たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

最高裁の役目

2012-02-23 19:23:56 | 時事
光市母子殺害事件の判決が死刑で確定しました。わたしも子供と妻を持つ身として,被害者の夫が被告に最高刑を望み,行動し,そうなった…という行動には共感できるものがあります。しかし「皆,敗者」という夫の言葉にも重く,やるせないものを感じます。

被害者がそれを望む気持ちは良く分かりますが,死刑が妥当だったのかどうか?はわたしには良く分かりません。死刑が必要かどうか?…という議論も以前からあちこちでありますが,良く分かりません。これは刑罰とはなんのためにあるのか?…という思想とも多分関係があって,それ自体が社会的合意を得られてないと思うからです。

わたし自身は,刑罰は犯罪抑止のためにあって欲しいと思ってます。つまり犯罪者を懲らしめるための罰とか,被害者を納得させるためのものでは無いと思ってます。犯罪抑止ですから,再犯のある人は社会に出さないで欲しいし,重たい刑をつくることで,犯罪を起こさない人がいるのであれば意味があります。この考え方は,良く裁判で問題になる「悪意」の有無を重く見ないし,被害者の納得感も問題にしないので,おそらく世の中の刑罰はそういう位置づけではないのだろうな…と思ってます。

この視点で考えると死刑の是非は死刑を怖がり犯罪が減れば意味がありますが,死にたくて犯罪をする人にはむしろ悪影響です。ただ死刑になれば再犯はあり得ません。あと冤罪がある以上,簡単に判断できない問題でもあります。終身刑も再犯を抑えることが出来ますが,犯罪者を刑務所で養うコストを,国民が負うべきか?…という問題もあります。ということで,死刑がいいのかどうかを冷静に考えると,答えはなかなか出ません。

とはいえ,いつもこういう裁判の報道を観ていて疑問におもうは,こういう社会的な議論を受けて,判決が変わっていくことです。被害者の納得感や,犯罪者への罰で量刑を望むような声があるように思います。しかし私は,三権分立の原則だと司法はあくまでも法に照らし合わせて,事件を裁くものじゃないか?という気がします。良く行政に「市民感覚」という人もいますが,それもやっぱりおかしくて,司法も行政も立法がつくった法律に基づいて動いていて,法律は選挙で選ばれた議員がつくるのですから,市民感覚や世間の空気はそこで織り込むべきじゃないでしょうか。

市民感覚や世論が反映されると喜ぶ人もいますが,誰の声か分からず,どれだけの人が思ってるか分からないけど,報道が騒いで増殖していくような世論にいちいち行政や司法が振り回されていたら,大変…と思うのはわたしだけでしょうか。
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死は取り返しがつかないもの

2012-02-21 22:27:40 | ココロ
安楽死法 ‐ 死を選ぶ権利」というのを読みました。真っ先に思ったのは自殺を不治の病の安楽死と同列に語るのは,ちょっと違うということです。

確かにもう安楽死を…という病人は生きるのが辛いのかもしれませんが,死を望んでいるわけでも無いでしょうし,そこにいたるまでは死にたくない…と思っている人がほとんどだと思います。末期がんになった人だって苦痛で辛くなるまでは死にたくないはずです。もちろん自殺をする人だって,本当は死にたくないのかもしれません。でもやっぱりどこか違う気がします。まぁ人が死ぬということは,人の数だけちがうということなのかもしれませんが。

それから思うこと。死というのは取り返しがつかないこと,というのはのはたぶん間違いありません。死んだ人間は生き返りません。死後の世界があるかどうかはわかりませんが,生き返らないのは事実です。ですから,死を選んだらやり直しが利かないのです。だから人は死ぬことが大変なこととなっているのだと思います。自分で死ぬにしても殺すにしても安楽死させるにしても,大変です。

あと,不治の病気で末期の場合,そもそも治療放棄をすれば病人は死にます。それ以上のものが必要なんだろうかと思います。安楽死ボタンなんて不要じゃないですか?。

それからもうひとつ。社会が死を簡単なものと捉えることに抵抗があります。死自体が軽くなり,簡単に死の選択を迫られる様になるかもしれません。人が簡単に安楽死を選べるというのは,合法的に殺す手段を得るということにもなりえます。だれかそれで得する人がいるんじゃない?という気がします。
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お金とコミュ力

