たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

サービスを受けるということ

2013-04-12 08:33:59 | 社会
そんなに頻繁ではないのですが,たまに家族で食事などに出かけることがあります。うちには0歳と三歳児がいるので,彼らも連れて行くことになります。まぁファーストフードみたいなところから,普通のレストラン,そして個室のあるレストランまでさまざまです。

ですが,基本的に小さい子がいるので,いろいろと気を使っていただくことになります。いろんな店に行くので,対応はさまざまですが,基本的にはお店はにこやかに対応してくれます。声をかけてくれるだけのところもありますが,子供用の食器や椅子を出してくれるところ,また子供を寝かせるところを用意しくれたり,子供用におもちゃを出してくれるところもあります。もちろん,後半に書いたのは結構値が張るお店です(^^;)。

昨今,お客がサービス業に過剰にサービスを要求する…といわれていますが,今挙げたような話は,ほとんどこちらから何も言わずに向こうからやってくれたことです。もちろん子連れ歓迎の店に行っていたり,予約をするときに乳幼児がいることを伝えていて,それで受け付けてくれてるからでしょうが。

もちろん,こちらはそういうサービスに対して感謝の意を表します。もしかしたらお店によっては何かしらサービス料を取っているかもしれませんが,そうでないところがほとんどだと思います。ですから,こちらは頭を下げて,感謝をします。

よく聞く過剰にサービスを要求する…というの話は,客がお店に対して,何かを要求するときに無理を言ったり,もしくはクレームをつけたりする話のような気がします。でも自分はそういうことをやりませんが,それでもお店から十分なサービスを受けていると感じています。

つまりサービスを受けるというのは,相手が困ることを自分のためにやらせる…ということではなくて,相手が自分にサービスをしたいと思わせることではないか?と思います。そうすればお互いにいい気持ちでサービスを受けられます。ですが,どうも世の中には無理を言うことがサービスを受けることだ…と思ってる人もいるようですね…。
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新幹線という値上げ

2013-02-06 05:47:54 | 社会
先日九州にいったのですが,その際にJRのダイヤとか料金とかを調べて思ったことを。まぁメモがわりというか。

ずいぶん以前の日記には書いているような気がしますが,私はずっと九州新幹線に対しては反対してました。理由は新幹線が通ると在来線が不便になり,結果的に新幹線に乗らざるを得ないので値上げになるから…です。それは東海道とか山陽線に乗ったときに普通列車しか走ってなく,100キロ程度の移動が結構面倒に思った経験から来てます。

私の実家は熊本でよく使うのは博多・熊本間だからというのもあるのですが,これまでのJRの在来線特急であれば,正規料金は3500円強。ただし,九州には2枚切符というのがあり,2枚で買うと4500円程度で買えました。つまり1枚2000円強。

これは熊本・福岡間は西鉄という私鉄,高速バスと選択肢が多いため,競争が激しいので,JRも値下げをしているのです。高速バスは確か片道2200円くらいでした。

で,在来特急だと時間は一時間半程度,高速バスは混雑によりますが2時間程度です。これが普通列車になると3時間じゃつきません。かなり遠いです。まぁ学生時代は結構普通列車と西鉄という組み合わせを使ってましたが。これだと1500円くらいだったかなぁ。

ちょっと整理すると在来特急は実質2000円強で1時間半で熊本から博多にいけるわけです。

さて新幹線。熊本博多間は正規料金は5000円弱。2枚切符だと7000円なので3500円になりました。1500円の値上げになります。ただしなんと40分をきります。ハエー。でもこれまで1時間半で2000円ちょっとだった自分としては,そこまで早く行かなくてもなぁと思うわけです。

実は九州新幹線が開通してしばらくは,熊本から博多までの在来特急は残っていたように記憶してます。でも案の定なくなりました。正確には一日1本くらいまだ走っているようですが。

というわけで,やっぱり新幹線開通は値上げだった…というのが私の感想です。まぁ鹿児島の人とかはもともとが結構時間がかかっていたので,やっぱり嬉しいんでしょうけどね。

