たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

わかりやすい話は多分正確じゃない

2011-12-30 14:58:31 | 社会
ネットで話題になっていたNTTコミュニケーションズで出世する方法という文。中の人だとの事ですが,本当なんだろうか?。本当だったら,こういうこと書いて何もいわれないのだろうか?。

社名が実名なので話題になってるのか,書いてることはそんなに驚く内容でもなく,根回しが大事という話。まぁ件の会社の内情は良く知らないのですが;-p,大企業ではありがちな話です(苦笑)。わたしが知ってる大企業の人達も,心当たりがあるみたいな事を書いてました。でもふと思ったのですが,実際に社会人で似たような性質の組織にいる人達は「そうだよね」と思うのでしょうが,外にいる学生とかがこれを真に受けると,それは間違いなんじゃないか?という気がします。

というのは,確かに根回しとか人間関係が,要因になることはあるから,「そうだよね」と思うのでしょうが,それだけじゃないからです。でも外の学生とかは,この組織は根回しとか人の構成の把握をやると出世できるんだ…と思ってしまうかも知れません。そういうタイトルだし。それは多分違います。

こういうのは他の仕事も一通り良くできて,それでも出世する人としない人に差が出たら,そういう部分の違いでしょう,くらいの意味しかないのではないでしょうか?。わたしの感覚だと,出世する人はそれなりに仕事ができる人です。もっと書くと,上の人間が細い指示をしなくても,結果をきちんと出してくる人間,こういう人間が出世します。望まれる結果は,立場や職位で変わるので,若いときは出世していても,上になったらダメになる人もいますが。

指示をしなくても結果を出すのが好まれるのは当たり前の事のように思いますが,もしかしたら部下を叱咤するのが好きとか自分で全部案件を回すのが好きなトップがいる組織は,そういう人は嫌われるかも知れません。まぁでもそういう組織というのは小さい組織か,創業者とかが頑張ってる会社とかそういうのでしょう。

ちなみに会社の人間関係とかは,確かに会社によって違います。合併をした会社とかは,どっちの出身か?とかが影響するとかいう話もあるので,独自のものがあり,それが外から来た人からは奇異に見えるかも知れません。でも事前調整が重要というのは,大きな組織ではある程度当たり前で,それが不要というのは,平場で話しても結論が出るような小さい組織か,意志決定者が明確であるような組織でしょう。大きな組織になれてる方からすると,小さな組織ならともかく大きな組織でそれが出来るのは凄いなぁとか思います。

話がそれましたが,要はこういう話は中から見たら正しくても外から見た人が真に受けると多分嘘になる,そういうことって結構あるだろうな,と思いました。
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過渡期のお約束

2011-12-28 00:58:46 | 音楽・アート
ネットをみてると最近,作家らが自炊代行業者を提訴した件が話題になってました。自炊とは本をばらしてスキャンしてデータ化する行為ですが,代行とは客が自分で持ち込んでやってもらう業種のことです。

ネットを観て回ったところ,わたしが観るところは,全般的に作家の気持ちはわからないでもないが,見当違いではないか?ということ。本を裁断して自炊するのは個人複製の範囲だし,それで本が売れなくなるというのもおかしい。よっぽど古書店に売る方が本は売れなくなるはず。自炊がイヤなら電子書籍を出すべきとか,そういう意見が多いようです。読者をドロボウ扱いするのに反感を覚える人もいました。

わたしは以前はマンガや本をそれなりに買ってましたが,今はあまり本を読まなくなったので,ちょっと意見をする資格は無いのかも知れません。ただなんとなく10数年前にあった音楽CDのリッピングや音楽配信,ファイル交換の時のドタバタの再燃みたいに見えて,ちょっと興味深く思いました。

あの時はCDのリッピングの業者は出てきませんでしたが,ファイル交換の仕組みが出来て問題になりました。ユーザによるCDのリッピングもレコード会社は目の敵にしてCCCDとか出来ました。レコード会社はこれらがCD売上の減少の元凶のようにキャンペーンを繰り返しました。ユーザ間によるファイル交換は違法として殆んどなくなりましたが,コピーを防止するはずのCCCDもいつのまにかなくなりました。