2012-02-16 22:40:10 | ココロ
fujiponさんが「「必要なときに、必要な人と助け合う」ことが難しいからこそ、人はお金をつくったし、それが便利なものとして使い続けられているのだと思うのです。」と書いてるのを読んで,はっとした…というか,そうだなぁ…と思いました。

わたしは以前「お金は価値観を相対化し交換可能とした」と書きました。それは,人の命や美的感覚までも数値化するというお金の特性…というか現代社会での用いられ方から,わたし自身が「お金を好きじゃない」という気持ちが含まれてました。

でも今回fujiponさんの文を読んで,価値観の擦り合わせが苦手な人に取ってはお金があって値段が決まっていた方が,楽だし便利なんだな…と思いました。まぁ確かに,物事を交換する…という事が発生する時点で,価値観が数値化されてなかったら,その都度擦り合わせを行わなくてはいけなくて,大変なわけです。物々交換だったり,恩義の貸し借りだったり,そういうのをその都度交渉するのは確かにわたしも面倒です。そういう意味ではお金は,どこかで値決めをしなければいけませんが,決めちゃえば,ある程度交渉が不要(値切り交渉とかありますが)という意味で楽だよな…という気がします。というか値段がついてるという時点で,お金を出せば手に入る事自体は約束されているわけですから。

さて,なんでもお金で測る現代社会が嫌い…とわたしは言いましたが,でも,最近コミュニケーション能力が大事と良く聞きます。これはどういう事なんでしょう?。お金を持っていればコミュ力が不要なんじゃない?,コミュ力つけましょう…というよりは,お金を手にいれればいいじゃない…という気もします。…というかそういう人もいましたよね。金持ちになれば異性の気持ちも買える…と思った人とか…。

コミュ力が叫ばれるのは,お金の価値がどんどん下がっているからか,もしくは一般の人がお金を得ることが不可能という意識になり,お金以外の手段を身につけよう…となっているか…,どっちかでしょうか?…。

どうも後者のような気がしてます。今は格差社会とか就職氷河期とか言われていて…,社会に出る前の学生とか,将来お金を得て自由にいろいろ手にいれる…という自信がなかなか持てないという事なのじゃないでしょうか?。そういえばバブル全盛の頃「三高」というのが女性が男性に求める条件…で,「高学歴」「高収入」「高身長」というものでした。この中には「人当たり」とか「優しさ」とかそういうコミュ力にあたるものは入ってません。身長はともかく,高学歴も高収入に相関があり,つまりお金が人間の魅力になっていたって事でしょう。

多分今はそういうことをメインには求められないように思います。まぁ低収入で困る…という感覚はあるのかもしれませんが,もう少しコミュ力に関係あるものの方が重要視されてるのではないでしょうか?。

…なんとも結論はないのですが,今はお金よりも人間の魅力自体の方が重要視される…って意味では,わたしが望んでいたような世の中なのかも知れません。でもそうなのかな?。本当にそう?…とかいう気持ちも若干残ってます。「コミュ力」「コミュ力」っていうのも何か決まった価値観で人を数値化してるようなものと雰囲気が似てるんですよね。いい人の価値観を一つの物差しで決めてしまうような気持ち悪さというか…。

とかそういうことを思いました。特に結論はないのですが,実はコミュニケーション能力があればお金は不要(またはその逆)…という風には あまり考えてなかったので,なるほどなぁ…と思いました。
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許容量の感覚

2012-02-12 18:53:35 | 環境・自然科学
mixiをみていたら横須賀の給食から放射性セシウムが出たと騒いでいる人がいました。ちなみにリンクした先は,騒いでいる人ではありません。数値をみると2.47Bq/kg…という数値。どこかで基準値(=500)を越えた食品が…というニュースを観てる身としては,なんとも微妙というか…。リンク先を良く見ると,群馬のほうれん草の検知限とか1.8と1.5とかで,足すと(足していいんだっけ?,でも2.47って合計値ですよね?)3.3です。逆に言うと,検知されなかった…と喜んでいても3Bqくらい入ってる可能性はあるわけで,なんとも,この辺の数値で一喜一憂してるのは,妙なんじゃない?…という気がしました。