そういうわけで,実は高速バスを利用する人が増えてるんじゃないか?という気もしてます。在来特急と高速バスだと料金と時間が似てるので,競合してる印象がありましたが,新幹線ですみわけがしっかりついたんではないか?と。

実際九州新幹線に乗って,わりとすいてるよな…という印象です。考えてみたら,新幹線って一両あたりの乗客数も多いし,熊本博多間の移動人数がさほど増えないのであれば,そんなにいっぱいにならないでしょうね。ちょっと大丈夫かなぁ,と思いました。
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メディアが変われば有名人になるチャンスはあるのかもしれない

2012-10-21 17:33:21 | 社会
ちょっと思い出したのだけど,先日も書いた通り,わたしはインターネット創成期にコンピュータを触り出したことになります。当時MLとネットニュースが盛んで…っていうのは前も書いたけど,まだ若かった自分は,結構そこに多くの書込みをしました。ちなみにパソコン通信はやったことありません。

多くの書込みをすると,結構周りも認知してくれて,あと当時はオフ会もあったし,またほとんどが実名でコミュニケーションをしていたので,ネットを通じて知り合いになった人も多くいます。ネットの世界は今でもそうですが,書き込み量の多さや,気の効いたことがいえるか?,とかそういうことがある意味,その人の信頼や有名度に影響する気がします。田舎の大学をでて上京して来たばかりの自分でしたが,知り合いも増えたし,そこで,例えばミュージシャンやTV局の人と,ちょっと知り合いになれたりもしました。

そういう風に顔を売れたのは,まだまだネット人口が少なくて,ちょっと頑張れば,ネットで目立つことが可能だったからかも知れません。その証拠に書込みの多い人は皆常連でした。

自分の場合,まぁネットに関してはだいたいそんな感じで満足してしまい,そこで知り合いになったローカルな関係を深めることはありましたが,更に有名になりたいとか人間関係を広げたいというのはあまりやりませんでした。あと,知り合いの中には,そこから仕事を広げたりした人もいるようです。

先日の「インターネット創成期の人が羨ましい」といった高校生は,それで富を得た人がいるから…と言ってましたが,それは希だとしても,こういう新しいメディアが産まれるときに遭遇すると,そこで有名になれる可能性は結構ある…と実感してます。TV等の枯れたメディアに一般人が出て喋るとかなかなか出来ないし,業界の人と知り合いになることも難しかったりするけど,インターネットの中のあるメディアに注力すると
そこで人脈を作ることは可能でしょう。

それは別にインターネットの創成期に限らず,今でも頻繁に起きているように思います。わたしはMLやネットニュースでしたが,その後に掲示板文化が広がり,テキストサイト,ブログと来て,mixiなどのSNS,そして今はTwitterとFacebookでしょう。Twitterで思うのは芸能人の様な最初から有名な人もいるけど,Twitterの書込みになって有名になった人も結構いることです。まぁブログでもいましたよね。

というわけで,確かに新しいメディアの創成期にうまく頑張れば,有名人になるくらいは出来る可能性があります。ただ,それって別にインターネット創成期に限らず,わたしの前だとパソコン通信もあっただろうし,同人誌の立ち上がりもあっただろうし,学生運動だって,生協の発足だって,ネット以降も,上記以外にボランティアのNPOとか,まぁ様々なコミュニティ形態が産まれてるわけですから,そこで抜きん出る事が出来る可能性はあるわけです。たぶん,今後もある。

まぁだからといって,それで喰えるか?とか金持ちになるか?…っていうのは,また別の話で…。どうなんでしょうね?…という気はしますが,もし有名になりたかった,新しいメディアの立ち上がりの時期に頑張ってみるっていうのはありでしょう。TwitterだのFacebookだの言いますが,こういうメディアは10年もしないうちに流行りは移り変わりますから,またチャンスはあると思いますよ。
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無料には意図があることを知らない人が騙される

