たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

経験

2011-04-29 11:31:35 | 社会
medtoolzさんの「悪い奴らは来なかった」いろんな示唆があって面白いのですが,その中に,処方がイマイチと思っていた上司(先輩)の立場に自分がなったときに,決断が出来ずに四苦八苦したという話が書いてます。

世の中には実際にやった経験がないのに聞いたり読んだりした知識だけで,実際にやってる人を批判するという人が結構多いです。おそらくそういう人達が,実際にする立場になったら,何もできないか大きな失敗をするというのはやっぱり多いのだろうな…と思います。机上で検討した案なんていうのは,いろんなところが単純化されていて,それでうまく行くと思うと,それこそ想定外だらけの状況になってしまうように思います。

原発の事故で,東電の幹部が現場を知らない人ばっかりだった…という話を聞きましたが,もしそういう会社で,なおかつ政策を決めるお役所もそういう人ばかりだったりして,こういう自体が起きたのかも知れません。まぁ大きい会社で出世をする人は書類書きがうまかったり説明がうまかったりする人で,コミュニケーション能力は高いのでしょうが,そういう人こそ,現実を無視して相手が喜ぶようなつじつまのあった計画をつくってしまう…って事は,どうもありそうな気がします。

そんでもって,今はそういう人達を避難しているネットやジャーナリストも,まぁだいたい同じようなもんで,「こうすればいい」とか前向きな案を出す人もいますが,多分それは穴だらけで,やったら大変なことになるんだろうなぁ…と思います。やらないよりマシならやらないとしょうがないのですが。

ところで,わたしは同じような技術分野にもう20年以上いるのですが,そうやってやってくると,雑務で仕事が忙しいのですが,その反面凄く短い時間で研究とかをやれるようになっている気がします。実際に手を動かして,設計したりつくったり,実験してる時間が短いという意味です。過去の自分と比較してもそう思うし,若い研究者と比べてもそう思います。

というか,いうか若い研究者と議論をしていて,もちろん新しい技術でなかなか理解出来ない場合もあるのですが,それをやると出来そう出来ない…の判断が割と早くできる。若い人がいろいろと迷ってるのを,最適な方法でやる道筋というのが,こっちは割と短時間に判断できる。もちろん失敗した場合の対策とかも。

結局はそういうのっていうのは経験であって,歳をとると頭の回転や記憶力は下がってくるけど,その少ないリソースで仕事を回す…って事自体は出きるようになるなぁ…という印象です。まぁ経験にないことはできない…という意味では,若い人以下なんでしょうけど。
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時間軸が重要

2011-04-27 12:26:38 | 時事
最近なにかから放射能が検出されると「検出された」と大騒ぎをする記事や文やブログが名に入り鬱陶しい。…という気分を前回書いたのですが,騒ぐ割りに肝心なことが書かれてなくて,判断できない…というのが更に鬱陶しく感じます。

素朴な疑問ですが,水にせよ野菜にせよ放射能(放射性物質が正しいけど)が検出されるのは,検出された事自体よりも,「強さ」と「期間」が問題では無いのでしょうか?微量でしたら通常時でもある場合もあるわけだし,ある程度強くても一日だけなのか,何日間も出続ける(摂取され続ける)かが問題なのだと思います。体内(母乳)から出たとなると確かにショッキングですが,飲む方からすると,微量でかつ数日で出なくなれば,他のリスクに埋もれる程度になるように思います。もちろん出たときから気をつけろ…というのは分かりますが,出なくなった…ってところまでフォローしてくれなかった困ります。

そういう意味で言うと,今回福島の原発の立ち入り禁止区域の指定も,ずっと出続けたからなったのかも知れません。まぁでも,多分放出量自体は,先月の方が遥かにピークで,危険度はゆっくりではあるけど,減ってはいるんだろうなぁ…とは思います。この辺複雑で,やっぱり一般的には理解しがたいんだろうなぁ。長期的に退避をさせるのであれば,仮設住宅とか用意しないとダメのような気がするけど…。

もう一つ。被曝するとガンになる…と大騒ぎするのも,やっぱりピンと来ないのが,いつなるか?…って話。5年後になるのか20年後になるのか40年後になるのか…。あと幼児がなるのと壮年や老人がなるのはやっぱり重みが違う。壮年や老人なんって20年後とかいうと何もしなくてもガンになるか別の病気で死ぬリスクの方が高くなる場合も多いんじゃないか?…とか思います。5年後になる…とか言われると深刻だけど。