それでCDの売上は復活したか?というと,多分しておらず,そうじゃなくてiTuneの隆盛によりCD販売より音楽配信へ主要マーケットが移りました。考えようによっては,ファイル交換やユーザによるリッピングは音楽配信により無力化されたとも言えます。

ですが,個人的にはわたしはいまだに音楽はCDで買ってます。通信販売が隆盛なこともあり,町のCD屋はもう虫の息状態です。消費者がCDじゃなくて音楽配信で音楽を買うのは,音楽配信の方が携帯プレーヤへの転送が楽だから,曲単価が安いから,曲の検索・購入が楽だからとかが理由ですかね。購入後場所を取らないとか管理がしやすいというのもあるでしょう,わたしはネットでは買わない人なので見当違いかも知れませんが。CDによる音楽販売がいつまで続くのかどれくらい続くのかはわかりません。しかし流れとしては音楽配信なんだろうなと思います。

で,本。自炊はCDのリッピングより遥かに手間です。手間なので業者がいなくなれば,あまり行われないかも知れません。でも,一方で電子書籍で出る本もあり,電子書籍の売上はどんどん伸びていくかも知れません。いまの電子リーダが本より使いやすいとも思わないので,すぐに変わるかどうかはわかりませんけど。

本が無くなったり,本屋が無くなるのは寂しいのだけど,流れとしてはいつかは…だろうな,とは思います。多分いま自炊に反対してる作家も,本よりも電子書籍の市場が大きくなったら,手の平を返したように移るだろうな…という気がします。何年か経ったら,自炊反対って意味無かったね…って言われるんだろうなぁ,とか思いました。
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因果関係が証明できないということは目に見えて増えるわけでもない…ってことだけど…

2011-12-24 21:45:10 | 時事
ちょっと古くなったけど,先週のサイエンスZeroは「内部被ばくの実態を探る」というタイトルで福島原発の事故による内部被曝調査の話だった。チェルノブイリでの調査も引用していた。内部被曝と健康被害の関係はまだまだ未知の部分が多いとの話で,なかなかもやもやした内容ではあった。

現在内部被曝と病気との因果関係がはっきりとわかっているのは甲状腺がんだけで,白血病や膀胱がんについては,データが少ない…とのことだった。福島で放射線量が高い割りに避難地域としての指定がされなかった飯舘で行われた子供の甲状腺への被曝調査の結果をやっていたけど,チェルノブイリの子供に比べれば低い結果だったとのこと。

ふと思ったのが,因果関係がはっきりしないというのは,たぶんこれから何十年か経って仮に今回の原発事故の影響でガンになった人がいたとしても,たぶんその因果関係は証明できないのだろうなということ。それはなぜかというと,ガンは原発事故が無くても起きるからで,因果関係がわかるのは事故後明らかに増加しているということにならないと…とことなんでしょう。

でもたぶん,今後何十年か経ってガンになった人の中には,原発事故の影響だ…と思う人はいるだろうなぁと思います。世の中には様々なガンがありますが,その原因を特定できるものはほとんどありません。喫煙者が肺がんになってもタバコが原因かどうか(たぶん)証明できません。ガンの原因はそれくらい特定しにくいもののようです。

そうであると内部被曝でガンになる…とおびえることにどれくらいの意味があるんだろうか?…という気もしてきます。もちろん内部被曝でガンになる可能性はあるのだから,ガンの一因を取り除くという意味はあります。でもたぶん内部被曝が無くてもガンになる人は全国民の三割程度です。

自分がガンになった時,原因を特定したいと思いました。それは原因を特定できれば,それをやめることで再びガンにならないかもしれないとも思ったからです。でも結局は良くわかりません。お酒が原因かもと思ったので,お酒の量は病気前に比べ,はるかに減らしましたが,それでもわからないなぁと思ってます。ただ自分の場合,今再びガンにならないためには,それよりも体に疲れをためないとかストレスをためないことの方が利く気がして,そっちのほうを気をつけてます。これは原因をさけるというより体の抵抗力を上げるという事を意識してるということです。

