たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

怒ることは必要か?

2011-07-31 21:47:06 | ココロ
知り合いが「本気で世の中を変えようと思ったら,怒ったらだめ。怒りは怒りを呼び寄せるのでよい世の中にならない」とつぶやいてました。同感…と思うのですが,怒りを使わずにうまく人や世の中を動かせるのだろうか?…という悩みが一方でわたしにはあります。

卑近な話になるのですが,わたしは人前で,大声を出したり,手をだしたりして怒ったことがほとんどありません。実際怒ることは得意ではない…というのがあります。ただいい歳をして仕事上部下をもつ人数が増えてきたり,自分の子供を育てる(しつける)必要が出てきたり,はたまた教育者になって若い人達になにかを教えるときに,怒らずにすることが可能か…というより,怒った方がいい場合はないのか?…という事にずっと悩んでます。実際に会社とかで大声を出したり,机を叩いたりして部下をしかる先輩を見たりすると,それなりに効果があるように見えます。

良く研修とかでコーチングについて習ったり,本やWebの記事でも部下の指導方法とかの話を読むと,部下を怒ったり脅したりする事を勧めているのは見たことがありません。でも一方で,多分創業者が仕切って業績を伸ばしたような会社では,社長が罵声を部下に浴びさせて会社を回してるような話も聞きます。社員がどういう風な気持ちだとか,その後の精神的な影響はという話はわかりませんが,業績を伸ばしているということは,それなりの効果があるわけです。

わたし自身がこれまで後輩や部下に大声で怒ったりせずに,それなりにやってこれているのは,自分の周りにいた部下や後輩が優秀だったからということがあります。理詰めで説明したり,冷静に叱ったりしたらそれなりに理解をする人がほとんどでした。会社は声や暴力で恐怖を与えなくても,人事や予算や決裁で部下を縛ることは出来ます。わたしはそれと上司の意見の説得力,あとまぁ信頼とかそういうものをうまく組み合わせれば,ある程度は人を動かせるという経験をしてきてますが,これからもっと部下が増えたり,自分と全然違う経験をしてる人とか,あと子供とか…そういう人達にわかってもらおうとした時に,本当にそれだけで十分か…,それ自身悩むわけです。

実際にいざ部下を怒れ…と言われると,実はうまい怒り方が出来ません。うまい怒り方が出来る人を見たことがありますが,怒りは感情を載せる必要があるため,なかなかマネがしにくいということがあります。

怒りが必要というつもりもないのですが,いざ怒る必要があったときにうまく怒ることができるか?,それに怒りが不要だ…と思うのは単に自分が怒るのが苦手なのを隠すためじゃないか?とか少し思うのです。

世の中にはいろんな人がいます。怒ることで引いちゃう人もいれば,感情を露にしないと共感をしてくれ無い人もいます。だから大きく世の中を動かすとか,多くの人を動かすときに,人にうったえる手段として,怒りを使うということが必要なときもあるかも知れない…と少し思います…が,実際は使ったことありません。悩ましい。
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2chが日本のインターネットを変えた

2011-07-28 22:50:51 | 社会
なんか今日はネットを見ていて,ネットでの不適的発言に関する話題が目立った。

「47NEWS」のツイッターが不適切発言で閉鎖したとか,あと女子サッカーの熊谷選手関連の例の騒ぎの話も多かった。まぁ基本的には先日書いた用にネットで責任のある行動をとればいい,言い換えると実世界と同じように振舞えばいいとわたしは思うのだけど,medtoolzさんのいう2chの方がFacebookやmixiよりある意味やさしいというのを読んで,ある意味2chがこういうネット文化を創ったのか?という気もしました。

わたしがインターネットを始めた頃はネットは実名で書くのが常識どころか所属すら明らかにしてました。MLやネットニュースに投稿するのは,かなり神経を使ったものです。一方当時あったパソコン通信はハンドルという匿名で書いてる人が多かったようですが,まぁ一部のパソコンマニアがやっている狭い世界だったからか,今のような騒ぎになることは稀だった気がします。