ついでに書くと,mixiの方は,この給食を破棄しない市に抗議しましょうとか言ってましたが,数値をちゃんと測定して公表してるって事は,各家庭で判断してください…と言ってるわけで,判断まで市に押し付けるような行動は,かえって,数値の公表を躊躇させる可能性があるので,あまり良くないと思います。

とはいえ,わたし自身も500Bq/kgという国の基準が,どれくらいの意味をもつのか良く分からず,自分としての安全基準をどうしようか?悩ましいです。うちには乳児がいるので,漠然と基準値を示されるより,その意味するところを知って,そこからどれくらい安全幅をとるか…という事を考えたいと思ってました。

というわけで,ちょっと調べると,それなりに大学関係の研究者が計算したものがあるようです。

一つは茨城大学の先生作った資料。一定の放射線量の食糧を毎日とり続けたらどこで体内の放射線量がどれくらいで定常状態になるか?…という話。もちろん年齢で異なります。例えば10Bq/kgのセシウム137を毎日取ると,1歳の子は50日で19Bq/kgになる,大人はもう少し時間がかかり,最終的に33Bq/kgになるとか,そういう計算です。念のために書くと全部の食糧が,それくらいの放射線を持つって意味でしょう。

安全の基準が難しいのですが,従来人は放射性カリウムを60Bq/kgくらい体内に持っているので,それくらい…とすると,…で計算してるようです。結論からすると10から20Bq/kg以下だと毎日取っていても,それを越えないかな?…という感じみたいです。

もう一つ。学習院大の先生がつくったページ。途中の計算が詳しいですが,結論的にはだいたい同じです。まぁ元のデータが同じなんでしょうけど。

この辺の数値を信じるとして,じゃぁどれくらい許容するかは,人それぞれでしょう。良く報道で放射性セシウムを含んだ食糧が出た…と報道しますが,出たら話題になるので,少なくとも基準値を越えた食糧を定常的に採るって事は無いでしょう。また一つの材料がその値でも,料理をすれば,他の食材や水とかで薄まりますから,全体の放射線量はもっとさがります。なんらかの手違いで食べていても,後は検出限以下の食糧を食べていれば,そんなにあがるものでもないでしょう。基準値越えの食糧がたまに出ることにあまり過敏になる必要もないのですが,日常的に出回るとマズイので,それなりに騒ぐことには意味がある…って感じでしょうか。

ただし,国の基準の500Bq/kgは高いかなぁ…という印象をもちました。日常的に取るにはムチャな高さだと思うし,瞬間的に食べるにもちょっと高いかな?。これが100くらいなら,瞬間的に食べても,量も少なければ,とも思うけど…。まぁこの辺の感覚はわたしの感覚で,人によっては,これくらいでも我慢できない…という気持ちには同感ではありますが。

まぁあんまり食べ物にピリピリするとしんどい…というのはあります。わたしは癌の手術をした後,お酒も牛肉も怖くて食べれなくて口にいれたら吐き出すなり,そうじゃなかったら数日おびえたりしてましたが,そういうのってかえって病気になるようにも思います。念のために書くと,これは原発事故とは関係ない5年前の話です。肉とかお酒ががんに悪い影響を与えると思っていたから。

その時散々考えて思ったのが,がんの原因って良く分からないのですが,だからこそいろんな食べ物をまんべんなく食べるのが一番いいということ。今回の話も,いろんな地方の食べ物を広く食べていれば,結果的に放射線量は,単品の放射線量より下がるわけで,そういう風にやっていくのがいいんではないか?と思います。
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アバンギャルドからスタンダードになる年頃

