たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

許容量の感覚

2012-02-12 18:53:35 | 環境・自然科学
mixiをみていたら横須賀の給食から放射性セシウムが出たと騒いでいる人がいました。ちなみにリンクした先は,騒いでいる人ではありません。数値をみると2.47Bq/kg…という数値。どこかで基準値(=500)を越えた食品が…というニュースを観てる身としては,なんとも微妙というか…。リンク先を良く見ると,群馬のほうれん草の検知限とか1.8と1.5とかで,足すと(足していいんだっけ?,でも2.47って合計値ですよね?)3.3です。逆に言うと,検知されなかった…と喜んでいても3Bqくらい入ってる可能性はあるわけで,なんとも,この辺の数値で一喜一憂してるのは,妙なんじゃない?…という気がしました。

ついでに書くと,mixiの方は,この給食を破棄しない市に抗議しましょうとか言ってましたが,数値をちゃんと測定して公表してるって事は,各家庭で判断してください…と言ってるわけで,判断まで市に押し付けるような行動は,かえって,数値の公表を躊躇させる可能性があるので,あまり良くないと思います。

とはいえ,わたし自身も500Bq/kgという国の基準が,どれくらいの意味をもつのか良く分からず,自分としての安全基準をどうしようか?悩ましいです。うちには乳児がいるので,漠然と基準値を示されるより,その意味するところを知って,そこからどれくらい安全幅をとるか…という事を考えたいと思ってました。

というわけで,ちょっと調べると,それなりに大学関係の研究者が計算したものがあるようです。

一つは茨城大学の先生作った資料。一定の放射線量の食糧を毎日とり続けたらどこで体内の放射線量がどれくらいで定常状態になるか?…という話。もちろん年齢で異なります。例えば10Bq/kgのセシウム137を毎日取ると,1歳の子は50日で19Bq/kgになる,大人はもう少し時間がかかり,最終的に33Bq/kgになるとか,そういう計算です。念のために書くと全部の食糧が,それくらいの放射線を持つって意味でしょう。

安全の基準が難しいのですが,従来人は放射性カリウムを60Bq/kgくらい体内に持っているので,それくらい…とすると,…で計算してるようです。結論からすると10から20Bq/kg以下だと毎日取っていても,それを越えないかな?…という感じみたいです。

もう一つ。学習院大の先生がつくったページ。途中の計算が詳しいですが,結論的にはだいたい同じです。まぁ元のデータが同じなんでしょうけど。

この辺の数値を信じるとして,じゃぁどれくらい許容するかは,人それぞれでしょう。良く報道で放射性セシウムを含んだ食糧が出た…と報道しますが,出たら話題になるので,少なくとも基準値を越えた食糧を定常的に採るって事は無いでしょう。また一つの材料がその値でも,料理をすれば,他の食材や水とかで薄まりますから,全体の放射線量はもっとさがります。なんらかの手違いで食べていても,後は検出限以下の食糧を食べていれば,そんなにあがるものでもないでしょう。基準値越えの食糧がたまに出ることにあまり過敏になる必要もないのですが,日常的に出回るとマズイので,それなりに騒ぐことには意味がある…って感じでしょうか。

ただし,国の基準の500Bq/kgは高いかなぁ…という印象をもちました。日常的に取るにはムチャな高さだと思うし,瞬間的に食べるにもちょっと高いかな?。これが100くらいなら,瞬間的に食べても,量も少なければ,とも思うけど…。まぁこの辺の感覚はわたしの感覚で,人によっては,これくらいでも我慢できない…という気持ちには同感ではありますが。

まぁあんまり食べ物にピリピリするとしんどい…というのはあります。わたしは癌の手術をした後,お酒も牛肉も怖くて食べれなくて口にいれたら吐き出すなり,そうじゃなかったら数日おびえたりしてましたが,そういうのってかえって病気になるようにも思います。念のために書くと,これは原発事故とは関係ない5年前の話です。肉とかお酒ががんに悪い影響を与えると思っていたから。

その時散々考えて思ったのが,がんの原因って良く分からないのですが,だからこそいろんな食べ物をまんべんなく食べるのが一番いいということ。今回の話も,いろんな地方の食べ物を広く食べていれば,結果的に放射線量は,単品の放射線量より下がるわけで,そういう風にやっていくのがいいんではないか?と思います。
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一部の知識人に失望する

