たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

嗜好品をうまくする日本人

2009-11-28 08:18:43 | 環境・自然科学
「嗜好品」の定義は何か?と辞書で調べたら「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」で酒,タバコ,茶,珈琲等らしい。
味わうというけど,これらを好きな人はこれらを「うまい」といいます。そして,同じ酒なら酒でも銘柄とか年式とかいろんな要素で味が違い,うまいものを手に入れるためには結構な額を惜しみません。ということで,これらのものは結構高価に取引されます。
一方でこれらの嗜好品は味はともかくいずれも精神にある効果を果たす作用があります。酒は酔うし,タバコもリラックスするとか,茶や,珈琲も目が冴えたりするとか。まぁ人それぞれみたいですが。精神に効果があるというと,ある法律で規制されている別のものも思い浮かびます。まぁそれはいいとして,ずっと疑問なのは,嗜好品のうまいまずいというのは,精神への効き目と無関係なのだろうか?ということです。
つまり本来はこれらはいずれも効用の方を重視されていて,食されていたのだけど,それを食べているうちに気分が良くなるのだからうまいと思うようになった。そうなるとうまいものは効きがいいもの…ってことになって無いか?ということです。実際酒にしても,お茶にしても生まれて初めて食べたときはまずいと思いませんでしたか?。飲めるようになってうまいと思うようになりませんでしたか?。
もしそうだとしたら,これらの嗜好品は味覚的なうまさじゃなくて,効精神てきなうまさという事になります。
ところで,今日finalventさんが「タバコは収穫後製品にするまでまたいろいろ熟成や着香に技術があり、JTの技術は高い」と書いているのを読んで,そういえば,日本のタバコは低ニコチンだけど,いろいろと味をつけて,ヒットしてる製品が結構あるよな…と思いました。その味で,精神的な効き目が増えているのか?はわたしはタバコをほとんど吸わないので知らないのですが,味が変わっているのでしょうか?
そういえば,日本酒というのは酔うというのもありますが,うまいとされているのは本当に甘みとか味の深みとかそういう部分で差がある様に思います。お茶もいいお茶は確かにカフェインも多いかも知れませんが,アミノ酸が多いと聞きます。一方ヨーロッパの北のほうとかの蒸留酒とかを味わうと本当に味というよりも酒の強さの方が重要視されているのではないか?という気もして,日本に比べ西洋は,これらの嗜好品に求めるものは,本当に効き目なのかも?という気もします。
ちなみにチョコレートは一般にお菓子だし,カロリーも甘みもあるのですが,西洋のいかに甘く出来るか?ということに挑んだようなチョコを食べると,やっぱり味よりも糖分とカフェインで勝負してるんではないか?という気がするし,日本の甘さを控えたチョコとかを見ると,やっぱり日本人は目指しているものが違うんではないか?という気もします。
というわけで,日本人は本来精神的な効果を求める嗜好品を,味で味わう嗜好品に変えるということに妙に情熱を注ぐ国民(職人)性があるんじゃないか?という気もしました。
…とはいえ,たぶん例外はたくさんあるんでしょうけどね。日本にだって度数を上げるだけあげたお酒もあるし,甘い食べ物もそれなりにあるし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

