たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

ベビーカーの迷惑

2010-08-30 22:53:34 | 社会
当事者なんで書きづらいが書きます。ベビーカーで電車、3割が「迷惑」という話について。

確かにベビーカーで電車に乗る人は増えてると思います。ホームで良く見かけます。ただし大型化してるか?というと,ベビーカー自体は多分昔より小さくなってると思います。ただ,電車に乗ってくるサイズは大きくなってるのかも知れません。

3割しか迷惑に思ってない…という風にも取れますし,実際にバスにしても電車にしても,混んでなければ畳んで乗れ…とは言われません。バスはベビーカーの固定場所まで指定されている位です。混んでいれば畳んで乗るのは当然だと思いますが,問題は「混んでいる」というのがどこからか?というのが人によって違うだろうなぁということです。電車もガラガラで入り口あたりにも人が誰もいなかったら,ベビーカーを邪魔と思う人は少ないでしょうが,首都圏でそういう事は稀。一方ラッシュ時は誰がみても混んでいて,ベビーカーを広げて乗るのが非常識なのはわたしもそう思いますし,そもそも危ないのでやりません。

そういうわかりやすい状態じゃなくて,微妙なのが,人を押し退けはしないけど,どいてもらわないと乗れないとか,少しつめてもらえないと,ベビーカーに人が当るって程度。まぁでも電車に数人しか乗ってなくても,入り口に人が立っていれば,どいてもらえないと,乗れないわけで,乗り降り時に「すみません」と人を押し退けるのが,「混んでる」と言われてしまうと,これも困ってしまいます。いや,人間が乗るときだって人を押し退けないと入れないように入り口に立ってる人いるし。

…等といろいろ考えますが,多分どういう風に気を使っても,迷惑と思う人もいるし,逆に親の方も「ずうずうしく混んでても乗ってくる」人もいるでしょうな…ってことで,モラルに期待しても,トラブル自体は無くならないと思います。電車に一ヶ所ある車いす用の場所にも結構人が立っていて,ベビーカーとかが近づけないケースもよくあるし,マナー違反の人をネットで叩いても仕方ないと思います。

余談ですが,地方に行くと,自転車を畳まずに電車に載せるのを正式に許容している路線もあったりして,こういうのは「常識」というのが無いものだと思います。

じゃぁいっそのこと,ルールとして乗物に畳まないでベビーカーを乗り入れることを禁止…にするかというと,まぁ畳む事自体は不可能ではないけど,世知辛いなぁ…とは思います。これ自体が少子化の問題に直結してるとは思わないけど,やっぱり子供は社会の宝だとわたしは思うし,子供を連れた親の大変さは,多分やったこと無い人の想像を越えてると思うし。ベビーカーを載せるスペースがつくれるくらいの混み方なら,載せてもいいんじゃないですかねぇ。

ヨーロッパにいくと,子連れには非常に優しい社会になっていて,「これが普通なのか」とちょっと驚きます。西洋化がなんでもいいとは思わないけど,少子化問題については西洋の方がずっと先輩なのだし,見習うことも多いと思います。

まぁ最初に書いた通りわたしは当事者だから,自分に都合がいいように書いてるだけだろう…と言われると否定はできません。自分の子供が大人になっても,同じ意見を言い続けられるようにしたいとは思いますが。
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信仰とか宗教とか科学とか

2010-08-27 23:23:48 | ココロ
PDFへの直接リンクですが,日本学術会議会長のホメオパシー対してのコメントが発表されました。ネットやメディアでちょっと話題になっていて,例えば毎日ではこの様に報道されてます

ホメオパシーや擬似科学を批判しているネットユーザはこのコメントを読んでホメオパシーが否定された…と喜んでいるようですが,わたしはあまりそういう風には読んでません。毎日の記事も重要な事が抜けています。会長のコメントは「医療関係者がホメオパシーを用いること」「科学として扱うこと」を危惧しており,最後の注釈で「個人で使うのは自由」と書いてます。そういう意味ではちゃんとバランスを考えたコメントになっていると思います。

さて,わたしは以前書きましたが,医療にズルはないということで,ホメオパシーを万能と医療ネグレクトを起こしてしまうことには反対です。ただ一方で,個人がやって効くなら,気持ち良くなるなら,納得するならやればいいと思ってます。プラシーボ効果だから意味がないと批判する人もいますが,プラシーボ効果でも,科学でも,神の力でも効けば意味はあるし,気のせいでも心地好くなれば有用だというのが私の考えです。ただし代替医療で高額のお金を要求するものは,あまり信用できない…というのもわたしの考えなので,その辺は冷静に考えるべきでしょう。

会長のコメントで有効な医療を受ける機会を逸する事が問題と述べているように,医療の機会を逸しないなら,別にホメオパシーと医療と療法やればいいんじゃないか?…という気もしてます。



以前から気になってることで,ネットでは擬似科学を強く批判する声が割とあるのですが,科学的に証明されてないから嘘だとか無意味だとか悪だ…みたいな事を,あたかも勝ち誇ったようにいう人が多い様に思います。ではそういう人に問いたいのは,じゃぁ信じている科学は,それを証明した論文や権威のある実験報告を,ちゃんと読んだことあるんでしょうか?,もしくは自分で実験したことがあるんでしょうか?。もしないのであれば,それは偉い人が言ったから,本に書いてあったから…と盲信してるだけで,それこと科学的態度というより信仰ではないか?という気がします。宇宙がビックバンで始まったと信じている人は,それを観てきたり,証明を読んだりしたのでしょうか?