2011-04-05 21:45:12 | 環境・自然科学
原発撤廃論と長期的な卒原発論…,とか現状維持(さすがに現状推進派の意見はみない)…という意見を,最近ウォッチングしてます。卒原発論の人は,現状を省みて長期に減らす道を模索してるので,まぁある程度は客観的視点を持っているのですが,過激な反原発論の人には,とても現実的とは思えない意見を言う人が多くて,困惑します。

凄くガッカリしたのは,学者や研究者と呼ばれる人の中に,どうみても客観的,または論理的な思考をしてるとは思えない発言をする人が少なからずいることです。

自分が信じたくない説にはおかしいとか疑わしいとかいうのに,自分が信じたい説には何の検証も行わずに飛び付く。それが科学的な態度だろうか?…と思うのですが,多分本人は気づいていません。

パニックになっている…といえばそうなんでしょうが…。考えてみたら学者等の頭がいい人は,頭の回転が速いわけで,それってある意味神経質なのと裏返しなんだろな…という気がします。 どっしり構えて,物事の変化におおらかに対応するには,ある意味鈍感さが必要で,学者にはそういう事はできないのかもしれません。物事の思考を物凄いスピードで回す神経質さと,それを客観的論理的に制御する部分の両方が,学者とかには必要なんじゃない?という気もしますが,たぶん,その制御が飛ぶくらいな状況になると,暴走しちゃうんじゃないかな?と思いました。

そういう,私も結構神経質で軽いノイローゼじゃないか?…と思うようなところがあるのは,多分,わたしの同居人とかは知っています。自分はそれを自覚してるので,それとどう付き合うか…で常に苦労してますが,だからこそ非常時の自分の発言にはトンデモな部分が含まれてる…という疑いも持ってます。

原発が危険だ…と大騒ぎし,具体的にどうすればいいとかは言わなかったり,新エネルギーだ,風力だ,太陽光だ,波力だとか言ったりするけど,研究段階のものを実用化するのに数十年のオーダで時間がかかるものもあるし,天災で受けるリスクについて全然議論しないのは,それこそ想定が甘い…のではないか?と思うのですが,それが学者や研究者のいうことかね…とか。

そんな感じのことを感じました。やっぱり今の日本には学者より坊主が足りないなぁ…と思う今日この頃でした。
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計画停電と原発とエネルギーのあり方

2011-03-17 12:00:55 | 環境・自然科学
計画停電は地方部から始まっていて,都内は影響を考えてか,はずしてるのか?と思ったら,昨夜いきなりなりました。19時くらいから。最初の経験が夜の部だったというのは,ある意味わかりやすくていい経験でした。

…さて,発電の話。

福島第一原発の事故はまだ収まっておらず,現場では作業員をはじめとして多くの人が沈静化のために危険を顧みず頑張っておられます。今我々がすることは少しでも作業がうまく行くようにサポートできる人はサポートし,そうでなければ,応援,祈る…等かなと思っております。ですが,ネットを観てると原発の是非を問う議論を始めている人が結構います。原発の議論をするのは結構ですが,今すべきことなんだろうか?と,わたしは思います。原発の事故に不安を感じてる国の空気に乗じて,反原発の意見を高めようとしてるようにもわたしは感じます。

もちろん原発が本当に日本にあったほうがいいのか?という意見をわたしは全否定はしません。でも一方でわたしは原発についても全否定もしません。反原発の意見は今よりも昔の方がずっと強く多くの反対運動家の人をわたしも観てきたので,いろいろ考えてました。でもわたしにはどうしても答えが出ません。

というのは,「自分の生活の中での電気の必要性」「社会の中での電気の必要性」「化石燃料発電による二酸化炭素排出や燃料の枯渇」という中での原子力発電の有効性と「原子力の安全性」「理論と現場の実践との乖離」「地方への施設設置」というある意味ネガティブな面を両天秤にかけた場合にどちらか一方を取ることができないからです。現状,原子力発電を否定することは,石油による発電を進める(CO2は増える)か,または電気の使用量を減らすしかありません。今の日本人が今の半分以下の電気の使用量に減らすことが出来るでしょうか。もしそうすれば不便という以前に,病院などの医療機器が満足に動かなかったり,クーラーが自宅につけられなくて,今だと助かっている人が,亡くなる場合もあるかもしれません。