2012-02-11 12:27:30 | 音楽・アート
キースジャレットが83年に出した(録音した?)アルバムに「Standards Vol.1」というのがあります。これはキースがピアノトリオでスタンダードを演奏するというものですが,非常に高い評価を受け(実際すばらしい作品です),この後キースは現在までこのメンバーでスタンダードを演奏し作品をつくり続けてます。

最近のキースの活動しか知らない人は,このスタンダーズトリオとソロピアノの演奏が彼の活動と思っているかも知れません。83年というとキースは30代も終り…で,そこから20…いやもう30年近いわけですから,かれの音楽生活の半分がこの活動になるわけです。ところが,スタンダーズを出す前のキースは実に多彩な作品を残してます。そもそも彼を有名にしたのがチャールズロイドのグループで,フラワームーブメントの色合いを強くもつ今のバンドは楽器こそ全部アクゥースティックですが,ロックのビートやメロディの要素を多く持ってます。その後電化したてのマイルスのバンドでフリーっぽい演奏をし,その後は自身のバンド。自分のバンドはほとんどアクゥースティックですが,やっぱりロックやゴスペル,そして民族音楽の影響を強くうけたようなサウンドにフリーな構成を合わせた,彼独自の音楽…という色合いが強く,この当時のキースは,演奏能力のバツグンの高さを持ちながらも,旧来のジャズファンには異端扱いをされていた…という風に聞いてます。その分若いジャズファンにはファンが多かったんでしょうけど。

そういうキースがもっとも油が乗り切った40前後にスタンダードを演奏し,その内容もフリーとかじゃなくて,極めてメロディを丁寧に演奏するというシンプルなスタイルったわけですから,旧来のジャズファンもキースのファンもびっくりした…事だろう…と想像できます。で,双方に嫌われるかというと,多分双方に絶賛だったわけです。

この辺の話,わたしは当事者じゃないので,幾分想像が入ってます。

さて,パットメセニーですが80/81というアルバムがあります。タイトル通り80年頃の作品です。このアルバムは,アクゥースティックギターを弾くフォーク調の曲もありますが,サックスを入れたクァルテットで,若干フリー色はあるものの,いわゆるジャズを演奏してます。

で,この作品を出す以前のメセニーも,自己のグループで,シンセを使ったり,ポップなビートとかを取り入れたサウンドでいわゆるフュージョンミュージシャンと思われていたようです(インタビューで読んだことあります)。ところが80/81でジャズを演奏したところ,やっぱりこれまでまるで関心を示さなかった旧来のジャズファンが絶賛したわけです。

この二つの話。時期が近いので,そういう時期だったという気もするのですが,いずれもジャズファンがジャズじゃない…と嫌っていた音楽をやっていた,その分野での人気ものが,ジャズをやったら,ジャズファンが驚いて絶賛した…という構図になってます。なぜ絶賛したか…というと,普通にジャズしてたから…じゃなくて,やっぱりジャズでありながら,どこか新しい,つまりジャズに新しい空気をもたせそれを旧ジャズファンに分からせることができたからでしょう。

こういうことって良くあるように思います。若いときに自分の独自の表現を探して,作曲,アレンジ,編成,音色,節回し…などいろんな事で,人がやってないことを試していく。だけど,そういうのを一通りやった後に,普通に伝統的なスタイルで作品をつくると,非常に幅広い人に受け入れられる…と。そこまで探求していた独自の表現は,一部には好評でも多くの人には理解されにくい,そこで入れ物を旧来のものに変えると,旧来の人にも分かりやすくなるわけです。もちろん,それをするには,それまでに自分の独自のスタイルを確立している…ということが重要なポイントとなります。

実際オリジナリティを確立した人は,普通に普通の事をやっても独自になるわけで,敢えて独自な表現をする必要がありません。しかし,それは産まれながらに持っているものとは限らず,若い時点では,それを探求する模索も必要になるわけでしょう。それをやったからこその,オリジナリティになります。

キースとメセニー話を書きましたが,同様の試みは結構良く見ます。様々なミュージシャンが,ある程度のキャリアを積んだ後に,古い曲のカバーを歌ったり,ジャズとかに手を出したりします。それは良い作品の場合もあるし,実際聞きやすいのでヒットする場合が多いです。まぁキースとかが突出してるのは,その後,彼は30年近くそれを続けていても,尽きないほどの,オリジナリティを持っていることでしょうけど。メセニーも,今でも時々アクゥースティックジャズのアルバムを良くだしますし。