科学者は擬似科学のような事が起きたときに,それが正しいかどうかを意見レベルで問われたら,非常に慎重に答えます。それは正しいことが証明出来ないと共に,全くの嘘だというのも証明が難しいからです。もしかしたら現代の科学で説明できないことが潜んでるかも知れない…と常に科学者は思いますし,そういうことを思っているから科学の研究ができるわけです。

もう一つ書くと,科学だから良くて非科学だから良くないというのもおかしな態度です。科学者は多分科学が万能だとか殆んど思ってません。海外の科学者の中には宗教を信じている人も結構います。自然科学の科学者は真実を解き明かしたいと思ってますが,一方でものづくりをする人や応用学者は,真実よりも有用であることを重視する人もいます。わけがわからなくても効果があればそれは有用なのです。

わたしは科学にしても宗教にしても哲学にしても擬似科学にしても…,それが自分に役立つのであれば用いればいいと思ってます。ただ自分は科学者でもあるので,自分がいまどの立場で物事を考えているかは意識してます。そして怪しいものかどうかを見分けるのに使うのが一つは上にあげたように「信じることに対して高額(布施や購入費)なお金を要求するか」ということです。そしてもう一つが「排他的であるか?」ということです。

この考えは正しいので他のは嘘です,間違いです…という考えはわたしは怪しいと思ってます。なぜなら,排他的に信じさせるのは強いミームの条件で,これを信じると冷静に物事を判断しにくくなるからです。

そういう意味で言えば,擬似科学はおかしいという科学信仰者にもわたしは賛同できないし,逆にホメオパシーを施術してるから,医療を受けなくてもいい…という人がいれば信用できません。科学も他のものも決して完成されたものではなく,未知への道はまだまだあると思っているからです。道途中では,交わることがないので,体系的には併用できないかもしれませんが,それぞれを有用な風に利用すればいいのです。

こららの原則を常に見失わないこと,そして有用かどうかを常に見つめて思考停止しないこと,これが保たれるだけでもずいぶん健全に利用できると思うのです。
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親を保護する難しさ

2010-08-25 22:24:52 | 社会
夏休みに帰省して親の顔を見てから書こうと思っていた不確認高齢者の件。帰ってきたので,少し書きます。

人を犯罪者扱いするな…と言われそうですが,親が死んでいるのに年金を受け取っていた…という子供らは詐欺だと思うし,死んでいないにしても,どこにいるかわからないという状態でやっぱり年金を受け取っていたという家族も,それに準じるとわたしは思ってます。

100歳以上で自治体が行方を確認できないという人が数十人いるのであれば,65歳以上とか考えたらその数倍…いや,千人以上いるかもしれません。本当にいないのに家族がやっぱり数年以上続けて年金を受け取っていたら,やっぱりおかしなことでしょう。

ただ,ふと思ったのが,今回の確認できない高齢者の家族で年金とか福祉サービスを受け取っていない人もいるんではないだろうか?ということ。いたとした場合,その人は年金目当てじゃなくて,ただ失踪届けや死亡届を出していないだけで,その責任は誰が負うんだろうか?ということです。

TVのインタビューに家族(子供)が親(高齢者)と仲たがいして,その結果高齢者が家を出て行ってそのまま10数年…という話がありました。親が行方不明になって捜索願も失踪届けも出さないのか?とか,とも思いますが,一方でそういう人もいるだろうな…と思います。

親子でぶつかるというと,若い子供と中年壮年の親というイメージがまず先行しますが,こじれたら結構大変なのはむしろ高齢者の親と中年壮年老年の子供の方だろうな…とも思います。というのは,こうなってくるとむしろ親の方が保護されるのですが,親ということもあり子供のいうことを今更聞かない場合も多い,人間関係というのは,そう簡単に切り替わるものではないだろうと思うのです。また伝統的なイメージでは歳をとると無欲になり人が良くなるというものが強いですが,実際は人間は歳をとるとあくが強くなる人も結構多い様に思います。根がいい人はかえってよくなるかも知れませんが,若い時代に抑圧されていた,どこか悪いところが表層化してくる場合も多い様に思います。歳をとり社会的にリタイアすると出世や組織のために遠慮をする必要が無くなる場合もあるでしょうし,そうではなく,寿命が近くなり精神的にも身体的にも,いろいろ我慢するのが嫌になるというのもあるかもしれません。また,もしかしたら脳の機能的にそういう部分が低下するとかもあるかもしれません。老人じゃなくても歳をとるとあくが強くなる人は中年くらいから結構強くなる気もします。

そういう社会性が低下し,それなのに保護をするのはかって自分が保護していた子供という関係であれば,こじれると,いい親子関係を築けず,手を焼く人…になってしまっているかもしれません。

