • 人は自分と同じように感じ,考えるわけではないとおもうこと

  • 怒るのではなくがっかりすること


とかです。他人に怒るっていうのは,どこかしら他人に期待をしてるってことだとおもいます。期待した自分を反省すれば怒る気が起きません。また同じことですが,相手が自分と同じように感じているわけでもありません。こういう風に考える人がいるんだ,感じる人がいるんだ,へー,という風に興味深い…と考えると好奇心の方が勝ってしまいます。で,最後のががっかりすること。なんか自分に不利益な状態になると,トホホホ…と思って脱力する,結構これで済んじゃうことが多いです。
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仕事の能力は処遇でけりが付いている

2013-04-15 08:24:28 | ココロ
数日前ネットで話題になっていた「正しすぎて辛い」という匿名日記(愚痴)。

大企業で次長を務めるくらいの旦那を持った妻(事務員)が,旦那が時々いう部下の愚痴を自分に照らし合わせてしまい,居たたまれなくなる…という話。

てもなかなかすんなり入ってこないのでしょう…。実際はこの夫婦は役割分担ができてると思うんですけどね。

人には得意不得意があるのは当然だし,それが社会的にきちんと評価されている場合,特にきにやむ必要は気がします。つまり仕事を沢山こなしている人が給料を沢山もらっているのであれば,仕事をこなせなくて給料をあまりもらって無い人は,気にする必要はない。仕事に見合った分だけお金をもらってるのだから…とわたしは最近思います。同じ給料の場合も出来る人は,そのうち出世するのだから,それでチャラだと思います。

仕事をこなす能力というのは,別にその人の人格を示すものではありません。出来るから立派…というのではなく,出来る等のは会社で給料や職位でけりがつくだけのものです。会社で仕事をしてると,どうしても仕事をうまくできなかったり沢山出来無い人がいますが,それはその人の仕事に対する能力みたいなものです。それは訓練次第で伸びる人もいるし,そうじゃ無い人もいます。そうじゃ無い人は,それはそれでいいんじゃないでしょうか?…。ダメってなると異動になるのだけど。

日記は仕事の能力の話だったので,普段の生活の話がわからないので,言及できませんが,人間の価値は仕事だけで決まるわけではないので,そもそも仕事の出来る出来ないで,あまり落ち込むものでも無い気もします。

ところで,この日記は「正しすぎて辛い」という言葉を何度も書いてますが,これを読んで,わたしが以前「正論は暴力」と書いたのを思い出しました。正しい事って実は一つじゃないのに,正しい風に言われてしまうと,それが唯一のように見えてしまって危険です。正しい事はわざわざ言う必要がないのに,言葉が見えてしまう場合,「実は正しくないんじゃないか?」と思うことも大事な気がします。

そういえば,昨年の大河ドラマ「平清盛」で時忠が言ったセリフ「正しすぎるということは、もはや間違うておると同じにござりましょう」は実に名言だと思います。ふと思い出しました。
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ネットコミュニティの寿命

2013-02-06 21:21:47 | ココロ

わたしはインターネット創成期にネットニュースとメイリングリストでネットコミュニティに入り(パソコン通信はやってない),その後,掲示板,ブログ,そして最近のSNSとコミュニティの主戦場が変化していく様をみてきました。その中で割と早期から思っていることは,ネットコミュニティには寿命がある…ということです。

最近「彼女がLINEをやめたワケ」という記事を読みました。facebookよりも若者に浸透しているというLINEですが,早くも限りが見えてきた…ということでしょうか。もっともここに書かれているように,辞めたわけはLINEがサービスを拡充していく中で,使いにくくなったからということのようです。まるでmixiが数年前からはまりこんでいる負のスパイラルにLINEも入りはじめた…かの様です。あと「はてな」。つまり最近のネットコミュニティーサービスもやはりこの様なジレンマにはまりこむというか,結局わたしが従来から感じているようにコミュニティには寿命がある…って事なのかもしれません。

寿命がある…というと主な要因は「時間」ですが,時間以外の要素も考えられます。ヒットしたコミュニティサービスは基本的にはユーザ数を増やすように働きます。その結果ユーザ数が増えることに伴う負の部分が増えて結果的にユーザにとって使いにくくなり,寿命を早めてしまうって事はないでしょうか。