Webが流行りだして掲示板とかが生まれてきて,徐々にパソコン通信やネットニュースは廃れましたが,考えてみたらある意味2chという匿名掲示板の出現は,ネットの常識を変えたのかもしれません。ネットのコミュニケーションが掲示板に移っていくのは,当時ひしひしと感じられましたし,掲示板というと匿名が基本でした。そしてそれを多くの人が集まる2chはネットのコミュニケーションの主戦場になり,時期を同じくして,ネットユーザが一般人という風になった気がします。つまり当時ネットに入った人は,まずネットは匿名でする場所だ…という常識になるわけです。

私自身は匿名で書く2chには魅力を感じず書き込みをしたことはありません。実名を書くというより自己同一性がわかりにくい(示す方法はあるけど)2chは自分がどういう人かを示す場としては使えなかったからです。

そういう意味ではmixiが出てきた時,わたしはかってのネットニュースの様な居心地の良さを当初は感じました。まぁこれも徐々にユーザが増えていくとその感じは変わるのですが,でも今でも特定の人とコミュニティをとってるという意味では,そんなに居心地は悪くありません。まぁでもmixiはすでに新しい友人を作らなくなって久しいなぁ。

今はfacebookとTwitterも使ってます。facebookはある程度自分の文章の公開範囲をコントロールできますが,mixiよりはしにくいし,実名なのでmixiより気を使います。twitterはもっと制御できませんが,実名ではないので,基本的に個人が特定できるような情報は書きません。というかまぁ無難なことしか書いてないので,今公開しても困らないというか。

つまり先日も書いた通り,インターネット初期の実名でやっていた感覚で接していれば,そんなにfacebookもtwitterもmixiも怖くないというか。と考えるとやっぱり2chの方が特殊だったんじゃない?という気がしてきました。

であればTwitterを2ch感覚で使うことがそもそも危険なわけです。個人のアカウントで書くわけですから当然といえば当然ですが。でも,2chでネットに入ってきた人は,ネットは何でもかける場所と勘違いをしてるのかもしれません。そんな気がしました。
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職業として実名をさらすということ

2011-07-24 21:15:13 | 社会
匿名日記でtwitterやfacebookで実名をさらすのは恐ろしいと言うのを読んで,そうだね…とは思ったんですが,一方で実名でやること自体を過度に怖がるのもどうかな?という気もしました。

facebookは実名が前提ですが,それ以外のTwitterやmixiは任意だし,ブログもそういう強制力はありません。ですが,そういうサービスでも実名でやっている人たちはいます。主に芸能人,文筆家,芸術家等。そういう人たちは自分の名前を広げることによって活動を広げます。ですから,公式ページは実名(芸名である場合もありますが)でやるのが当たり前です。そしてそういう人は一般にプロフィールが知られていたり自分で書いていたりします。もちろんそういう人たちが実名のページ以外に匿名で活動をしている場合も多いでしょうが,実名のページが誰でも観られるところにあるというのは事実です。

ふと思うと,そういう人たちはこういうメディアに出るような人以外にも結構います。特にネットじゃなくて,それぞれのメディアで名前は人となりが誰でも観られるところにあったりします。わたしの一番身近なところじゃ学者。論文を書いたことがある人なら,そこには名前と所属,そして略歴がオープンにされてます。そういえばTwitterとかでも大学の先生は実名でやっていたりしますが,こういう人たちは名前と人となりを隠さないことに慣れているわけです。他にも会社の経営者とかもそうです。よくよく考えると,実世界では結構その人の人となりをさらす必要がある立場の人っていうのはいるのです。

じゃぁそういう人たちはひどい目にあってるかというとそうでもありません。それは最初から自分の名前や経歴がさらされているから…という前提で行動しているからです。ネットでも軽口を吐いていても,叩かれるようなきわどいことは書きません。特定の人にあてたような文章もあまり書かないし,自分の家族や住まいが特定されるような事も書きません。当たり前ですが,違法行為をしたようなことも書きません。

そういう意味では,匿名でなくても,それなりの行動をすればそこまで危険ではないように思います。もちろん,そういう分別あるような事をするならネットをする意味がない…という人もいるでしょう。そういう人はやらなければいいだけだと思います。ただわたしの印象では,自分の名前をさらして仕事をする人の方が,社会的地位が高くなる傾向があり,リスクを負って分別のある行動をするということ自体が,利益があるようにも思います。

