たろの日記ページ,gooブログ版

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映画「おおかみこどもの雨と雪」を観て

2013-12-30 16:40:48 | 音楽・アート
地上波TV放送で観ました。

二週間ほど前にTVでやっていたのを観ました。本映画は公開当時話題になってましたので,今回私は初見でしたが,話のプロットは知ってました。もっともどんでん返しがある話でもないので,プロットを知っていて損をしたというものでもないと思います。

さて本作は若い母親「花」が,母親の手一つで二人の子供を育てるお話です。子供の父親が狼の末裔で,二人目の子どもが産まれると同時に亡くなってしまうとか,子供が狼の特性を引き継いでいるので,行政やボランティアに育児のことを相談できず,困り果てて田舎の山奥で隠れるように子育てをするようになるとか,そういう話に対しての突込みを公開当時みたような気がしますが,この映画基本的には,「母親の手一つで子供を育てる」という舞台設定の正当性を作るためにこういう設定にしてるだけで,そこに大きな意味は無いように感じました。母親がシングルマザーで,だれにも相談できず隠れるように子育てをするということ,あと子供が小学校卒業のタイミングで巣立っていくというプロットの説明がつくのであれば別に狼である必要はないのでしょう。ある意味,母親が犯罪者で逃亡者でもこの話は作れるのですが,それだと母親のせいになってしまう。この話では母親が何の責も負わないのにでもこれだけの辛い境遇に陥ってしまう(ある意味理不尽なもの)…という風にしたかったのでしょう。

さて,そういうわけでこの作品では,とにかく子育てに苦労しながらも,しかしいつも笑顔で子供たちに愛情を注ぐ母親が描かれてます。途中まで誰にも助けてもらえず,また最後まで誰にも相談できず子育てをさせられます。また子供ができたせいで,花は学生生活のすべてを捨て,都会での生活を捨て,山奥に篭もります。実に献身的です。

この作品を作った細田監督は子供ができる前にこの作品を描き,子供が出来る前だからこそ理想の母親としての花を描けた…と語ったとかいう話をどこかで読みましたが,まさに,ちょっとありえないくらいの母親像でした。

どんなに辛い目にあっても,ゆるぎない確信を持ち献身的に子供に尽くす花の姿を見ていて,これはヨブ記の様だな…と思ったのですが,ネットを調べると既に指摘されてる方がいました。そう,見返りを求めず疑問を持たず,自己犠牲を突き通す姿はヨブ記の様であります((私はキリスト教信者ないので,間違った解釈をしていたらすみません))。

でも一方で現代の日本人がヨブ記を読んだら,その神への信仰ぶりにリアリティを感じないのと一緒で,花に対してもそのように感じるのではないでしょうか?。つまるところ,この話は信仰の話であり,神話であるように私は感じたということです。母親の子育てを神話として描いていしまうあたりは,女性はこの映画どうとらえるのかな?とも思いますし,自分も子供を二人抱えている親ですから,なおさらおとぎ話として捕らえないと,消化できないような気もします。

さて,後は細かい話…。二人の子供がほぼ同時に家を出ていったあと花はどうなったんだろう…と少し気になりました。本当に子供を育てるだけの12年間だったんだろうから。まぁリアリティのない人だからなぁ。そういうこと気にしてもしょうがないのかもしれませんが。

あと作画。背景を存分に動かし自然を表現する作画は圧巻でした。でも,この映画の直後CMでかぐや姫の物語をやっていて,こちらも作画的には圧巻。なんかアニメ映画って成功して資金的に余裕が出てくるとこういう方向に走るのか…と感じてしまいました。見たことない作画を見せてくれるって意味では贅沢なことなんですけどね。

総じて作画もストーリも非常にクオリティの高い作品でヒットしたのもうなずけるし,私も満足しました。でも娯楽なのかな?,ドラマなのかな?…とか考えるとやっぱり神話なのかな,という気がしました。現代劇で神話を描いてしまうあたりに,細田監督の力を感じました。
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学会の権威と人気

2013-12-29 10:29:13 | 育児・教育
研究者というのはおおよそ自分の成果を「論文」という形で積み上げていくものです。中には本を書いたり作品を作るという分野もあるようですが,ほとんどの場合,大学にしても国とかカウントするときも論文で成果をカウントします。学術的な賞もありますが,その賞自体が論文に与えられたりするので,とにかく論文を出さないと研究者は自分の成果をアピールすることが出来ません。

で,論文はどこにあるのか?というと通常は学会が出す学術誌に掲載されます。掲載されるにはその学会が審査(査読)をし通らなければなりません。つまり研究者は学会と関わらずに成果を出すことが出来ないということになります。

ではその「学会」とは何か?というと学者が任意に集まって作ったものです。以前医者をやってる友人に医者が三人集まれば学会を作れる…という冗談を聞いたことがあるのですが,実際は日本学術会議が「日本学術会議協力学術研究団体」というのを指定しているので,勝手に学会を名乗っても公認の学会というのには当たらないようです。

とはいえ,学会というのはいろんなものがあります。そして研究者は成果を出す以上どこかの学会が出す論文誌に論文を投稿するわけですが,その投稿論文を研究成果として認めるか認めないか?というのも学会によっては様々で,ですから研究者は投稿するときにそういうことも考えて学会を選びます。