そういう中,仲たがいして親が子の元を去ってしまったら,「あぁ助かった」と思う子供がいても不思議はありません。まともな感覚なら,自分が知らないところでよそ様に迷惑をかけてないか…とか,それで自分にとばっちりがこないかとか心配するのでしょうが,そういう最悪な事態から目を背けて…という人もいるかもしれません。案外人は最悪な事態を考えないようにして,「なんとなく世の中自分に都合がいいように回っていたらいいな」と思っている人は多い様に思います。



わたしは高齢者に比較的きつい考え方をしますが,それはその分保護者たる子供がある程度の責任を負うべきだと思っているからです。だからと言って老人虐待がいいとは思ってなくて,不自由を強いる代わりに,きちんと最後まで面倒を見るべきだとも思います。そして出来れば,高齢者自身もそれを自覚して欲しいと思います。

昔は極楽に行くために善行して欲しいとも言えたのかもしれませんが,今は,そういうことを言う坊さんもいないし,子供から親にそういうことは言えません。ただ自分も含めてそれは真実だとも思います。死後に行き続けるというのは,遺族の記憶の中に…ってことなので,いい思い出を残せないということは成仏できないということです。また子供の方も親を大事にして無いと,自分が老人になった時に,自分も子供に同じように扱われてしまいます。

親の失踪から目を背けて捜索しなかった子供らは,自分が高齢者になった時にどうするんだろうな?とも思います。そういう人がいても不思議じゃないとは思いますが,それがいいことだとは思いません。

今回も実家の親を観て,いろいろと頭が痛いこともありましたが,これも向かい合わないといけないことだとあらためて思いました。
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勉強の好き嫌いは社会に役立つとかいう視点と関係ないような気もする

2010-08-13 09:36:55 | ココロ
内田先生が英語が役に立つと言われると英語嫌いがもっと増えるだろうと言ってる件。なんか目から鱗…というかおもしろいなと思いました。つまり,役に立つと学校が子供に教えると子供がその勉強を嫌いになるよ…っていう指摘がです。

おもしろいなぁと思ったのですが,実はわたしの実感とは合いません。わたしは英語がずいぶん苦手で,今でもあまり得意ではありませんが,英語が役に立つと教えられた記憶はありません。

ということでわたしの昔話(笑)。

将来役に立つというと将来のイメージが幼少時にどうあるか?ってことですが,わたしの場合,小学校の高学年(6年とか)の時は天文学者になりたいと思ってました。中学に入ってからはパイロットになりたいと思ってました。良く考えると,これらは英語が必須な職業ですが,そんなこと当時考えたことありません。ついでに書くと中学までは英語はちゃんと点数とれてました。好きだったか?と言われると多分違いますが。

高校に入って音楽に熱中するとパイロットは諦めました。で,何になりたかった?というと,あまりはっきりとした記憶がないのですが,受験の頃は楽器作りとかレコーディングエンジニアとかそんなことをやりたいと思っていたような気がします。まぁ英語はそこまで重要じゃないですよね。で,関係は無いと思いますが高校で英語が苦手になりまし。

それから大学に入って,その後就職して,ずっと英語は苦手ですが,なぜか40歳を越えて,以前よりは英語が聞き取れるようになりました。

英語がなぜ苦手だったか?というと良くわかりません。わたは国語も苦手だったので,そもそも語学の理解力が低いのだと思います。理科や数学は得意で,地理や世界史は苦手だったので,暗記力が重要な科目は苦手なのです。それは今でもそうで,記憶は機械に任せる様にしてます。

思うに英語って成果が見えるまでにとても時間がかかるので,自分は楽しくやれなかったんだろうな…と思います。中学までの英語は単語もだいたいおぼえられたので,テストの点数は取れてましたが,高校になるともうついていけませんでした。数学や理科も暗記が必要というかも知れませんが。高校物理で暗記が必要な公式なんて多分100個ぐらいしかありません。理解できていれば暗記は簡単です。それに100個おぼえてなくても20個ぐらいおぼえていれば,テストの2,3問は回答できます。英語は,単文ならともかく,長文の読解なんて,物凄く単語をおぼえて,文法をおぼえて,やっと2,3問の問いに答えられるだけです。文章に50単語ぐらいしか出てこなくても,多分200単語ぐらいのストックがないと,ダメでしょう。この辺が,暗記が苦手で気が短いわたしには向いてませんでした。ちなみに国語も長文を読んで,2,3問しか答えられない…というのが,嫌でした。

社会人になってだんだん英語が扱えるようになったのは,差し迫って…っていうのもあるのですが,実際に英会話に言ったり,海外旅行をしたり,という実践をやっているうちに,実はおぼえておけばいい単語はそんなにたくさん無い…と思うようになったからです(ただし英語は単語力があればあるほど実は簡単というのも事実。実は文法の方がどうでもいい)。知識として,名詞と動詞だけ拾えたら,そこそこの意味はわかる…というのもわかりました。日本語に直さず,英語のまま雰囲気で意味を理解する…という事も出来るようになると,ますます英語は使えるようになります。

そういう自分の経験を省みると,英語は社会に出て役に立つ…といわれたから英語が嫌いになったわけでもないし,それで一生懸命やるわけでもない。学習する喜びが学習時に得られないことが,勉強嫌いになる原因のような気がします。テストの点数がとれなくても,勉強の見返りがすぐにあれば,それなりに楽しいんじゃないか?とも思いますが違うんでしょうか?。そういえばわたしは高校の時から日本史が好きになりましたが,それは仏像とかが好きになったからです。