ガンは怖い病気だとは思うけど,日本人の3人に1人がガンになるのだから,ガンになりたくないとかガンが怖いとか,騒いでいてもしょうがないのだと思います。幾つの時になるのか?どういうガンになるのかが重要だと,ガンになったわたしは思いますよ。

上に書いたその二つをはっきり言わずにただ怖いと騒ぐのは,ただ不安をばらまいているようにしか,わたしには見えません。というか,不安をばら撒いて,どうしたらいいか?を語らないのはひどいんじゃないか?という気もします。怖がらせておいて,後は自分で考えてね,じゃぁ…。

ちなみに今は原発に反対しても,放射能の流出が止まるわけじゃありません。
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不安な人と楽観な人

2011-04-24 23:46:56 | ココロ
不安な人は自分の不安が周囲に共有されないと,凄く不満。だから不安じゃ無い人を不安にする言動をする。一方,楽観的で不安に思いたく無い人は,不安に思いたくないので,危ない事象に目をつぶる。または楽天的に考えたり,都合のいい安全宣言に飛び付く。そしてそういう人は不安をばらまく人に近づきたがらない。

この二人は物凄く相性が悪い。どっちもお互いを見ていらつく。

事象が深刻なのか楽観なのか,正解が見えない場合,実はどっちが正解だったかというのは分からない。楽観的に考えてたら船が沈んで気が付く場合もあるし,悲観的になって逃げ出したら,そこで怪我をする場合もある。

不安な人と楽観な人は,多分これまでの人生でもずっとそんな感じでやってきて,不安に思っていたら何も起きなかったり,楽観的に考えていたら痛い目にあったりしたかも知れないけど,それで考え方を変える…っていうのは,案外少ないように思う。不安な人は,あたらなくてもずっと「今度こそ」と不安に思うだろうし,楽観的な人は致命的な痛手をくらったら,そもそもそこで退場してるかも知れない。

わたしは多分性根は不安に思うタイプだけど,それに振り回されるのが物凄く嫌いだから,理性で楽観的になろうとするタイプ。ガンになったときも,半年後には死んでるかも…とか,免疫力が堕ちて感染症にかかるかもって異常に潔癖性になったりしたけど,頭では「今が異常で,そのうち落ち着くだろうから,それを待つ」とずっと思ってた。まぁ2,3年くらいして落ち着いた。

わたしの様に性根が不安なのを理性で楽観的になってるタイプは特に不安をまく人が嫌いで,頑張って不安を払拭してるのに,不安にするなよ…と思う。楽観的なタイプにもそういう人は多いかも知れない。

実際は状況が深刻かどうかは簡単には分からないから,データは欲しい。データを見て自分で総合的に判断したい。それでダメだと思えば行動をするだけ。判断を曇らせるような煽り文句は御免だ…とは思うけど,別にデータを無視してるわけでもない。ただ不安が優勢になれば行動をするだけ…だと思う。行動しないのに不安だけを増幅するっていうのは,わたし的には,ちょっと迷惑だな…とは思う。


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表現者の覚悟

2011-04-21 21:13:30 | 音楽・アート
メディアアーティストの八谷和彦氏は,最近は原発の事故の様子を子供が理解しやすいように,「お腹を壊して下痢をした」という様に例えて説明するとうのをTwitterに書き,一躍有名になっております。私は八谷氏を無名の頃から知っているので,応援する気持ちが強いからかも知れませんが,Twitterに見られる現在の八谷氏の言葉を読んでいて,表現者というのはかくも強いものなのか…と関心をしております。

うんちの例はTwitterに書いた後,かなり反響があり,ネット上でアニメにする人などが出てきて,更に海外まで広がって行きました。そうなると当然突っ込みも入るわけです。元々子供が分かりやすいようにと例えていたのに,その意図を知らずに「不正確」だという人がいたり「うんちに例えるのが不謹慎」という人がいたり,絵を描いたのは彼じゃないのに,ふざけてるという人がいたり。他にも(八谷氏は原発縮小派なのに)事故を矮小化していて,これはプロパガンダに違いないとか,お金をもらって書いたのでは?という人までいました。

Twitterに書かれた瞬間を見ていた,わたしからすると,どれも的外れな意見で,経緯とか意図とかを確かめずに中傷する人がいかに多いか…と思ったものです。

こういう意見は八谷氏に直接届くように言われるものも相当多いようです。Twitterでのやり取りは我々にも見えますが,他の手段でも辛辣な言葉をもらってるのかも知れません。