emacs

2009-11-25 05:51:30 | 所感
Emacsを使って幸せですか?という質問を読んで愉快な気分になったの…。
実はわたしも夏にMacを買ってCarbon Emacsをインストールしていたのですが,つい最近メイラーのセッティングをして,そちらでもメイルが読めるようにしました。とても幸せです;-)。
わたしがemacsを初めて使ったのはもちろんunixの上で,20年くらい前でした。最初はエディタとして使い始めましたが,すぐにメイラーやニュースリーダとしても使い始めました。それ以前はメイルとニュースはパソコンの通信ソフトで流し込んだりダウンロードしたりしてたので,テキスト編集機能がついたメイラーとしては初めて使ったのがemacsのrmailでした。っていうかテキスト編集機能がついてないメイラーって今の人イメージできるんだろうか?。
当時はunixにログインするとemacsを立ちあげ,その上でメイル書いたりニュース書いたり,プログラム書いたりコンパイルしたり,shell上でコマンド起動したり…するものでした。ずっとemacs上で出来るところがemacsの魅力で,「emacsはエディタではなく環境だ」といわれてました。
その後すぐにX windowになりましたが,X terminalの上でのemacs,そしてXemacsとemacsは新しいOSやGUIシステムにあわせて次々に開発されて行いきます。その後macになった時は,わたしはmacではメイラーは使わずunixにX端末としてつないでその上でXemacsを使ってました。また,一時期NeXTSTEPを使ってましたが,そこでもemacsでした。Windowsは98になった頃にmeadowを知り,ようやくWindowsでemacsを使い始めて,そして現在に至ってます。
わたしがemacsを使うのは,どんな環境でも存在し,どこでも同じような操作で使えるからです。
unix,XWindow,Mac,NeXT,Windowsと環境をどんどん乗り換えて来ましたが,過去のメイルが読めなくなったら困ります。そういえば大学時代のメイルはMS-DOSのフロッピーにとっていたので,もう読めません。昔のMac WriteやDraw等のファイルもうたぶん読めません。
コンピュータは膨大な文書を溜め込めるといいますが,実はソフトがなくなると以前のドキュメントは読めないか,非常に閲覧性が悪くなります。メイラーもこれまでeudoraとかが流行った時期もありますが,最近はあまり使われなくなりました。最近はThunder Birdを使っている人も多く,Thunder Birdもlinux,Windows,Macといろいろな環境に存在しますが,まぁemacsのバリエーションと歴史にはまだまだ勝てません。あと最近Web Mailが流行ってますが,あれってそのメイルは永遠にサーバ上にあるんでしょうか?
といわけで,わたしはまだまだemacsを使うでしょう。20年前からあるからきっと20年後もある。そういう安心感がわたしにemacsを使わせます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロハス

2009-11-22 13:16:36 | 環境・自然科学
そういえば先日大阪のスーパーホテルに泊まったのですが,ロハスという言葉が中に結構使われていたのが気になりました。「ロハス」…懐かしいな,という感じです。
ロハスってだいぶ前に結構流行ってたけど,なんかイマイチみなくなった言葉です。今日たまたま久しぶりに昔のブックマークからBeGood Cafeのページを覗いたのですが,ここのページにはロハスという言葉は見当たりませんでした。でもこのページにソトコトの名前をそこ飛ぶとロハスの文字はたくさん…。ロハスってまだ死語ってわけじゃないのか…,でもイマイチ拡がってもいないよなぁ…という印象を受けました。
BeGood Cafeはわたしが以前サブカルチャーに傾倒していた頃に気になって何度か行ったことがあります。今見ると,すっかり若者の農業回帰支援の活動になってますね(^^;)。まぁそれはそれでいいとは思いますが,結局こういうところに落ち着いて足が地につくって事なのかなぁ…と思ったりもします。昔はもっと思想面が前面に出ていたというか。当時BeGood Cafeにいくとソトコトが結構絡んでいるという感じで,そこでロハスって文字も見ていたように思います。「ロハス」は商標を取られた…ってことで,その時結構,権利フリーを良とするネットとかのカルチャーの人からはバッシングされたのを記憶してますが,wikipediaをみると,いちおう権利は持ちつつも自由な使用を認めたという形なのね…。だからホテルとかが自分のところのエコへの取り組みを示すのに使ってるのか…。
元々はロハスって言葉はそういう草の根活動的な臭いがあったように思いますが,そういう意味では少し違うものになったのかなぁと思います。「エコ」も今一つ政府とか企業がよろこんで使っていて,それとの差別という形で別の言葉が必要なのかどうかはわかりませんが,BeGoodのページに「持続可能」というキーワードでニュースがピックアップされていて,ちょっとおかしかったです。本来はこれがロハスになるはずだったんだろうけどねぇ…。
ちょっと新しい言葉とか概念を定着させようとして,少し横道にそれたって感じだなぁ…「ロハス」って…とかそんなことを思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