というわけで,私の経験からすると,英語を好きにしたかったら,英語を習い初めて早々に役に立つ場を経験させること。もちろん中学生で出世もないですから(笑),外国人とのコミュニケーションでもいいし,なにか重要な外国の文を読める様なるでもいいかも知れません。外国の歌を理解するでもいいでしょう。あと,全てを理解できなくても「×」をつけないこと。一つや二つ意味がわからない単語があるだけで「×」がついてしまったら,勉強をやる気が湧きません。なんとなく意味がわかればいいのです。日本語の会話だって,意味がわからなくても,それなりにコミュニケーションとれるでしょう。そういう意味では勉強の採点は減点式じゃなくて加算式の方がいいんだろうな…と思います。

この事は,別に英語に限りません。数学や理科だって,工作だって,ちょっと習えば何かを習得できた…という実感が勉強を好きにさせるのだと思います。
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男の価値の虚しさ

2010-08-11 22:39:05 | ココロ
男と年寄りに厳しいことを書いてみます。一応本当に思ってることなんですが…。

わたしは人間も大きくは生物の範疇だと思ってます。そして進化論を信じてます。ですから,人間=生物の価値というのは,ある側面でいうと遺伝子を残すこと…だと思ってます。

言い換えると人間の主たる目的は子供を残すことです。子供を残し,その子供が更に子供を残すことです。その物差しで考えると,一番偉いのは多分母親です。もちろん母親だけでは子供は産まれませんので父親にも価値がありますが,父親は受精したらその後は不要です(苦笑)。まぁあちこちに種を巻く男もいますが,いつかはその価値は無くなります。

もちろん母親だって産んで,授乳して,それが終われば,男とあまり変わりません。ただし,人間の子供は乳離れしても一人では生きていけないので,大人が面倒を見る必要があります。ここで父親が子育てに積極的に関われば,母親と同じ価値を持ちます。

ですが,人間社会は乳児の時に子育てが母親が得意だからかも知れませんが,大抵の社会で子育ては女性が重点的に行い,男性はそれを経済的に支えるという役割を演じてきてます。経済的というのは,農業や狩猟も含みます。安定して衣食住を供給できる様にすることにより,自分の子供を無事育てるという役割になります。

ということはいうまでもなく,これらをやらない父親は生物として価値が無い…ということになります;-p。

人間が生きてる社会は十分に食糧が得られる南の島とかは,そういう理由で男性の地位が低いのですが,自然が厳しい北の方にいくほど男性の地位が高くなります。というか,威張ってます。というのは,自然が厳しいので人間がある程度団結して,開拓をしたり,戦争をして他の領土を取ったりしてないと,十分に子供をまかなえるだけの衣食住が手に入らず,子育てをせず,体格もある男性が,それらを行う様になりました。そしてその団結の中で,男性の地位が向上するわけです。女性や子供からすると,男性社会が無いと暮していけない状態になってるわけですし,その社会の中で地位が高い男の方が,安定して衣食住が得られるので,もてるわけです。

団結する…というのは社会システムをつくるということです。システムがだんだん複雑になり,衣食住という本来の目的が見えにくくなり,徐々にシステムの中で地位を得る自体が,偉いということになってしまいました。それが現代社会です。でも,根本に戻ってみると,男性社会がなぜあって,そこで偉い人がなぜ偉いかというと,自分の子供を優位な環境で育てられるから…ではないでしょうか?。また多くの子供を育てる経済力があるからではないでしょうか。もし社会で偉い人が,自分の家庭を省みなかったり,子供を大事に育ててなかったりしたら,それは手段が目的になっているってことで,単に偉いと勘違いしているだけでしょう。

さて,こう考えると,男性の価値は子供が巣立って行けば無くなります。孫の面倒を見たり,子供へ経済的な支援が出来れば,それでも価値はあるかも知れません。経済支援も出来なくなれば,過去にどういう業績があろうが,そんなの人間としての価値には意味がない…とわたしは思います。

さて,ちょっと話を変えて,コンビニの客として態度が悪いのは金持ってそうなオッサンとジイさんらしいです。リンクした文以外にも,ジイさんがとある業種の人を
見下したとか,そんな話は良く聞きます。

でも,わたしはこういう話を聞くと,怒りよりも,そのおじさんやおじいさん達は,多分自分達の価値が低いことを感じていて,それを払拭するために,誰かを卑下しないとやってられないのだろうな…とも思います。本当に自信があるのであれば,人には優しくなるはずです。

上の論理によると子育てが終わったおじさんには価値がありません。金を持っていて,子供達にあげていれば価値はありますが,まぁ今時,金をあげて子供に尊敬されるっていう親や爺さんがどれくらいいるのでしょうか?。会社を辞めたら,もう部下も慕ってはくれません。社会のシステムなんて子育てに比べたら一手段にしか過ぎないからです。これで年金とか医療費とかで若者へ負担をかけていたら,ますます尊敬されるはずがありません。

