たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

核をもつと本当に国を守れるのだろうか?

2010-10-31 23:31:54 | 社会
石原知事が日本も核を持つ議論をすべきとか言っていた。

わたしは日本が核を持つメリットが良くわからないので,持とうとは思わないのだけど,案外ネットではこういう石原氏の意見を支持する声もよく聞こえました。石原氏が「タブー」と言っているように,核を持つことに反対すると,どうも思考停止してるように思われるのかな?とも思いますが,でも,考えても良くわからないので,とりあえず書いておきます。

分からないのは核を持つメリット。本当に核を持っていたら日本は守れるのでしょうか?。日本はアメリカの核の傘に守られているとはよく言われますが,日本が核を持てば,アメリカの傘は不要になるのでしょうか?。そもそも核を持ったとして,その核はどういう場合にどの様に使うものなのでしょうか?。どこかの国がどういうことをしたり,どういう攻撃をした場合に,核はどの様に使うと効果的なのでしょうか?。よく分かりません。相手が撃ってきたら打ち返すのか?。撃ってこなくても撃ちそうだったら先に撃つのか?。そんなことをやったら,他の国に批判されないのか?。

核を持つべきだという人は,あたかも核を持っていたら,敵が攻撃してこないと言いたげですが,使い方を決めて無い兵器なんてもっていてももてあますだけです。また今核をもっていない国が新たに核を持つと,その過程で,どれだけのほかの国に批判を受け,関係が悪くなるやら,その辺も考慮してるのでしょうか?。

核を持っている大国はたくさんありますが,実際に核を戦争に使ったことがあるのはアメリカだけです。しかも日本との戦争以降,まったく使ってません。核を持っていても紛争を行っている国はたくさんあります。核を持っていてもテロも受けます。核をもってないから国が滅んだ…という例があるのかも良くわかりません。

核さえ持てば,あたかも国のランクが上がるとか独り立ちできるという考えこそ,近所の某国と同じような感覚の様な気がして,それこそちゃんと考えているのか?と思います。
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本屋

2010-10-29 20:14:09 | 社会
アマゾンが本屋でバーコードの写真を取ると,通販で本を買えるサービスをやるらしいという話を聞いて,それは
ちょっとひどくないか?という気がしました。よく読むとアメリカでの話みたいですが。

ひどいなと思ったのは,それはアマゾンが本屋をショールームとしてただで利用してることになるからです。ネットでの反応をみると,何が悪い…みたいな意見があったり,本は重いからネットで買うという人もいて,こういうサービスに肯定的な意見もあるようです。

本を買うのはネットで充分という人も多いようですが,本が無くなれば現物を見て買うことが出来なくなりますし,本棚や平積みから本を見つけることも出来なくなります。本は誰かの推薦や広告のみからしか買わないという方は,それでもいいんでしょうが,わたしは本屋で見て買うことも結構多いので,それは困ります。ネットで買うこともありますが,多分8割は本屋で買ってます。

…まぁ是非についてはこれくらいにしておいて,じゃぁ本屋はどうするか?ということ。

この記事を読んだときに,日本は本屋は再販制度で定価売りしかできないので,価格競争が出来ない,であれば,ポイントカードとか,おまけをつけるとかそういうことをするしか無いのだろうな…と思いました。と思って,今日ちょっといつも行く本屋にいったら,ポイントカード始めました…とかやっていて,まぁこういう流れになるなぁ,と思いました。

で,もう一つ思ったのが,家で本を注文する人はどうしようもないけど,本屋でバーコードを読んで注文するような人は,別に本屋まで来てるんだから,もってかえるの重いとかいう人には,配達するか,もしくは本屋が通販をして,その場で注文できるようにすればいいのでは?という気がします。もちろん,そのシステムを始めるにはある程度規模が大きい本屋で無いと無理でしょうけど。

でも携帯で撮ってメイルするっていうなら,本屋自体にはシステムはいらないんですよね。いかがでしょうか?
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正しく報道されないがんワクチン試験の件

2010-10-25 07:12:53 | 医療・福祉
先々週流れたがんワクチン被験者が出血していたという報道。

元々は朝日がした報道らしいですが,わたしはTVのニュースで聞きました。

膵臓がんの患者と聞いて気になりましたが,一方でよく分からない…という印象を持ちました。こう書くとひどいかもしれませんが,膵臓がんというのは極めて進行が早く,被験者をやっていた進行性の場合,ワクチンを打とうがうちまいが出血はあり得るから,本当にワクチンが原因かはっきりしないのでは?ということです。