IT時代の音楽

2009-11-19 23:11:25 | 音楽・アート
ネット+ライブ音楽、4つの新潮流」を読んで思ったこと。
今日の様にCDとかを無破壊でコピーできていく現状をみてると音楽パッケージを売ることで十分な対価を得る…っていうのが難しくなってるなとはもう10年以上前から思ってました。これについてはコピープロテクトCDが出来ては無くなったり,ファイル共有の違法性が謡われたり,まぁいろいろ状況の変化はあるのですが,たぶんそれだけじゃなくて,音楽業界は以前の様な金儲けの効率が維持できてないと思います。
そういう中でパッケージで儲けられないなら,生演奏で…というのはたしかちょっと前にブライアンイーノも言っていて,そうなればいいなとは思うのですが,いかんせん会場の広さの制限を考えると一度の演奏で上げられる収入はやっぱりCDのときに比べると少ないのでしょう。でも,一人のミュージシャンで何十人も食べさせるようなモデルじゃなかったら,ライブ演奏をある程度の集客で出来るともしかしたらやっていけるのかもしれない。ただその場合,折角ネットとかが発達している状況とあと,人口が少ない地方へもそういうライブを楽しめるっということを考えると,ネットでライブ配信というのは,価値はあるよね…とも思います。
ただ,現状を考えると,ネットでライブ配信をするための設備は,結構高額で,ライブ会場に来た人でペイできるのか?という懸念があります。あと遠隔でライブを観た人が,自分達が今生で観ているという実感を得られるか?DVDを大画面で観てるくらいの感動しか得られないのではないか?という懸念があります。
というわけで,その辺の障害をどうやってクリアできるのか?たぶんコストの問題はそのうちクリアできるとは思うけど,それだけでこの世界が大きく変わるのか?興味はあります。
100年以上前は音楽を楽しむということはレコードじゃなくて生だったので,それに戻るだけだという考え方も出来ますが,100年前というのは音楽出版とは楽譜だった…ということから,中央のミュージシャンがいけないような地方は地方のミュージシャンが楽譜を見て演奏をしていたわけで,まぁその時代からすると今の音楽ビジネスのあり方もずいぶん変わったなと思います。
まぁそういうのに戻るというより,あたらしいあり方が生まれないと,音楽ビジネスもいろいろ苦しいなと思うわけで,いい形態が生まれることを望みます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無駄と豊かさ

2009-11-17 23:05:48 | 時事
レジデント初期研修用資料さんの「合理化が手にした利益」。合理化が手にした利益は,本来未来の職人を育てるための投資の部分でした…という話。
基本的に書かれていることには賛同します。教育というのは本来無駄なものです。研究だって無駄なもの。博打みたいなものです。現在の高等教育は試験によって生徒を選別して行いますが,それでも優秀な大学や高校からでもオチこぼれは出るし,低い学校からでも億万長者が出ることもあります。研究もしかり。
目に見える利益ばかりをあてにすると将来は育ちません…っていうのは,最近の株式による敵対的買収とかで判っていたのではないですか?。
という内容に対する賛同にくわえて,わたしがちょっと思うことをたすと,そもそも人間の仕事に必要なことってどれくらいあるんでしょう?。すべてを合理化すると,どれだけの雇用が減るんだろう?と思います。
わたしは人間に必要なものは近々では衣食住,将来をくわえると子孫を残し育てること…だと思ってます。ですからそれ以外の人間の行動はある意味無駄です。本を読んだり,音楽を聴いたり,TVをみたり,どこかに遊びに行ったり,車に乗ったり,おしゃれをしたり…全部無駄です。というか第三次産業は全部無駄ですよ。でもその無駄が我々の社会を支えてます。
もちろん経営者にとっては,その無駄もお金を生み出せば無駄ではありません。国にとてもそうかもしれません。でも,その無駄を省こうという姿勢は,更なる無駄を省き,どんどんその無駄というなの人間の豊かさを削り取っていくのでは無いでしょうか?。
ちなみに上記の衣食住,そして生殖,育児…以外は無駄…という観点でいうと,政治なんていうのはもっとも無駄です。虚像みたいなものです。そしてそのなかで権力争いをし,多額のお金を動かすこと自体無駄です。そうであれば,合理化するなら,まずどこかは,お分かりになるでしょう;-p。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方の私立高校事情