大学生が中学生にネットリテラシを教えるという記事を読んだのですが,ネットに個人情報を載せるメリットを考えろと言ったそうです。確かにそうで,まずはネットに個人情報を載せる怖さを知るべきですが,載せることとのメリットと,それでいて載せる場合に気をつけることまで理解して初めてネットの社会で生きていくという事のような気がします。

ネットの社会は変化が早くリテラシの考え方もどんどん変わっていきますが,実世界も含めて基本的な考え方はそんなには変わらないのかもしれません。実世界で名前を背負うことにメリットとリスクを考えれば,おのずとネットでのあり方も想像できるように思います。
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成功と富はリンクしない

2011-07-20 17:47:24 | 時事
一昨日の朝は女子サッカーワールドカップを観てました。もう駄目だろう…ってところから何回も追いつき最後は勝った試合はとても感動的でした。

ところで,日本中に感動の嵐が吹きまくる中,彼女らの待遇が実は結構苦しいとか,普段の年収や就業状況も厳しい,みたいな話が急に聞こえてきました。わたしも最初そうだよな…とは思ったのですが,いろいろと考えてみると,これは彼女らの年収とかが苦しいのがおかしい…と思うのであれば,それを何とかするのは,そう思った我々じゃないか?という気がしてきました。だから誰かのせいとか,誰か(例えば行政とか協会とか)がなんとかすべきという話はおかしいなという気がしています。

確かに彼女らは世界レベルで頂点に立ち,日本中を感動させました。でも世界レベルのスポーツ選手で,その競技だけで食べられない人っていうのは結構いると思います。オリンピックでメダルを取るような選手でもそれだけで食べられている人ってむしろ少ないのではないでしょうか。射撃とかアーチェリーとかもそうじゃありませんでしたっけ?。

有名なスポーツ選手とかいうと,野球とかサッカーとかゴルフとかテニスとかF1とか相撲とか…そういうのを思い出し,頂点にいる人がすごい額の収入を得てる印象を持つのかもしれませんが,おそらくそういう競技の方が少ないのだと思います。会社のクラブチームでノンプロでやってるならまだ良くて,完全に自前でやっている人も多いでしょう。女子サッカーの待遇が変だというのであれば,それらの選手の待遇もおかしいということになります。

そう思うと,むしろ選手のレベルと収入はリンクしないものだと思う方が自然で一部のプロスポーツだけが異常なのかもしれません。同じような話はスポーツだけじゃなくて,音楽だってジャンルによっては成功者は大金を手に入れますが,そうではないジャンルもあります。まぁ芸能は人気があるっていうのは基本的に興行として成功してることですから,そういう人は少ないのかもしれませんが。

わたしはなんにつけても自分を感動させる人たちが裕福でないのがおかしいと思うのであれば,その感動を受けた自分が,その人たちになにか投資をするのが第一だと思います。スポーツなら競技を観にいく,芸術なら観にいったり作品を買う等。そして次にそれを周りに広めたり,更に支援する仕組みを作るなど。もちろん支援など一人ではなかなか出来ませんが,そもその個々のファンがいないと,仕組の必要性も起きません。自分の場合は音楽や漫画が好きですから,なるべくCDや本を買うようにしてます。一部のミュージシャンはライブも観にいきます。ネットで紹介することもあります。

それから,少し視点が変わりますが,選手の待遇というのは,その時の収入だけでは語れません。おそらく今回の選手らも年収とかがどれだけ上がるかはわかりませんが,長期的には後輩となる選手の指導をしたり,うまく行けば講演をしたり本を書いたりと,いろいろと道は開けるでしょう。今回の業績で一生遊んで暮らせるわけではないでしょうが,ある程度地道に稼いで行く道筋はついたのかもしれません。

スポーツにしても音楽にしても今は多様化して,国民的スポーツや音楽っていうのがなくなってきてます。ですから成功者が富を得ることは難しいのかもしれません。ですが,それは一部のジャンルだけが富を得てるわけではないということもいえます。頂点を目指す人からするとさびしいことかも知れませんが,多様化によりそれぞれに日が当たり尊敬を集められるということは,ある意味ではいいのかもしれません。そしてファンのほうも尊敬をし,それが気持ちだけではない形で支援できればと思います。やり方はなにがベストかはわかりませんが,多くの成功者がそれなりに尊厳を保ち暮らしていけるようになっていけばいいと思います。
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賃貸v.s.持ち家