よく分からないので続報を待っていたら,がん患者の方からは報道がおかしいとのコメントが目立つようになり,当事者の東大の方も報道に反論。そして多くのがん患者が報道に対しての抗議(PDFファイルです,ご注意を)を発表してます。

報道には多くの間違いがあるのですが,重要な点を書くと,被験者の出血はやはりワクチンのせいとはいえなかったとのこと。つまりそのことでワクチンが危険とはいえないということになります。しかしこの報道を受けて,臨床試験はストップしてしまってるとの事です。

わたしは以前も書いた気がしますが,健康な人や軽症の人と違い,進行性がんの患者はほっておいても近いうちに死ぬわけで,そこで求められる薬の安全性は予防ワクチンや風邪薬とはまったく違うと思います。つまり多少の悪い作用があっても,延命に効果があればいいのでは?とすら思います。実際がんでなければ毒として使用できない薬が,がんの薬として使われることもあります。がん細胞は元々本人の細胞であり,それを攻撃する薬ががん以外の体にもダメージを与えないわけはありません。それでも延命や症状緩和を期待してがん患者は薬を受けるわけです。

特に膵臓がんは認可されている抗がん剤がほとんど無く,新しい薬の承認は多くの患者が期待してます。それを,事実異なる報道で,治験への流れを止めるというのは,報道が多くのがん患者を見殺しにしているといえなくもありません。

がん患者が報道に抗議したのは,そういう部分もあるのだと思います。なぜかこの声明も報道は報道に対する抗議と受け取れない報道をしてます

いつも思うのですが,なぜ報道は間違った報道をしたときに,きちんと訂正を行わず,単に無視して,世の中から忘れられるのを待つような事をするのでしょう。一般の人々に謝ったイメージだけ植えつけて,そのまま時間が経つのを待っている様に見えます。謝罪はできないとしても,訂正をきちんと流すことをしないのは,報道として悪の様に思います。
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遺族との関係

2010-10-23 07:12:21 | ココロ
産経新聞の「悲しみのない死」というのを観て,皮肉めいていうと最初,悲しみが無いのならいいじゃないとか思ったりしました。もっとも続けて,「放置される肉親の死 「ぬか漬け容器」の中に「遺骨」」なんてことが書いているので,悲しみが無い死というのは,誰も供養をしないってことなんでしょうけど,だったらそう書いたほうがいいと思います。

わたしは年寄りの死と遺族との関係は極めて家族の中の問題だと思ってます。リンクの例は亡くなった方がいくつか分かりませんが,たとえば80歳とか越えた人の死であれば,わたしは基本的には,充分に生きた上での死であると思うし,子供などの遺族との関係はその人にも多くの責任があるため,供養してもらえるもらえないというのは,やっぱり当人達の問題だと思います。

これが,乳幼児と親との関係になると,子供には何の責任も無いしこれからの未来を考えると,他人や社会が子供にたいして関与するというのはありかも,と思うのですが,老人が死ぬときに遺族に喜ばれようが,悲しまれようが,それはやっぱり本人の責任だと思うのです。

リンクの例は,結果的に,遺骨を他人に預けるという意味で,他人に迷惑をかけているので,けしからん話でしょうが。これが海に撒いたり,山に撒いたり…というのが,法律の許す範囲であれば,別にいいんじゃない?と思ったりします。

その人が死ぬときに,「もっと生きて」と思われるか「充分に生きたね」と思われるか「苦しさから逃れられて良かったね」と思われるか「やっと亡くなってくれた」と思うかは,面倒を観た人と本人の問題でしょう。これだけ介護疲れが問題となってるときに老人の死を「悲しみの無い」と批判じみて書くこと自体に,浮世離れした感じがします。人の死を無いことの様に扱う文明が,介護疲れを引き起こしているんじゃないか?とすら思います。

人は供養されることにより永遠の命を得ることが出来るとわたしは思ってますが,それは社会の問題じゃなくて遺族と本人の問題だと思います。第三者が問題にするようなことなんでしょうか?
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環境という経済戦争