2009-11-15 20:27:39 | 社会
私立の高校教員が,国に支援を呼びかけたという話を観て,特に「公立と私立で格差が広がらないように国が責任を取るべきだ」とかいうことをいったとか聞くと,オイオイと突っ込みたくなります。
が,良く観ると熊本じゃないか…。で,このスレッドのコメントで「どこの国でも私立は金持ちが行く学校だよ」とかいうのを見て,ちょっと地方の状況を誤解してる人がいるのかな?と思いちょっとだけ弁解を。
関東の人は私立は金持ちか優秀な人が行き,公立はそうで無い人が行くところだと思ってる場合があるようですが,地方…少なくともわたしが出身した九州とかは違います。九州の場合,鹿児島(ラサール)を除くと各県で一番難しい高校は県立です。その次もその次も公立です。私立はどういう人が行くかというと,公立に落ちた人が行きます。私立に行きたくて私立を受ける人がどれくらいいるか謎です。女子高はあったようにも思いますが。
もちろん私立の方が授業料が高いので,公立の滑り止めとして私立に行けない人もいるので,そういう意味では私立は貧乏な人はいけないのかもしれませんが,金持ちが行くというより,優秀じゃない…もしくは受験に失敗した人が行くところです。
そういう意味でいうと,その地方においては公立に子供をやる親はお金もかからないし子供は優秀,一方私立の親は,お金はかかるし子供は…ということを考えると,単純は費用の問題じゃなくて,根本的に私立というのはコンプレックスがあるんだと思います。
ですから,これで公立が無償とかなると,ますます私立は苦しくなるので何とかしろよ…ってことでしょう。私立をただにしろというよりは,公立の一人勝ちを国が進めるな…と。
でも,これって良く見ると,優秀な学生を集められない私立が悪いともいえます。公立みたいにいろいろと制約があるわけじゃなく自由に教育できる私立なのに,魅力ある学校を作れないのは国ではなく学校にあるわけで…まぁ自己責任だと。自己責任で格差が広がるっていうのは,小泉さん的ですね(笑)。実際東京とかは公立より私立の方がいい高校がたくさんあり,そういうところはそれなりに高校が努力したわけでしょうが,そういう努力をせずに支援を要求する地方の高校って…ていうわけです。
地方に優秀な高校がほとんど無い理由は良くわかりませんが,そもそも優秀な私立の大学が無いので,その附属としての高校もないとか,優秀な学生を育てても県外に出てしまうとか,そういうこともあるのかもしれません。本当は魅力ある私立高校を作るべきなんでしょうが,その努力として学校の設備を良くしたり,制服をカッコよくしたりとか,そういうところでしか努力できなくて,ますますこのスレッドの住人に批判されているのを見ると,少し泣けてくるなぁと思います。
念のために補足するとそういう私立でも優秀な人を集めた特待クラスがあるはずなので,全員が優秀じゃない…ということは無いと思います。優秀な人もいますので,念のため。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過激さと表現

2009-11-14 08:10:16 | 音楽・アート
ちょっとゴシップネタ。
篠山紀信の事務所が捜査されたという話。
「不特定多数が認識できる公共の場所で、全裸の女性モデルを撮影した行為が公然わいせつにあたる可能性がある」という意味がわかりにくいのですが,誰も周りにいなくても,写真を観た人が,「ここはあそこだ」と判ればわいせつになるってことでしょうか?。誰もいない海岸とかで撮影しても,そこがどこかわかればわいせつということなんですかね?。まぁ撮影を見かけた人がいるってなってるので,不特定多数の人が観ていたってことでなのかもしれませんが。
という疑問もあるのですが,それより篠山氏は,そういうところでヌードの撮影をしたというのは,そういう芸風…ってことなんでしょうか?。そういうっていうのは,いわゆる「やばい場所」でヌード撮影をする…という芸風という意味です。反社会というか,やってはいけないというか,インモラルとか過激さが芸風か?と。
なんとなく篠山氏ぐらいにビッグネームな写真家になっても,過激さとかを売りにしなくてはいけないのか?とか思うと,少しがっかりした感じもします。過激さというのは若い芸術家はその表現を良く使いますが,それはオリジナリティとしてというより,既存の作品との差をまず強調することにより,そこから自分の作風を作っていくという場合もありますが,なんか話題づくりとか売込み的な動機も結構あるんではないかと。その過激で話題をさらっても,その先にちゃんとしたオリジナリティが無いと一流にはなれないと思います。篠山氏もこれだけ長い間一線でやっているということはちゃんとしたオリジナリティがあると思うんですけどねぇ…。
そういえば,過激で卑猥なヌードが売りでもあったアラーキーは,日常の写真もよく撮っていてそれが案外彼らしさが出ていて凄いなぁと思うんですよね。この人,人じゃなくて風景を撮っていても,ちょっと淫猥な感じがあって,それが凄いと思います。
個人的には,インモラルな行動で卑猥さや過激さを表現するより,普通の場所で普通の人を撮って,そこに個性を出せるような人の方がわたしは好きです。
まぁ篠山氏の写真はそんなに観て無いからファンの人から反論があるかもしれないし,今回の話も単に捜査を受けただけなので,悪いことをしかの様に書くのは行きすぎだと思いますので,気を悪くした人がいたら申し訳ないです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽出版はどこと手をつなぐべきか?