2011-07-12 05:53:37 | 社会
最近ネットをみていて,急に持ち家のリスクが語られるようになったのを感じてます。昨日はこの記事をみました。

震災があって津波で家が流れたり,昨日のNHK特集でも湾岸の液状化で家が傾いたりとか,そういう話をやっているので,ローンを組んで家を買ったら家がなくなり借金だけ残るという想定が急に着目されているように思います。

もっとも,持ち家と借家の問題は,だいぶ前から語られていて,特に長期のデフレが続いている日本では,持ち家は経済的にも不利だ…という意見が強まっているように感じてます。わたしは今震災のリスクを考えて持ち家のリスクを語るのは,今までどれだけ暢気だったんだよ…という感想で,家を買った人が火災保険や地震保険に入ってないのか?…等と思ったりもします。

さて,わたし自身,社会人になって20年,いまだに借家住まいをしてます。若い頃は会社の寮に入ってましたが,ここ十年近くは民間の賃貸に入ってます。自分の職場には,30位で家を買っている人もいるし歳をとるに従い持ち家率は上がり,どんどん住宅を購入してるようです。そういう意味では世の言う持ち家のリスク…という話は,ちょっとわたしの周りでは無関係な気がします。

実際にわたしが感じるのは持ち家が得か借家が得かというのは一意には決まりません。わたしがいい歳をして借家住まいなのは,そもそも結婚が遅かったのと,職場の異動が多いこと,また現在の住まい(地域)を人生終焉の地と思ってないことが主たる理由です。職場でも家を買った後に異動をし,単身赴任をしたり長時間通勤をしてる同僚を沢山観てきましたが,わたしは通勤に労を重ねるのは主義に合わないと思ってるし,独身だと単身赴任もないので,異動したら住まいを気軽に変える…という方がいいと思ってました。まぁ同じ職場でも20年以上自宅から通える範囲にしか異動してない人もいるので,全員が異動が多い職場…ってわけでもないのですが。

そういう仕事やライフプランにより多分持ち家がいいかどうかというのは変わります。退職後に遠くに引っ越した先輩も仕事をしていた20年30年と一つの家に住んだ後はあっさり売っちゃったという人もいるので,家をもつことがそこに永住するという意味でもないでしょう。あと都心部と地方でも賃貸の価格,あと分譲マンション,一戸建ての価格のバランスは様々で,どっちが得とは一概に言えないのではないでしょうか?。

ただ長年都心で賃貸に住んでいて思うのは,ようやく賃貸が借手市場になってきてるかな?ということです。地下の価格はバブルで下がりましたが,賃貸の家賃はあまり下がってませんでした。ですが,ここ数年は下がりはじめている気がします。というか,そうでもないか…。思うのは賃貸で埋まってないアパートやマンションが結構多いな…と感じており,明らかに供給過多になってるなと思います。そういう意味では大家さん…大変だなぁ…と思います。古いアパートとかだと家賃が安くても,人は入らないし,建て替えるにはコストがかかるし,特に老後の財テクではじめた大家とか本当に大変だろうと思います。

そういう条件を考えると賃貸を借りることは以前に比べたら大分有利になってきてるのでしょうけど,実際にはあまり変わらない…というのも実感です。相変わらず敷金礼金の相場は変わらないし,連帯保証人をとるのが大変…という事もあり,今のように働いていて兄弟も働いている状況はいいのですが,歳をとって,だんだん天涯孤独になってきたときに,好きな住まいに本当に入れるのだろうか?とか思います。たぶん不動産業界のほうの問題でしょう。大家も死にそうな老人を入れたくないだろうし…。そういえば年齢制限があるアパートもあるよなぁ。

もちろん,高齢者になれば自治体がそれ用の団地とかをつくっていたりして,そういうところに安くはいれるのかも知れませんが,それって好きなところに住めるから賃貸がいい…という話とは違います。あと幾ら生涯に払う額が賃貸の方が安くても,歳をとってからの家賃をきちんと貯金しておかないと,歳をとってから月に数万の家賃をコンスタントに払うのは大変なわけで,そっちの方が計画的に生きないといけません。