洒落でユーザ数と使用感(今風にいうとUX,:-))の関係を図にしてみました。個人的な感覚で根拠はありません。

ネットのコミュニティサービスをユーザが使う理由は「楽しいから」とか「便利だから」というものが一番の上位かも知れませんが,それらを作り出す要素として「特別感」「利便性」「世界の拡がり感」「安全」の四つを書いてみました。あと「新鮮味」とかあると思いますが,そちらは,時間軸の要素でしょう。

ちなみに「特別感」や「安全」も時間とともに変化すると思います。 具体的に書くと,新しいネットサービスというのはユーザに特別なことをやっているという感覚を生じさせます。アーリーアダプタというやつがそうで,βテスターとかいうと,お金ももらってないのにせっせと利用する人がいます。まぁうまく行けば新しい世界で目立つことが出来る可能性がありますから,メリットもあります。しかしこういう特別な感覚は,一部のリーダーを除けば,ユーザが増えていくに連れて減少していきます。当たり前ですね。

利便性。通常新しいサービスが世の中に受け入れられるって事はその時点で,そのサービスが持っている機能が世の中に受け入れられるって事です。ところが大抵の場合サービサーはユーザを更に増やすために機能を拡充しようとします。普通は一番受け入れられそうな機能から増やすので,最初は使いやすくなります。ところが更に増やしたり,また新しいユーザのための機能を増やしたりしているうちに,もともと最初に世の中に受け入れられた機能が目立たなくなったり,使いにくくなったりします。「ごちゃごちゃしてわかりにくくなった」とか言われるのは大抵このケースです。あと最初の機能がちゃんと動かなくなったりもして,まぁいろいろとトラブルが増えます。

こうして利便性はユーザ数の増加とともに増えるのではなく,多分どこかで急激に落ち込み,最後は使いにくいものになると思います。

ユーザが増えていくことで上昇していくものというと繋がる先が広がることでしょう。これはおそらくずっと増えていきます。世界中の人がサービスにはいれば,外国の頭首にもメッセージを送れるかも知れませんとはいえ,普通はそういう必要はありません。自分が連絡をしたい人,メッセージを読みたい人なんてある程度増えたら,大体満足なのではないでしょうか。ですから,ユーザが増えたら広がりは増えますが,実際はある程度から頭打ちに近いようなものになると思います。

安全性についてはいうまでもありません。ユーザが増えればトラブルは増えます。

さてネットコミュニティが廃れていくのは時間的要素もありますが,ユーザ数の増加という要素もあるのだと思います。そしてその理由については上にあげた四つの要素のバランスが変わることで,どこかであるユーザが辞めていき…という感じで,だんだん減っていくのだと思います。実際のユーザには特別感に重きをおく人もいれば利便性に重きをおく人もいるでしょう。多くの人と繋がることを重要視する人もいるでしょう。ですから,どこかで一斉にユーザが離れるってわけでもないかとは思います。ただ最初はユーザが増えることにメリットがあったとしても,ある時点からはだんだんそのメリットよりデメリットが増えていく…ってことは,どこかに最適なスケールがあるのかも知れません。

商用のネットサービスはユーザを増やすことに躍起になります。またML等の無料のサービスもユーザを増やす努力をしなくても,盛り上がれば増えていきます。ですから,実際に丁度いいサイズでサービスを長く持たせることは難しいのかも知れません。更に時間的変化の要素が入ってくるので,商用サービスは時間変化によるユーザの現象を抑えるために,機能を追加して…ドツボにはまるような気もしてます。

以上,ユーザが増えるとどうしてネットコミュニティは衰退するのか?…というお話でした。今盛り上がってるサービスについて個人的な所感を書くと,facebookは機能を増やしすぎているように思います。Twitterは時間は経ってますが,案外機能をシンプルに保っているので,利便性はそこまで減ってないかも知れません。ただ,若干は変化があるし,時間経過もあるので,まぁ今後どうなるかは微妙だなぁ…と思ってます。

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昔が羨ましい…というのは,いつでもそう思われがち

2012-10-18 19:00:00 | ココロ
匿名日記に高校生がインターネット創成期の人がうらやましいという書き込みがありました。なかなかほほえましいですな。それに対するコメントが,「自分は戦後がうらやましかった」とか「安保がうらやましかった」とか書いている人がいて,これまたほほえましかった。

言うまでもなく,いつの時代も昔の人の方が得してるみたいな考えはあって,逆に言うと,今の若い人は…の裏返しかもしれない。

自分も高校くらいの時に学生運動がちょっとまぶしく見えたり,社会人になってからも,戦後の世代が,年上が少なくて自由に出来たとかいう話を聞くとちょっとうらやましくも思ったことがあります。私はバブルが終わった頃に就職しましたが,バブルで美味しい思いをした人がちょっとうらやましかったり,あと,自分の親の世代が,安い価格で土地を買っていたのがちょっとうらやましかったりもします。