2012-03-15 09:52:44 | 社会
前回の続きになるかな。

わたしは世の中でただで提供されるものには,誰かの何らかの意図があると思ってます。特に個人ではなく会社や団体が無料で提供するものは善意や他の人に喜んで欲しい…から行われるものは無い…と考えた方がいいでしょう。

いま,我々の生活の周りには無料のものがたくさんあります。インターネット上には,無料の検索,無料のメイルアドレス,無料のデータストレージやコミュニケーション手段など,様々なものがあります。町を歩いていても,いろんなものが配られていたり,なにかをやってくれていたりします。テレビやラジオも(NHK以外は)ただです。そういうものに囲まれて暮らしていると,世の中にはただのものがたくさんあると普通に思ってしまって,それがどういう意図でただになっているかを考えない人が増えてるんじゃないでしょうか?。

無料でサービスを使わせるものは,ユーザ情報を集めて,マーケッティングに使用して,あたらに何かを売り込むきっかけにするとか,実は他の部分で払ってるお金でまかなわれているとか,広告が付随しているとかいろいろそういう仕掛けがついています。ただであることはお金以外の何かを取られてる…と思うのが正解です。

また,無料じゃなくても向こうが何か「お得ですよ」と勧めてくるのもその勧める人が何らかの得をする仕掛けがあるはずです。これはこっちが損をするのではなく,お互いに儲かる場合もあるので,WinWinであればいいのですが,良いようにこっちにリスクを負わせてるような場合もあります。マンション経営とかの様な金融や不動産ものはたいていそうじゃないでしょうか。

そういう風に考えていくと,ネットの口コミサイトも誰かが運用しているわけで,それが100%の善意でまかなわれているわけがありません。それをやることにより運用者に得があるわけで,その得が何かを理解しないで使っていると「ステマだ」とか「騙された」とか思うのでしょうが,もともとそういうもののはずです。

民放のTVはただですがCMでまかなわれているのは明白ですが,だとすればスポンサーに都合が悪いことは報道できないはずです。そんなこと当たり前です。

個人の場合は本当に善意で行っている人もいないことはありませんが,費用がかかるものとか時間がかかるものは善意だけで出来るのは,よっぽど余裕がある人じゃないでしょうか。また名声欲や自己顕示欲でやる人もいて,まぁそれはいいかな…とは思いますが,そういう人は,自分の意図と異なるように社会に受け入れられると切れちゃう場合もあるでしょう。

というわけでわたしはただの物は信用できないのは当たり前…って思ってるのですが,世の中で騙された…って騒ぎになってるのを見ると,そういう事を知らない人が騙されるってことなのかな?って思いました。

ちなみにお役所だけは,ただで人に役に立つことをやってくれます。それが彼らの役目だから。もっともこれも真の目的は法律を作る議員さんや首長さんが票を集めたい…というのが真の狙いとなります。
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健常者はなんでも出来ないといけないの?

2012-03-01 07:20:19 | 社会
成績優秀なのに仕事ができない“大人の発達障害”に向く仕事、向かない仕事 」を読む。ADHDやアスペルガー症候群の話で,成績が優秀なのに,社会で人に絡んだような部分でうまく仕事ができないとかそういう話。

こういうのを読むと,あぁ自分もそういうのかも知れない…とか,あの人ってこういうのじゃないかなぁ…とか思ったりすることもありますが,ふと,逆の意味で引っ掛かったりもします。

つまり,成績優秀なのに仕事ができないのは障碍だ…というのであれば,逆に,成績優秀で健常者はどんな仕事でもこなさないといけないのか?…という事です。おそらくそういう前提があるんでしょう。*学校の*成績優秀なら社会に出たら苦労せずに成功するはずで,うまくいかないのは,障碍のせいだろう…と。

それもおかしい気がします。そもそも学校の成績でその人の能力が全て測れているわけでもないし,成績に関わらず,なんでも仕事ができるのが健常者と思われちゃうとそれもおかしい。人には向き不向きがあり,難無くこなせることとこなせないことがあります。訓練で習得できることもあれば,出来ないこともあります。向く仕事向かない仕事なんて,健常者でも選ぶべきなんじゃないでしょうか?。