…まぁとはいっても私自身も被爆を避けたくて食べ物を選んだりはしてます。避けても避けなくてもガンになる時にはなるのかも知れないと思いますが,でも無造作に取っていたら馬鹿にならない量になる可能性もありますから。ただ放射能を完全に避けるために神経質になるのも,ストレスばかりためて,抵抗力を下げるのも本末転倒な気もしてきました。

わたしは大切なことは原発とガンの関係を明らかにすることではなくて,なるべく(若いうちに)ガンにならないこと,(若いうちに)ガンで死なないことだと思ってます。どうもそう思ってない人が結構いるような気がするのは気のせいでしょうか。まぁ,いろいろ気をつけて生きるほうが元気が出る人もいるので,そういう人はいいのでしょうけど。
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黒船だと許される

2011-12-23 05:33:01 | 時事
Google+は非公開設定でも直リンで誰でも写真が見れる上に、削除してもすぐに写真は消えないようです。」という文。facebookやGoogle+では,友だちだけに写真を公開していても写真のURLを直接叩けば誰でも読めるみたいです。で,この文は,それがばれたらばらしたのは友人だから問題ないと,冗談めかして書いてます。

その中にかかれてますが,以前mixiも同じ問題が指摘され,mixiは修正をしているそうです。でもfacebookやGoogle+だとしょうがない…なぁと思いつつ使ってしまう辺りに,なにか日本人の特質を感じます。この他にもガラケーだと許されない品質基準をスマホだと許してしまうのと似てるというか。スマホのバッテリーの時間も衝撃に対する耐久性も,ガラケーのはるかに下なのに,でもそれでクレームが燃え上がることはないというか。

日本の消費者は日本の企業に対しては,どんどん要求がエスカレートしていく気がします。でも海外が「こんなものよ」とやっちゃうとまぁしょうがないか…と。高すぎる品質基準を変えるには海外のもの(外圧)を使えばいいってことですかね。

そんな話ならまだいいんですが,社会保障とか安全とかにも日本の国内だけだと要求が無限のように高まってきてますが,海外は実はもっとひどい…というと納得するとかそういうことですかね。でもTPPに反対してるっていうのは,そういうのは良くないって人も多いって事ですか。

自分達では決められないけど,他(外)の人が決めたらそれに素直に従う…というのが日本人なのかねとか思った。
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薄めて広げるのか,集めて濃くするのか

2011-12-18 22:50:24 | 時事
杉並の小学校のシートから強い放射線が出たので燃やすことにしたというニュース。ぱっと聞いて,「えぇー?」って思いました。他の廃棄物と混ぜたら希釈されるから燃やせるという理屈。総量は変わらないのですが…。

とはいえ,どちらがいいのか?というのは難しい問題です。今問題となってる放射性のセシウムは半減期が数十年なので多分100年オーダで考えないと減りません。通常の汚染物質はちょっとの間置いておけば分解して他のものに変わったりしますが,放射性物質は総量は減らない…という意味で,多分これまで出た汚染物質とは根本的に扱いが異るはずです。汚染物質の処理の仕方としては薄めて害を無くす…という方法と,集めてどこかに隔離する…という方法があると思いますが,この場合どちらがいいのでしょう?。

個人的には集めてどこかに隔離するしかないのではないか?…という気がしますが,どうも世の中的に広げて薄める方向に行っているような気がします。いま,除染が問題となってますが,土を入れ替えるのはともかく,水で流す…というのは,その場からはなくなりますが,流れたものはどこにいくのでしょう?。先日クロ現で,池に集まっている…と問題になってました。

集めて隔離できないのは,おそらく隔離する場所が確保できないからです。東北の学校のグランドから除去された土の行き場がない…という話がありましたし,がれきなどのゴミを受け入れれるのを住民が拒否するというのもありました。日本は使われてない土地が殆んどないので,ゴミの廃棄場の近くにも人がいたり,山の中だと地下水とかに染みるんじゃないか?とかいう危惧もあって,なかなか捨てる(保管)場所が見つからないんでしょう。

とはいえ,このままほっておくわけいきません。雨が降れば移動したりしますし,除染も本格的に始まりそうです。下水に流れたら海に出ていきますし,それも問題ですが,それどころか住宅地のどこかの水溜まりに濃縮される可能性もあります。先日,福島原発の汚染水を海に流しましたが,これもちょっと…と思いました。