まぁでも,そういうのはいつの話でもあるはずで…。このインターネット創成期ってまさに私の世代のことでしょう。私がその世代であることでお金持ちになったというわけではありませんが,発展自体をみてきたので低レイヤーから高レイヤーの技術まで,大雑把には理解してるという意味では得してるなぁとは思います。でも,当時を知るものとしては誰でも金持ちになれたわけではないでしょう。インターネットが急速に普及した1990年代には,確か数百か数千のプロバイダが存在してましたが,今となってはごくわずかです。無料ホームページのサービスもたくさんありました。それらはネットで一山あてたい人たちがここぞと始めて,そしてそして倒産したり身売りした…ってことでしょう。つまり,金持ちになれた人はごくわずかで,むしろ借金を背負った人の方が多いかもしれません。今も残る大手のプロバイダや通信事業者のうち,20年前はなかった会社というとSoftBankが浮かびますが,それ以外のauやdocomo,so-netやbiglobe,niftyなど,これらすべてバックは昔からある巨大企業です。つまり一部の会社以外は元々体力がある様なところしか残ってないともいえます。

まぁそうはいっても,そういう一部の大成功した会社があるわけですから,今まったくない業種から20年後に大成功する企業もでてくるでしょう。そういえば,20年後に就職する人の大半は今ない業種につくという話を聞いたこともあります。

そう意味では,今でも多分20年後の高校生に,この時代の人は良かった…と思われるような業種があるはすです。くまなく探して挑戦すれば,そうなれるかもしれませんよ。
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弱者を助ける理由

2012-06-29 05:58:16 | ココロ
弾さんがなぜ弱者救済が必要か?を論じてます

暗い話を書くと,西洋の教えに弱者救済が無いのは当然です。そもそもキリスト教は階級制度を肯定してますし,異教徒の迫害を否定しませんから,弱者を救済しないのです。

これは別に西洋に限りません。今放送中の平清盛を見ていてもわかるように,権力者(貴族)は下級者(武士)を人間扱いしません。しかし武士が経済力と武力をつけてくると,その力を利用するために,いろいろと権利を分け与えたのです。西洋においても同様で,貴族の時代に商人が経済力をつけてきて,その結果,低い爵位を与えたりとかしてきたのです。選挙制度も結局のところ,暴動となった市民を抑えるように徐々に広がっていったに過ぎません。権力者は本音としては自分より低い階級には権利を与えたく無く,救済をしたいとは考えてないのでしょう。

この様に違う人に対しては,困っていてもなるべく助けようとしないのが,どうやら人間の本能の様な気がします。しかし一方で,というかだからこそ,同じ層の人間同士は,つまり仲間同士は助け合う気がします。

それは,相互扶助というか,自分がそうなる可能性があるという事があれば,いつか自分も助けてもらうかも知れないから…という事なのかもしれません。

ということを考えると,どこまでを仲間と見れるか?が誰までを助けるか?ということになります。海外に良く出かけ人に会い,知り合いが多い人が,外国で困っている人に救済の手を指し述べようと訴えるのは,それを仲間と見るからです。一方で,身近な空間から出ず,人にもあまり会わず,自分が知らない世界の想像もあまりしない人が,人助けをしようとしないのはある意味当然のような気がします。今,震災のがれき受け入れ問題で,震災の影響が無かった地域の人がかたくなに受け入れを拒否したりしますが,そういう人は一方で自分達の地域の中の人に対しては,困ってる人に厚く手を差し伸べていたりするものなのです。別に薄情なわけじゃなくて,仲間の範囲が極めて狭いというだけです。

ぶっちゃけオチをいうと,弱者を助けるのは,仲間と認識する場合で,理由も仲間,いつかはわが身と思うとか,他人事じゃないからでしょう。

ある意味,人助けの範囲を見ると,その人の世界が見える様な気がします。
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死は取り返しがつかないもの

2012-02-21 22:27:40 | ココロ
安楽死法 ‐ 死を選ぶ権利」というのを読みました。真っ先に思ったのは自殺を不治の病の安楽死と同列に語るのは,ちょっと違うということです。