もちろん,そういうのも含めて人間というのは本来そういうものだという考え方も出来るのですが,今起きている計画停電ですら,電気が3時間止まるだけで,右往左往している社会を見ていると,電気に頼らない生活をしましょう…といって社会的な合意が取れるのか?という気がします。

個人的には個々の家庭がもっと電気の使用量を減らすべきだ…とは思いますが,そのためにどうすればいいのか良くわかりません。電気料金を上げればいいのか,法律で家庭の電気容量を制限すればいいのでしょうか。それとも今の様な計画停電をすればいいのでしょうか。個人的には計画停電は,省エネという点では,永遠に続けてもいい施策なのかもしれないと思ってます。でも今の社会の混乱と,経済(皆さんの食い扶持)のことを考えると,続けていいものなのか?とも思います。

確かに今の状況は日本のエネルギーのあり方を考えるための勉強としては恰好の機会なのも知れません。ただ,議論自体は,今のワーストケースを一通り経験し,困難も乗り越えた後に,冷静になり行ったほうがいいと思います。今はそのワーストケースを乗り越えるために,皆でサポートをする時でしょう。
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自然科学と人文科学はOSとアプリ

2010-11-22 21:00:00 | 環境・自然科学
日曜日。十数年前MLが盛んだった頃良くやっていたMLのセッションで知り合った人のライブに行った。今もよくライブをやっているようで,感心するやらうらやましいやら。わたしも音楽は好きだけど,人前で演奏する機会はめっきり減ったし,ふだんあまり楽器を触ってない。

思ったんだけど,社会人になって十年も二十年もアマチュアで演奏活動を続けるのは,好きだけじゃなくて,そういう場に身をおけるか,つまり一緒に演奏が出来る人と密に関係を維持できるか?が大きいように思う。それでもって歳を取って新たに作る関係より学生時代や20代とか若いときに作った関係というのは,強い気がする。

わたしの場合,大学時代の趣味が音楽とバイクと両方だったので,社会人になってからも30代半ばまで両方続けていた。でも今はそのときの知り合いとはあまり逢う事は無い。まぁネットとかあるからいつでも連絡は取れるのだけど。どちらかに絞っていたらもっと濃い関係が出来たのだろうか?と思ったりもする。

…とここまでが日記。以下が本題。まぁそれも単なる思い付きだけど。

ライブの帰りに,本屋に寄って本を物色していた。自然科学の一般向けのハードカバーのコーナーによってみると,今は自然科学も脳科学とか遺伝子とか,工学系より生命科学みたいな話が盛ん。この辺の話は実は結構好きである。自分の専門は音響工学だけど元々心理系から入っているので,メタな話とか人間の話とかそういう話は好き。好きでずっと続けていることは?と上に書いたような話で問われると案外こういう分野の勉強かもしれない。所詮素人の勉強だけど。自分の専門がそこの領域と接点をもてないだろうか?とはよく思う。

一方その横にあった哲学のコーナーとかを見ても,まぁ結構面白そうと思う。自分は哲学とかほとんど勉強したとはいえないけど興味はあるし,宗教とかも興味がある。基本的には「人」に興味があるってことになるのだけど,哲学や宗教の様な人文系も脳科学や生命科学,実験心理学の様な自然科学も好きなんだよなぁ…って感じ。

ふと,人を科学する…って上で,自然科学はハードウェアで,人文はソフトウェアなんだろうか?と思ったのだけど,よく考えたら,自然科学はOSで人文はその上に載ってるアプリなんじゃないか?という気がした。昔のマイコンみたいにOSが綺麗に分かれない時代はハードとソフトというたとえでよかったんだろうけど,今はその機械のベーシックな振る舞いを決めるのはハードウェアだけじゃなくてOSの様な気がする。その上に考え方や思想みたいに人によって違うものが載るという意味ではアプリみたいなもの。でそのアプリもOSのシステムコールや制限で関係はするから完全に独立ではない…。