でも少なくともTwitterでの八谷氏の受け答えを見てると,そういう不確かで無礼なコメントに揺らぐことなく,元々の自分の立場を何度も説明したり,前向きな意見を導くような問題提示や引用を行ったりしてるように見えます。私はその彼のブレなさに凄いな…と関心をしました。

アーティストのような自分名義で作品を世に出す人は,元々その作品が評価にさらされる事になります。それに耐えないと,継続的に作品を出していくことはできないでしょう。ネットでの意見は現実世界よりきつい言葉になる場合が多いようですが,そういう中でぶれない八谷氏に表現をするとはそういうことなのか…と思いました。そう思うと,ネットの有名人でも,ちょっとやそっと批判されたくらいじゃブレ無い人の方が,結果的に多くの注目を浴び,支持者も多いように思います。

もちろんアーティストの中にはもっと繊細な人もいて,中傷に翻弄されて傷付く人もいます。それがいけないわけでもないし,そういうのを見ないように逃げ回ってもいいし,それでも良い作品を出せれば表現者としてはありなんでしょうけど,なんとなく表現するために必要な覚悟…八谷氏に見た気がします。そういう意味じゃ,自分もネットに文を書いているけど,ブレまくってるし,まぁ素人はそれでいいんでしょうけど,玉石混合のネットでプロを見たなぁ…という気分です。
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まだ総括できる状態じゃない

2011-04-15 21:50:53 | 時事
今回の地震に関しては,自分に限らず多くの人が物事の考え方を大きく変えるようなことになってるだろうし,これからもそういうことになるだろうと思います。ただ,やっぱりまだ終わってないので総括をするのには,まだまだ時間がかかるのだと思います。

ネットを見ると反原発の話とか,政権批判とか,そういうのも多いのですが,わたしの気分としては,まだそういうことを語る気分にはなりません。むしろそういうことを語る人に,何を人事のように…と思うこともあります。たぶん実際に被災してるかたがたは,もちろん怒りも感じていると思いますが,まずは,現状を何とかして欲しいということじゃないでしょうか?。日本の電気政策や,政権なんて,その先になってようやく考えられるものです。

ネットで最優先の課題は福島第一原発事故の沈静化という文を読んだのですが,やはりわたしも今は,東電や政権に文句を言うより,今の現状を何とかして欲しいという想いの方が強いです。

わたしは被災してませんが,やっぱり子供がいる身としては,今の原発の状態がもっと落ち着いて,先行きが見えるようになるのがとにかく待ち遠しいです。とにかくまずそこから。
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原発が危険と知らなかったわけでもない

2011-04-09 22:50:16 | ひとこと
最初に断っておくと,私は原発推進派でも現状維持派でもなく,緩いですが縮小派です。ですが,最近の反原発および東電批判の論調の中には,少し首をかしげるものが結構あります。特に引っかかるのが「原発が安全だと自分たちはだまされていた」という風な論調です。自分たちは被害者で東電とか政府は悪者だ…と主張してる様に見えます。そういう人たちは本当に原発は安全で危険だと思ったことは一度も無いのでしょうか?。

以前自分が思ったことを思い出すために昔の日記を読み返すと2007年の柏崎原発の事故のときに世論が原発に肯定的になっている事の違和感を書いてます。私が若い頃は反原発のデモとか結構ありました。ですが,なんとなくそういう運動は下火になっていった気がします。今反原発で大きく盛り上がってる人の中には,たぶん当時,そういう活動をしていて,理論武装をしっかりやってる人もいるようですが,そういう人たちはここ数年あまり声高に主張してなかったように思います。

もちろん本人たちはそういう活動は続けていて,メディア等がそういうのを取り上げなくなっただけ…という気もします。ただ世の中の雰囲気が地球温暖化対策になって,二酸化炭素を大量にだす燃焼系の発電にしがみつきにくくなっているので,事故時の被害は大きいが,事故さえ起きなければクリーンである原発を消極的にでも認めていたのかもしれません。

私が当時の日記で書いたのは,今回のような天災を原因とした事故というよりは,どんなに優れた人が設計しても,現場の運用が正しく出来るわけがないので,そのうちおかしなことが起きるんじゃないか?ということです。今回はその優れた設計(天災対応マニュアル)すらなかったということでしたので,私が意外にちゃんとしてるのかも?というのは間違いだったのですが,それでもやっぱり自分が無邪気に「安全とだまされていた」とは私には思えません。