さて私も研究者の端くれであり,これからも研究を続けていこうと考えているわけですから,どの学会と重点的に関わるか?ということを悩むわけです。学会の一つの尺度に「会員数」があります。これは客観値なのでわかりやすいですが,人数が多い学会ほど,活動は盛んだし,そこに出すと多くの人に認められる可能性があります。一方学界の「権威」みたいのもあるように思います。これは学会の会員数とも関係があり,会員数が多いほど権威も高いと思われがちですが,中には会員数が少なくても権威がある…学会もあるような気がします。これはきわめて専門性が高かったり歴史が長い学会だと人数が少なくても権威が高いケースがあるように思います。

そしてもう一つの尺度に「人気」があります。これは会員数と関係があるのですが,会員数が多い学会の中にも業界人しか話題にしない学会と,ネットとかで話題になるような学会があります。一般とまではいかないまでもこういうネットで話題になりやすい学会はいろいろと新しい話題を提供するようなことをやっていて,結果的に新しい分野の開拓が出来たり,若い研究者が集まり実際に会員数が増えたり良い成果が出てくるという好循環が生まれている場合も多いでしょう。

…とは言え,私としては少し悩むのはこういう新しい話題を振りまき人気が出ている学会と,歴史があり専門性が高くて権威がある学会とどちらを重要視すべきか?…ということです。人気がある学会は書いた様に活動が盛んで,そこで活躍することは自分にも注目を得る可能性があります。活動の可能性が広がるということです。ただ一方で,こういう学会は研究成果が玉石混合な場合が多い気がします。あと地味な研究はこういう場ではかえって目立たなくなることも多いかもしれません。権威がある学会は,目立たない成果でもその学界的に質が高ければ,おそらく認められます。

日本に学会はたくさんありますが,歴史のある学会はどこも会員数の減少に悩んでおり,経費もきつくなっている気がします。そうなると「人気」を得るために,活動方針を変化させていく学会もそういうのなかに増えていくように思います。

さて,そういうことをちょっと前に考えていたら一昨日くらいに人工知能学会が学会誌の表紙に萌イラストを載せてきたということを知りました。この表紙女性の掃除ロボットというのが気に入らない人がネットで論争してるようですが,それについてはあまり興味はありません。それよりもあぁ人工知能学会もこういう方面の人にアピールし始めたのだなぁ…と私は思いました。だいぶ前に情報処理学会が初音ミクを学会誌の表紙にしたことがあって(そういう内容だったからですが),かってない程,学会誌が売れたそうです。もしかしたらそういう話知っている人が,学会誌の表紙に萌の要素を取り入れることでそういう効果があることを知っていたのかもしれません。

もちろん人工知能にしても情報処理にしてもロボットとか知識処理とかを扱うわけで,そういうものを題材とした作品が多いアキバ系の愛好者とは重複する部分が多いはずです。ですからまるで関係ない人にアピールしているわけではなく,より周辺を広げるという試みなのではないでしょうか。

ただし,人工知能学会の表紙に対しての学会の説明をみればわかるように新しい人に興味を持ってもらうため明言してます。ですからやっぱり学会以外の人の注目を集めるためにこういう表紙を選んだわけです。学会の質を高める手段として専門的な学術的な質というよりもまず人気を得ることを選んだってことだろうな…と思いました。

自分が積極的に関わるべき学会は,どっちの方なんだろうなぁ…と思ったわけです。
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怒らないことと乖離すること

2013-12-23 21:47:51 | ココロ
知人がシェアしていたブログで「怒らない修行」というのを読みました。お坊さんが書いている様なので,それなりに考えられた内容かともおもうのですが。

ここで書かれている怒らない方法は「出来るだけ考えずに時間を経過させる」ことという風に読めました。自分が浅く読んでいる…という気はするのですが。

これを読んでおもったのは,乖離に似てるってことです。乖離っていわゆる精神的なストレスを受けた人が,自分の目の前におきている辛いことを現実と認識しなくなることです。例えば夢を見てるような感じで見てしまうとか,思考停止してしまうとか。

乖離は一般的にあまりよくないことの様に言われます。現実から眼を背けるし,現実の問題に対応できなくなるから。よく言う幼児に対するネグレクトとかも親が乖離を起こしているケースもあります。だとすると考えないことによって怒らない…っていいことなんだろうか?とか真っ先におもったのです。

とはいえ,一般に乖離が悪いことだといわれますが,自分を省みると,こういうことって良くあるよな…とおもいます。辛い状況を「早くこの時間過ぎないかなぁ」と思考停止して過ごすこと。また自分におきていることを第三者におきていること…という風に客観視して,辛さを半減させることも良くやります。

ということは乖離って悪いことじゃないのでしょうか?。たぶん正解は無いのだろうけど,程度の問題なのかな?という気がしてます。要は乖離になる自分を更に客観視できるというか,コントロールできるってことなんだろうなぁ…ということです。ですから真に対処しなくてはいけないことは乖離しないとか,感情的に怒っている自分に対しては乖離するとか,そういうことを選択的に行えるってことが必要ってことではないでしょうか?。怒ったら無条件に考えなくなるようではまずいようにおもいます。

さて,自分は余り怒らない人だと自覚してますが,自分が怒らないようにしているコツは,

  • 他人に期待しないこと

  • 人は自分と同じように感じ,考えるわけではないとおもうこと

  • 怒るのではなくがっかりすること


とかです。他人に怒るっていうのは,どこかしら他人に期待をしてるってことだとおもいます。期待した自分を反省すれば怒る気が起きません。また同じことですが,相手が自分と同じように感じているわけでもありません。こういう風に考える人がいるんだ,感じる人がいるんだ,へー,という風に興味深い…と考えると好奇心の方が勝ってしまいます。で,最後のががっかりすること。なんか自分に不利益な状態になると,トホホホ…と思って脱力する,結構これで済んじゃうことが多いです。
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