2010-10-21 22:17:02 | 環境・自然科学
先週クロ現で生物多様性の話をしてました。ちょうどCOP10(国連生物多様性条約第10回締約国会議)が行われているからとのことで,今日もニュースで先進国と開発途上国の間でなかなか合意が出来ない…という話をやってました。

地球温暖化の件もそうでしたし,生物多様性の件もそうですが,この手の話は「自然を大事にしよう」という総論自体が反論しにくいため,議論を揶揄したり,批難とかしにくい感じがします。わたしも自然は大事だし大事にしないと,人類は痛い目に遭う…と思ってますが,それでも,はたから見ると,話はあまりそういう単純な話でも無い,おそらくそれぞれの国の思惑は,自然のことより,技術,資源を元とした経済戦争を行うルール作りなんだろうな…という風に見えます。各国の思惑はかなり複雑ですっきり書きにくいので,いくつか突っ込み調で思うところを書いてみます。

地球全体の話のようにみえるけど,結局主題は南北問題。発展途上国のリソース(資源,自然,人)を利用し先進国が儲けるというのが元々先進国のビジネスモデルで,第二次大戦後植民地支配はほとんど無くなったけど,結局その構造は変わっていない。発展途上国は自分達も先進国の様になろうとしてるけど,だけど,じゃぁ彼らはどこから搾取すればいいのか分からない。もしくは安い労働力で伸びてきてる発展途上国を押さえるために二酸化炭素や,生物多様性問題を先進国は利用してるんじゃないか?という気もする。一方で,発展途上国が自分達が作った作物や掘り出した資源をカードにしようとしてるけど,結局その資源の価値を見出したのも先進国だったりもする。レアアースとかそうだけど,先進国が代替品を発見したら,また価値が変わってしま。

ヨーロッパは帝国主義時代に海外に植民地をたくさん作り搾取の構造を作ったけど,そもそもそれ以前にもヨーロッパの中やアジアに向けて侵略戦争を繰り返していたわけで,そういうビジネスモデル以外作れないのだろうか?あとローマ時代に森林伐採をやりすぎて町が滅んだり,グリーンランドも入植開発しすぎて人が住めなくなったりと,自然破壊も昔からやっていてこのモデル自体も変えられて無いように思う。

生物多様性ということで,オランウータンやゴリラやアジア象がでてきたけど,結局発展途上国へのけん制になっているように見える。もしかしたら1000年位前はヨーロッパも多様性があった生物を滅亡させていて,今は,人間の開発と共存できる動物だけがそこにいる…ってことじゃ無いのだろうか?。

結局西洋の途上国からの搾取により経済をもたせているっていうのが続く限り,両方が協力し地球を守るとかいうのは無理じゃないか?という気がしないでもない。逆に途上国は先進国型の成功を目指すのに無理があるんじゃないか?という気もする。

かってのSFや小説とかでは,自然破壊を人間が進めていくと,最後は災害により人間が痛い目に遭うという絵が良く描かれるけど,実際はおそらくその前に人間同士の争いが起きて,そっちの方で滅びるか,文明が後退するか,どっちかなんだろうなぁ。今の話し合いがまったくの不毛とは思わないし,理想に近づいて欲しいとは思うけど,そういう悲観的なことが頭によぎります。
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時間の使い方

2010-10-18 23:11:10 | ココロ
ネットを見ていたら時間上手になるためのポイントなる文がありました。ほかにも似たような話があって,なんだろうね?今,時間の使い方が話題なのか?とか,ちょっと思いました。

で,少し自分のことを考えてみると,わたしの場合,結婚して嫁と住み始めて,ほとんど朝夕を自宅で食べているわけで,会社に遅くまでいることは稀です。毎日毎日延々と長時間働いている自覚はないし,昼の仕事中もみっちり時間が詰まっている感じでもない。そう考えると,自分は時間の使い方がうまいのだろうか?,単にサボっているだけなんだろうか?,とか思ったりもしたので,自分のケースを書いてみて,どうなのかな?と自問自答してみます。

ちなみにわたしは会社では研究職で,管理職でもあるので,研究とかマネージメントとか,開発とか,どこかの依頼仕事とかいろいろありますが,普通の仕事とはかなり内容が違うかも知れません。

会社の仕事をメインで考えますが,わたしは「やるべき仕事」「やりたい仕事」「やっておくべき仕事」というのはいつも意識して分類してます。あと,スケジュール感でいうと,「今すぐしなくてはいけない仕事」「○○までにしなくてはいけない仕事」「いつかやらないといけない仕事」「多分やらなくてもいい仕事」みたいのも意識してます。

やるべき仕事というのは,人のためにやる仕事で,お願いされたり,手助けをしないといけない仕事。これは優先度が高いし,内容も具体的で,アウトプット先も明確なので,取り掛かりやすいです。ただ人から言われた仕事はそれだけをやっていると,仕事に追われて終わってしまいます。それでいい人はいいんですが,わたしの様に研究をする必要がある場合,それだけやっていたら,新しいことを考える暇が無くなり煮詰まってしまいます。つまりそれはやりたい仕事ややっておきくべき仕事ですが,それをやる時間をつくるのは経験的に難しいです。依頼仕事というのは雑用も含めて,ょっとした時間があればできますが,やっておくべき仕事は結構自分でモチベーションを高めないと始められない様に思います。あと,雑用をやっていると,「仕事をした気になる」という問題もあります。

あとスケジュールの話。ToDoリストを使うとかスケジューラを使う…というのがいいのかどうかはわかりません。わたしはこれらも使ってますが,全ての仕事を書いているわけでもなく,基本的にはやる仕事は全て頭に展開しています。ToDoリストに書くのは,うっかり忘れそうな仕事…の場合が多いです。

やる仕事を頭に展開し,締め切りを考慮し,出来るだけ一つの仕事が短時間で済むように気を使って始めます。もちろん一つの仕事といっても,かかる時間は様々で,さっと一枚書いて終り…というのもあれば,実験やコーディングの様に数時間とか数日かかる作業もあります。わたしはあまり作業をしながら考えるのが得意じゃないので,作業に取り掛かる前に十分に頭の中でやり方を考えたり,その為の情報を集めるのに時間を費やし,短時間で出来そうと思ったときにやることが多いです。ですから,あまり一つの作業を淡々とやることは少ないように感じてます。あと一日でいうと,短い時間で済むことはなるべく早い時間に,時間がかかる仕事は午後…にやることが多いです。短時間で済む仕事は,進んでいる感じがするので,疲れにくいし,そういうのを早く終わらせておけば,数の上ではやる仕事が減るので,長くかかる仕事をしてるときに,気にならなくて済むからです。時間がかかる仕事を早くやると,その後ぐったりするし,一日がそれだけで終わってしまったりして,後で大変だったりします。

考えてみると,わたしが気にしてることは,モチベーションをどう高めるか?…のような気がします。やりたくないなぁ…と思ってるときは,どうやってそれをやる気にさせるか…とかを気にしてますし,どうにもならない場合も多いです。わたし自身は長時間の仕事をしていないつもりですが,実は結構精神的には仕事が溜まるとプレッシャーを感じるので,貯めないようにさっさと小さい仕事を片付けてるということなのかも知れません。あと,早く帰ると書いてますが,それは遅くまで仕事をすれば仕事が片付くと思っておらず,仕事が遅くまでかかりそうだったら,明日の早朝にやった方がいい…と考えているからです。それでもどうしても今日中に…という場合もありますが,それは多分年に数回あるかないか…です。

自分の仕事のマネージメントは結局のところ,自分の性格や能力に合わせてつくるべきですが,時間繰りとかはルールとして意識していた方がいいように思います。今日は特別とかいって遅くまでやってると,それが普通になります。毎日終電に帰れるのであれば,多分毎日19時にだって帰ることが出来るはず,わたしはずっとそう思ってそうやってきています。

…と書いて,なんかまとまらずグダグダになりました。やっぱり一日の日記に書くようなネタじゃなかったかな。整理してじっくり書いたほうが,いいかもしれないな,と思いました。
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義務教育が機能して無い?

2010-10-14 07:26:50 | 社会
新聞で「生活保護世帯の子に進学支援拡大」って表題を見てどういう話だろう?と思ったら,自治体が中学生に無料の学習教室を開催したりする…という話だった。

いい話のようで,根本的なところで「?」が頭をよぎる。冒頭の「低所得や家庭環境が原因で子どもが教育機会を失い」という文を読むと,日本には義務教育が無いのか?とか,初等,中等教育にお金がかかるのか?という風に読めてしまうんではないか?。最初高校生とか大学受験の話か?と思ったら中学生なので義務教育の話。義務教育って社会にでて必要な最低限の知識や学力がつくようにあるのか?と思っていたのですが,どうもそうじゃないってことなんだろうか?。…っていうのは皮肉で実際大学になっても,分数の計算も満足に出来ない人がいるので,それって貧困のせいなのか?:-p。

いや,もちろん分かって書いてるのですが,やっぱり変だなと思うのは,つまり貧困な人が教育機会を失うというのが本当であるのであれば,日本の義務教育が機能して無いということでは無いのだろうか?。そしてその解消が国ではなくて自治体の施策に頼るのであれば,国は教育を放棄してるってことではないか?。いやつまり憲法違反じゃないのか?という事。

もちろん現実問題として,すべての生徒をフォローのが困難だとか,その際に落ちこぼれと進んでいる人とどっちにあわせるべきか?とか学力以外に教えるべきこととか,義務教育の問題がいろいろ難しいのはわかるのですが。

低学歴が自立の壁になるというのであれば,高学歴が自立には必要ってことなんでしょうか?。最近は高学歴ワーキングプアという言葉もあるんですが。

というわけで,教育に行政が力を入れるのはいいことだと思うものの,どうも,根本的なところでの姿勢が変じゃないか?という気がしました。ただ教育機会を与えればよくて,その内容がおかしくなってるって所から目をそらしてるんじゃないか?という気もします。進学こそが教育という考えは受験勉強だけを子供に強いることになり,実学の教育を教える機会がむしろ減る気もします。自立のために高学歴にするという考えもあるのならば,逆に低学歴でも充分に社会に役に立つ教育をするという考え方もあるかとは思うんですが。
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家庭の事情と個人情報

2010-10-08 01:26:02 | 社会
アメリカ在住の人(日本人)と話した話。

その人は,日本の企業が社員に健康診断を受けるということを,会社として実施すること,また会社が社員に「健康状態」とか「家庭の事情」を報告することを要求する経験を,かって日本にいたときやっていて,それって個人情報なのに…と違和感を感じたそうです。

あまりそういうことに違和感を感じてなかったのですが,なるほどと思って,そういえばとも思います。

すべての会社がそうだとは思いませんが,日本の場合企業が社員に健康診断を受けさせるというのは,例えばお金を出して勝手に受けて来い,じゃなくて,大会社だったら会社に医療スタッフを呼んで,そうでなかったらどこかの診断施設をまとめて予約して日程を指定して,社員に受けさせるんでしょう。その結果は本人にはもちろん返ってきますが,普通に考えると会社が見ることもできそうです。実際に観てるかどうかはわかりませんが,少なくとも「見て無い」と言い張ることは難しいそうです。

家庭の事情を報告するというのは,これも会社によるかもしれませんが,人事に提出する資料にそういうことを自己申告する欄があったりするという意味です。ここで例えば「子供が転校できないので,異動の際は単身赴任を希望する」とか,さらに「介護してるので転勤はできません」とか書くことが可能です。もちろん,そういう事情があっても書かないという
手はあります。

そういうのは個人情報だ…というのはごもっともですが,日本の場合,社員がそう書いても抵抗が無いのは,多分,そう書くことによって,何か考慮をしてくれるというのを期待しているからでしょう。実際に,単身赴任になるとか,転勤を拒否するというのは(ペナルティが無いわけではありませんが)考慮してくれるケースが多い様に思います。

ちなみに自分の場合,例のガンの手術をやった後,人事資料にそのことを書こうか悩みましたが,直接の上長と相談して,健康状態を「普通」ぐらいにした記憶があります。実際は異動があったら耐えられなかったのですが,上長がその辺はうまくやりくりして,実際の人事記録としてその辺は残ってないことになってます。もっとも会社の健康診断でガンが見つかってるので,会社の人事ラインがそれを把握していたかは分かりませんし,実際昇格にずいぶん苦労したのも,健康問題では無いか?といわれていたりしてるので,やっぱりわたしの健康状態を考慮した人っていうのは結構いたのでしょう。

つまり,ガンなので異動はしなくて済んだんだけど,昇格は遅れたとも取れます(もちろんこれは思い込みで,単に仕事が出来なかったから…かも知れません。)。これを自分の健康を考慮してくれた…ととるか,余計なお世話と取るかは多分人次第で,ですから,強制的に健康情報を会社が把握するのはどうよ?…ってことになります。家庭の事情も同じ。

アメリカの場合は,これらの個人情報を会社が把握することは無くて,その代わり,異動を社員が拒否したらクビになっても仕方が無い…ってことになるわけです。子供の学校とか健康状態とか,そんなの会社は知らないってことです。その代わりといってはなんですが,アメリカは転職が当たり前の国ですから,じゃぁ別の条件にあった仕事を探すか…というようになるわけです。

さて,まぁわたしの感覚では,アメリカ方式をいきなり日本にもってくるのは転職事情のことから無理があって,だから会社が社員の個人情報を考慮するというのは,かなりメリットもあると思ってます。ただ健康状態や家庭状況の考慮は明文化したルールになりにくい(大雑把には病休とかの規定はあります)ので,どこまで考慮されたのか,それとも上司が勝手にいろいろやってしまったのか?が分かりにくいので,トラブルの元や会社への不信へつながる可能性はあるよなぁ…と思いました。

日本はおそらく,社員を家族の様に扱う…という文化がまだ残っているのだと思います。ただこういう状況は就職難とか正規社員の減少ということを考えると,だんだん薄れているようにも思います。個人情報は会社が把握してるけど,社員を家族の様に扱ってくれない…ということになってくるとメリットの方だけが無くなっていく…という気もして,そういう方向に進んでないよね?とか思いました。

あと,多分会社が社員の健康状態を把握するのは,労災(健康)の回避とかもあるんでしょうけど,多分アメリカは,働きすぎで社員が死ぬとか…あまりなんだろうなぁ,とかとも思いました。

どっちがいいですかね?
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表現欲求とつぶやき

2010-10-04 14:54:57 | ココロ
「表現欲求」という言葉があるかは知りませんが,たぶんわたしはそれが強い人間だと思います。ここでいう表現欲求とは,とにかく自己表現をしたくてたまらない,すると楽しいということをいいます。「承認欲求」という言葉を聞いたことがありますが,どちらも多分重なる部分が多いとは思います。ただ承認欲求は最終的に自己のアイデンティティを認めてもらいたいという欲求があって,そのためにいろんな表現をするもので,表現欲求は相手が認めてくれなくても表現をすること自体が楽しい。ただし誰も見て無いところに表現をするのはそんなに惹かれない…という感じでしょうか。

わたしは音楽を演奏したり,絵を描いたり,ネットに文章をアップしたり,また仕事でも人前で喋ったりプレゼンをしたり…そういうのが好きな人間です。わたしにとってはこれらはすべて表現欲求を満たすものですから,全部同じ衝動としてやっているような感覚があります。つまりわたしにとって人前でギターを弾くのも,会社でプレゼンをするのも同じような感覚です。ただし承認欲求と違うと思うのは,受けなくてもあまりめげない,ネットの文章も,誰も反応が無いけど,それでも続けられている。もちろん誰かの反応があって誉められば,とてもうれしいけど,反応が無くても「続けることに意味がある」とか人前で喋るという行為自体に快感を覚えているので,承認は二の次になっているのでしょう。

わたしは表現欲求は誰にでもある欲求だとおもっていて,実際に自分の子供とかにそれはありそうだと感じてますが,人に言われたりするところをみると,わたしの表現欲求は強いほうなのかもしれません。音楽家や芸術家がマルチな才能を発揮するのも,それは才能があると言うよりその人の表現欲求が強いのであらゆる手段で表現を行っているだけ,とわたしは思っていて,それって普通…と思うのですが,そういわれないところみると,やっぱり一般の人の表現欲求は少し弱いのかもしれません。

ただわたしは自分の表現欲求が強いことは役に立っていると思っていて,上に書いた様な仕事上のエネルギーにもなっています。承認欲求と違って失敗してもめげないので,そういう意味でもいいのかもしれません。