今でも反原発を訴える人は再生可能エネルギーをつかうとか地熱風力太陽光を使えば良いとか言いますが,今の段階でその発電で火力や原子力ほどの電気を同価格で安全に安定して供給できるのでしょうか?。今がだめだから別のに乗り換えればいい…という選択がろくな結果にならないという経験を日本人は最近もやってます:-p。

わたしは現状では原発を反対するなら電気の使い勝手がわるくなるだろう…という議論とあわせて考えるべきだと思ってます。ですから,それを言わない議論は眉唾と思います。原子力が自動車ほど人を殺さないから安全…というのと同様の「都合のいいことだけを主張する」感性だと思います。

少し話がそれましたが,原発が安全だと我々はだまされていたのでしょうか?原発が危険と思うと,今の便利な生活を見直さなくてはいけなくなるので,安全と信じていたかったのでは無いでしょうか?そして安全じゃないとなった今,我々は原発を安全にして使い続けるか,電気の使い方を変え,別の道を探すか…を議論せざるを得なく,それに社会的な合意が出来るんだろうか?…と思うとやっぱり気が重たくなります。
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僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら

2011-04-08 21:36:02 | ココロ
僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
どこかで温泉が枯れることは無かったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
どこかの村がダムに沈むことは無かったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
低周波を出す巨大な風の塔が建つことはなかったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
どこかの島が水位上昇で沈むことは無かったのかもしれない。

僕らが電気をもっと使いたいといわなかったら,
今,空や海に放射能が流れ出してはいなかったかもしれない。


僕らは本当にだまされたのだろうか?
不都合な真実じゃなく,都合のいい誰かの夢に自分から飛びついたのかもしれない。
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科学的思考が難しい人に納得させるには

2011-04-07 06:19:35 | ココロ
原発事故で放出された放射線が土や水や魚から検出されたというニュースが報道されてます。数値が出ては基準値以下だとか暫定基準値以下だとか,基準値を超えたけど直ちに影響が無いとかいろんな言い方がされてます。安全の線が出る数値にあわせて変化してる感じがします。ネットをみるとデマに翻弄されるなとか,科学的な思考をしろみたいな意見も聞きますが,上記の政府や学者の発表は,嘘じゃないけど判断基準自体を揺らしてるので,科学的な思考をしていても判断がしにくい様に思います。

自然科学に片足を突っ込んでいる私もそうですから,そういうものに縁が無い人にとってはもっとそうでしょう。ふと読んだ「科学では駄目な人たち。」という文では,どう政府や学者の見解を説明しても,ただ危険におびえパニックになる主婦たちの話が書かれてます。極端だな…と思いつつ,納得できない気持ちはわかるような気もします。

こういう人を納得させるにはどういう説明が良いんだろうとか,考えてるうちに,逆にこういう人(というか普段の自分も含めて)は何を持って「安全」を信じてるんだろう…と思いました。原発や放射能に限らず,世の中には自動車,病気,食べ物,泥棒,火事,そして天災など多くの命に影響がありえる危険はあります。しかしこれらの恐怖に対して普通はそれなりの折り合いをつけて暮らしてます。

科学的な説明というのはおそらく大きく二つあって,ひとつが「理論」もうひとつが「統計」だと思います。理論というのは原理的にありえない…ということです。たとえば,普通の地面から刀が生えてくる危険性等はたぶん理論的にありえない…といえます。水が燃えることとかそういうもある条件以外ではありません。こういうのを理論といいます。昔は科学というのは理論でした。統計は数学では比較的新しい考え方で昔はとにかく方程式を解析的にといて説明するというのが科学でした。

ところが理論で説明できないというか式で解けない事象が出てくると,統計を用いれば「ある程度の確かさ」で物事を説明できる…という理屈ができました。統計というのは統計と書くと難しそうですが,要は「経験」のことです。そしておそらく普通の人の多くは経験から物事を判断してるのだと思います。自動車事故に遭わない,火事にならないなどというのは論理的には説明しづらいけど,「めったに遭わないだろう」という統計的な理屈で多くの人は,まぁ安心だろうと判断します。

ところが私は先日,人は統計で考えることは難しい…と書きました。ここでいう「経験」と「統計」は実は物事(事象)をミクロ的にとらえてるかマクロ的に捕らえてるかという意味で違うのかな?と思います。統計は物事を一つ一つ見るのではなく鳥瞰的にみます。一方普通の人の経験は全体の人数ではなく知っている人が経験したことや,自分の目の前でおきたことというカウントになります。