自分に自信が無い人は,人を貶めようとします。だから,店員や他の業種に悪態をつく人は非常にわかりやすい。

もし,子供も巣立って,仕事も辞めて年金生活になって,それでも人に尊敬されたい,価値を認めて欲しい…と思うのであればどうすればいいのでしょう。それは,若い人や子供達に慕われて,尊敬されるような生き方を手本として見せることです。歳をとったら自分の遺伝子はこれ以上増やせませんが,次の世代に記憶を残すことは出来ます。手本を示して,それが伝われば自分の記憶が後世に伝わっていくということになります。

どういう生き方かはたくさんあるでしょう。わたしが時々「品」と書いてるのを生きざまで見せるという手もあります。知識を伝えるという手もあります。人の暖かみを教えるということもあります。楽しい遊びを教えて子供の世界を広げてあげてもいいでしょう。考えてみてください。幾らでもあります。

他人を見下し威張ることは,自分がいやなやつだったという記憶が世界に残るだけです。そんなことでいいんでしょうか?。
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伝えたいこと

2010-08-10 22:07:28 | 歴史
先週は広島の原爆記念日の式典に国連の事務総長とか,アメリカの駐日大使が出席した…ということで,少しいつもとは違った話題になっていた気がします。そしてその大使の出席をエノラ・ゲイの機長の息子が批難したというニュースは,まぁその人の立場ではそうなんだろうな…というポジショントーク的な印象も持ったのですが,ふと,そもそも日本がなぜ原爆記念日をやっているかを,多くのアメリカ人は理解して無いんじゃないか?と言う気がしたので,少し書いてみます。まぁわたしの思い過ごしかもしれませんが。

一番思ったのは,もしかたらアメリカ人は原爆記念日を,アメリカが原爆を落としたのを批難する日と思ってないか?ということです。そうであれば,大使や事務総長が出席する事にいろいろ声が挙がるのもわかります。ただ,確かに原爆落としたアメリカを批判したい人はそれなりにいるのかもしれませんが,多くの日本人の感覚は,原爆の悲惨さを戦後の日本に,そして世界に訴えて,核兵器を世界からなくしたい…というのが,原爆記念日の主旨だと思います。そこを理解されてるのでしょうか。

日本は戦争に負けて,その後ずっと親米を貫いていることから,戦争中の日本人への悲劇は,アメリカに対してよりも,戦時中の日本への批判や反省という形で伝えられてることが多いです。もちろんそれはそれで少しおかしな話かもしれないし,実際ケバラとかは原爆記念館を見てなぜ日本はアメリカに怒らないのか?といったそうですが,まぁ日本はそういう国なのです。

ですから,おそらくほとんどの日本人は原爆を使っていけない兵器だと思ってますが,エノラ・ゲイの機長に批判の矛先を向けている人はいないんじゃないか?という気がしてます。ただ,アメリカではエノラ・ゲイの機長は英雄扱いになってるのかもしれません。だからその子供が英雄扱いがなくなるのを認められないのかもしれないなと思いました。

もう一つ思ったのは,やっぱりアメリカ人は原爆をただの強力爆弾と思ってるんだろうな…ということ。その後遺症や無差別殺人性を理解してる人は少ないし,実際報道されて無いんだろうなということです。だから,日本人が原爆の今後の使用をやめてほしいという気持ちが判らないのでしょう。わたしは原爆が日本に落とされたから批判してるのではなくて,原爆が使うべき兵器じゃないと思うから,それを世界に訴えるべきだと思ってます。たぶん原爆の恐ろしさが理解されて無い。原爆が怖いのはその後遺症が数十年も人を苦しめるからです。わたしは9.11テロの現場をグランド・ゼロ(爆心地)と呼ぶことに凄く抵抗があるのですが,それは,怒られることを覚悟して書けば,9.11は原爆に比べれは悲惨さはかなり低いと思うのです。9.11テロの現場をグランド・ゼロと呼ぶのを聞くたびに,原爆の悲惨さは9.11と同じくらいと思ってるんだろうな…と感じて凄くいやな気持ちになります。

わたしは,日本の都市に落ちた二発の原爆が,どういう被害をもたらしたか,それがいつまで続いた(続いているか)を,核兵器を持っている国の人たちすべてに知ってほしいと思います。別に過去に落としたことの是非を問おうと思っているわけではありません。知っていて,それでも,核兵器を落としたのが正解だったのかとか,今後も必要だとかいうのであれば,それはその人の考えです。未来については,別の場で議論すればよいと思います。ただ多分ほとんどの外国の人は自分達の持っている武器が何をもたらしてるかを知らないんだろうな…と今回の原爆式典に関わる意見を読んでいても思いました。
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実は失敗だった?こと

2010-08-09 22:35:50 | 社会
タブーかも知れないなぁ,と思いつつ書いてみる。

社会が近代化,現代化して良かれと思って進んだ・進んでいる事で,実は弊害が多くて,間違いだったではないか?と思うことが結構ある気がします。工業化とかは,とっくに負の側面をみんなが認識してるけど,家族の在り方とか社会福祉の在り方…も実はそういうことあるんじゃないか?という気がします。

一つは以前も書いたけど,核家族化。子供は親の面倒を見なくて良いし,住むところも自由になって,就職して上京とかしやすくなった…というメリットを今の人は享受してると思うけど,一方で,家族のつながりの希薄化,子供の面倒を親だけで見なくてはいけなくなる,老人の独り暮らし,孤独死…とかいうのは,核家族がこんなに進まなかったら,もっと少なかったんだろうな…と思う。