福島の人にはとても悪いのですが,結局のところ福島原発の近くや敷地内に集めて保管するとかしかないんじゃないか?…,という気がします。焼却で濃縮されるという話も聞きましたが,逆に言うと,それで放射性物質集めることもできるわけです。そのまま埋めると雨に流れたりするから,コンクリートなどで固めて,水が入ってこないような施設を作り,そこに数百年のオーダーで保管するんでしょうか。原発の近辺は今後かなりの時間人が住めないのではないでしょうか?。であれば,そこに集めるしかないんじゃないかなぁ。各都道府県に貯蔵庫を作るという考え方もあるかとは思いますが,状況からすると,原発の周辺が一番いいように思います。その場合は,その土地を国や東電が買い上げて…とかになるのかな。今はまだ安定してないから,そういう施設を作ったりは出来ないでしょうし,どこに作るかは,いろんな意見があるとは思いますが。

…等と思いますが,広げて薄めればいい…というのが良いというのなら,どういう理屈でそうなるのか?…誰か教えて欲しいと思います。
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審美眼は表現力の本質だと思う

2011-12-14 21:56:30 | 音楽・アート
fujiponさんがジョブスの伝記の感想を書いていました。彼の人となりはまぁどうでもいいとして,興味深かったのは,なぜジョブスが「クリエイターたちの神様」になったか?という話。それに対し,ジョブスは誰も持っていなかった「審美眼」を持っていたと書かれてます。

なんとなく不思議なことと思われてる様に読めましたが,わたし自身は,それこそが大事なこと…と思ってます。まぁ成功した人を後付けで理由づけるのは,無理があるのですが,でもわたし自身,表現をすることで一番大事なのは作品を評価する力だと思ってます。

技術者にせよ,芸術家にせよ,クリエータは普通,なにかを作り上げるや「技」を持ってます。でもその技をどういう風に使って作品として完成させるかは,その作品を観る力だと思います。どんな作品でも作れるような卓越した技術を持つ人が,必ずしも成功するとは限らないのは,その作品が人々に伝わるように,技術を制御することがうまくいかないからだと思います。また技術的には稚拙でも受け入れられるのは,その自分限られた技術をうまくつかって人々に受けいられる形として仕上げることが出来るからだと思います。

優れた表現者は自分のスタイルを持ってますが,それはそれしか出来ない…というわけではなく,自分の技を作品に結び付ける取捨選択ができ,そして完成を見極めるには審美眼が必要なのだと思います。

そういう意味で言うと,いろんなクリエータを集めてきて,映画とか音楽とか…いろいろと作品を仕上げるプロデューサも自分自身は技を持ってなくても審美眼だけは持っていることになります。

ここで誤解をして欲しくないのは,ここでいう審美眼は評論家や消費者の持つ「目」ではないということです。作品作りにおいて,作る側と受取る側の目は決定的に違うと思います。成功するプロデューサは消費者だけの目だけだけではダメで,作る側の目を持っていないとダメでしょう。ユーザは自分が真に望むものをわかっていない…というのはジョブスの言葉だったかも知れませんが,そういうことだと思います。

そういう意味で言うとジョブスが卓越した審美眼を持っていたというのは,確かに成功した理由かもしれません。ただ彼の凄いのは,マックにせよ,iPodにせよ,ほとんど彼の審美眼のみでデザインが選択されているような感じがするところです。絵や音楽のように少ない人数で作る作品であれば,一人の審美眼で方向性と仕上がりが決めれるかもしれませんが,工業作品は普通は,一人の美的感覚だけでは作れないものです。それを彼はずっとやってきたように思います。

デザインは世の中の需要を汲み取って作る様なところがありますが,下手にいろんな人の意見を採り入れると,純度が下がるというか,機能優先になったり,特徴のないものになったりするように思います。ですから出来るだけ少ない人の意見のみで作った方が,多分デザイン的にはわかりやすいものが出来るのですが,ただそれが世の中の需要に合わなく失敗する可能性もあるわけです。

