たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

マンガinUSA

2005-04-25 12:38:10 | 時事
最近日本のアニメとかマンガとかが海外で評価されているという ニュースを良く見,なんとなく外部から評価されないと自分達の 価値を認められないという日本人ゆえに,過度に喜んでいるのでは ないか?…とか勘繰ってしまいます。昨日アメリカで日本の 少女マンガが受けていて,マニア向けじゃない一般の書店でも そのコーナーが出来ている…ってニュース(?)をやってました。 確かNANAというマンガを取り上げてました。このマンガ,評判みたいで 最近良く聞きます。少女マンガはほとんど読まないので, わたしは読んだこと無いのですが…。
イマイチ日本のマンガの中で少女マンガのみが受けているのか, 少女マンガも受けているのかが良くわかりませんでした。 まぁ逆に「今まで受けてると言ってもマニアに…」という 程度だったのが良くわかるというか(^^;)…。
それよりそのニュースの時にコメンテータが「マンガを 読むと視覚野と聴覚野の両方が刺激される」とか言っていて, あたかも「頭に良い」という感じで笑えました。まぁ確かに 文字による小説ばかり読んで育った人はマンガ読めないみたいですけどね。 うちの親とかそうだったし。それから確かにマンガを読むと わたしは脳がほぐれた感じがするので,仕事の日も休み時間とかに 読んだりもしてますが。まぁそれはそういうことというより, 単に別の脳の使い方をするからかなぁ…という程度にしか 思ってませんが。
マンガやゲームは昔は頭に悪い…って言ってたんですけどね。 金になるとわかると手のひらを返すのか?…とかちょっと皮肉 めいた考えが浮かびました:-p。
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階級と物差し

2005-04-08 19:05:45 | ココロ
ヤングサンデーの「絶望に効くクスリ」が先週今週と辻井喬氏への インタビューで,まぁその中身はいいとして,その流れで, 現在金だけが価値基準になっているけど,昔は「金で買えないものがある」 …とかいうのがまだあった…って言うことを作者の山田氏が 書いてました。
まぁごもっとも…っていうか今更当たり前だとは思いますが, ただ口ではそう(金で買えないものもある)いっても,お金で 物事を測るという傾向はやっぱりどんどん強まっている気がします。
「違う」…と言われるかも知れませんが,現在のこういう傾向は, 実は「階級」が無くなったことが大きな原因ではないか?…と 最近漠然と思っております。最近,いろいろ階級社会が壊れていって, 現在のように階級が(一見)無くなっていく過程をいろいろ本で 読んで調べています。調べると確かにたかだか100年…,いや数十年前までは 差別や階級というのが結構ひどいことをおこしています。 ですから,わたしは決して階級社会がいいというつもりは無いのですが, 階級の崩壊を「良いこと」と信じて無条件に受け入れた 故に(特に日本とか)失われたものもあるのでは無いか?…と。
一言で書くと「階級がなくなり(見掛け上)フラットになることによって 物差しが一つになってしまった」のでは?…とうのがデメリットの 部分です。で,では「一つ」とは何か?…というと「お金」と なるのでしょう(「権力」って言う人もいるかも知れませんが, 権力という形が見えにくい日本では権力指向よりお金指向の方が 支配的な気がします。 現在グローバルスタンダードとかがすすめられてますが, これも結局経済力の争い(競争)になっていると思います。
本来階級などは無いに越したことはないのですが,でも階級が あるゆえに越えられない壁があり,あるゆえにその中での 満足…という価値観もあったのでしょう。しかしそれが無くなると すべての人がフラットに評価され…その結果一部の人だけが 勝ち,それ以外がよりどころ持てない…というような 価値観が広がってる気がします。
本来は階級がなくなるというのは価値観が多様化して,それぞれの 勝ち(?)方があるべきなんですが,実際はそうなってません。 それはやっぱり階級がなくなることのデメリットを意識してないためじゃ ないか…という気がするのです。ですから,わたしは その辺をしっかり意識して,なぜ多様性が認められないのか?…と いうのをしっかり考えないと,ますます物差し狭くなり, 不幸になる人が多くなるのではないか?…という事を思います。
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必要?

2005-04-07 13:06:07 | ココロ
忘れていた…orz…(謎)。まぁ今夜は忙しかったから, 忘れてなくても行けたかどうか謎ですけど(謎)…。
さて,話を変えて…。
わたしは平日の朝はTFMの6senseという番組を聴いているのですが, 今朝は番組アンケートとして 「あなたは会社にとって必要な人材だと思いますか?」という お題をやってました。番組のサイトで見ると,必要だと思うが60%で, そう思わないが40%と若干「必要とされている」の方が多いようですが, わたしは番組を聴きながら「わたしはそう思わない」に一票いれるな…, と思っていました。 もちろん「必要とされている」というのはいろんなレベルがあって, 番組中のアンケートに対するコメントでも「仕事をまかされているから 必要とされていると思う」と答えていた人もいて,そういうレベルで 見るとわたしも必要とされているのでしょう。
ただわたしの中で会社というのは人材を取り替え可能なように 運用するのが正しいやり方だ…というような考えがあり,それから するとわたしも誰かと取り替えても会社がうまく回るだろう…と いう意味では「わたしという個人」が必要なわけではない…と いう気がするのです。
もちろん,それはわたしが誰でもできるような仕事をやっているから… というわけではなく,会社の中で自分しか出来ないようなことを やっていたとしてもそう思います。仮に自分がそういう人だとしても, そして自分がやってることが会社の事業に役に立っているとしても, わたしがある日倒れてしまって会社に来なくなったら,一時期は 混乱するでしょうけど,おそらくしばらくすると何とかなるだろうし, それで会社が傾くことは決してないと思うのです。…というか 一人が休んだり辞めたりしただけで会社が傾くようでは, その会社の運営はうまく行ってない…と思うから,そう思うのです。
これは世界にとってもそうでしょう。世界にとって,わたしが いなくなっても多分ほとんど何も変わらない…。家族がいる人は そうじゃないかもしれせんが…,でもそれも実は何とかなるのでは?…と 思うこともあります。
というと非常に暗い話なんですが,なんとなく自分が会社に必要と されているか,社会に必要とされているか?…っていう質問に対して, なんとなく「そんなこと聞くなよ」というか,なんか「必要とされているか」 ではなく,こちらのココロの状態を聞かれている気がします。 「と思いますか?」だから文字通りそうなのか(^^;)。
自分が会社や社会や人の「役に立ってるか?」とか 「ありがたられているか?」だったら「はい」と答えるかも知れません。 なんとなくね,わたしはそういう風に物事を考えたいです。 「自分が必要とされているか?」って事にそんなにこだわりたくないと。 あんまり「個」の社会的価値を突き詰めるというのは, 結果として健全な結論に落ちにくい気がします。
それから,もう一つ書くと,「誰でも出来るけど誰かがやらないと いけない仕事(こと)」をやっている人って,それはそれですばらしい 事だと思います。
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