ですので,わたしは昔から…そう大学時代から,そのエネルギーがどう使うか?というのは結構意識してきてます。よく思うのが,表現欲求が高まっているときに,人に話したり,メイルで話したりすると満足してそれで終わってしまう…ということ。若い頃,メイルを山の様に書くと,なんかそれが雑談であっても,妙に満足して,一日が終わってしまう…みたいなことがありました。ですから,その溜まったエネルギーを無駄に消費しないように,どこに出していくか…というのはとても気にしていたりします。実際いまここで日記を書くのもエネルギーの無駄遣いなのですが,でも溜まったエネルギーを消費せずに消してしまうのもエネルギーの生産能力が下がるので,寝る前のガス抜きと,訓練という意味でやってます。ただ,やっぱりこういう文章を書くタイミングは結構気にします。

さて,そういう意味でいうと,今はやりのつぶやき,これも結構表現欲求を非生産的なところで消費してるんじゃないのか?みたいな事を思います。まぁつぶやきに限らずブログもSNSもMLもnetnewsも全部そういうものだったという気はしますが,ちょっとつぶやきはより一般的に広がっているので,エネルギーが失われることによる社会的損失も結構あるだろうなぁ…みたいな事を思います。

最近は子供や学生もネットをしますが,心配なのは折角のエネルギーを非生産的に消費してしまって無いか?ということ。わたしはやる気やエネルギーをどこに持ってくるか?というのをわりと意識して行動を選択してますが,多分学生や子供はまだそこまで出来ないでしょうし,いろんな方向にエネルギーを出すことが出来るということを知らないとひとつのことだけを追い求めてしまう。携帯を手放せない子供を観ると,そういう心配を感じてしまいます。
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10代で読むべき本って何?

2010-10-02 22:12:09 | 書評
10代で読んでおくべき本っていうのがネットに載っていて,その冊数も多くて驚きましたが,挙がっている本が哲学の著名な本ばかりで,更に驚きました。驚いていたらfinalventさんが20代だったら,何を勧めるかと挙げていたのだけど,なんかその辺を読んでいて,「読むべき本」を語るというのは結局自分が読んだ本とか経験を語ってることなのね,と思いました。

まぁ読んで無い本は勧めようが無いので,読んだ経験を語るのは当たり前ですが,その本が人生の役に立ったというのは結局のところ,その人の経験でしかない…ということです。

というわけで,自分の10代を語ろうとすると,わたしの場合,多分ほとんど本を読んでませんので,勧めるべき本はありません。わたしの場合20代の半ばまでは読んでいた本なんて,マンガと大学で勉強に使っていた本くらいです。マンガも今みたいに単行本を買って読んでいたのではなく,雑誌を読むくらい。雑誌といえば,音楽雑誌とバイク雑誌は定期的に買ってました。20代後半になっていろいろ本を読むようになりましたが,そういえば古典らしい古典は哲学にしても文学にしても読んでないに等しいです。

わたしの場合「若いときにもっと読んでおけばよかった」とは今も思って無いので,読んでおくべきというのはありません。ただし,読んでいれば,また違った人生だったと思うし,あと10代前半に,ちょっと無理して少年向け小説を読んだのが,国語の点数アップに役に立ったので,少しは読んでおけ,というのはあります。

そういえば,10代までは本を読むのが苦手で,無理して読んでは「まだ半分も読んでない」と嫌になってましたが,今だったら,つまらない本は読まなくていいとか飛ばし読みでもいいと思うのが,若い頃はそういうことできないよなぁとも思います。

で,若い頃本を読まなかったから若い人に本を読まなくていいというかというと,でも何かは読んでいたほうがいいとは思います。わたしは10代で本をあまり読んでないと書きましたが,更に幼少時は,図鑑を暗記するくらい読んでいたし,百科事典も読みました。10代の頃は,オーディオとか楽器のカタログとか副読本をすべて理解するくらい読んでいたし,ラジコンや音楽の雑誌も隅々まで読んでいた。そういう人だから理系の人にはなったのだろうけど,そういうのの理解を深めるのに本は雑誌であっても重要だと思います。あとマンガでSFをよく読んでいたから,世界観とか哲学的な話も好きだし宗教的な話も好きになりました。

つまり自分の経験的に言うと,「これを読んでおけ」というのは無いけど,いろいろ吸収しろ…といいたいし,それは本ではなくて大人の話でもいいんでしょうが,ある程度広く吸収したほうがいいと思いますので書物であることはいいことでしょう。それから書物を自主的に探していくという訓練も大事です。

ということで,本を薦めるというのは自分語りだよな…というお話でした。
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