ですから普通は複数の人の意見を採り入れて,中庸なものを作ります。結果イマイチになることも多いのです。

晩年のジョブスは多くの成功をおさめていたので,彼の審美眼に従わない人はアップルにはいなかったのかも知れませんが,若い頃の彼の取捨選択を良く周りが納得したな…と思います。その時彼が観ていたコンピュータ像は時代のずっと先を行っていて,他の人がピンと来るものではなかったはずだし,実際は失敗も多いのに,良く融資先が付いてきたな…と思います。

結局のところ,それをずっと貫き通せたのは,彼のキャラクターの方の問題だったのかも知れません。まぁでも彼のように強引で,周りに理解されない人って多分沢山いて,その中に審美眼も持ってる人はいるんでしょうが…,そういう意味は結局のところジョブスがなぜ成功したかはそれだけでは語れない気もします。
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国が幸福を決めることの恐ろしさ

2011-12-11 18:00:44 | ココロ
国が国民の幸福度を規定するらしい。ぞっとする。

ブータンのマネなんだろう。でも貧しい国が貧しい中で幸福を噛み締めるのと,豊かな国が幸福であることを求めるのは意味が違う。特に今豊かだが,この先(本当かどうかともかく)お先真っ暗…という風潮が蔓延している日本で,国が幸福を規定するのは,「貧しくなったが幸せだからいいでしょ?…」といういいわけに使われる公算が大きい。幸せというのは,案外不自由な中で感じることも多く,自由であればあるほど幸せが見えにくくなるから,幸せを感じさせるのは不自由にすればいい…なんてなりかねない。本家のブータンでさえ,情報が自由化されていく現代で国民総幸福で政治をするの難しくなってきてる…って話じゃなかったっけ?。

個人的には幸せを国が規定するなんて真っ平という想いがある。もちろん経済的な豊かさと幸せはイコールじゃないと思うし,経済的豊かさばかりを追い続けて不幸せになるという現実はあるので,幸せに目を向けるのはいいと思う。豊かさよりも幸福を重要視するのはいいことなのかも知れない。でも幸せを数値化するのはおかしい。全体で幸せを規定するのもおかしい。

幸せは最終的には個人の問題とは思うが,個人の問題とした結果,見えない人には見えなくなる。だから個人の外から幸せを規定する…というのは,あることはあるのだけど,これは一種の宗教感みたいなものなんだと思う。

それでも経済成長時みたいに,国民の大半が同じ未来をイメージしてるときは,そのイメージ(この場合は経済的豊かさだった)を幸せに結び付ける事は良い意味があったのかも知れないが,右肩下がりになってる時代に幸せを規定するというのはどういうことなんだろうと思う。まさか「困ってる人を助けるのが人の幸せ」とか言って(その事自体は間違いではないが),社会福祉向け増税をするってことはないですよね;-p。

いずれにせよ,国(役所)が,こういう事を数値化するのはろくなことがない。行政というのは,一般的に数値目標を決めて政策を行い,無理やり結果を合わせようとするものだから。豊かになった上での結果として幸福を測るのなら良いのだけど,逆になりそうな気がする。
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反体制と結び付いた意見は世代間に渡り継承されにくい気がする

2011-12-06 19:34:57 | 社会
森達也さんの「ごめんなさい。原子力安全神話は僕たちが形成した」という文は,さすが作家というか良くできていて,読んでいて引き込まれました。最初の仕掛けが最後にきちんと聞いてきて,うまいなぁという演出的な妙もあるし,あと内容も。本題である原子力安全神話もそうですが,今の若い人の態度…というのも,あぁこういう感じだよな…とか思って,こういう若者にどういう風に教育していけばいいんだろう…とか思いました。

さてこの中で若者が投げ掛けている,「どうして今の大人達は原発を安全と信じたのか?」という疑問は,少し難しい問題です。以前も書きましたがわたしは,数年前に,当時原発に否定的な意見が消えてしまったことに戸惑ってます。わたしの記憶では,わたしが学生だった頃,20年から30年前にはまだ原発に反対をしている人は沢山いました。特に学生運動や,反体制(当時的には左派でしょうか?)の人達が原発に反対して,建設中のどこか(北海道だったかなぁ?)の原発でデモをやったとか,そういう話を良く聞いてました。