つまり一般の人が理解をするには,理論で説明しても無理だし,統計で説明しても無理,ですが,自分の知っている人の経験談や自分が実際に経験する…ということの方で納得をしてしまうということでは無いでしょうか?。それはとても科学的な思考ではないのでしょうが,科学を裏づけとして説明しても個々の事例が具体的に説明されないとぴんとこないということだと思います。

統計を個々の事例に落とし込んで説明するのは,統計の元の意味からははずれ,いわゆる非科学的な思考に陥るのですが,ただ説明においてそれを使うのは必要なのかもしれない…と思いました。

とか書いておいて,放射能においては,ほとんどの人が実際に経験をしたことが無いので実際は誰かの経験談として話すのはとても困難なんでしょう。実際にTVとかに出てる有識者も経験談として話せる人は少ないように思います。まぁ難しいですね。それだけに顔が見える人が話すほうが良いんだろうなぁ…とは思います。
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一部の知識人に失望する

2011-04-05 21:45:12 | 環境・自然科学
原発撤廃論と長期的な卒原発論…,とか現状維持(さすがに現状推進派の意見はみない)…という意見を,最近ウォッチングしてます。卒原発論の人は,現状を省みて長期に減らす道を模索してるので,まぁある程度は客観的視点を持っているのですが,過激な反原発論の人には,とても現実的とは思えない意見を言う人が多くて,困惑します。

凄くガッカリしたのは,学者や研究者と呼ばれる人の中に,どうみても客観的,または論理的な思考をしてるとは思えない発言をする人が少なからずいることです。

自分が信じたくない説にはおかしいとか疑わしいとかいうのに,自分が信じたい説には何の検証も行わずに飛び付く。それが科学的な態度だろうか?…と思うのですが,多分本人は気づいていません。

パニックになっている…といえばそうなんでしょうが…。考えてみたら学者等の頭がいい人は,頭の回転が速いわけで,それってある意味神経質なのと裏返しなんだろな…という気がします。 どっしり構えて,物事の変化におおらかに対応するには,ある意味鈍感さが必要で,学者にはそういう事はできないのかもしれません。物事の思考を物凄いスピードで回す神経質さと,それを客観的論理的に制御する部分の両方が,学者とかには必要なんじゃない?という気もしますが,たぶん,その制御が飛ぶくらいな状況になると,暴走しちゃうんじゃないかな?と思いました。

そういう,私も結構神経質で軽いノイローゼじゃないか?…と思うようなところがあるのは,多分,わたしの同居人とかは知っています。自分はそれを自覚してるので,それとどう付き合うか…で常に苦労してますが,だからこそ非常時の自分の発言にはトンデモな部分が含まれてる…という疑いも持ってます。

原発が危険だ…と大騒ぎし,具体的にどうすればいいとかは言わなかったり,新エネルギーだ,風力だ,太陽光だ,波力だとか言ったりするけど,研究段階のものを実用化するのに数十年のオーダで時間がかかるものもあるし,天災で受けるリスクについて全然議論しないのは,それこそ想定が甘い…のではないか?と思うのですが,それが学者や研究者のいうことかね…とか。

そんな感じのことを感じました。やっぱり今の日本には学者より坊主が足りないなぁ…と思う今日この頃でした。
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確率では多分納得できない(タイトルが間違っていたので修正しました)

2011-04-03 23:53:11 | ココロ
先週にメモっていた文ですが。

原発の放射能の話とか,あと原発の危険の話とか,いま,論理的に語ろうとして,確率を使う人が多いみたいですが,たぶん,確率で議論をしても,普通の人が納得するようなおとしどころは無いように思います。

以前書きましたが人間は統計で納得することは出来ないのでは?と思うからです。もちろん,それは命題が自分に関するときの話で,第三者のことであれば,統計的に割り切るとか出来るんでしょうけど。

統計で考えると,100%か0%以外は「可能性がある」という言い方になってしまいます。可能性がどれくらいあるという話しにしかなりませんが,そのどこまでが安全なのか?というのを要は「自分で決めてね」と投げられてしまっているわけです。普通の人はもっと「安全」とか「危険」とはっきりいって欲しいんでしょうね。

ということで安心するわけでもない,とるものもとりあえず逃げるほどでもない…状態がまだまだ続くのでしょう。

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