わたしは他人の気持ちが分からない人間で,もしかしたら「心の理論」が無いのではないか?…と思ったことがあります。でも,人の気持ちが分からないから,逆に人を怖いとは思いませんが,人を共感で引っ張る…ということが多分出来ません。熱血漢でチームを引っ張っている人とかを見ると,スゲーなぁー…と素直に思います。それを障碍か?…と言われると分かりませんが,そういう素養なんだと思います。

病気とか障碍と健常の線引きというのは時代によって変わります。明らかな病気や障碍もありますが,良く分からないものも沢山あるからです。普通「病気」というと治療法があるもの,「障碍」というと治療法がないが,正常な生活に支障があるもの…という定義なのかな…と思ってます。治るものは治った状態が正常ですから,「病気」というのはある種の異常であることはわかります。でも治らないし,元々そうであるものは障碍なのか正常の範囲なのか?…というのは微妙です。

もちろん,明らかにこれは障碍だ…というものもあります。でも,障碍かどうか分からないものも多いでしょう。苦手なものがある,どんなに訓練しても習得できないものがあっときに,それを「性質」と認識せずに障碍と認識しなければいけない…というのが良く分かりません。むしろ障碍にしないと理由にならないのか?…という気がして,社会はそこまで「健常者」に万能を求めるのだろうか?…むしろしんどい気分になります。
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下手人は必要ですか?

2012-02-08 22:51:28 | 社会
fujiponさんが紹介した「僕のお父さんは東電の社員です」という本の件,そしてそれを読んだ,北沢かえるさんの文を読んで,何とも暗澹たる気持ちになりました。この話題…,なんども書いてるので今更かも知れませんが…。

組織としての東京電力が叩かれるのは,叩かれるだけの意味があると思いますが,その社員一人一人を叩くのにどういう意味があるんでしょう。そうすることで,なにか社会が良くなるんだろうか?…という疑問を持ちます。もちろん,最初に紹介された本…で社員の子供が言ってることは,彼の認識違いで,別に彼のお父さん個人が叩かれているわけでも無いのかも知れません。ただかえるさんの意見は,結局その社員の家族にまで責がある…と言ってますよね。

なにかとんでもなくひどいことが起きたとき,なぜそれを誰か「人」のせいにしなくてはいけないのでしょうか?…。昔,いざこざが起きたときに誰か責任をとる人を無理やり仕立上げて,その人を処刑することで丸く治めていた…ことがあるって聞いたことがあるけど,どうもそういうのと似たものを感じます。そういう考えが冤罪の元になってるとも思うし(犯罪者を捕まえるのではなく,犯人を仕立上げることによって事件を終わらせる),とても野蛮な考えに感じます。

悪い人を決めて,どこかに縛り付けて,みんなで石でも投げかねない…,そういう空気を,感じて気持ち悪いのです。

指摘されているように,わたしも現在の原発事故で起きたことに,第二次大戦中の軍部のこととかを連想します。ナチスのことは思いませんでしたが,悪い状況に向かっているのに,何もできなかった日本の軍部のこととか,そういうことを思い出します。ですから,わたしはこういうことは東電じゃなくても,普遍的に起きがちな事なんだなぁ…と思います。であれば,個人を責めてそういうことが起きないように出来るのでしょうか?…。罰を与えれば,みんな懲りて,気をつけるようになるんでしょうか?。わたしはそうは思いません。

普遍的にこういうことが起きるのであれば,東電じゃなくてもこういうことになります。わたしが思うのは,東電の社員の様な立場に我々がならない保証はない…ということです。東電を叩く人は,そうならない自信があるのでしょうか?

もちろんわたしの会社は原発なんて作ってません。事故を起こして,数万人の人が自宅に帰れないようなものはつくってないし持ってません。他にもいろいろ社会的な問題に問われるようなことが起きないように…と気をつけてるはずです。…でも会社の全てを知ってるわけではありません。どんな会社でも,なにかの運用のミスで,社会に迷惑をかける可能性はありますし,その対処が後手に回り,事態をひどくすることもあり得ます。

それに会社じゃなくても,我々が社会生活をしていて,他の人から後ろ指を指されないこと…って自信あるんでしょうか。一時期,先進国が途上国からものを買うことで,現地の子供達が過酷な労働をしてるとかいう論調があったり,はたまた日本人が世界中のマグロを食べてるという話があったりとか,普通に生活をしているつもりでも,どこかから恨みを買ってる可能性はあります。原発じゃなくても,電気を使ったり車を運転するために石油を燃し,二酸化炭素を吐き出して,どこかの島を沈めている…と思われている可能性だってあります。そんな迷惑をかけてると知らなかったから自分は悪くない…というのでしょうか。それでも多分恨みは買います。

そういう恨みを買う対象に自分がならない保証は,多分どういう生活をしていてもない…というか難しいと思います。だから,わたしは「人」にたいして攻撃するという風潮にぞっとするのです。

民主主義や株式会社…というシステムは,人じゃなくて,別のものに責任を負わせるためにあるんじゃないですかね。ですが,どうも人は,システム的に責任を取らせるだけじゃ,納得出来ないようです。まぁ民主主義や株式会社で不正が起きないわけではないから,当然なのかも知れませんが。
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管理職はなぜ黙っているのか?

2012-01-26 23:35:11 | 社会
管理職はなぜ書き込みをしないのか?というのを読みました。あぁ管理職じゃない人が書いたのだなと思いました。管理職が書いていたら,少なくともその人の事実だろうけど,管理職以外が書いても,想像でしかない。というか,管理職じゃない人から,そういう風に思われてるのかぁ?と思ったという意味で,興味深かったです。あっ,長いので後半は流し読みになってしまいましたが。

私が社会人になった20年位前は,上司はインターネットとか使える人がまだ少なかったというのもあって,管理職がネットを使わないのは使えないから…というのもありました。当時はネットというと,メイル,ネットニュース,メイリングリスト(ML)で,またWebすらありませんでした。特にニュースとMLはむしろ若いものの場所という感じで,オープンな場なのに管理職がいないことを,我々は良くとらえていたように思うので,むしろ,管理職が書き込みをしないのか?とか思われるほうがちょっと驚きます。

で,今はそういう人たちが管理職になってるので,まぁ確かにSNSはMLとかと勝手が違うところはあるけど,SNSが使えないから使わないという管理職は(いるだろうけど)少ないでしょう。で,なぜ使わないか?。

「一般社員はコミュニケーション能力があまってる」と書いてあるのはたぶん正解。というか管理職は余ってません。歳をとってエネルギーが落ちてるのもありますが(苦笑),特に中間管理職は上司と部下と両方を見てるので,エネルギーがそっちで消耗されてるのです。会社にきたら,上司やラインから沢山の連絡がメイルとか入っていて,関係あるかないかわからないまま,でも無視してると大変なことになるから,とりあえず全部読んで関係ないかチェック,関係あることは良く調べたり返事を書いたりとかやってます。部下からも報告があってそっちも読みます。そんなことをやってるともうパソコンで文字を見るのにはお腹いっぱいになるわけです。

だから,社内SNSとかで何か書いて欲しいと思われていても,「ごめん,そんな余裕ない」とか「それ何かの役に立つの?」という感じになってしまいます。ちなみに役に立つと思えば書くと思います。

あと,上司が書くと若い人が萎縮しないか?とか思って遠慮する事もあります。若い人が悩んで議論してる時に,自分の経験から最適解を書いてしまうと,折角の議論に水をさすというか,そこで終わってしまうのがもったいない…とか。答えが欲しくて若い人が議論してるのかもしれませんが,自分で考えて欲しいと思うこともあるわけです。実際生の打ち合わせでも,上司が発言すると,部下は発言をやめて終わってしまうケースが結構多いです。ですから,上司は最後に口を開くようにするとかいうのは結構あります。そうじゃなくて最初から最後まで自分がしゃべって満足して帰っていく上司もいますが(^^;)。

他にもいろいろ理由はありますが,真っ先に思ったのはそんなところ。自分も若い頃はネットでガス抜きじゃないけど,楽しくやり取りしていたし,今もそれなりにやってるから,SNSも楽しかろう…とは思ってるんですけどね。というか,自分の場合は,こういう日記を書いてるくらいだから,文字で意見を書くパワー自体はそれなりにあるんだろうとは思います。
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Long Lifeビジネス

2012-01-20 20:26:20 | 社会
かって高度経済成長のころ,一般の家庭にアップライトピアノが急激に普及しました。…って調べずに書いてますが,昭和40年頃…って話もありますね。そういう意味では経済成長末期かな?…。

かって日本には大小多くのピアノメーカがありました。こういう状況で需要が高まれば,技術力のあるなしに関わらず,生産メーカは沢山出てきます。そういう中で力のあるメーカが,まぁいろいろ手段を使ってそういう中小のメーカを潰したり吸収したりして,日本での覇権をとりました。そのメーカはかってあった日本楽器という会社です。

…って書き方は冗談で,現在のヤマハですね。ヤマハが他のピアノメーカとどういう風に戦ったかって,昔,本があった気がするのですが,今でも売ってるんでしょうか?。

ピアノは裕福な家庭の象徴でもあったんでしょう。普及は進みました。調べたら現在ピアノって日本の世帯の4分1以上にあるそうです。凄いなぁ…。

というわけで,ピアノをどんどんつくってどんどん売った日本楽器は大きな利益を得て,とても大きな会社になりました。

ところが,ピアノっていうのはそうそう壊れないのです。ちゃんと使って,程ほどにメンテをすれば,100年だって使えます。そういう意味で,ピアノがある程度普及したら,ピアノはトンと売れなくなりました。日本楽器は大量のピアノを効率よく生産できるラインを持ってましたが,売れなくなったら意味がありません。だいたいわたしが就職した頃1980年代後半…,こういう問題が言われてました。実際ヤマハ(日本楽器から社名変更したのはこの頃だったと思う)は,ピアノ製造の技術を使い,家具をつくったり,テニスラケットをつくったりとかする一方で,電子楽器からLSI製造を始め,ネットワーク機器等と,領域を拡大していきます。

わたしが大学生の頃ヤマハのピアノ工場を見学したことがありますが。凄い勢いでピアノがつくられてました。でも,その時に思ったのは,100年壊れないような製品をラインで大量生産するって,ビジネスとして正解なんだろうか?…ということです。ヤマハは会社として残っているし,いまだにピアノを生産販売してるので,大丈夫ですし,ピアノは生産メーカじゃなくても直せる様なものなので,まぁいいんでしょうけど。

実は先日10年使えるLED電球のCMを観たときも,ふとその事が頭をよぎりました。CMはいいCMだと思うし,長持ちするっていうのは,一見環境には良さそうなんですけどね。

まぁピアノの100年と違い10年というのは,あまり過当競争にならなければ,それなりの買い換え需要は見込めるのかも知れませんが…,ロングライフのものを物凄い勢いでつくるのは,大丈夫なんだろうか?…という懸念が,長年わたしの中にはあります。消費者視点でも,会社の戦略としても…。

そういう意味では,15年電池が持つ携帯電話とか…。15年後に使おうとしたらサービスがまだ残ってるか?とか謎ですよね。使っていれば適当に壊れてくれた方が,本当はメンテナンスって意味ではいいんじゃないか?という気がしないでもありません。部品とかが再利用できるとか,生産メーカ以外でも修理できるとかが出来ると理想ですが。
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結婚というキャリア

2012-01-10 23:45:31 | 社会
最近芸能人が結婚をするのは,ちょっと人気が落ち目になった時に,結婚して親になると別の仕事がもらえる場合があるから…じゃないか?という揶揄を少し思った。まぁ言い方を変えると結婚後,出産後も仕事があるという意味では悪い意味ではないとは思うのだけど。