等とどうでもいい様なことを考えていた。考えいて楽しくて,くだら無いことを楽しめるってことは,あぁ好きなんだろうね,とは思った。まぁ音楽聴いたり演奏しても全然生産的じゃなくても楽しいから,そっちも好きなんだろうけど。
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3×5≠5×3の件

2010-11-18 06:30:00 | 環境・自然科学
ネットで「3×5≠5×3」というのが話題になってました。小学校2年の算数の問題で3×5=15とすべき回答を5×3=15と書いた生徒が×をもらっていた…って話。

上記リンクはそれはおかしいという立場で書かれてますが,逆に「なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか」と間違いとする立場で書かれた文もあります。

正直わたしは,間違いとするほうがおかしいと思います。もちろんこのテストの観点が,どっちが単価でどっちが個数であるかがわかって掛け算をやってるかである点は理解できます。でも個数を頭に書くべきか,後ろに書くべきか,っていうのは重要な問題なのでしょうか。日本語だって主語と述語の関係が逆転する倒置が表現がありますが,それは間違った言葉ということになるのでしょうか?。もし生徒が掛け算が単価と個数をかけて合計を出すってことを理解してるかどうかを見たかったら,式の各数字に「単位」を書かせれば良いと思います。

弾氏は教える側の都合に合わせる生徒は自分で考えなくなると批判してますが,わたしもそう思います。それもありますが,わたしがこの教え方に賛同しかねるのは主に二つの理由です。一つは上になぜ誤答かと説明してますが,ずいぶん長ったらしく書いてます。それでいて納得できるような出来ないような…という感じです。大人がこれだけ丁寧に説明されても納得できないようなことを小学生教える意味はあるんでしょうか?。そしてもっと重要な点。いま3×5を5×3と書いて間違いとされていても,そのうち掛け算は前後入れ替えても同じという風に習います。そしたら,今まで学習して身につけたことを生徒は否定されるわけです。わたしはこっちの方が問題だと思います。昨日まで「×」だとされていたことが今日から「○」になるわけです。そしてその理由はおそらく簡単には説明できません。

こっちの方が問題ではありませんか?。子供は勉強に絶望するか先生を信用しなくなるような気がします。

…と書きましたが,実はこの手の問題は親としては頭が痛いです。算数の類は,大人になって便利なツールを覚えると楽に出来る計算を子供の頃にやったらNGみたいな話は良く聞きます。親が教えたら,子供は「×」をもらったってことが起きるわけです。このときに,親としてどう子供に教えるべきか?。自分が教えたことが間違いだというのか,それとも先生の教え方がおかしいというのか。いくら先生の教育方針に納得がいかなくても,それを子供に対して言うのは,子供がいたずらに混乱するし,他の件でも先生の言うことを聞かなくなり,あまりいい結果にならないような気がします。先生と親が子供のいないところで話をして意識あわせが出来ればいいのですが,先生としてはそんなことやってる暇は無いでしょうし,親が納得できないこともあるわけです。

将来そういうときがやってくるだろうなぁ…と思いつつ,その時どういう風に子供を導くか…かなり悩ましく思います。
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環境という経済戦争

2010-10-21 22:17:02 | 環境・自然科学
先週クロ現で生物多様性の話をしてました。ちょうどCOP10(国連生物多様性条約第10回締約国会議)が行われているからとのことで,今日もニュースで先進国と開発途上国の間でなかなか合意が出来ない…という話をやってました。

地球温暖化の件もそうでしたし,生物多様性の件もそうですが,この手の話は「自然を大事にしよう」という総論自体が反論しにくいため,議論を揶揄したり,批難とかしにくい感じがします。わたしも自然は大事だし大事にしないと,人類は痛い目に遭う…と思ってますが,それでも,はたから見ると,話はあまりそういう単純な話でも無い,おそらくそれぞれの国の思惑は,自然のことより,技術,資源を元とした経済戦争を行うルール作りなんだろうな…という風に見えます。各国の思惑はかなり複雑ですっきり書きにくいので,いくつか突っ込み調で思うところを書いてみます。