音楽以外でも,このやり方というのは,参考になると思ってます。本当にオリジナリティがある人は,普通の事をやったときにこそ,多くの人に伝わる自己表現になる。普通のことをしていてもカッコイイ…,そういうのに憧れます(^^;)。

若いときにはいろんなことを模索して,枠から外れ,もがくように,自己を拡張していく。若いときにに型にはまろう…と思うのは,自分の可能性を閉ざしてしまいます。しかしどこからかは逆に普通にやることが重要です。いい歳をしていつまでも人と違うことばかりを強調しているというのみっともないし,人に伝わりません。

わたしはそう思うし,そういう風に目指して欲しいと若い人には思います。
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下手人は必要ですか?

2012-02-08 22:51:28 | 社会
fujiponさんが紹介した「僕のお父さんは東電の社員です」という本の件,そしてそれを読んだ,北沢かえるさんの文を読んで,何とも暗澹たる気持ちになりました。この話題…,なんども書いてるので今更かも知れませんが…。

組織としての東京電力が叩かれるのは,叩かれるだけの意味があると思いますが,その社員一人一人を叩くのにどういう意味があるんでしょう。そうすることで,なにか社会が良くなるんだろうか?…という疑問を持ちます。もちろん,最初に紹介された本…で社員の子供が言ってることは,彼の認識違いで,別に彼のお父さん個人が叩かれているわけでも無いのかも知れません。ただかえるさんの意見は,結局その社員の家族にまで責がある…と言ってますよね。

なにかとんでもなくひどいことが起きたとき,なぜそれを誰か「人」のせいにしなくてはいけないのでしょうか?…。昔,いざこざが起きたときに誰か責任をとる人を無理やり仕立上げて,その人を処刑することで丸く治めていた…ことがあるって聞いたことがあるけど,どうもそういうのと似たものを感じます。そういう考えが冤罪の元になってるとも思うし(犯罪者を捕まえるのではなく,犯人を仕立上げることによって事件を終わらせる),とても野蛮な考えに感じます。

悪い人を決めて,どこかに縛り付けて,みんなで石でも投げかねない…,そういう空気を,感じて気持ち悪いのです。

指摘されているように,わたしも現在の原発事故で起きたことに,第二次大戦中の軍部のこととかを連想します。ナチスのことは思いませんでしたが,悪い状況に向かっているのに,何もできなかった日本の軍部のこととか,そういうことを思い出します。ですから,わたしはこういうことは東電じゃなくても,普遍的に起きがちな事なんだなぁ…と思います。であれば,個人を責めてそういうことが起きないように出来るのでしょうか?…。罰を与えれば,みんな懲りて,気をつけるようになるんでしょうか?。わたしはそうは思いません。

普遍的にこういうことが起きるのであれば,東電じゃなくてもこういうことになります。わたしが思うのは,東電の社員の様な立場に我々がならない保証はない…ということです。東電を叩く人は,そうならない自信があるのでしょうか?

もちろんわたしの会社は原発なんて作ってません。事故を起こして,数万人の人が自宅に帰れないようなものはつくってないし持ってません。他にもいろいろ社会的な問題に問われるようなことが起きないように…と気をつけてるはずです。…でも会社の全てを知ってるわけではありません。どんな会社でも,なにかの運用のミスで,社会に迷惑をかける可能性はありますし,その対処が後手に回り,事態をひどくすることもあり得ます。

それに会社じゃなくても,我々が社会生活をしていて,他の人から後ろ指を指されないこと…って自信あるんでしょうか。一時期,先進国が途上国からものを買うことで,現地の子供達が過酷な労働をしてるとかいう論調があったり,はたまた日本人が世界中のマグロを食べてるという話があったりとか,普通に生活をしているつもりでも,どこかから恨みを買ってる可能性はあります。原発じゃなくても,電気を使ったり車を運転するために石油を燃し,二酸化炭素を吐き出して,どこかの島を沈めている…と思われている可能性だってあります。そんな迷惑をかけてると知らなかったから自分は悪くない…というのでしょうか。それでも多分恨みは買います。