核家族と合わせてだけど年金制度。これも子供が親の面倒を見なくていいかわりに,お金を納めて,あとでもらう…というものとも言える。いや多分,みんな納めた金をもらうと思ってるけど,実質は国の年寄りへの仕送をやってるようなものだと思う。長生きすれば払った額以上にもらえる。年金制度の問題は財政的な面で語られるけど,それ以前に家族の在り方の方に悪い影響も与えてる気がする。

年金制度と核家族は多分同じ思想で,子供にとっては親からの自由,老人側はリタイヤしても生きていける,という国民側のメリットと,一方で労働力を自由に確保しやすいという国や企業の利害が一致した結果だと思う。ただ,核家族は一人働き,もう一人は専業主婦でも十分に経済的にやっていけるという前提の場合はともかく,女性が更に妻や母(のみ)であることから開放されたいとか,その結果女性の社会進出が進み,実際は育児方面に支障がでて,結果少子化に繋がっている。

少子化になると今度は年金を支える若い労働力が不足して,今度は老齢者の年金や医療が問題になる…という悪循環に入ってる気がします。

わたしは幼児虐待,老人の孤独死,行方不明,高齢者医療問題…というのは結局は根は同じところにある気がしていて,核家族化し世帯の移動が激しくなり,それにより地域社会のつながりが希薄なって,若い育児世帯は助けを請う人もいなくて…というのが根本のような気がしてます。そして核家族を制度として支えてるのは年金制度や高齢者福祉なのだと思います。

先日も書いたけど,少子化だとか,子育てが大変だとか,子供を産んでも得なことがない…とかいう人がいるけど,年金もなくて高齢者の福祉も充実してなかったら,自分で貯金をひたすらするか,子供を育てて面倒を見てもらうしかありません。貯金というけど,お金の価値が不安定とか,貯蓄保証が無い時代に,老後の資金を自分のお金で保証するなんていうのは,無理…という気もします。そうなると子供に面倒を見てもらうのが一番。子供の面倒を見たり,教育が大変とか言うけど,子供が親を見捨てなかったり,それなりに稼ぐようになるには,それなりに子供を大事にしっかりと育てないといけないし,また一人だと不安だから数人産んで育てて…ということになる。日本近郊の某途上国とか,子供の教育に熱心な国が多いけど,多分国の社会保障があてにならない場合はそうならざるを得ないのだと思うし,結果的にそこで優秀な子供が育つ。

そういう,子供に親(親戚)の過剰な期待を背負わせる…ってやり方は古くさく,子供の自由を迫害するし,…ってことで,先進国では無くなって,変わりに社会保障を脹らませてる…って事なんだろうけど,先進国でやってるからといって,正しいやり方なのかはわからない。

もう一つ,最近思ったのが,個人情報保護というのももしかしたら間違いなのかも知れないな…といういこと。もちろん,概念自体を間違っているとは言わないけど,多分運用面で悪い点がでてきていることも事実。地域社会のつながりの希薄さが,個人情報の保護を必要とし,さらにその保護が希薄さに拍車をかけていて,なんか悪循環になっている気はする。

まとめるとつまりは,近代化現代化…というのは,社会(国)に対し直接個人がさらされる事であり,前時代にあった家族や地域社会が無くなっていく事…っていうのは良く言われるけど,まさにその通りになっている。親の替わりに社会(国),子供の替わりに社会(国)って事なんだろうけど,子供が次々に産まれてこないと,成り立たない社会でもある。突き進めると多分,子供は産まれたときから国が全て面倒を見る,育児教育さえも…って事になるのだけど,それって,とても恐ろしい社会じゃないのか?…という気がする。

行き着くところが恐ろしい社会なら,そっちに向かっている今の方向も正しいのか?,そこまで行かなくて中庸だったらいいのか?,でも中庸だからうまく行ってないのではないか?という気もして,実は最初から間違いだった…とかいうこと無い?とか,ふと思う。
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音楽への触れ方と時代の変化

2010-08-08 21:53:51 | 音楽・アート
「CD」が残っても「音楽配信」が普及しなくても、レコード産業が持つかどうかはわからない』というのを読んだ。CDから音楽配信になろうがなりまいが,全体の売り上げは下がっているとの事。わたしの経験からは,まぁそうでしょう。そもそもレコード会社は売り上げが上がると思って音楽配信を始めたのではなく,仕方なく始めたのですから。シングルの売り上げが上がってるというのは,興味深かったけど,まぁ一曲単位で買ったほうが安いからってことでしょう。あとYoutubeね。Youtubeは著作権料を払ってはいると思うんですが,その契約のあり方は,今後も変わらないのでしょうか。

ちょっと整理しようと思ったのは,わたしが子供の頃,例えば30年前は音楽の聴くというと,(1)レコード(EP,LP,カセット)を買うこと,(2)コンサートに行くこと,そして(3)ラジオを聴くことでした。周辺として,レンタルLPを借りる,ラジオを録音する,カラオケ(を聴く,歌う)というのがありました。大体これくらいでしょうか。今に比べれば種類が少なくて判りやすいです。最初にあげた三分類は(1)パーソナル・オンデマンド(選んで聴く),(2)生演奏,(3)ブロードキャスト・自動的に選んでくれると割りと綺麗に分かれてました。周辺としてあげたレンタルは(1)の付随,エアチェックは(3)を(1)に変換するということです。