地球全体の話のようにみえるけど,結局主題は南北問題。発展途上国のリソース(資源,自然,人)を利用し先進国が儲けるというのが元々先進国のビジネスモデルで,第二次大戦後植民地支配はほとんど無くなったけど,結局その構造は変わっていない。発展途上国は自分達も先進国の様になろうとしてるけど,だけど,じゃぁ彼らはどこから搾取すればいいのか分からない。もしくは安い労働力で伸びてきてる発展途上国を押さえるために二酸化炭素や,生物多様性問題を先進国は利用してるんじゃないか?という気もする。一方で,発展途上国が自分達が作った作物や掘り出した資源をカードにしようとしてるけど,結局その資源の価値を見出したのも先進国だったりもする。レアアースとかそうだけど,先進国が代替品を発見したら,また価値が変わってしま。

ヨーロッパは帝国主義時代に海外に植民地をたくさん作り搾取の構造を作ったけど,そもそもそれ以前にもヨーロッパの中やアジアに向けて侵略戦争を繰り返していたわけで,そういうビジネスモデル以外作れないのだろうか?あとローマ時代に森林伐採をやりすぎて町が滅んだり,グリーンランドも入植開発しすぎて人が住めなくなったりと,自然破壊も昔からやっていてこのモデル自体も変えられて無いように思う。

生物多様性ということで,オランウータンやゴリラやアジア象がでてきたけど,結局発展途上国へのけん制になっているように見える。もしかしたら1000年位前はヨーロッパも多様性があった生物を滅亡させていて,今は,人間の開発と共存できる動物だけがそこにいる…ってことじゃ無いのだろうか?。

結局西洋の途上国からの搾取により経済をもたせているっていうのが続く限り,両方が協力し地球を守るとかいうのは無理じゃないか?という気がしないでもない。逆に途上国は先進国型の成功を目指すのに無理があるんじゃないか?という気もする。

かってのSFや小説とかでは,自然破壊を人間が進めていくと,最後は災害により人間が痛い目に遭うという絵が良く描かれるけど,実際はおそらくその前に人間同士の争いが起きて,そっちの方で滅びるか,文明が後退するか,どっちかなんだろうなぁ。今の話し合いがまったくの不毛とは思わないし,理想に近づいて欲しいとは思うけど,そういう悲観的なことが頭によぎります。
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使わない技術,必要な技術

2010-03-16 19:32:40 | 環境・自然科学
なぜ薬剤師でなければ医薬品を取り扱ってはいけないのか」という医者で薬剤師の方が書いた文章を読んで思ったこと。

わたしは薬剤師の資格を持っている(薬学部卒)の友人がいたりして,その人は薬品メーカにいたりはしますが,ドラッグストアとかでも働ける…みたいなことをずいぶん昔言っていたことがあります。そういえば,薬屋をやっている知り合いもいて,結構暇そうでした(笑)。

ここに書かれているのは薬局に必要とされる設備や教育課程が既に時代遅れだということで,あたかももう薬剤師に昔の様な専門知識は不要だ…という風にも読めます。

薬剤師の知り合いはいますが,あまり突っ込んでそれの是非をいうと墓穴を掘りそうだから特に言いません。ただしわたしが思ったのは,その薬剤師に必要とされていた技量とかその教育は,まだまだそれが必要な薬剤師の仕事はあるんではないか?ということです。実際にそういうことを業務としてやらなくても,そういうベースが無いと判断できないような,もしくは判断間違いが起こるようなことがあるのではないか?ということです。

わたしの仕事分野でいうと,わたしは音関係の研究者ですが,メーカさんと付き合っていると年配の方は,ものすごく知識が豊富で,話していてこちらもいろいろ刺激を受けてアイディアが浮かぶのですが,若い人と話すとテンでそういうことが起きない。物を作るときも,部品やアッセンブリーをかってきて組み立てればいいという意識の人が多く,それがどういう原理に基づいているものなのか?などを知らない人が多いということです。ですから,新しいアイディアも浮かばないならまだいいのですが,複数のそういう部品を組み合わせる時に,間違った使い方を平気でやったりします。おかしいときに何が原因かわからなかったり,計測器がおかしくても気づかないとか,そういうこともあります。

確かに今は音の機器を作ろうとしたら,音響の知識…,どころか音の良し悪しを聴いて判断するセンスも必要がなく,ただ部品が何があって,組み合わせることが出来ればいいのかもしれません。でも,それで,新しい何かは生み出せません。新しくなくても,なにか異常なことが起きたときに対処がなかなか出来なくなったりしてませんか?ということです。