2009-11-08 22:36:53 | 音楽・アート
ビクターエンターテイメントをコナミに売却か?」というニュースを観て驚きました。わたしの知り合いの中にはひどく憤慨している人もいました。ビクターはとてもいい音楽作品をこれまで出してきているとわたしは思うので,これによって何かが変わることを考えると,少し不安を覚えます。
しかし,売却先の噂がコナミというのを観て,少し音楽出版とメーカの関係というものがもうとっくに変わっているのだろうし,今後はどこと密にやっていくべきなんだろうか?とかとも考えました。
日本のレコード会社はビクターとかソニーとか電気メーカの資本のものが多いです。他にも昔は東芝EMIとかトリオレコードとかいうのもありました。コロンビアとデンオンも資本関係が一時期あった様で。
そもそもこれらのメーカは電気メーカといっても昔はオーディオメーカでした。レコードやラジオなどが主要な商品で,音楽ソフトを扱っていたのは,機器とソフトのシナジー効果を狙ってのことだったのでしょう。しかしいまやビクターも主要製品がオーディオとはとてもいえません。そういう中で音楽出版を持つよりも,もしかしたら別のメーカと組んだほうが,CDとは違う新たな音楽出版形態が発展する可能性もあるのかな?とも思います。
であるなら,電気メーカではなくどこのメーカと音楽出版は組むべきなんでしょう?。一つはコナミという名前が挙がってましたが,ゲームソフトメーカや,ゲーム機器メーカが浮かびます。あとネット配信のことを考えると通信会社やプロバイダというのも浮かびますし,パソコンソフトやパソコンハードメーカも浮かびます。
そういえば,AppleはiTunesの成功で主要な音楽配信業者になりましたが,音楽制作はやらないのでしょうか?。ネットで成功してる会社はソフト制作でも機器販売でもなく,流通をやってる会社の様に思います。amazonしかり。でも流通は誰かが作ったものを,使う誰かに渡すことで儲ける業種で,それ自体は作品を生み出しても消費もして無いのですよね。作る人と消費する人がいなくなったら成り立たない業種です。その分なんでも扱えるのでリスクは少ないのかもしれませんが,文化に貢献するという意味では少し弱いのかな…という気がします。
別にネットビジネスの巨人が音楽出版をすべきというつもりもないのですが,ではこれからの音楽出版はどこと結びつくのがいいんでしょう,とは思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「友人」