…で音楽配信。これは基本的には(1)です。音楽ビジネスが傾いていると言っても傾いているのは(1)の部分では無いでしょうか?。もちろんここが一番売り上げ規模が大きいんでしょうけど。(2)の生演奏が,ITの発達で増えたとか減ったとか言う話はあまり聴きません。(3)のラジオはリスナーが減ってるというような噂も聴こえてましたが,最近はネットラジオとうまく融合できてるという話も聴こえてきます。

現在の状況を書くと上の番号と同じ分類では(1)CD,音楽配信,ファイル共有,Youtube,ゲームソフト(2)コンサート・ライブ,(3)ラジオ,ネットラジオ,ストリーム,となるのでしょうか。あとストリームはタイムシフトの機能もあって,これは以前は無かった音楽の聴き方になります。

こうやって書いても,売り上げが下がっているのも多様化して,販売効率が下がってるのも(1)の部分であり,他の方が悪くなってるのかは,今のところ良くわかりません。

というわけで,以前から気になってる,CDが売れないから音楽という文化の危機…という言い方は,(1)が滅びるだけじゃないか?という気もしてます。もちろん(1)の市場が音楽表現というのを支えていたということは否定できませんが,(2)や(3)が主体になっても,リスナーは音楽に触れることは出来るでしょう。食べられる音楽家の数は変わるかも知れませんし,音楽に触れる機会も減るのかもしれませんが,…というか本当に機会も減るのかな?,減ってるのかな?という気はします。

書いていて思ったのは(1)~(3)以外の形態があまり出てきてない,技術が発達しても音楽への触れ方が変わってなければ,そりゃー市場も縮小するよねという気もします。というわけでちょっとタイムシフトの機能が,新しい音楽の触れ方を変えないか?という気はしてます。それ以外にも新しい音楽への触れ方が現れるといいな…と思うのですが。
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子供を持つ…ということについて思うこと色々

2010-08-07 00:55:44 | 時事
大阪で起きた育児放棄,死体遺棄の件。いろいろネットでもメディアでも騒がれていて,情報はいろいろ聞えて来ます。でも,それについて何か整理された意見を書くのは難しいです。ですから少し断片的に頭に浮かんだことを,まとまり無く書いてみます。

自分は一児の乳児の父親だけど…,だから,こういう事件の情景が報道される度にとても辛い。目も耳も塞ぎたくなります。冷静に考えられない。それもありこういう事件に整理された意見を持つのがとても難しいです。

だから今回の親のことも,冷静に意見は言えません。

ただ,個々の事件を見て社会を語るのは,今回の場合は違うんではないか?という気はしました。

親が経済的に困窮していたので,こうなったとか,生活保護を受けていれば…という意見をネットで見ましたが,それは違うんではないか?という気はします。

経済的に余裕があっても子育ては大変なもの。自分は喜びを感じるから続けられるけど,そうで無い人がいてもおかしくないとは思います。

自分の場合,子供がなくと辛い,子供が笑うと嬉しい…というのは本能レベルで刷り込まれているな…とは思いました。

人間は人間社会の中で最後に残った「自然」とは養老先生の言葉ですが,子供はその「自然」としては最たるもの。そこがおもしろいところでもあるのだけど,つまり自然とは「思い通りにならない」もの。今の社会のように何でも思い通りになる…というのに慣れてると,ギャップは凄いんだろうなと。

わたしはそのギャップが楽しいと思えます。思えない人もいるでしょう。

少子化・核家族が進んだ現代,子育てのイメージを持てずに親になる人は多いだろうな…とは思います。

育児放棄が昔はなかったかというとそんなことはありません。昔だって子育てをしない親はいただろうし,子供を捨てるというのもそれなりにあったろうし,多分その結果,子供が死ぬこともよくありました。口減らし…などをやってた時代もあります。

今の社会でちょっと問題かな?…と思うのは,普通に子供を育てている人以外が見えにくい。もちろん,躾がうまく行ってない人や,子供を里子に出している…とかいう人もいるだろうけど,やっぱり見えにくい。外国だといるような子供の浮浪者など皆無。子供にドロボウをさせている親とかも見えません。

うちの実家の近くにはいわゆる親がいない子供を育てている施設があったけど,やはり普通は見かけません。

問題とおもう理由は,理想的な育児しか見えてないと,それにはまれ無い人が,いきなり極端なところにはみ出してしまう可能性が高いと思うからです。また問題がある家庭が外部から隠蔽されてしまうだろうと思うから。

社会がやるとしたら,子育てできない親を経済的に支援するよりも,そういう親から子供を引き離しても十分に育てられるようなシステムをつくる方だと思います。少子化が問題なのであれば,少なくとも社会が子供を育てるという意識が必要。問題がある親から子供を引き離す権限ももっと強くても良いと思います。

