たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

子供へのネット教育は具体的にどうすべき?)

2010-05-30 22:32:19 | 社会
子どものメディアリテラシー教育がますます重要に」という記事。書いていることを以下に書くと,携帯とかもどんどんネットサービスが発展し,ユーザが子供の方にも広がっていく,そうなるとネットを使用する上での注意をきちんと小さい頃から教育したほうが良いということで,あるNPOが提案したら,そもそも子供に携帯を持たせてはいけないという声が大きく実際に教育を受けるのに人が集まらなかった。石川では小中学生に携帯を持たせないという条例が決まったらしいとのこと。

リンクの文の著者はこれは危険の先送りであり,むしろきちんと小さいときから教育すべきだと言ってます。私のその意見には思想面では大賛成です。子供を危険なものから遠ざけるのではなく,小さい頃からきちんと危険性を教育すべきだと思います。

とはいえ,一方でこうも思います。具体的にどう教育すればいいのか?と。

ネットは大人にとっても危険が一杯。犯罪に引っかかることもありますし,そうじゃなくても,ゲームやネットサービスにはまって,時間を多く費やして仕事や勉強が手につかなくなることもあります。また噂話やいじめなどの手段としても使われるようです。犯罪に引っかからないようにというのは教育でなんとかなるかもしれません。でも,ネットにはまって無駄に時間を消費する…というのは,子供どころ大人でもそうなっている人がそれなりにいます。ネットに不慣れなお年寄りや主婦に限らず,ネットを仕事に使っている社会人ですら,休日ネットにはまるだけならいいにしても,会社でも休み時間や…,もしかしたら仕事中にアクセスしたりとか,そういうこともあるかもしれません。

またいじめについても,大人でも噂や村八分みたいなことはあるでしょう。これはネットの問題というよりは社会性の問題の様にも思います。

理性のある大人でもうまく制御できないようなことを,子供に教育すればわからせることができる…っていうのは少し甘い考えじゃないか?という気がします。具体的にこういうことを教えれば大丈夫という何か具体的な方法は確立されてるのでしょうか?。

…。余談がてらに私の昔話を。

わたしがネットをはじめたのはまだインターネットという言葉が無い頃で,最初はnetnewsとMLが主なコミュニティーサービスでした。自身,結構はまって一日何時間かをこれに費やしていた気がします。ただ,一方で当時は一般人はネットを使っておらず,使うのが大学の研究者か企業の技術者だったので,雑談をしているようで,結構技術の情報交換も出来ていました。

その後インターネットとしてネットワークは拡大し,ホームページを作るのが流行り始め,また掲示板という場も増え始めます。実はわたしはあまり掲示板にははまらず,netnewsはもう廃れてましたが,MLはそれなりに活発でわたしはMLは相変わらず続けてました。その後ネットゲームが出てきましたが,これもわたしはやらず,MLもだいぶ廃れて,自分のコミュニティーの場が無いなぁと思った頃SNSが出てきてmixiにはまりました。mixiはたぶん1年くらいは毎日足跡をチェックして,マイミクの日記にまめにコメントを書き込む様なことをやってましたが,ある日突然,憑き物が落ちたようにどうでも良くなりました。同じ頃blogを読むというのも盛んにやってました。これは,若干まだ続いてます。その後twitterが出てきて,今に至ってますが,twitterにはあまりはまってません。

ネットにはまっているとき,常に「これは無駄に時間と情熱を消費してるな」 という罪悪感がありました。気分転換にやってるくらいならいいのですが,明らかに他の事に支障が出るほど疲れたり時間を割かれる使い方をしていたこともあります。「この情熱を何に使えばもっと有意義に過ごせるだろうか?」という自問自答を常にやっていました。

…というほど大人にも怖いネットの呪縛ですが,さて子供にはどう教えればいいのか?というのは子を持つ親としては結構リアルな悩みだったりします。教育方針が確立されていれば,教育を受けさせるのは正論ですが,それが無い場合,それが確立されるまで子供から遠ざけたいという親の心理も分かります。

というわけで,悩ましいわけです。これは親としてもそうですが,ネットワークの上でのコミュニケーションを考える立場からしても,なんとかしないとな…と思います。
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グーグルの帝国主義

2010-05-27 06:00:56 | 社会
fujipon さんの書評でグーグルの話を 読んで,これって植民地支配みたいだなぁ,って思いました。

グーグルの場合アメリカの国力をバックに圧力をかけているという感じではないので,帝国主義みたいな言い方をすると過剰なのかもしれません。でも,一方的にやってきて,自分達の都合を押し付ける,一方でたぶん多くの一般人には一見それがいい事の様に思わせるのに成功してるように思います。