そういう恨みを買う対象に自分がならない保証は,多分どういう生活をしていてもない…というか難しいと思います。だから,わたしは「人」にたいして攻撃するという風潮にぞっとするのです。

民主主義や株式会社…というシステムは,人じゃなくて,別のものに責任を負わせるためにあるんじゃないですかね。ですが,どうも人は,システム的に責任を取らせるだけじゃ,納得出来ないようです。まぁ民主主義や株式会社で不正が起きないわけではないから,当然なのかも知れませんが。
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行政が新エネルギーに取り組むということ

2012-02-04 15:08:40 | ひとこと
先週,首都高で金沢区あたりを走っていたら巨大な風車が見えました。大きいなぁと思って調べたら,110m以上あるとのこと。風力発電というと,10年くらい前から話題になって,日本でも何カ所かに出来てます。わたしの実家からも天気が良ければ阿蘇の風力発電所が見えたりします。

さて,ちょっと前に北海道の風力発電が収入では修理費をまかなえないので停止するというニュースを見てました。…と思ったら読売は再度同じニュースを取り上げてますが,なにか風力はダメとでも強調したいのですかね?

風力発電が日本で話題になった頃,わたしは幾つか懸念がありました。一つは黒字運営出来るのだろうか?ということ,次に,騒音や振動など周囲への環境の影響はどうなのだろう?ということ,台風などの災害時に壊れないのだろうか?とういこと,そして,この建設の利益はどこにいくのだろう?…ということです。

北海道の件は維持費(修理費)を含めると黒字にならなかった…ということになります。黒字を出せないような発電器を無理に維持する必要な無いから,停止すること自体は反対ではないのですが,これで風力発電はダメ…という印象になってしまうとどうかな?…と思います。この様な話は多分これからあちこちで出てくるでしょうし,風力発電以外の他の,新しい発電方式でもそういうことが起きるでしょう。まぁ原発も燃料の廃棄コストまで考えると赤字ってことになるみたいですけど;-p。

一番大事なのは周囲の環境へ悪影響があるかどうかですが,それがもしクリアできてる,もしくはクリアできる場所に建っているのであれば,次にわたしが気になるのは,こういう設備をつくるときに,どこの(国の)技術と業者を採用するのか?ということです。赤字になるのは,売電の量が少ないということもありますが,管理費や修理費がかかるから,そして建設費用がかかるからでしょう。これらは普通に考えたら,同じようなものを何度も作って,沢山つくって管理を効率化すれば,下がっていくものです。最初につくるときは開発コストがかかりますが,再生産の場合は材料費と人件費と必要経費で出来ます。通常一番高いのは開発費です。

となると,その開発はどこがやったのか,が重要なわけです。もし開発を日本の会社がやっていれば,多少高い開発費でも日本の技術を育てることになるし,その技術を海外に売れば,日本の儲け(税収)や人材確保という点でメリットがあります。最近行政に効率化ばかりを求める声が多いようですが,本来は行政は未来の儲けに繋がる部分には損をしてもやるべきです。

で,今回の場合,風車はヨーロッパ製なわけです。わたし的にはそこが問題な気がします。もちろん工事とかは日本人がするのでしょうが,建設時の開発費はヨーロッパのメーカにそっくり行くわけでしょう。

もちろん,日本に技術がない場合,海外のものを導入し,それを勉強することは大事です。でもずっと海外のものを買っていれば,日本のお金が一方的に海外に流れていくことになります。日本のものを買っていれば,行政が赤字でも,雇用創出になりますし,儲けたメーカは日本に税金を収めます。

わたしは原発がうまく行かない以上,風力なのか太陽なのかその他なのかわかりませんが,新しい発電方式の開発を進めていかないとしょうがない…と思います。ですから,その中には当初は赤字なものが沢山あってもしょうがないでしょう。ただ,それは出来るだけ日本のメーカがつくって日本に技術を蓄積しなければいけない…そう思います。個々の発電が赤字かどうかは問題じゃなくて,それが長期的にみたら,日本に富をもたらすか?…という視点なんだと思います。

