何度も書いているネタのような気がしますが,また書きます。
某こんにゃく菓子を赤ん坊とか老人が食べて亡くなるという「事故」があって,遺族がメーカを訴えるとかそういう騒ぎが,最近話題になっています。それに対してとあるブログで,「
やっぱり事故だと思う」という意見とか「
誰かの責を問うことは、自分の責ではない事を欲することの対偶」とかいう意見を読んでいて,思うことを書きます。
こんにゃく菓子の事故自体についての考察をここに書くつもりはありませんが,基本的にはリンクした二つの文章には賛同します。特に反論はありません。そしてこれに反応をしたのはその事故のことよりも「誰かの責任にしなければならないという、いまの社会の残酷さ」をわたしも感じるからです。
リンクのブログは二人ともお医者さまですから,その境遇で強く感じていることでしょう。病院で患者が亡くなった時に遺族が医者を訴えるのは最近は良く聞きます。病院は体調を崩した方が集まるところで,当然普通のビジネスより人が死ぬ確率は高いはずなのに,人が死ぬことをまるであり得ないかのように訴えられるのは,たまらないだろうな,と第三者のわたしは思います。でも訴える方の心情を想像するに,遺族である自分のせいにしたくないというのもわかりますし,それ以前に理由無く人が死ぬことが納得できないというものもあるのかなと思います。
でもわたしは,人は理由無く死ぬことはあると思います。いや,死因はありますが,人為的な理由とか,普段の行いとか,そういうのがなくても,不意に人は死ぬものです。
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昔は,そういうのって「運命(さだめ)」って言っていたのではないでしょうか?もしかしたら神様の思し召しと言っていたかもしれません。そういうのってどうして無くなったのでしょう?。
昔は死が日常にありました。子供が産まれて良く死ぬ,母親も助からないとかいうのは良く聞く話でした。子供が遊んでいるときに事故で亡くなるとかもありますし,年寄りは夏場は水に当たり,冬場は寒さで亡くなってました。戦争や戦が日常茶飯事だった頃は,頑丈な大人でさえ,すぐにどこかで死んでました。そういう場は,いまでも世界中にまだまだあります。
そういう人達が個々の誰々が死んだのは誰のせいだとずっと訴え続けているのでしょうか?。そういう人もいると思いますが,それをさらに社会全体が担ぎ上げるということがあってるでしょうか?。死んで残された個々の方々の辛さは大きいでしょうが,それを乗り越えて行かなくては自分も生きていけないし,コミュニティも回らない。死が日常過ぎるのもあるでしょうが,それを和らげるための知恵やシステムがあったようにも思います。
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中近東で生まれた某宗教たちがなぜそれだけの強力なミームを持っていたかというと,その教えの中に「なぜ我々はこんなに不幸なのか?」を明確に説明しているからではないか?とわたしは思ってます。そもそもあれら宗教は原罪で始まってます。その子孫達も罪を犯してますし,神様は物凄い試練を与えてます。また仏教は宗教とは言いにくいですが,仏教の背景にあるインドの宗教には輪廻という概念があり,現世の辛さは前世に依るものだとしてます。仏教の救いとは輪廻からの解脱というのも,生まれ替わりが嬉しいことではなく辛いことであるとしている考え方でしょう。
いずれも今我々がこんなに辛いのは,今の自分でも,自分の社会のせいでもなくて,それ以外の何かのせいだからと説明したので,当人達も納得したし,それを社会や権力者のせいにしなくて,社会システムとうまく融合したのでしょう。
考えてみたら,社会システムとうまく適応できないカルト宗教は,不幸を現在の社会や自分達のせいにしてるからうまくいかないのかも知れません。
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人が強力な不幸に陥ったときに理由を求めるのは本能の様な気がします。それはその不幸を逃れるための手段を見つけるための本能でしょう。そうやって物事の因果性を求めるのが人間の思考です。
人は病気になっときになぜ病気になったのかを考えます。それは今の病気を治すために必要な情報になるし,次の人が同じ病気にならないための手段になります。でも,病気によってはあまり意味がない場合もあります。わたしはガンになったときになぜガンになったか必死に考えましたが,最初にガンになるときと,再発するときは原因が違う場合が多いので,最初にガンになった原因がわかって,それをやめたからといって,再発の確率が下がるかというと謎です。新たなガンになるのを予防する意味はあるかもしれませんし,ストレスとか免疫力という大きな範疇での体調コントロールにはなるでしょうけど…。
そしてわたしはガンになって死ぬ思いをした自分は何が悪いのか?,誰のせいなのか?必死に考えましたが,当然ですが,答えは出ません。キューブラー・ロスによると人が死ぬ過程で「取引」という状態があるのですが,これも死ぬ事の理由を見つけ取り除こうとする行為でしょう。
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話がそれましたが,かっては日本でも人が死ぬことに特定の誰かのせいじゃない…と,うまく矛先をそらす知恵を持っていた様に思います。いつからそういうのがなくなったのでしょう?。誰かのせいにしないと自分のせいにされるというのは,結局特定の誰かのせいにしなければいけないというシステムが動いているからです。そこで「運命」と言って納得することはできないのでしょうか?。
宗教を勧めているわけではありません。ましては人が死んでいくことを積極的に肯定しているわけでもありません。人が死ななくなるように知恵を絞り努力していくことは重要です。そのためには論理的に考え科学的に分析することも重要です。だからこそ,無意味に誰かに責任を負わせることも,再発を防止する効果がなければ意味がありません。医療従事者を減らしたり,遺族をイタズラに貶めるだけなら,論理的に考えても悪影響の方が多いです。
あることで人が死ぬことには原因があり,それは分析して防止策をつくることは重要でしょう。でもその事で,なぜその特定の人が不幸になったか?というのは,出口のない問いかけの様な気がします。なぜ自分(の家族)なのか?,それは運命のせいにしてもいいかも知れません。わたしは自分については,今はそういう心境にとりあえず落ち着いてます。