確かにもう安楽死を…という病人は生きるのが辛いのかもしれませんが,死を望んでいるわけでも無いでしょうし,そこにいたるまでは死にたくない…と思っている人がほとんどだと思います。末期がんになった人だって苦痛で辛くなるまでは死にたくないはずです。もちろん自殺をする人だって,本当は死にたくないのかもしれません。でもやっぱりどこか違う気がします。まぁ人が死ぬということは,人の数だけちがうということなのかもしれませんが。

それから思うこと。死というのは取り返しがつかないこと,というのはのはたぶん間違いありません。死んだ人間は生き返りません。死後の世界があるかどうかはわかりませんが,生き返らないのは事実です。ですから,死を選んだらやり直しが利かないのです。だから人は死ぬことが大変なこととなっているのだと思います。自分で死ぬにしても殺すにしても安楽死させるにしても,大変です。

あと,不治の病気で末期の場合,そもそも治療放棄をすれば病人は死にます。それ以上のものが必要なんだろうかと思います。安楽死ボタンなんて不要じゃないですか?。

それからもうひとつ。社会が死を簡単なものと捉えることに抵抗があります。死自体が軽くなり,簡単に死の選択を迫られる様になるかもしれません。人が簡単に安楽死を選べるというのは,合法的に殺す手段を得るということにもなりえます。だれかそれで得する人がいるんじゃない?という気がします。
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お金とコミュ力

2012-02-16 22:40:10 | ココロ
fujiponさんが「「必要なときに、必要な人と助け合う」ことが難しいからこそ、人はお金をつくったし、それが便利なものとして使い続けられているのだと思うのです。」と書いてるのを読んで,はっとした…というか,そうだなぁ…と思いました。

わたしは以前「お金は価値観を相対化し交換可能とした」と書きました。それは,人の命や美的感覚までも数値化するというお金の特性…というか現代社会での用いられ方から,わたし自身が「お金を好きじゃない」という気持ちが含まれてました。

でも今回fujiponさんの文を読んで,価値観の擦り合わせが苦手な人に取ってはお金があって値段が決まっていた方が,楽だし便利なんだな…と思いました。まぁ確かに,物事を交換する…という事が発生する時点で,価値観が数値化されてなかったら,その都度擦り合わせを行わなくてはいけなくて,大変なわけです。物々交換だったり,恩義の貸し借りだったり,そういうのをその都度交渉するのは確かにわたしも面倒です。そういう意味ではお金は,どこかで値決めをしなければいけませんが,決めちゃえば,ある程度交渉が不要(値切り交渉とかありますが)という意味で楽だよな…という気がします。というか値段がついてるという時点で,お金を出せば手に入る事自体は約束されているわけですから。

さて,なんでもお金で測る現代社会が嫌い…とわたしは言いましたが,でも,最近コミュニケーション能力が大事と良く聞きます。これはどういう事なんでしょう?。お金を持っていればコミュ力が不要なんじゃない?,コミュ力つけましょう…というよりは,お金を手にいれればいいじゃない…という気もします。…というかそういう人もいましたよね。金持ちになれば異性の気持ちも買える…と思った人とか…。

コミュ力が叫ばれるのは,お金の価値がどんどん下がっているからか,もしくは一般の人がお金を得ることが不可能という意識になり,お金以外の手段を身につけよう…となっているか…,どっちかでしょうか?…。

どうも後者のような気がしてます。今は格差社会とか就職氷河期とか言われていて…,社会に出る前の学生とか,将来お金を得て自由にいろいろ手にいれる…という自信がなかなか持てないという事なのじゃないでしょうか?。そういえばバブル全盛の頃「三高」というのが女性が男性に求める条件…で,「高学歴」「高収入」「高身長」というものでした。この中には「人当たり」とか「優しさ」とかそういうコミュ力にあたるものは入ってません。身長はともかく,高学歴も高収入に相関があり,つまりお金が人間の魅力になっていたって事でしょう。

多分今はそういうことをメインには求められないように思います。まぁ低収入で困る…という感覚はあるのかもしれませんが,もう少しコミュ力に関係あるものの方が重要視されてるのではないでしょうか?。

…なんとも結論はないのですが,今はお金よりも人間の魅力自体の方が重要視される…って意味では,わたしが望んでいたような世の中なのかも知れません。でもそうなのかな?。本当にそう?…とかいう気持ちも若干残ってます。「コミュ力」「コミュ力」っていうのも何か決まった価値観で人を数値化してるようなものと雰囲気が似てるんですよね。いい人の価値観を一つの物差しで決めてしまうような気持ち悪さというか…。

とかそういうことを思いました。特に結論はないのですが,実はコミュニケーション能力があればお金は不要(またはその逆)…という風には あまり考えてなかったので,なるほどなぁ…と思いました。
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感覚的に論じてるのに科学的だと信じる人が多い?