薬剤師の話を読んだときに確かに,今薬剤師がやっている多くの仕事には,不要な技術や知識が必須されているのかもしれないけど,それはベースとしてひそかに役に立っているのでは?ということです。もしドラッグストアの店員にそんな技量が要らないのであれば,それは薬剤師の教育課程を簡易化するのではなく薬剤師じゃなくてもドラッグストアを管理できるようにすればいいんだけど,それって一時期騒いでいたような話ですね。もっともわたしは薬を売る以上,普段不要な知識であってもある程度,ちゃんと体型付けて薬のことを知っている人が売るべきだと思ってます。だから,医療や薬剤師教育を効率重視で考えることには,躊躇します。思います。
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嗜好品をうまくする日本人

2009-11-28 08:18:43 | 環境・自然科学
「嗜好品」の定義は何か?と辞書で調べたら「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」で酒,タバコ,茶,珈琲等らしい。
味わうというけど,これらを好きな人はこれらを「うまい」といいます。そして,同じ酒なら酒でも銘柄とか年式とかいろんな要素で味が違い,うまいものを手に入れるためには結構な額を惜しみません。ということで,これらのものは結構高価に取引されます。
一方でこれらの嗜好品は味はともかくいずれも精神にある効果を果たす作用があります。酒は酔うし,タバコもリラックスするとか,茶や,珈琲も目が冴えたりするとか。まぁ人それぞれみたいですが。精神に効果があるというと,ある法律で規制されている別のものも思い浮かびます。まぁそれはいいとして,ずっと疑問なのは,嗜好品のうまいまずいというのは,精神への効き目と無関係なのだろうか?ということです。
つまり本来はこれらはいずれも効用の方を重視されていて,食されていたのだけど,それを食べているうちに気分が良くなるのだからうまいと思うようになった。そうなるとうまいものは効きがいいもの…ってことになって無いか?ということです。実際酒にしても,お茶にしても生まれて初めて食べたときはまずいと思いませんでしたか?。飲めるようになってうまいと思うようになりませんでしたか?。
もしそうだとしたら,これらの嗜好品は味覚的なうまさじゃなくて,効精神てきなうまさという事になります。
ところで,今日finalventさんが「タバコは収穫後製品にするまでまたいろいろ熟成や着香に技術があり、JTの技術は高い」と書いているのを読んで,そういえば,日本のタバコは低ニコチンだけど,いろいろと味をつけて,ヒットしてる製品が結構あるよな…と思いました。その味で,精神的な効き目が増えているのか?はわたしはタバコをほとんど吸わないので知らないのですが,味が変わっているのでしょうか?
そういえば,日本酒というのは酔うというのもありますが,うまいとされているのは本当に甘みとか味の深みとかそういう部分で差がある様に思います。お茶もいいお茶は確かにカフェインも多いかも知れませんが,アミノ酸が多いと聞きます。一方ヨーロッパの北のほうとかの蒸留酒とかを味わうと本当に味というよりも酒の強さの方が重要視されているのではないか?という気もして,日本に比べ西洋は,これらの嗜好品に求めるものは,本当に効き目なのかも?という気もします。
ちなみにチョコレートは一般にお菓子だし,カロリーも甘みもあるのですが,西洋のいかに甘く出来るか?ということに挑んだようなチョコを食べると,やっぱり味よりも糖分とカフェインで勝負してるんではないか?という気がするし,日本の甘さを控えたチョコとかを見ると,やっぱり日本人は目指しているものが違うんではないか?という気もします。
というわけで,日本人は本来精神的な効果を求める嗜好品を,味で味わう嗜好品に変えるということに妙に情熱を注ぐ国民(職人)性があるんじゃないか?という気もしました。
…とはいえ,たぶん例外はたくさんあるんでしょうけどね。日本にだって度数を上げるだけあげたお酒もあるし,甘い食べ物もそれなりにあるし。
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ロハス