2009-11-06 23:33:38 | ココロ
「友人はいません」……私の場合」という文を読んで,元記事「人付き合い - マイボイスコムのネット調査結果」を読む。
うーん,よくわからないのだけど,やっぱりわたしには言葉の定義の問題な気がする。
というか,わたし自身が「友人」というのはどういう人をさすの?と思ってしまいます。マイボイスコムのデータを見ると,むしろ分析の仕方によっては「友人と思う人」というのはどういうコミュニケーションを取る人で…とか判るんじゃないか?という気がしてしまう。そういう分析をすれば面白いのに。
で,わたしの場合,今の自分に友人がいるか?というとやっぱり答えにくいのですが,そういえば,大学くらいのときに「親友は誰々」という風に一人くらいの名前を想定していたことを思い出します。誰でも「親友」と呼ぶのは抵抗がありますが,一人くらい親友というカテゴリーを作っておくと,むしろ「友人」はそれ以外の親しい人,ぐらいになって,結構気軽に挙げられたりする気もします。
でも今は親友と呼べる人がいるって感じもしないし,それにあわせて友人と親しい人を呼んでいいのだろうか?という疑問も浮かんだりします。でも昔と今とで人との距離感が変わったか?というと良くわかりません。まぁ昔はもっと人と実際に良くあったり遊んだりしていたのは事実ですが,そういうことがなくなった現在,友人を失った…という感じはしてません。
わたしは子供の頃から引越しが多かったので幼馴染はいません。そして一人でいてもあまり苦にならない性格だったりします。そういう意味では友人は昔からいなかったのかもしれませんが,学生時代くらいまでは,あまりそうも思わなかったし,まぁ実際よく遊ぶ相手というものはいました。社会人になってネットの知り合いは増えて,実際に会う人もそれなりにいましたが,その人たちが友人というとそうかもしれないし,そうじゃないかも知れない,という感じかなぁ。
ただ,3年前にガンになった時に数人とても頼った人がいます。普段よく会う人とは限らないのだけど…。リンクの調査に「よりどころ」という言葉ありますが,その方々はいざというときに便りしにしたという意味ではよりどころでしょう。そして,その時に同じく思ったのは,やっぱりいざとなるという時に頼りになるのは家族だなとも思いました。ただ,今思うのは家族は友人というよりは自分の一部だなとも思います。
家族と違い友人ということに確証を持つ難しさは,友人とはお互いに友人と思わないといけない…というような感覚があるからじゃ無いでしょうか?無い?。自分が友人と思いたくても相手がそう思って無いかもしれないと思うと友人といいにくい。いつも一緒にいる相手だとそうでもなくても,長く会わないと,まだ相手は自分を友人と思ってるだろうか?とか思うかもしれません。
まぁよくわからないなと思いました。言葉の定義じゃないか?とか,友人という確証よりも,大切な人とか頼りになる人とか,一緒にいると楽しい人とか,そういう風な人が具体的に浮かべばいいようにも思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

温暖化問題という国家覇権争い

2009-11-04 21:17:58 | 時事
一昨日から,急に寒くなり今日は12月並の気温ってことだったらしい。暖房を急に入れたり電気カーペットを敷いたりとかそんな一日だった。天気が良かったのは助かった。
冬に寒くなるのは当たり前だけど,こんなに急に寒くなるのは珍しいな…と思うと,なんでも異常気象は二酸化炭素のせい…とするのが今の流行かな?とか少し思った。
そんな中今日TVを観ていたら,NHKではアメリカでの排出量取引に関する見本市の様子を伝えていた。排出量の基準を満たし,余剰分が出た企業が足りない企業にその余剰分を売ることが出来る…という風になるそうで,そうなるとこれは一種の債権になるとうことなんだろう。とはいえ,見本市にするような見るべきものがあるんだろうか?とどうもわたしは思ってしまうんだけど,見本市に参加する連中のはしゃぐ顔を観ていると,何か見所があったよう…。ただわたしにはそれらの顔が,つまり金儲けのネタがあって喜ぶビジネスマンの顔にしか見えなくて,それってまた金融工学とかいうやつ?と思うと,サブプライムとかデリバティブとかそういうのを産み出したやつか…連想し,またどっかで破綻するんじゃない?とか思う。
日本もどこかのイニシアチブとかで25%とかいうと,やっぱり排出権をどこかから買うのがほとんどになるわけで,そうなるとこの市場に参入するのは売り手じゃなくて,買い手ということになる。いいカモじゃない?…という気もするんだけど,イニシアチブを持っている人は,なにか日本浮上の妙案でもあるんだろうか?。
元々環境問題のはずなのに金融商品の様にされてしまった温暖化問題という意味で,どうもわたしはこの排出権取引というのを素直に妙案だとは思えない。それしか無いだろう?といわれると確かな反論がいえないところが苦しいところなんだけど。
あと,排出権のルールが例によってヨーロッパ主導で作れられているってところにも,ちょっと引っかかるものがある。彼らって,オリンピックとかF1とか観てると,ゲームが自分達に不利になったら強引にルールを変えてくるわけで…同じようなことにならないか心配。
温暖化とか環境問題って,一般市民レベルでは地球と人類の未来のために必要なことだと思うのだと思うのだけど,それを経済と権力にしてしまう人たちがいて,それが温暖化問題になってきてる。排出権は国家間の力の交換になるわけだから,それって覇権争いだよなぁと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする