たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

2009-06-28 00:03:41 | 社会
先々週のクローズアップ現代で教育の話があったのですがレジデント初期研修用資料さんがそれについて書いていました。この番組,わたしも観てました。数学の文章題を絵を描いて解かせるのを観ていて,あぁいいやり方かも…と無邪気に思ってましたよ。
それはいいとしてリンク先に塾の経験について書かれてましたが,そういえば…という風にわたしも書いてみます。
実はわたしはあまり長い間塾にいったことはありません。中学の頃に2回くらい行っただけかなぁ。中学の1年位のときにちょっと長期に…良く覚えてませんが数ヶ月か半年か一年か?。どこかの系列ではなく,誰かが個人的に教えてるのに行き,生徒も2,3人くらいしかいない私塾みたいな感じでした。その後確か中学3年の夏休みに一月くらい。これは中学三年の夏に親の転勤で引っ越したのと,高校受験とかが近かったので,たぶん学習を補おうとしたのでしょう。
塾に行った覚えがあるのがこの二つだけですが,中学1年時って,田舎の中学でしたが,数百人の学校の学年で一番をとったことがあるくらい成績良かったのですが,なんで塾とかいったんだろう?。その後,教育が盛んな県に転校になり,いきなり成績が中の下ぐらいに落ちて,そこから勉強の辛さを知りました(苦笑)。でも,その後3年になって引っ越したときは,その前の教育県教材がものすごく役に立ったんですよねぇ。他の人の倍練習問題をやったりできたので,学校の勉強以外の勉強をしたという意味では,塾的な面もあったのかも知れません。
高校は当然塾は行かなかったのですが,しっかり浪人したので,浪人のときは当然予備校に行ってます。
…とこんな感じですが,中学で転校して勉強を意識する前は,小学校中学校とあまり勉強を頑張ってするという意識はなくて,教科書に書かれていることを理解して覚えるというだけをやっていた気がします。宿題とか学校に出されたものをやっていただけ。でも教科書は漏らさず理解してたのを覚えてます。それが普通と思ってました。ですから,学校で習う以外のことを他で習った覚えはないし,学校の授業は理解していたので他で補強した覚えもありません。こういう自分からすると「学校の勉強で十分じゃないか?」とも思うのですが,今の教育はずいぶん変わっているので,今でもそういえるかどうかはわかりません。
学校の勉強が大事か?学校の成績がいい事は大事か?と問われると,頭がいい子供は結果として学校の勉強ができると思ってます。また,頭を鍛えるためのドリルは必要である…とわたしは思ってます。勉強ができるから頭がいいんじゃなくて,頭がいいから勉強ができるんですよね。頭の運動能力が高いので,勉強をやっても息切れしないのだと思います。ですから学校の成績以外になにか優れたものがあるなら,そっちに打ち込んで,そっちにエネルギーを注いでもいいけど,そういうのがないなら勉強して頭を鍛えて欲しいとは思います。
学校の成績が悪いとコンプレックスを持つし,学校に行くのが嫌になったりするので,そういう意味では楽しく勉強をするために,塾とかで補強することは有用かもしれません。子供は頭も体も鍛えれば鍛えるほど伸びるので,楽しく鍛えるための動機付けが必要で,まぁ塾もそのひとつかな?という風に思ってます。自分自身が塾が役に立ったという意識がないので,本当はどうかはわかりませんが。
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わが人生に悔い無し?

2009-06-22 22:11:38 | ココロ
週末会社の後輩が演奏会をするというので見に行きました。それはまぁ良かったのだけど見ていて,アマチュアながら演奏の場を持っていて,楽しそうだなぁと少しうらやましく思いました。
他にもわたしの知り合いで趣味で音楽をやっている人で,演奏の場を持っている人は何人かいて,うらやましく思ったりもしますが,じゃぁ自分もそうできるか?というとやろうと思うとできるんだろうな…とは思うのですが,いろいろステップがあるよなぁ,まず練習しないと(苦笑)とか思います。
最近すっかり楽器の練習をしなくなってますが,わたしの一番の趣味は一応音楽のはずで,聴くだけは聴いてますiPodで。そのほかの趣味というとマンガを読んだりアニメを見たり,読書をしたり…,そんなことが多いですが,マンガとかアニメはちょっとやると頭がやわらかくなっていいな…とは思いますが,あっという間に時間が過ぎるので,そればかりになってしまうと,あまり生産性がよくない。コンテンツを消費してるだけなので,何かそれでわたしに能力がついたり新しいものを生み出しているようなことはないように思います。
学生の頃楽器を演奏するのは好きでしたが,大学の頃は演奏をするよりも音楽を聴いていろいろ考察したり,あとジャズの理論書を読んで,いろいろ考えたりすることに時間を割いたりしてました。それはそれで得ることはあったのですが,もっと何も考えずひたすら他人の演奏をコピーしたり,人前で演奏をしていたら,なんかもっと違った音楽との関わりになっていたかもなぁ…などと思います。
無心に行動するよりも頭で考えることが好きなのは性分で,仕事とかも手を動かして実験とかするよりも頭の中でシミュレーションをしてる時間の方が多い気がします。そんなことする暇があったら,実験して論文を書いたほうが成果が出るんじゃないか?と思うので,それに関しては,少し按分を変えようかとか思ったりもします。
…などと考えながら,わたしは「あの時ああすればよかった」という想いがあるのだろうか?などと急に思い出したのですが,以前もそう思ったけど,わたしは,そういう風に思うことはほとんどありません。確かに「ああすれば人生変わったよな」と思うことはありますが,あの時はそれが最良の選択だと思ったし,そうじゃなくても楽しかったらそれで良いし…みたいな感じ。今のわたしの人生が,すべて順調か?といわれるとわかりませんが,致命的に困った状況でもないし,まぁ将来がバラ色かは不明ですが,まだまだ人生あきらめたわけでもない。
だからといって,例えば自分に子供ができたとしたら,自分と同じような人生を歩ませようとするか?,自分が先生になったら生徒に,自分が歩んできた道を勧めるのか?…とかなると良くわかりません。他の人生もあったよなぁとは思うけど,じゃぁそこに自分が果たせなかったものを託すかというと,あまりそういう気分でもないか?。
教育熱心な親は,「自分の様に生きろ」というパターンと「自分が果たせなかったものを託す(言い換えればルサンチマン)」のパターンとかある様に思いますが,自分の場合どうなるんだろう?とふと思いましたが,結局のところ良くわかりませんでした。
まぁ自分の人生に悔いがなくても,それがベストな人生だとも思ってないってことなのかな?。そんな感じのことをいろいろと総括しておいたほうがいい時期なのか?などと思ったりしてちょっと書いてみました。
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コミュニケーションとアートの関係はDNAに刻まれている

2009-06-20 23:22:23 | 環境・自然科学
WIRED VISIONで隔離した鳥でも子供に歌を教えると上達したという文を読んで。
鳥は親から歌(鳴き方)を習うことで上達し,親から習わない鳥はうまく歌えない…というのは昔から知られているのですが,そういう鳥を隔離して数世代過ごすと,だんだん世代を経るうちに歌がうまくなるとのことです。リンクの記事はこれをもって,歌い方がDNAに刻まれているという風に考えてます。
同じことを人間に当てはめると,人間は親から習って言葉を覚えますが,いきなり赤ちゃん二人を宇宙船に連れて行き,機械に育てさせると当然言葉をしゃべれませんが,その二人が子供を作って,さらに子供を作って,と続けているうちに数世代で言葉をしゃべれるようになる…という事になります。
この実験結果を読んでわたしが思ったのはDNAに言葉(歌い方)自体が刻まれているというよりは,言語や歌い方の様な情報,もしくは何かを「伝える」という技術は相手に伝えることで,成立,もしくは上達していくのだな,ということです。そしてそれは,もしかしたら世代差みたいのが必要なのかもしれないということです。
つまりDNAに刻まれているのは言葉自体よりは,言葉を受け取れるか?ということで,相手に言われたことを理解できるか?,自分の言った事を相手は理解しているか?,そういうことを判断する能力はDNAに刻まれているのではないか?。そして相手に伝えていくうちに,伝わっているかが判断され,表現はすごいスピードで精査されていくのではないか?ということです。
であれば,同じ世代の二人でも表現は上達するように思いますが,実際そういう部分もあるのでしょうが,こういう表現を受け取る能力は子供の頃に極めて高いのは子供の言葉を覚える能力の早さを見れば明らかだし,でも複雑な表現は子供より大人の方がうまいことから,実際はある程度子供と大人の組み合わせで伝えて行くほうが,精査されるのが早いのではないか?ということです。
芸術も実際に売れている,つまり多くの人に表現が伝わっている人の方が,どんどん上達することの方が多いように思います。もちろん,それは経済的な理由とか他のこともあるのでしょうが,表現をして受け手が反応してというやり取り自体が文化を育てる,そしてそれはコミュニケーションこそが文化であり言葉である…ということ,そのこと自体はDNAに刻まれている…ということをわたしは思いました。
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思考と言葉と聴覚と脳

2009-06-18 22:28:50 | ココロ
弾小飼氏のところで脳がよくなる耳勉強法の書評を読んで。
わたしも必ずしも思考は言語で行うわけでもないと思ってるのですが,行うわけではないと断言はしません。実際言語で行うと思ってるときと,そうじゃないときがあります。思考を外部に取り出すときは言語を使ったり,記号を使ったりしますが,内部でも言語の階層と非言語の階層が両方動いているときもあるし,どっちかだけのときもある気がする…という感じか?。意識して言語を使わずに思考することは可能だけど,複雑な思考を組み立てるときは言語がないとうまく思考できないこともあります。人間の短期記憶ってそんなに容量がないので,論理を言語という道具を使って組み立てると,コンパクトに物事の関係が表せるので,少ない記憶で複雑なことを考えられる…って気はします。
その後の耳が目より優勢というのはわかるようにも思うけど,実際は個人差もあるのでなんともいえないかな。わたしは人と感じ方の違いを考えるのが好きなのでよくやるのですが,視覚にしても聴覚にしても人によって全然違って,比較自体が無意味な気がします。わたしは普段からいろいろと音を聞いている様で,周りの状況を音ですぐ気づくのですが,でも結構空間的に音を聞いていて,むしろわたしの聴覚は非言語的にできている気がします。
この辺はあまり断言できるものはないのじゃないか?という気がします。むしろあまり自信ありげにいわれると胡散臭く感じるというか。
後,もうひとつ。「脳が良くなる」というフレーズ。これは紹介されていた本のフレーズですけど,まぁ脳なんてどう刺激を与えるか?だから,これも回答がひとつなわけじゃない。ダイエットと一緒で,どれだけ新鮮味を維持できるか?みたいなもんじゃないかね?と思います。そんなところで。
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自我の目覚めは動物の本能?

2009-06-17 22:03:47 | ココロ
TVアニメでとある動物の子供を飼育していたら,その動物は飼育していた人を親の様に思うようになったという話をやってました。子供の動物は飼育していた人より,体格はずっと大きいという設定です。ちなみにそのアニメは架空の話なので動物の架空ですが,現実にもありそうな話です。
子供が親を親として認識して,ついていったりするのは,動物が生きていくためには必要な能力でしょう。餌をもらったり,守ってくれたりするからです。でも,通常の動物はいつまでもそうであるわけではなく,ある歳になると親離れをして独立して暮らし,今度はつがいを探すことになります。この流れだけを見ると人間も同じです。
では,なぜ親から離れるのでしょう?。成長すると体が大きくなり親が親に見えなくなるのか?というと,上記の様に自分より小さい他の動物を自分の親と思うことがあることから,別にサイズの問題ではないように思います。子供が大きくなり自分だけで餌を採る能力がついたり,他の危険から守る能力がついて,結果として,親を頼らなくても生きていける自信がつくことで,親から離れる…っていうのはありそうです。であれば,動物園に飼われているような動物は餌を採る能力を身につけませんが,彼らはずっと飼育員を親として慕うのでしょうか?。それとも身体的に生殖能力がつくことで,親を避けて,つがいを探すような本能があるのでしょうか?。
さて,上に人間と同じと書きましたが,人間の場合親離れは反抗期とか思春期とセットの様に思われてるので,身体的なものというよりは精神的な成長…と思われがちです。でも動物と同じ行動ってことは,動物も精神的な成長で親離れするのか?,それとも人間も単に身体的に成長したことで親離れするのか?…そのどちらかのような気がします。
人間は自分達を高度な生き物と思って特別視してますが,案外他の動物と同じように遺伝的に仕組まれている本能に拠って親離れをするのかも知れません。そうであれば,同じく思春期の頃に始まる,自我への目覚めとか世界観を確立したりするような思考行動も,単なる動物の本能の延長でしかないのかな?と思いました。
まぁ良くわからないけど,ふと思ったことを書きました。
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箱ものは国の姿勢の象徴ともいえる?

2009-06-11 22:32:16 | 社会
麻生さんが提唱した「国立メディア芸術総合センター(仮称)」が結構話題になってます。与党のことは何でも反対する民主党が「マンガ喫茶」とか言ってるのはまったくの的外れなんで無視するとして河野太郎も批判してるそうで。河野太郎はアニメやマンガを日本の重要なコンテンツであり,外貨を稼ぐ将来性があることをわからないのか?と思ったら,どうもよく読むと箱を作るのではなく,人材育成に使うべきだ…とのことです。
なるほどそれはそれで一理あるな…とは思います。このメディアセンターはアニメマンガファンの間でも,箱ものと批判する人は結構いるようです。ただわたし自身は,国がアニメやマンガを保護すべきものだと認識して毎年継続的に予算をつけるという意思表示として,まずは箱ものを作るというのも手ではないか?という気がしてます。育成に使うとしても単年度で終わってしまうかもしれません。それこそ箱ものは設備投資であり,人材育成は損益費用ですよね?。まぁ人材育成は将来への投資ともいえるんですが,経理的には費用のはず。冗談ですが。
今,マンガやアニメはサブカルチャーからペアレントカルチャーにまさに切り替わろうとしている時期なのか,いろんな戸惑いがある様に思います。古い世代からは,サブカルチャーがメインに出てくることを低俗と眉をしかめて理解しない人たちもいますが,逆にどっぷりと使ってる人たちも,表に出ることにより,自分達がそれを支えてきたというアイデンティティが揺らぎ,それで「国が口出しするな」という風に言う人もいるのでしょう。そういう気持ちもわからないでもありませんが,実際に海外からは注目されていて,それなりに市場性もあるのですから,おそらくほっておいても外資が入ってきたり,海外にフォロアーが出てきたりします。気がついたら,国内には何も残ってなくて海外の金持ちどうして取引されていた,という風な浮世絵の二の前にならないか?という心配があります。
そういう意味でいうと,やっぱり今の居心地がいい空間が壊れてしまう可能性がありますが,日本の社会全体が,アニメやマンガを重要な文化として捕らえ,その形して国が支援するというのもありかな?とわたしは思っています。
まぁ実際に作ってみたらひどいものになる場合もありますけど,地方はともかく都内の美術館とかはどこもそれなりにおもしろいので,少なくとも最初に作られるものは,意味があるものができるんじゃないかな?と思ったりもしてます。
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表現と倫理と新しい表現

2009-06-06 09:23:15 | 音楽・アート
性暴力PCアダルトゲームをソフ倫が許可しなくしたというニュース。個人的にはへーって程度で特になんとも思いません。わたしも昔一時期エロゲームをやったことありますが,性暴力のシーンがメインのゲームや興味ないしやったことない。もちろん,それが主じゃなくてもTVドラマやマンガだって男女の暴力シーンがストーリ上出てくることはあって,アダルトゲームの場合,描写が過激になることもありますが,そんなのなくてもいいやとも思うので,別にそういうのを禁止されるのは特に困りません。
ですが,あくまでも自分の趣味じゃないから別に規制してもいいんじゃない?というのは,ちょっと身勝手すぎる気もします。確かに現実の暴力を助長するような表現はよくないと思いますが,どの表現が現実の暴力を助長するかはとても線引きが難しく,合意を得ることはたぶん無理でしょう。ですから,社会的に悪い影響があるからという理由で表現を規制することを当たり前にしてしまうと,別の規制で,もしかしたら自分が好きな作品を規制することになるかもしれません。
…という仮定は成り立つんですが,では,自分の場合,どういう作品のどういう表現がなくなると困るのか?と想像するにどうも思いつきません。なんだろう?例えば映画やドラマで男女の絡みがなくなっても別に困らないし,決闘シーンがなくなっても困らない。もっと極端に昔の日本みたいに,男だけ女だけの様になっても困らない。映画とかドラマとかにこだわりがないからか?…じゃぁ音楽とかで,何か特定の表現(楽器とかフレーズとか歌詞とか?)が禁止されると困るか?…どうでしょう?
もちろんこれらはわたしが消費者というか表現の受け取り手だからで,表現するほうからすると得意な表現が禁止されるというのは死活問題ということはよくわかります。ただ純粋に表現を受け取るほうの立場でいうと,規制である表現ができなくなっても,別の新しい表現は常に出てくるし,その中によりすばらしい表現というのはあるのではないか?という気がして,特定の表現事態がなくなることは,そんなに致命的な感じもしない気がします。逆にもっとエロい表現が生まれる可能性もあるんでしょう。
もちろん,これらはわたしの勝手な思いだし,表現自体はなにがあっても規制はすべきではない…という立場もよく理解できます。まぁ今回の規制も流通に乗せないといことであり,表現自体が規制されたとはいえないといえばそうなんでしょうが。
結局のところ今回の件は各論(暴力規制)と全体論(表現を規制すること)に対する自分の意見が食い違ったりするから,なかなか難しいなぁと思いました。
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インフルエンザから見えたもの

2009-06-04 09:23:45 | 医療・福祉
引っ越しとか仕事とかで忙殺されてました。

というわけで,しばらく書かないうちにインフルエンザもすっかり落ち着いてきたように思いますが…。レジデント初期研修用資料さんが新型インフルエンザ雑感を書いているのを読みました。いろいろと興味深いなと思いました。
まず医学的な話で,インフルエンザウィルスが紫外線とか湿気で破壊されるというのは不勉強ながら知らなかったので,そんなに脆いのか…と驚きました。これから夏になってもどこかにウィルスが潜んでいると思っていたのですが,そうでもないのか,とりえず接触する箇所に感染者がいなくなれば安全なのかと思い,ちょっとホッとしました。

マスクの件は…,まぁ良くわからないのだけど,エビデンスを過剰に信用する危うさみたいを現場の医師が感じているのを読んで,少し共感しました。極論するとエビデンスってこれまで医者が個人の経験や勘で判断していたものを,実験的データから判断するという位の意味しかないのではないか?という気がしてます。もちろんそれも重要ですが…,エビデンスが100%正しいというか,ちゃんとした条件で実験された結果のかは,自分も研究者だから,どうかなぁと思ったりします。

責任者の件は医療というよりは,日本の意思決定システムの問題で…。読んで思ったのは,私は舛添さんも麻生さんも責任者としての覚悟は出来ていたように思うけど,肝心の方針は素人だからわからないのだな…という気がしました。そりゃそうでしょう…。でもこの場合素人が出すコメントを我々が信用できるか?というとそれもまた難しい。
今の日本はマスコミが風通しを良くしてくれたせいか,逆に意思決定のプロセスが見えすぎて,偉い人が言った事を簡単には信用できない。舛添さんがインフルエンザで何か言っても,「それって誰から聞いた話?」と思ってしまう。日本の社会は,組織が大きくなると結局ボトムアップになって,だからトップは覚悟はしてくれるけど,中身は良くわからないという感じになってしまうのではないか?という気はします。シビリアンコントロールの限界の様なものを感じるけど,まぁ専門家がトップをやっても,トップをやるような人は,既に最前線からは退いたような人が多いので,どっちでも一緒かな。
上からの判断を待っていた地方とか…現場は,結局,責任をおそれてなんだよねぇ。上が方針を決めてくれて,それに従ってやれば責任を取らなくて済みますから。橋下知事が,関西の事情を訴えながら緩和を要求していたのは,わたしにはちょっと奇異に映りました。批判という意味じゃなくて,そんなにいうなら,あなたが判断して決めればいいのに…と思いました。
地方や医療現場の事情は末端の人の方がわかるけど,でも責任は負えない,トップは覚悟があるけど現場が見えない,なんかそういう絵が浮かびました。
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