というわけで,賃貸が良くても,本当に歳をとっても賃貸に住めるのか?という不安は多少あります。持ち家だと税金だけ払えば,あとは我慢すればボロ屋に住めるわけだし。あと,今持ち家が不利で賃貸が有利となれば,これから大家になる人は減っていくわけで,賃貸の供給バランスも長期的には変わるかも知れません。

いずれにせよ家をもつかもたないか?は人生設計に関係するわけで,今,地震が来たから,持ち家が不利という短絡的な発想で考えるべき話でもないように思います。
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信用できないは信用できない

2011-07-11 22:00:46 | ココロ
良くある報道や論調を見て思うこと。

問題を指摘されていてすっかり悪者になっている組織がとある発表をしても,よく言われるのは「信用できない」ということ。今わかりやすい例を挙げると,東電とかが何を発表しても「信用できない」とか「隠蔽してる」とか言われてます。まぁ実際に信用できないというか,真実をあからさまに発表してるわけじゃない場合もあるだろうなとは思いますが,一方でじゃぁ信用できないと言っている人たちは,どうすれば信用できると思うんでしょう…ってことです。

こういう状況は過去にも何度もあって,主に大きな企業や,行政が不祥事を起こすと大体において,なにを発表しても「信用できない」と言われます。もちろん発表するほうもなるべく痛くもない腹は探られたくないので,ある程度取り繕って発表する,するとますます信用されないわけです。

良くわからない状況を信用させるだけの情報を出すとはどういうことなのでしょう?。すべての状況を何も手をつけずに公開しても,おそらくほとんどの人は何のことかわからず,ますます信用できないというかわけわからないと言われるだけのような気がします。信用できないと言っている人は,むしろ自分が信じたいストーリを裏付けるような事実が出てきたら,その信憑性を細かく精査することはなく「これが真実だ」と信じてしまうんじゃないか?という気もします。信じたいストーリの証拠が出た時に,これですべてとはいえないとか逆に言わないのではないでしょうか?。

というわけで,わたしが思うのは「信用できない」という意見もあまり当てにならないということです。信用できない人をその人が信じたくないストーリで信用させるのが,たぶん素人相手だと無理だからです。専門家であれば,物事を証明する手順がある程度確立されているのでそれに沿って話を進めることは出来るんでしょうが。

一言で言うと「信用できない」というのは根拠としてはあまり使わないほうがいいと思います…ってことです。
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やらせを問題にするのは本質の議論を避けるため?

2011-07-09 13:19:28 | 時事
九電の「意見依頼」がえらく大騒動になっているけど,わたし自身はこれがメディアで騒ぎになる前に紙屋研究所のブログで知っていたので,TVになったときにあまりショックを受けませんでした。というか,紙屋さんのところで読んだときにもさほど腹は立たず,ただちょっと呆れた…話だったので,正直ここまで世間が騒ぐとは思ってなかったというか。

実際に新聞に出た依頼文全文を読んでも,そこまで腹は立たない…というか,うーん,これくらいの話はあるんじゃないかな?という気がします。この依頼文で問題なのは,新聞中でも「※」がついているし,紙屋さんも引用してるけど「発電再開容認の一国民の立場から」と書いている点でしょう。これがなかったら,単に「大事な機会だから意見を述べましょう」と言ってるに過ぎず,つまり「選挙に行きましょう」と同じレベルです。

国政選挙に限らず,他の事でも,自分の所属団体から,投票しましょうとか,アンケートに回答しましょうと依頼されることは多々あります。だいたいそういう依頼の中には「都合のいいことを書いてね」という本心が透けて見えるのですが,無記名だったりする場合は,逆の意見を書いてもダメとは一言も書いてないので,別に書いてもいいだよな…という風に取ることができるので問題はないのでしょう。実際今回の依頼についても,無記名で投書が出来るんであれば,または非公開なのであれば,依頼された方もどっちを書いても良かったわけで,そこまで問題なのかな?という気がしないでもありません。

さて,この件,どこが問題なのか?…。今朝NHKのラジオでは「利害関係者が意見をいうのが良くない」と誰かが言ってました。でも利害関係者とか言うなら,地元の住民も利害関係者でしょう。地元の住民が寄り合いで「反対意見をみんなで投書しよう」と息巻いたら,問題なのでしょうか?。だいたい,こういうのって第三者じゃなくて当事者が一番意見を述べるべきじゃなないでしょうか?。いや原発の場合は,近隣町村すべて当事者だし利害関係者だとは思います。