ネットを見ていたら,「親にならない権利」という言葉があって,なるほど…と思いました。でも事前に親にならない権利は,たしかにあるけど,現状,子供を一旦持ったら,途中で「やっぱりその権利を行使します」…とは言えません。だから育てられ無い人が…追い詰められる。

今の社会子供を持つメリットがない…と言う人も多いけど,わたしはそうは思いません。そういう人は,日本の社会保障を信じてるんだねぇ…と羨ましくなります。お金持ちなのかも知れないけど,金があれば死ぬまで安心…と思うんでしょうか。

わたしは子供を持つのが楽しそうと子供を持つ前に思ったけど,それ以外に,老後に対する不安もありました。自分が死んだ後に,自分をおぼえている人が誰もいない…というのも嫌だと思いました。

自分の子供がきちんと育つかどうかわからないし,将来,わたしとぶつかって,面倒を見てくれないかも知れないけど,でもそれは自分の責任であり,頑張れば返ってくる分,社会よりもよっぽど信用できる。…とわたしは思っています。

そういう意味では,多分他人の子供でも,社会がきちんと面倒を見れば,社会に還元されると思うんですけどね。少なくとも親にお金を渡して「かってに育ててね」じゃないと思います。

この様な悲劇に合う子供が一人でも減って欲しいと思います。だからこそ,あまり極端な例に囚われずに,不幸な子供を減らすための意識作りやシステムつくり,そして協力が必要なんだと思います。
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消費者の品

2010-08-05 22:23:30 | 社会
ネットで話題になっていたネット販売の値段を元に量販店を値切って断れた話を読んで,ちょっと嫌な気持ちになったので,その事を書きます。

リンクは読んでの通り,大型TVを買うために量販店に言って,店員からいろいろアドバイスをもらって,その後に値段交渉をして,ずいぶん譲与を引き出し,最後に価格comの最安値を見せ,それより安くしろと言ったが断られたので,通販で買いました…という話。読んで思ったのは,この人,「品」がないなということです。もちろんこの人がやったことは,商契約上何の問題もありません。社会的にも問題はありません。でも金持ちがやるような事ではないように思います。

書いた人がどういう人かは知らないので,金持ちじゃないのかも知れませんが,タワーマンションに住んで大理石式のエントランスのあるとわざわざ書いているので,金持ちか,金持ちであることを訴えたい人なのでは?と類推します。まぁ本当の金持ちはわざわざ「大理石」…とか書かないとも思いますが…,金持ち気取るなら,もう少し金持ちらしい振る舞いをしたら?…と思いました。余談ですが,この方,エントランスに置かれた大型TV…どうやって部屋に運んだんでしょう?…。

…戻りますが,品がないな…と思ったのは,この人は実際に量販店で店員から製品のアドバイスを受けたり,多分実物を触ったりして,お店のサービスを受けている点です。受けておきながら,最後に,そういうサービスがない通販と同じ価格を要求し,ダメだったら,そのサービスへの感謝を踏み倒している点。これだとまるで百貨店の地下でただの試食を食べ歩いて,商品を買わないのと同じです。そしてそれだけ店員の時間を拘束し,3万円をケチる点です。経済について語る人なら,店員の稼働にコストがかかっていることはわかるでしょう。値引き交渉をするなら,最初から価格comの最安値を見せて,目標価格を示していたら,おそらく店員も時間をかけて相手をしなかったでしょう。散々付き合わせた挙げ句に,断ってます。文章を見るとまるでゲームを楽しんでいるようにも見えます。

一番気に入らないのが,こういうことをやっておいて,自分は悪びれたり,明確な自慢をするのではなく,なぜか自分も被害者のように書いているところ。なんじゃそりゃ?

わたしは金持ちは社会に対して,貢献をすべきだと思ってます。自分が金銭的にはある程度は損をしようが,安い店よりも,あって欲しい店からものを買うべきではないでしょうか?。確かにそれは量販店じゃなくて,本当は町の電気屋さんの様な気がしますが,通販じゃないでしょう。でもこの人は最後に「僕たちの生活は毎年少しずつ便利になっている」って書いてるので,通販だけの社会が便利な社会と思ってるんでしょうか。

わたしはそうは思いません。結果的に通販しかない社会は,現品に触ることができない,店員の顔が見えない等,そんなにいい社会じゃないと思います。今はいいかも知れませんが,歳をとってから通販でものなんか買っていたら,いい詐欺のえじきになるような気がするけど,自分は絶対にそうならないという自信があるんでしょうか?あと,気づいてるのかわかりませんが,TVは自分で粗大ゴミに出すことも出来ません。うりっぱなしの通販で買って処分するときのコストは計算に入れているんでしょうか?

わたしは本当は量販店よりも町の電気屋もそうですし,それ以外の商店も自分が住んでいるところの近くで,お店の人の顔が見える…,そういう店舗が残るべきだと思ってます。そのために多少の価格が高いのは仕方ないと思います。だからわたしは,自分があって欲しい…と思う店舗にお金を払います。もちろん経済的にいつもそういうことが可能なわけではありません。10円でも安い店で買うこともあります。ただ,安いだけで毎回異なるお店で買っていたら,お店もお金でしかサービスしてくれなくなります。お店を育て企業を育てることも消費者の責任であり,それに大きく貢献できることが経済的に余裕がある人の務めだと思います。
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