ですから,原発が安全というのは世の中にすんなり受け入れられたわけでもないのです。ただ,当時の雰囲気をみていた少年だったわたしの視点では,その辺の運動は既に自分より上の年代の人達がやっていて,わたしたちの年代は,そこに入っていく…という感じではなかったように思います。この辺の感覚は,世代間断絶というか,例えば親がいいというものを子供はいいと
思えない,親が悪いというものを子供は素直に受取れない…みたいなものがあり,事実(原発は危険)がどうであれ,むしろ上の世代とは反対に意見は流れてしまうのかも知れません。我々の10年くらい上の世代までは,まだ学生運動の余韻が残ってましたが,その反動なんでしょう,我々の世代はノンポリと言われました。

そういう我々がそういう反原発運動をどうみたかというと,やっぱり少し白けていたように思います。なぜなら,彼らの主張は,原発も原爆も原子力空母も原子力潜水艦も反対で,内容を見て反対してるというよりは,原子力と見たら何でも反対…という風に見えてしまったからです。またそういう事に反対する人達は君が代斉唱や国旗掲揚にも反対しており,つまり,原発が危険だから反対というよりは,体制に反対してるだけじゃないのか?…という風にも見えたのです。

今になって考えると,原発の反対運動が,そういう人達の間でしか広がらなかった…という事がむしろ原発容認の空気をつくってしまったのかも知れません。例えば福島瑞穂さんが原発に反対していたとか思っちゃうと,単なる綺麗事の様に見えてしまうというか…。あぁ,なんか失礼ですね。すみません。

つまりそういう反体制運動の流れの中で取り上げられたから,反原発運動は
世代間を跨ぐことができなかった…とも言えるし,そもそもそこでしか広がらなかった事自体が,反原発思想自体が実はあるようで無かった…ということなのかも知れません。

ただそうやって上の世代の反体制派が原発に反対し,我々の世代が,それを知りつつ,無関心になっていった結果,いつのまにか,我々の後の世代は原発が危険だという発想自体を持てなくなっていたのは事実のようです。いや,原発なんて存在すら知らなかったのかも知れません。

…結論はないのですが,長期的な議論というのは難しいのかなぁと思いました。特に現状社会に利を産み出しているものを疑うというのは,よほど感情的な部分を除き訴えないと,次の世代には感情的に嫌われるのではないでしょうか。まぁ原発の事故の記録はこれから数十年伝えられるでしょうから,反原発派というのは,今後は息が長いと思いますが。でも一方で,津波への警戒は,いずれ忘れられるかも知れません。日本ではここ数十年の間に
何度も地震で人が亡くなってますが,でも地盤が弱いところとか海沿いに人は戻ってきてますから。
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危険な選択は時代で変わる

2011-12-04 13:49:00 | 時事
先週インフルエンザの予防接種を受けました。子供が出来てインフルエンザの予防接種を受けるようになったので今年で三年連続。でもそれ以前はおそらく大学に入って以来受けていなかった気がします。高校の時受けたかどうかも良く覚えてません。ただ小学校の頃に何かの予防注射を受けた記憶があります。ただ病院じゃなくて学校で受けたような,そんな記憶があります。インフルエンザだったかどうかは謎。

その時の記憶で,一本の注射で何人かまとめて注射を受けてました。そう集団接種です。今でこそ注射針を使いまわすなんてご法度で,予防注射だろうが,病気の治療だろうが,採血だろうが,使った針は医者ですら素手では触らずに捨ててます。あの大量の針はどう処理されるんだろう?。溶かして金属かなにかにするんでしょうか?。

話がそれました。今は注射針経由の感染を恐れますが,当時はそういう認識はありませんでした。多くの人はそういう認識はなく,おそらく多くの子供たちに予防注射をすることを優先して,針も使いまわしたのでしょう。もちろん専門家の中には針で病気が感染するという可能性を疑っていた人もいるでしょうが,あまり定説になってなかったのかもしれないし,それより感染症の方がまだまだ恐ろしかったのかもしれません。そういえば戦後間もなく子供に散布されたDDTも,いまは人体に使うには危険と言われてますが,当時は,危険性を認知してなかったし,それよりダニやしらみによる病気の感染を抑えるのは効果があったのだろうと思われます。