想像ですが,かっての帝国主義時代の西洋の列強だって,軍事力で無理やりあちこちを植民地化したわけではなく,武力をちらつかせながらも,実際はそこに自分達の文明を紹介して,生活が便利になったとか 食べ物がうまくなったとか,病気で死ぬ人が減ったとか,そういうので人心をつかんだ…という気がします。「西洋人って怖いかと思ったけど,文明も悪くないね」と庶民は思う。でも気がついたら,その国に元々あった 産業の構造が大きく変わり,旧来の産業は滅ぶ。そういう産業を運営していたのは,元々権力者や金持ちだから,彼らが最初に列強に反発するのだけど,そういう連中には躊躇なく圧力をかける。庶民は金持ちや権力者が「ぎゃふん」と言うので,「ざまぁみろ」って賛辞する。でも気がついたら,新しい列強の農場や工場で働かされる。その農場は旧来の小作より現金収入はあるのかもしれないけど,その農場が生み出している富の多くは実は彼らに還元されているのではなく,列強の本国に流れている。もともとの産業は破壊されてしまったので,今更列強無しでは独自に産業を興す力も削がれてしまう。

今も先進国と発展途上国ではこういう構造がたくさん残ってます。コーヒー豆とか良く例で挙げられてます。

この構造ってアメリカのIT産業にもそのまま当てはめられる気がします。最初の書評はグーグルの本のスキャンの話をしてますが,グーグルがこんなに広がる前は,日本の中にも独自の検索エンジンが開発されていたりしたし,地図サービスはまだあるけど,いま苦戦してる。グーグルじゃなくてマイクロソフトが広がったときも,日本のOSが滅んだし,今アンドロイドの携帯端末や家電が出てきて,トロンとか大丈夫なんだろうか?という気がしてます。
ユーザの使い勝手としてはグーグルやアンドロイドやアマゾンやマイクロソフトとかが便利なのかもしれないけど,我々が何らかの形で消費したお金のいくらかは海外に行ってしまう。国内に流れていれば,日本人の給料になったり,国内で消費されていたするけど,お金はたぶん本国の方に行ったっきり,それは返って来ない。

もちろんこれこそがグリーバリゼーションなんだけど,自分達が散々帝国主義をやってきたヨーロッパはこういうの敏感で,アメリカのIT産業に対する排斥運動とかかなり盛です。Windowsに対して(フランスだっけ?)公正取引委員会が指導したりしてるし,先日フィンランドの飛行機乗ったら,ビデオのOSがLinuxだったりして,マイクロソフトのOSの浸透に歯止めをかけてる気がしました。

日本でグーグルやアマゾンやマイクロソフトに対して排斥を訴える運動なんて市民レベルどころか,産業界ですら見た事ありません。BSディジタル放送が入ってきたときにNHKが虚しくアナログ放送の継続を訴えたけど,残念ながら敗れ去りました。

別にそれは仕方ない部分もあるのだろうとは思うのだけど,あまりに日本の庶民は無頓着すぎないか?という気もします。ネットのサービスを便利に使うときに誰にお金が流れていって,それは自分達の雇用を圧迫して無いのか?そういうことを少しは考えたほうがいいんじゃないか?という気がします。

今日本人が海外製より日本製が良いと選んで買うのは,肉や野菜とか食料品と家電くらいでしょうか?。自動車もまぁ安いからとかサービスとかの理由で国産の方買う人も多いでしょうか。ってことは,実は,日本の将来はこれらの産業しか期待できないって事?って気もします。日本って失業率が高いと今騒いでいる割りには,あまり雇用を生み出すにはどうしたらいいかが議論されません。大企業や国が何とかすればいいと思ってる人が多いのでしょうか?。でも国が雇用を生み出すために公共投資をすると無駄遣いだというし…。

日本でももっと,自分達が消費することが,どこに雇用を生み出すか?をもう少し意識したほうがいいんじゃないか?という気がします。
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癌は今でも優しい病気なんだろうか?

2010-05-25 22:12:44 | 医療・福祉
毎日新聞のWebで「命を削る」という特集をやっていて,高額医療について紹介してました。その特集へ読者の反応が紹介されていたので,読みました。ほとんどが実際に癌などで高額な医療費を払っている人の声で,非常につらそうな声が聞こえてきます。それぞれのケースには同情を感じます。ちなみに私の癌と同じのにかかっている人がいて,ちょっと考えました…。でも以前からいってるように,個々のケースに同情をする気持ちと,社会のシステムを考えるということは,すこし違うことだと思います。最後の人の意見はシステムの話で,高福祉を望むのであれば高負担を許容すべしというのはわたしもそう思います。

そう思うのでその後の記事で『「医療費を捻出(ねんしゅつ)できずに治療をあきらめ、病状を悪化させる」。そんな理不尽な現実がまかり通る時代になってしまいました』というのは本当にそうなの?と思います。というか,医療費を払えない人が医者にかかれず悲しくも死んでいくのは,むしろ戦前の日本では当然だろうし,今も日本やヨーロッパ以外のほとんどの国ではそうなんでは無いでしょうか?。それが理不尽というのであれば,そもそも現実とは理不尽なものです。

ただし,これがあたかも最近理不尽になった様に感じるとしたら,おそらく医療が高度化して,以前だと命を永らえることが出来なかった病気,例えば癌が,案外長期の治療で延命が可能になったということと,その際に必要な医療費が,最新ゆえに非常に高価であるということの様に思います。つまり助かる手立てがあるので,お金がかかってしまうということかもしれないなということです。

最初のリンクで多くの人が苦しんでいるのは,そもそも病気で長期間の間こんなに高額な医療費を払うような病気とか以前は無い…もしくはめったにかからないと思っていたのかもしれません。高額医療を補助する制度がありますが,その制度が知られて無いのは,ほとんどの人が,病気でそんなに医療費がかかることがあるなんてっておもってないってことでしょう。これは社会の周知が悪いのか,それとも状況がかわってしまったってことなのか?どちらでしょう?

ところで,以前癌に対して「優しい病気」ということがいわれることがありました。これは,癌という病気が末期の死ぬ寸前は非常に苦しいのですが,ほとんどの癌はその期間はほんの数ヶ月で,それまでは普通に生活でき,ボケることも無いから。介護の期間も短ければ,死ぬまでの少しの間,いろいろ考えたり行動する時間があるからという意味で,突然死ぬ事故や長期の寝たきりの病気に比べ「優しい」という意味だったのです。

さて,以前はそうでしたが,癌の発見から死ぬまでに何年もかかり,さらに高額な医療費がかかるという風に医療の実態がなってしまった現在,いまでも癌は優しい…といえるのだろうか?と思いました。そして高額な医療費を払うことで命を永らえるということが,本当に正解なのか?という気もします。

余談ですが,健康な人が癌を優しいというと,顰蹙を買うでしょうが,わたしは自分が癌を経験してるので,そういう意見がある…ぐらいなら言ってもいいかな,と思って書いてます。実際は,癌の辛さはその体の辛さ以上に精神的な辛さが凄いので,優しいのか?といわれるとわたしは疑問です。
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文化遺産が消える日

2010-05-24 23:02:18 | 音楽・アート
先日漫画本を買いに行って店頭に並ぶ大量の単行本を見ながら思ったこと。
いま,漫画の性表現の制限について議論が盛んです。わたしも漫画の中には子供に見せるべきでは無い内容のものが結構ある,また未成年にも見せるべきでは無いものが結構あると思ってます。ですから,そういう漫画を本屋のそれ専用のコーナーや,そういう本屋でしか買えなくする…と いうことには反対しません。

ただし,問題なのが,その不適切であるという条件をどう整理するか?ということ。そしてあまりいわれて無いけど,過去の作品をどうするか?ということです。

今の漫画って,特に青年誌に載っているような漫画は,結構性的な表現を描くものが多いです。さすがに子供の性行為を描くような作品はわたしが読むような雑誌ではあり得ないのですが,大人の性行為だったら描かれてるし,あとまぁ高校生ぐらいなら,少しお色気を感じるようなシーンも描かれていたりします。

で,これらのシーンが漫画の表現上重要か?というとほとんど重要じゃないんです。ですから,たぶん漫画で性表現が制限されても,面白い漫画が描かれなくなるわけでもないと思います。一方で,直接性的な描写をしなくても,十分に色気を感じる表現をすることは,作家だったら結構可能でしょう。そういう意味では,新しい作品を制限することにはあまりならないと思います。ただ,じゃぁなんでストーリの本筋と関係ないのに御色気なシーンが出てくるかというと,たぶん読者の目をひかせるためだと思います。青年誌の漫画って,連載の最初の方だけ,エロシーンがあって,それ以降全然出てこなくなる作品って結構あります。人気が確立するまでは,いろんな手で読者に注目させようとするのでその過程でそういう表現が出てくるのでしょう。

さて,そういうわけで性的じゃない作品の中にも,ほどほどに性行為が描かれている作品はあるし,オッパイやパンツが見えるくらいの作品ならさらに山の様にあります。新しい作品からそういうシーン消えてもたぶん大丈夫でしょうけど,これまでの名作という漫画の中にも そういう作品がたくさんあるんだけど,それらをどうするんだろう?ということです。作家が生きていて,人気があってどんどん改編が可能な作品なら描きなおすって手もあるでしょう。でも限られた人気で 再編集が不可能なものとかどうするんだろうな?と思います。いま日本に山の様にあるコンテンツの宝の扱いが難しいということです。

例えば,海外では日本では子供向けの作品でも墨を入れられるものがあると聞きます。ドラえもんでしずかちゃんの入浴シーンが黒く塗られている国があると聞きますが,そういう風に塗られてしまうのか。またかってのちびくろさんぼみたいに不適切な表現として消えてしまうのか?。そういうことが起きないとも限りません。

本屋で目の前に並ぶ大量の青年向け漫画の背表紙をみながら,これらが全部18禁コーナーに並ぶことになるのだろうか?と思うと,やっぱり悩ましいなぁ…と思いました。
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Twitter

2010-05-05 12:03:47 | 社会
今話題のTwitter,遅ればせながらわたしもようやくアカウント作りました。完全に乗り遅れたので,もうこのまま通り過ぎるのを待とうか,とかも思いましたが,まぁちょっと思うところあって。

そういえばわたしはblogもかなりやり始めるのが遅かったように思いますが,mixiはわりと早かった。ネットの新しいコミュニティには若い頃はすぐに飛びついていた気もしますが,30過ぎた辺りから,そうでも無くなったかなぁ。2chとか書き込んだことも無いし。

というわけでTwitterのことは何も分からないのですが,今日,Twitterは良すぎるのかしら?という文章が話題になっているのを見ました。要はTwitterがはまりやすくて危ない…ということを書いているようです。その結果,現実のコミュニティが希薄になったり,物事を深く考える習慣が無くなったり,ということも
警告してます。

…これを読んで最初に思ったのは,そういう特性というかはまりやすさとその危険性は,たぶん,ネットニュースにもMLにも掲示板にもSNSにもあったんじゃないかな?ということです。やったことないけど,オンラインゲームにもあったんじゃないですかね?。通常のゲームとか普通のメイルとかブログは良くわかりませんが,要は一対多,もしくは個対多でコミュニケーションが出来るこの手のネットサービスにはいずれも通常の生活に変化を及ぼすくらいの中毒性があったりします。あったりするけど,経験的に言うと,自分の場合は永遠には続きません。そういえばmixiも初めて1年か2年か忘れましたが,それくらいになって急に「もういいや」と憑き物が落ちた…と感じたことあったのを思い出します。それまでは足跡が気になったり,自分の日記への書き込みにはすべて返事をしないといけないと思ったり,コミュの書き込みもマメに読んだりと。でも,ある日それはどうでも良くなりました。

もう10年以上前だけど,MLもかなり中毒的に書いてました。ただMLやニュースはルール(空気)が結構厳しくて,脊髄反射的な文章を書きにくかったので,はまっても,そんなにポンポン書けないような感じはありました。

Twitterはまだ良くわかりませんが,他のサービスと違うはまりやすいところが
あるとすれば,「なにをしてるか?」という書くテーマがサービス側から与えられていて,しかも字数制限があるので,本当にそういうことしか書きにくい。つまり凝った文章や,難しいメッセージを書きにくいので,結果的に文章が初心者レベルに統一される。だから初心者でも気軽に書き込みやすい…っていうのがあるなぁとは感じてます。逆にわたしは自分が今なにしてるか?なんてネットに書きたくないと思っているので,書くテーマが無い…とか思ってしまいますが。

さて,今話題のTwitterがいつまで流行るのか,定着するのかはよく分かりません。mixiも徐々に廃れてるという感じがしますが,まぁネットのサービスなんてそんなものです。そうしたら,また新しいサービスが生まれるでしょう。

最後に,わたしがこれまで経験してきた,流行ったネットコミュニティのサービスにある重要な要素と感じていて,あまり言われないものが一つだけあるので,それだけ指摘します。それは,「仕事(学校)の合間に出来ること」じゃないか?という気がします。いや,それは本当はまずいでしょ?実際はみんなやってませんよね(^^;)。やってるとしても,移動中とか,休み時間に携帯電話でとかですよね。

でも,当初のネットニュースやMLも,当時はインターネットの業務利用が禁じられていた時代もあって,むしろ会社のネットを使っても外部と学術目的なら情報交換がしやすかったように思います。SNSだって職場のパソコンでやるのが禁じられているくらいだから,やろうとした人がそれなりにいたってことでしょう。Twitterだってどうも昼間に書いているサラリーマンとかいるんですよね?。

こういうサービスって仕事中の息抜きに使えるってことが少なくとも日本の場合は普及に効いてくるような気がします。だからたぶん携帯で使えないと広がらない。まぁ携帯だと会社のパソコンのデータ流出とか無いから,休み時間にやる分には問題ないのかもしれませんが…,つまりは,移動とかの手持ち無沙汰の時間,そして,ふっと気分転換したいときに,その「場」を与えられるか?がこの手のサービスにはまらせるためには必要なんじゃないか?と言う気がします。そういう意味では,Twitterの様に,深く考えなくてもとりあえず書ける…様な仕掛けが優れていたって言うのはあるんだろうな,と思います。
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