2012-02-02 20:17:55 | ココロ
ネットで原発の放射線の影響についてLNT仮説を紹介した東大の安冨先生を批判するツィートをみました。LNT仮説というのは初めて知ったのですが,影響を一人当たりで受けた量×人数で計算するというやり方だそうです。この計算だと,どんなに放射線が低くても,人数が多ければ多少の被害者が出るということになるそうです。

批判してる人は,この仮説はおかしく,この仮説を元に議論している東大の先生を批判してるものでした。ちなみに東大の先生はなにを言ってるかというと,閾値があるから安全という説にたいして,それは正しくないみたいな事を言ってます。…かな。

LNT仮説は知らなかったのですが,少なくとも読んでいて安冨先生の論じ方は普通に自然科学の議論としてはおかしいところは無いと思いました。それよりそれを批判してる人の方がどうもおかしい。でもその人は自分は科学的に正しくて,先生の方がおかしいと譲らない。しかもネットで二,三日前に話題になった東大的な発言を取り上げて,それで揶揄してる。世間一般の人が思う科学的ってこんなことなのか…と思うと,かなりガッカリしました。

科学的な議論って一般の人の感覚にあわないのだろうと思います。というか,科学は感覚的に論じるのを廃するので当たり前と言えば当たり前です。でもネットとかで生半可な知識を仕入れて自分は科学的に論じてると信じてるいる人が多いなぁと思います。たぶん元々100%感覚だったのに20%ぐらい科学的なテクニックを取り入れただけで科学的に論じてると勘違いしてしまうのでしょう。でもそういう議論の仕方にはどこか肝心なところに感覚的な選択が入っていたりするものです。

もっとも科学的な議論の進め方も論理的に繋げていくのと統計的に繋げていくのではまったく違います。以前書きましたが,おそらく人間は統計的に論じることを感覚的に受け入れられないのだ思います。LNT仮説は統計的な考え方の様に思えます。放射線の影響を遺伝子レベルでカウントするので,統計的に考えざるを得ないし,人間一人ひとりではなくて,人を遺伝子の塊として捉えて合算するので,ここも統計的な扱いになります。ただ遺伝子に影響を与えた放射線の振る舞いと,変異した遺伝子の振る舞いを一つ一つ追うのは不可能だから,統計的に観るのは案外正しいのでは?という気がしました。つまり私はLNT仮説は個々に観るとおかしな理屈だと思っても,人間全体から見ると,案外数値的には合うんじゃないか?と,私の感覚的には思いました。というか否定する根拠があまりないと言った方が,科学的かな?。

それから,余談といえば余談ですが,安冨先生を批判してる人のほうは自然放射線に悪影響が無いと言ってる。その根拠は何?と思います。私はたぶん自然放射線でガンになってる人は沢山いると思います。実際人間の3分の1はガンで死ぬのです。その原因のほとんどは特定されてません。放射線の影響でなってる人が相当数いてもおかしくありません。まぁでも放射線を80年浴びてとか,そういう結果かもしれませんが。そういえば,原発の放射線の影響も,ある,ないで論じられてるけど,何十年後かって話は全然聞きません。80年後かもしれないけど,それでも大騒ぎでしょうか?。
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嘘がいけない理由

2012-01-31 22:48:42 | ココロ
ネットで作り話を実話として話す…っていう話から,嘘をつくのがいけないか?…という話に発展。

それにたいし「「絶対にウソをつくことが許されない世界」というのは怖くないだろうか。」という問いかけがありました。子供がつく他愛もない嘘に対して,どの様に対処するか…って話。

わたしの考えでいうと,嘘をつくのがいけないのではなく,嘘をつくとリスクが生じる。そのリスクを乗り越えられるかどうか…なんだと思います。…なんて話を子供にしても理解できるにはだいぶ大人に近くなってからだろうけど…。

とりあえずは嘘をついたら叱るんだと思います。でも中には無邪気な嘘もあるでしょう。それを「嘘ついたなぁ~」と軽く叱るか,激しく叱るかは内容に依るのかもしれませんが,嘘をついて何事も無かったようにとか誉めるとかいうのは,なしなんだろうな…と思います。大変なことになる嘘と,たいしたことにならない嘘があることは,経験で学んでもらわないと仕方ありません。でも基本的には嘘をつくとバチ(リスク)があたるって事を伝えるのだと思います。