昔はアイドルとかは結婚したら終わりだった。なかなか結婚せず歳をとった人たちは今でも多い。特に女性はかなり高齢になって若い人と結婚したりしてるが,つまりは人気があるころは結婚するのは仕事を失うリスクがあったんではないか?という気がする。

それに比べるといつからかアイドルはあっさり結婚するようになった。子供も産むようになった。そしてしばらく休んだ後,親としてTVに出るようになった。今は育児番組も多いし,朝のバラエティも親としてのコメントとかの方が共感を呼ぶようである。

ちなみに漫画も最近は育児漫画が多い。昔はシニカルな漫画とか描いていた人がほのぼのとした育児漫画を描いていたりする。で,結構人気があったりする。大体実話として描かれているので,ネタの選択はあるけど,ある意味描き易いのかもしれない,とは言え,同じようにならないような工夫は必要なのだろう。

芸能人にしても漫画家にしても独身の頃のスタイルと比べるとみなずいぶん肩の力が抜けてるというか,穏やかにやってる気がする。若い頃はエネルギッシュで逆に歳をとったら無理じゃない?という感じの芸風なのが,親になって出るのは,本当に等身大の様な,これなら人気が続けばいつまでも続けられるというか。

わたしが若い頃とずいぶん違うなぁという気がする。もしかしたらこういう空気があるので,一般の若い人も結婚を早くやろうという気になる場合が多いんじゃないだろうか。念のためもう一度書くと悪いことじゃないと思う。むしろわたしが若い頃,なんでこうならなかったんだ,と思う。わたしの年代って結構働いている人は晩婚の人多いんだよねぇ。
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科学やすべて役に立つべきか?

2012-01-04 00:32:36 | 社会
原発事故の後のそれに対する言説の中で「科学が役に立っているか?」と問われるのを聞くようになりました。それを聞いて心穏やかにいれないのは,私自身が科学者の端くれと自覚してるからでしょうか。「物理学者」とか「原子力科学者」と括られたらまだ冷静でいられますが,「科学者」と言われると,科学者全員が原発事故に対して責任を負わなければいけないのか?と思ってしまいます。

原発事故に限らず「科学が役に立っているか?」という質問なのであれば奇妙な気がします。現在の日本に科学が生み出した成果の恩恵をまったく被っていない人っているんでしょうか?。薬だって,病院の医療器具なんて科学の結果のものだし,家電や住宅建材にも,さらには農作物を作るための技術の中にも科学の成果は幾分かは入ってます。それを見ず,科学を役立たずというのでしょうか。

というよりこれはむしろ科学に対して万能なものを期待して,原発事故を何とかできなかったという失望感から,こういう言説が出るのでしょうか?という気もします。もしくは原子力発電を作ったのが科学だから,それに対する抗議なのでしょうか。

後者であればわかる気がしますが,前者であれば,過剰な期待をし,失望し怒りを感じる…というのは,少しやりきれないものを感じます。

科学は常に人の役に立たないといけないのでしょうか?。すべての職業がすべての人の役に立っているといえるのでしょうか?。仮に「役に立つべき」と言うのは良いけど,限定的ではいけないのでしょうか?。むしろすべての人の役に立ってるわけじゃない仕事なんて幾らでも挙げられます。

一方で科学がすべての人に必要か?という議論もあるでしょう。わたしは科学というのは「考え方」でもあると思うので,ある程度ほとんどの人にあった方がいいと思います。科学的根拠をもとに論理的に考えるぐらいは身につけるという意味でも。

もちろん科学は「役に立つ」と公言して沢山の予算を使っているという側面もあります。だから一部の科学の結果,不幸な事故がおきている現状が責められているのはあるでしょう。ただそれで全科学が否定されるということも,これまた違うんではないか?という気もします。

いろいろ思うところがありますがうまくまとまりません。ただ一方的に攻められると戸惑います,という感じです。
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