先週新聞に献体希望者が増えているとかいう記事が載っていました。最後に「社会の寂しさは、だれが治療するのだろう」というわけのわからない締めの文で終わってるんですが,要は献体が増えるのは社会の寂しさが増えているからとでもいいたいのでしょうか?。
一方この記事を取り上げたいやしのつえさんの文を読みました。この方は確かお医者さんだったと思います。献体が増えた理由に「家族関係の希薄化」とか書いていて,なるほどとは思うのですが,わたし自身も実は献体とかしても良いかな…と思っていて,でも理由はちょっと違うかな…とも思ってます。
さびしいとか家族関係の希薄化というよりも死後の「肉体」に特別なこだわりをもってないから…かな?と思ってるのですが,他の人はどうなんでしょうか?。死ねば肉体は単なる肉の塊だから,切ってもらっても,葬式の時になくてもかまわない。それでもって一応その肉は,生前の自分のものだから,遺族というより自分が使用方法を決めてよくて,折角だから人の役に立つなら使ってもらいたい…。ぐらいの意味です。人の役に立ちたいというのを「さびしい」といわれたら,はぁそうですか?…って感じですが,そういう思いもさびしいのかね?…とも思います。
もっとも,単なる肉と思うのは,魂は別のところにある…というわたしの考えであり,それが現代人的な考え方なのかどうかはわかりません。決して魂の否定とか,死後の世界の否定というわけでもないんですよね。それはそれであるけど,別に肉体がなくなったら成仏できないわけでも無いし,遺族の記憶から消えるわけでも無いだろう…っていう考えです。
昔は死体を切り刻むと成仏できない…と思われていたのなら,信仰のあり方が変わってきてるとはいえるかもしれません。
もっともいやしのつえさんが「解剖は減ってる」と書かれているのは,そうなんだ…っていう感想で,自分の死体を役に立てて欲しいと思っていても,どういう風に使う道があるのかをちゃんと調べたわけでもない…って事なのでは無いでしょうか?。つまりそこまで真剣に他人に役立てたいわけでもない…と。なんとなく雰囲気で,献体というものを知って,じゃぁ使ってもらってもいいよ位の意味とか…。
わたしが献体というのを意識したのは養老先生の本を読んだからで,実は献体と解剖の違いもいまひとつ良くわかってません。病気で死んで死因を調べる時が解剖で,教育用が献体ということですか?。
わたしの場合,もう内臓移植とかは出来ないのかもなぁ…というのがあるので,そっちはあまり思ってません。でも以前は献血とかも盛んにやっていたので,まぁ自分の健康に害が無い程度であれば,人の役に自分の体を使ってもらったら,そりゃーいいことだと思うし,うれしいかといえばそうだよね…という位のいみかなぁ。
そういう意味でいうと,あんまりこだわりが無いし,無いゆえに献体しても良いよ…という気持ちです。実は死後の面倒を見てほしいとかいう気持ちは無いので,そういうことをいう人の気持ちはよくわからないのですが,そちらは死に直面して,単に戸惑ってるだけではないかな?という気はちょっとしました。
献体したいという気持ちってそんなに変なのですかね?。
一方この記事を取り上げたいやしのつえさんの文を読みました。この方は確かお医者さんだったと思います。献体が増えた理由に「家族関係の希薄化」とか書いていて,なるほどとは思うのですが,わたし自身も実は献体とかしても良いかな…と思っていて,でも理由はちょっと違うかな…とも思ってます。
さびしいとか家族関係の希薄化というよりも死後の「肉体」に特別なこだわりをもってないから…かな?と思ってるのですが,他の人はどうなんでしょうか?。死ねば肉体は単なる肉の塊だから,切ってもらっても,葬式の時になくてもかまわない。それでもって一応その肉は,生前の自分のものだから,遺族というより自分が使用方法を決めてよくて,折角だから人の役に立つなら使ってもらいたい…。ぐらいの意味です。人の役に立ちたいというのを「さびしい」といわれたら,はぁそうですか?…って感じですが,そういう思いもさびしいのかね?…とも思います。
もっとも,単なる肉と思うのは,魂は別のところにある…というわたしの考えであり,それが現代人的な考え方なのかどうかはわかりません。決して魂の否定とか,死後の世界の否定というわけでもないんですよね。それはそれであるけど,別に肉体がなくなったら成仏できないわけでも無いし,遺族の記憶から消えるわけでも無いだろう…っていう考えです。
昔は死体を切り刻むと成仏できない…と思われていたのなら,信仰のあり方が変わってきてるとはいえるかもしれません。
もっともいやしのつえさんが「解剖は減ってる」と書かれているのは,そうなんだ…っていう感想で,自分の死体を役に立てて欲しいと思っていても,どういう風に使う道があるのかをちゃんと調べたわけでもない…って事なのでは無いでしょうか?。つまりそこまで真剣に他人に役立てたいわけでもない…と。なんとなく雰囲気で,献体というものを知って,じゃぁ使ってもらってもいいよ位の意味とか…。
わたしが献体というのを意識したのは養老先生の本を読んだからで,実は献体と解剖の違いもいまひとつ良くわかってません。病気で死んで死因を調べる時が解剖で,教育用が献体ということですか?。
わたしの場合,もう内臓移植とかは出来ないのかもなぁ…というのがあるので,そっちはあまり思ってません。でも以前は献血とかも盛んにやっていたので,まぁ自分の健康に害が無い程度であれば,人の役に自分の体を使ってもらったら,そりゃーいいことだと思うし,うれしいかといえばそうだよね…という位のいみかなぁ。
そういう意味でいうと,あんまりこだわりが無いし,無いゆえに献体しても良いよ…という気持ちです。実は死後の面倒を見てほしいとかいう気持ちは無いので,そういうことをいう人の気持ちはよくわからないのですが,そちらは死に直面して,単に戸惑ってるだけではないかな?という気はちょっとしました。
献体したいという気持ちってそんなに変なのですかね?。