2009-11-22 13:16:36 | 環境・自然科学
そういえば先日大阪のスーパーホテルに泊まったのですが,ロハスという言葉が中に結構使われていたのが気になりました。「ロハス」…懐かしいな,という感じです。
ロハスってだいぶ前に結構流行ってたけど,なんかイマイチみなくなった言葉です。今日たまたま久しぶりに昔のブックマークからBeGood Cafeのページを覗いたのですが,ここのページにはロハスという言葉は見当たりませんでした。でもこのページにソトコトの名前をそこ飛ぶとロハスの文字はたくさん…。ロハスってまだ死語ってわけじゃないのか…,でもイマイチ拡がってもいないよなぁ…という印象を受けました。
BeGood Cafeはわたしが以前サブカルチャーに傾倒していた頃に気になって何度か行ったことがあります。今見ると,すっかり若者の農業回帰支援の活動になってますね(^^;)。まぁそれはそれでいいとは思いますが,結局こういうところに落ち着いて足が地につくって事なのかなぁ…と思ったりもします。昔はもっと思想面が前面に出ていたというか。当時BeGood Cafeにいくとソトコトが結構絡んでいるという感じで,そこでロハスって文字も見ていたように思います。「ロハス」は商標を取られた…ってことで,その時結構,権利フリーを良とするネットとかのカルチャーの人からはバッシングされたのを記憶してますが,wikipediaをみると,いちおう権利は持ちつつも自由な使用を認めたという形なのね…。だからホテルとかが自分のところのエコへの取り組みを示すのに使ってるのか…。
元々はロハスって言葉はそういう草の根活動的な臭いがあったように思いますが,そういう意味では少し違うものになったのかなぁと思います。「エコ」も今一つ政府とか企業がよろこんで使っていて,それとの差別という形で別の言葉が必要なのかどうかはわかりませんが,BeGoodのページに「持続可能」というキーワードでニュースがピックアップされていて,ちょっとおかしかったです。本来はこれがロハスになるはずだったんだろうけどねぇ…。
ちょっと新しい言葉とか概念を定着させようとして,少し横道にそれたって感じだなぁ…「ロハス」って…とかそんなことを思いました。
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機械にしか伝わらないもの?

2009-09-20 20:58:07 | 環境・自然科学
/.jpでコンピューターによる読唇システムは人間による読唇とくらべ、はるかに認識率が高いというのが紹介されていて,へぇーと思いました。
わたしはこういうコミュニケーションの情報認識については,人間ができることはコンピュータでできる可能性はあるけど,人間ができないことはコンピュータにはできないだろう,と思っているので,ちょっと意外な結果です。
例えば,音声認識。声で言葉を伝えますが,人間が簡単にできる言葉の認識を現状コンピュータは人間ほどうまくできません。人間ができるならできる可能性があると思いますが,人間すら聞き分けできない言葉はコンピュータにはできないだろうと思います。それはその音にそれだけの情報が乗ってない場合が多いからです。
音声のコミュニケーションは自分の声を聞きながら発生するので,自分の声が聞こえなくなると正確に発音できません。人間が聞きながら調整をしてるので,人間が聞き分けられないような部分には情報が乗らないことになります。
さて,読唇ですが,顔の表情などは自分で確認しながら作ってるわけではありません。でもコミュニケーションというのは相手からの反応が返って来ますので,その反応を見て,表情を作っていくこともあるでしょう。そうだとすると表情も人間がわからないような差は,あまり情報が乗ってない気もします。
そういう意味でコンピュータが人間より情報をたくさん取れると言うのは意外です。
…と書きましたが,実はちょっと読唇の場合違うな…と思うのは,そもそも読唇は相手に情報を伝えるために口の動きを作ってるのではなく,声を出すために作っているので,コミュニケーションの情報そのものではないことです。ですからしゃべるほうも相手に伝わるように口の形を作ってるわけでもないし,見るほうも,そこから情報を読み取ろうと普段から訓練されているわけでもないでしょう。ということで,まぁ読唇に関しては普通の人の認識よりコンピュータの方が情報をうまく拾うとかはできるかもしれないなとは思いました。でも,耳が聞こえない方で読唇に慣れている方より情報をたくさん認識できるのか?,あといっこく堂の様な高度な腹話術士の口からも情報を取れるのか?というと,どうなんでしょうね?たぶん無理じゃないのかなぁとか思いました。
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