「やらせ」と書いてますが,この意見集約,行政がやってるわけで,行政と九電がグルでないのであれば「やらせ」というのにはあたりません。単に「組織票」というんじゃないかな?と思います。

まぁいずれにせよ,わたし的には程度が低いニュースというか,いつもそうですが,原発の是非よりも,こういうゴシップネタの方が社長のクビとか,原理力行政に影響を与えるというこの風潮はなんとかならないのでしょうか?。本質の問題がどうであろうが,手続きが問題だからNGと言ってるようにしか見えません。敢えてこういう話にして,原発の是非の議論を避け,九電だけの問題にしてしまっているように思うのは気のせいでしょうか?
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統計と人の話を再び

2011-07-07 19:09:15 | ココロ
以前わたしはガンにかかり(また終わってませんが)悩んだ時の心情から統計は人間(の心情)にマッチするのか? というのを書きました。ガンというのはどこまでも確率で語られる病気です。生存率や再発率,また発生率など。原因がある程度特定されているガンでも同じ生活をしていてもなる人とならない人がいて,それは統計で語られます。

学者であるわたしはそれはそれで理解できるのですが,一方患者としては自分が助かるのか?治るのか?が「視点」であり,マクロに語られる治る見込みというのは,まるで心に響かないという気がしました。正直90%治るという数字があっても,10%に入ったらどうしようと悩むし,80%が助からないとう数字があっても20%に入るかもしれないという希望を持ちます。実際わたしが今ここで文章を打っている確率は50%無かったかもしれません(わたしのガンは症例が少ないのか細かい統計値が見当たらないので,はっきりとしたことはいいにくいのですが)。

そういう経験から,学者であるにも関わらず,わたしは「人」に語る時に統計で納得させるのは無理だろうという感触をもってました。そしていま世の中を見ると,原発,放射能,ガンの発生,地震の発生等,多くが確率で語られ,そして見事に「人々」を納得させることが出来ずにいるように思います。

実際に数百年から1000年に一度しかこないといわれた大地震がきてしまったわけですから,確率的に低いということが,何の安心にもならないという印象を人々の心に刻み付けられてしまったのではないでしょうか。こういう中で,ガンにかかる人の数が数パーセント以下だとかいわれても,たぶん安心できるはずはありません。

がん患者が感じていた,統計でしか語れない事象にたいして確率のみで語られても何の安心も出来ないという感触を,この大地震は一般の人まで広げてしまったのではないか?という気がします。

少し話が脱線しますが,これまで公害というのは多くは化学物質が悪さをしていて,「化学」によって語られていた様に思います。生物も化学反応を起こすし,医療も化学を使うので,なんとなくそれは自然のことのように思ってました。しかし今放射能,および放射性物質が問題になってる時に,放射能が「物理」で語られること,そしてその物理で語られるものが,生物や医療(病気)へ影響する事にたいして,多少の違和感を感じてます。まぁ実際は化学にも生物にも医療にも物理のテクニックを使う領域はたくさんあるんですけど。

化学反応は科学の領域だけど,原子の世界は物理なのねと思うとちょっと不思議な感じがします。更に物理は非常に数学的です。物理に統計を持ち込んだのは割りと新しい(というか数学でも統計は新しいのですが)とは思いますが,統計で原子を語るのも数学,または物理的な技術なのかも知れません。あと物理って「物のコトワリ」なんですよね。

話がそれましたが,実は心理学でも統計は良く使います。今の科学は統計を非常に便利に使い,人の心も統計で表そうとします。そもそも統計は理屈がわかってない事象を扱うことが出来るから便利なのです。ただ実際に「一人の人間」の視点に立ったとき,統計や確率があまりに心情とかけ離れているという感覚はわたしの中では日々強くなっていきます。確かに科学として,学問として統計が便利だというのは良くわかります。でも統計で人の心を動かせると思うのはたぶん間違いです。いま,多くの「専門家」がそういう間違いを犯してないでしょうか?。今の世の中の論調を見ていると,少しそういうことを感じます。
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