今考えたらトンでもない…と思われるような処置が以前されたいたというのは,その危険性がわかってなかった場合,または,その危険性よりももっと危険なことがあって,それを抑えるために優先した…ということがあるように思います。いまだともっと有効な手立てがあっても,当時わかってなかったという場合もあります。私は小学校に入るくらいのとき,当時は昭和40年代,扁桃腺の手術を受けましたが血が止まらず200ccの輸血を受けました。そのせいで,献血が出来なくなってます。その後の検査でB型もC型も肝炎ウィルスは持ってないことはわかってるんですが。…で,5年前に膵臓を取り出すような手術をしたから,また輸血をしたかというとしませんでした。今は自分が出した血をまた集めてたぶん精製かなにかして,体に戻す方法があるそうです。人工血液もある程度使えます。手術前の説明でも,それらを優先し,駄目な場合だけ輸血をすると聞いてました。輸血のリスクの考えるようになったということでしょう。ただそれでも輸血をしないと助からない場合は,輸血をします。だから今でも献血では血が足りないと言ってます。

そのうち,ガンになったら内臓を取り出すなんてなんて乱暴なことをやっていたんだ…とかいわれるようになるかもしれません。

つまり何が安全で何が危険かは時代で認識が変わります。また危険なことも,それより危険なことを防ぐために使用されることもあります。それはある意味仕方がないと思います。それを後になって,あの時危険なことをした…というのは,すこし無理があるように思います。いや,むしろ私は絶対安全なことなんってそうそうないのでは?という気もしてます。より危険が少ないことを選んでるだけなので,それは状況で変わるものではないでしょうか?。
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ガン治療は多かれ少なかれ賭けの様に思う

2011-12-03 21:53:34 | 医療・福祉
10日ほど前の話。イレッサの高裁判決が出た。毎日新聞は批判的。ネットをみるとどっちもあった。

一般論的には抗癌剤に副作用があるのは当たり前だし,ドラッグラグが問題なのは事実なので,こういうことは防げない(ある意味しかたない)という言い方は出来る。でもエビデンスとかに詳しい人にはイレッサ自体が延命効果があまり無い割りに早急に認可されたという話もある。個々の事象をみたら問題があったのかも知れないけど,良くわからない。ただ裁判の争点に限っていうと,判決は妥当な気もする。

自分が抗癌剤治療を受けてない事もあって,わたしは少し抗癌剤について頭で考えてるんだろうなと思う。体験があればもっと副作用の危険性や選択の切実さについてもっと感情的に理解できるだろうから,割りきれないものを感じるかも知れない。

とはいえわたしも手術を受けるときは,死ぬかも知れないという可能性をずっと考えてた。手術自体は普通の開腹,膵尾摘出だったから,その場で死ぬことは無いのだろうけど,麻酔の事故や,止血の事故などの可能性はゼロではないわけで,死ぬかもとは思っていた。入院前に自宅でみられたらまずいものを結構捨てましたから(苦笑)。わたしは小学校1年の時と2年の時にも簡単な手術をしたのだけど,全身麻酔で,麻酔に落ちていくときに,親に「このまま目が覚めないかも」と言ったらしい。子供は寝るときに恐怖を覚えるものだけど(わたしは子供の頃そうだった),麻酔という逆らえない眠気に普段よりその恐怖は強かっただろうなぁと思う。

話がそれた。いずれにせよどんな医療でもリスクがある。特に癌の場合,処置をしないと死ぬのだから,比べる方の治療もより深刻なリスクまでターゲットになる。つまり治療がうまく行かなければ死ぬということまで想定となる。うまく行けば,完治したり,延命もするのだろうから,両端の差は物凄いものになる。

そういう意味で言うと,最初の社説にある「安全」とは何なんだろう?と思う。ガンのような深刻な病気の場合安全を選ぶのではなく,助かるための賭けの様なものがわたしにはあったので。

とはいえ,「副作用ほとんどない抗がん剤」などという能天気な見出しをつける新聞を見ると,深刻に考えることを邪魔してるのはマスコミじゃないか?という気もする;-)。
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