小学校の上学年くらいの時だったと思いますが,わたしはばれなければ嘘をついてもいいのでは?…と思ったことがあります。でも,ばれないように嘘をつくと,嘘をつき通さないといけないし,その嘘に対して,新たな嘘をつく必要が出ます。事実に基づいてないから,自分が何という嘘を言ったかも間違いやすい,そんなことを考えると,ウソをツキ通すのはかなりパワーがいるわけで,だんだんそんなことはやってられない,アホらし…と思うようになりました。

ばれなければいい…と思ってるって事は,嘘をつくことはいけないこと…という意識はまずあったということになりますが。

嘘をつくのはいけない…というのは簡単ですが,実際は社会に行けば嘘があるし,大人でも嘘をつきます。立場上嘘を言わなくてはいけない場合もあるでしょう。でもわたしは基本的にはなるべく嘘をつかないように,今でもしてます。仕事でもプライベートでも。それは上記の通り,嘘を突き通すのが大変だから。本当のことを話した方が楽だからです。

実際は仕事上の嘘というのは嘘じゃないけど本当でもない…という微妙なところが必要だったりするのですが,そういうのも面倒なので,素直に話せばいいじゃない…と思うことも多々あります。

でも一方で本当のことを何でも話すっていうのは勇気がいるんだろうな…とも思います。その辺は難しく,実際は嘘も言わない本当も言わない…と何も語らず…っていうところに落ち着くってケースが多いんだろうと思います。

ちなみに世の中には喋る度にいうことが違う人がいたり,まるっきり普通に嘘をつける人もいるみたいですが,そういう人がいることはわかるものの,わたしとは明らかに違うので,その辺の考え方は良くわかりません。凄いな…と思いますが…。
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ポジショントークとその人

2012-01-16 07:41:00 | ココロ
社会に出てある立場を続けていると,自分の本心ではなく,自分の立場に合わせて発言をする必要が出てくる。いわゆるポジショントークというやつ。人は自分の信念とピッタリの組織に所属できるとは限らないし,その組織を必ずしも信奉できるとも限らないので,立場の意見と本音というのは必ずしも一致しない。というか一致していたら気持ち悪い。

組織の外の人から組織の事を問われれば,気心の知れた人ならともかく,あまり知らない人に対しては,自分の本心とは別に会社の立場で答えるのが,まぁ普通でしょう。とはいえ,どこでどういう発言をすべきか?というのは,一種の能力で,常に適切に立場に合わせた発言が出来るかは,人によります。組織の中になると,もっと細く立場がわかれており,役職が変わったり部署が変わったりすると,発言すべき内容は変わるし,それは儀礼的だったりブラフだったりもするんだけど,会議でわざと反対したり,逆に気に入らなくても,賛同したりとかそういうことが必要になってきます。

というか,おもうはそういうことがうまくできる人じゃないと,出世できない。下の方から見ると,上の人は怖くて頑固者に見えるけど,実際は上の人ほど立場が変わればいうことが変わる。本心じゃないことを,あたかも本心のように喋れる…って意味じゃ柔軟な人だったりするわけです。

ふと思ったのは,確かに偉い人はポジショントークがうまいのだけど,本人の本当の本音というのはあるんだろうか?ということ。建前はこうだけど,本当はこう思う…っていうのはちゃんとあるんだろうか?ということ。何十年も立場に合わせた意見を言っていたら,もしかしたら自分の意見など無くなっていて,常に立場をみてそれが自分の意見のように思い込んではいないだろうか?という気がした。

もう一週間も前だけど成人の日にちなんで弁当翁が昨日書いていた若者へ送る言葉はネタではあるんだけど,「これしかできない事を基準とせよ」という言葉はある意味,正しいな…と思った。まぁこれは二十歳の人にはちょっと早すぎる言葉で30~40位の人に言った方がいいと思うが。偉くなって立場に合わせた意見しか持てなくなっている人は,ある意味これしか出来ないって事はないのではないか?と,それはいいことか?というと実は,自分がわからないという意味では,あまり幸福ではないのかも知れない。

だいぶ前にfujiponさんが氏家さんのことを書いていたけど,氏家さんが自分は何もやってないと言ったのも,これだけ偉くなる人は,逆に自分の立場だけで行動をしていたのかも知れない。ある意味,自分の立場に合わせて言動を選べる人は偉くなれるけど,それだけだと,自分の本心,自分が何者か?わからなくなるんではないか?と。

等と考え,少し自分もそういうものをしっかり持たないとな…と思った。
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