ちょっと余談になりますが,アメリカやフランスが原発に一生懸命なのは,それが自分の国の技術だからでしょう。彼らが原発を安全だと言いたいのは,海外につくる原発が自国に利益をもたらすからです。それが悪いとは言いませんが,そういう事だ…と思って彼らの行動をみる必要があります。

まぁ日本も原子力発電の技術を磨いて,海外に売りたかった…っていうのが本音なんでしょうけど。日本の地震に耐えたら大丈夫…って言えたのかも知れませんが,どっちにしても海外は運用がいい加減だから,日本でうまく行く技術が海外でうまくいくかどうかは,わからないのですけどね。
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感覚的に論じてるのに科学的だと信じる人が多い?

2012-02-02 20:17:55 | ココロ
ネットで原発の放射線の影響についてLNT仮説を紹介した東大の安冨先生を批判するツィートをみました。LNT仮説というのは初めて知ったのですが,影響を一人当たりで受けた量×人数で計算するというやり方だそうです。この計算だと,どんなに放射線が低くても,人数が多ければ多少の被害者が出るということになるそうです。

批判してる人は,この仮説はおかしく,この仮説を元に議論している東大の先生を批判してるものでした。ちなみに東大の先生はなにを言ってるかというと,閾値があるから安全という説にたいして,それは正しくないみたいな事を言ってます。…かな。

LNT仮説は知らなかったのですが,少なくとも読んでいて安冨先生の論じ方は普通に自然科学の議論としてはおかしいところは無いと思いました。それよりそれを批判してる人の方がどうもおかしい。でもその人は自分は科学的に正しくて,先生の方がおかしいと譲らない。しかもネットで二,三日前に話題になった東大的な発言を取り上げて,それで揶揄してる。世間一般の人が思う科学的ってこんなことなのか…と思うと,かなりガッカリしました。

科学的な議論って一般の人の感覚にあわないのだろうと思います。というか,科学は感覚的に論じるのを廃するので当たり前と言えば当たり前です。でもネットとかで生半可な知識を仕入れて自分は科学的に論じてると信じてるいる人が多いなぁと思います。たぶん元々100%感覚だったのに20%ぐらい科学的なテクニックを取り入れただけで科学的に論じてると勘違いしてしまうのでしょう。でもそういう議論の仕方にはどこか肝心なところに感覚的な選択が入っていたりするものです。

もっとも科学的な議論の進め方も論理的に繋げていくのと統計的に繋げていくのではまったく違います。以前書きましたが,おそらく人間は統計的に論じることを感覚的に受け入れられないのだ思います。LNT仮説は統計的な考え方の様に思えます。放射線の影響を遺伝子レベルでカウントするので,統計的に考えざるを得ないし,人間一人ひとりではなくて,人を遺伝子の塊として捉えて合算するので,ここも統計的な扱いになります。ただ遺伝子に影響を与えた放射線の振る舞いと,変異した遺伝子の振る舞いを一つ一つ追うのは不可能だから,統計的に観るのは案外正しいのでは?という気がしました。つまり私はLNT仮説は個々に観るとおかしな理屈だと思っても,人間全体から見ると,案外数値的には合うんじゃないか?と,私の感覚的には思いました。というか否定する根拠があまりないと言った方が,科学的かな?。

それから,余談といえば余談ですが,安冨先生を批判してる人のほうは自然放射線に悪影響が無いと言ってる。その根拠は何?と思います。私はたぶん自然放射線でガンになってる人は沢山いると思います。実際人間の3分の1はガンで死ぬのです。その原因のほとんどは特定されてません。放射線の影響でなってる人が相当数いてもおかしくありません。まぁでも放射線を80年浴びてとか,そういう結果かもしれませんが。そういえば,原発の放射線の影響も,ある,ないで論じられてるけど,何十年後かって話は全然聞きません。80年後かもしれないけど,それでも大騒ぎでしょうか?。
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