たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

俺ルール

2010-09-29 23:36:41 | 社会
天に唾を吐くような話だけど書きます。

世の中にはルールがあるのにいっこうに守られてないものが結構あるように思います。ルールがあっても,まるで自分で「守らなくていい」と判断して対応してるもの。おかしな話です。

一番そう思うのが,携帯電話と自転車のルールです。

携帯電話で全然守られてないと思うのは,一番は電車で「電源を切れ」と言われているところでの電源のオフ。これについてはわたし自身も偉そうなことを言えず,切り忘れたり,わざと切らなかったりすることが多々あります。先日関西に行ったときに車両ごと携帯電話OFFというのがあって,乗った瞬間に,しまったなぁ…と思いました。

なんで守らないか?というと,一つは面倒というのでしょうけど,あと,なんでOFFにしなくてはいけないか…が,あまり実感がない。携帯電話が世の中に出てきたころは,電磁波でペースメーカが誤動作する…と言われてましたが,いまのペースメーカもそうなんでしょうか?。ペースメーカの方が電磁波対策出来てるという話も聞かないでもありません。仮にペースメーカに問題があるとしたら,人が周りにいないときならOKですか?ということになります。

いや,これって良くない考え方で,いいわけでしか無いというのはわかるのですが…。

携帯電話についてはいろいろ過渡的な要素があり,将来的には,電車での使用って大丈夫になるんじゃないか?と思ったりもしますが,一方で明らかに危険なのが,車の運転,自転車の運転,また徒歩時の電話機の操作。これは危ないし,やる人がどんどん増えている気がします。車はともかく自転車は免許がないし,徒歩は罰則がありません。なかなか守らせるのが難しいと思います。

自転車に話が移りましたが,自転車はルールを守って無い人がかなり多いように思います。そもそも歩道を走るのに,歩行者がいてもちゃんと止まれない…という人が多いです。以前も書きましたが,自転車って一回はちゃんと訓練したらどうでしょうか?。

というわけで,携帯で自転車って取り締まるべきでは?と思うわけですが,やってる人達は違反してる意識があるのか?というのが気になります。しかも自転車の腕前がいい人がやるならともかく,みんながやるからか,下手な人もやってます。事故が増えてると思うのですが,警察は携帯電話で起きた自転車事故ととか数を公表してはいかがでしょうか?。自転車も携帯も,最近ユーザが増えたものなので,この状態で安定する感じがせず,ますます危険度が増すのではないか?と,危惧します。

こういう守れない法律って,なんとかならないのか?と思います。みなさん,守らなくていいと本気で思ってるんでしょうか?。その根拠はなんなんでしょうか?。少なくとも法律違反をしていて,事故を起こしたら過失は自分に100%来てしまいます。
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なりたい仕事になるということ

2010-09-27 07:17:26 | 音楽・アート
あまり絵がうまく無いけど漫画家になりたいと言い出した高校生にどうあきらめさせるか?みたいな話がネットで話題になってました。

意見として多かったのが天才は諦めないので,「やめろ」と言えばいいみたいな話。あとmichikaifuさんは凡人でも仕事にする方法はあるみたいな事を書いてます。michikaifuさんの意見は,まぁ間違いでは無いのですが,ちょっとわたしが感じている問題とは違っています。

わたしがまず思ったのは,いろんなケースがあるとは思うけど,絵が下手な高校生が突然漫画家になりたいと言い出したとき,それって単なる思い付きで言ってるんではないか?ということ。だから,凡人でも仕事にするということまでして,仕事にする方法を教授しなくてもいいんじゃない?みたいな感じです。

元の話とは違う人ですが高校のとき突然漫画家を目指し始めたという人の話が載っていて,これもずっと漫画家になりたくてやってきた人ではなく17歳のときに友人がミュージシャンになると言い出したのをみて,漫画家になると言い出した人みたいなものを元の人でも感じてしまいました。

この話についてはTwitterで本当の漫画家がいろいろ「こうしたら?」と書いていて,まぁみんな優しいというか,もしかしたらこういう風にプロになった人も結構いるのか…とも思ったりしたのですが,やっぱりもしわたしがこういう高校生の親だったり教師だったり先輩だったりしたら,もっとその人の本気度と,戦略と,地力を確認するだろうなぁと思います。

多分真っ先にするのが,本当にプロにすぐなれそうな人とか,実際のプロに会わせようとするでしょう。そこで才能の違いや,現実の大変さをみると,思いつきで言い出した人なら萎えちゃうはずです。現実を見せずに言葉だけで諦めさせるのは,少し難しいかもしれません。見せるだけでダメなら一年くらい弟子入りさせるとか,それがダメなら実際に作品を描くノルマを決めて,もっと凄いペースで応募させるとかやらせるだろうなぁ…と思います。懸賞に応募するなら本当は学生をやりながらでも出来るはずだから本当はそちらを勧めます。

例えば三ヶ月…いや,毎月一本は短編を描いてどこかに持ち込めとか言うんでしょうねぇ。それが無理…というなら多分それはプロになるのも無理。本当にプロになれるくらいの人なら,売り込みの戦略とかが稚拙でも,好きなことをすること自体は苦にならないはず。やらずに夢ばかり語るのは本当の天才にはなれません。

そんなことを感じました。

実はわたしは高校時代にミュージシャンになりたいとちょっとだけ思ったことがありますが,すぐに本気度は下がりました。でも音に関する仕事をしたいとは,そのときから思って,大学もそれ関係の学部に行きました。大学に入るまでなりたいと思っていた職業と,学部の卒業間際になりたいと思った仕事と,大学院を卒業し就職した先は実は全部違うのですが,でも一貫して音に関係する仕事です。就職してからも異動とかが何度もありましたが,大きくくくるとやってることは変わって無いでしょう。わたしは自分が天才だとはあまり思ってませんが,確かにあらためて思い返すと,諦めたことはありませんでした。そしていつも,どうしたらこの仕事に就けるか,この仕事を続けていけるか?と今でも考え,そしていろいろ手を尽くしてます。でも,実はそれが努力してるという感覚でもありません。好きな仕事に就き続けるというのは大変なことだと思いますが,一方でそれが当然のことの様に思えて続けられる。現実のその場所にいてもそう思う…というのは必要なことだろうなぁと思います。
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プラシーボとお布施

2010-09-25 15:00:36 | ココロ
作家の松浦晋也氏がホメオパシーはプラシーボ効果を高めるように発展してきたのではないかと書いてるのを読んで,あぁ,そうだろうな,と思いました。その通りだと思います。リンクのページはもう会員登録しないと読めない様になってますが,そういうことが書いてあったように記憶してます。この方はこれを少し否定気味に書かれているのかもしれませんが,私はむしろプラシーボ効果を高める研究があってはいけないのだろうか?とも思います。

実はずいぶん前,わたしが宗教的なことに興味を持っていたときに,無害な宗教は作れないだろうか?と考えたことがあって,その時に困ったのがお布施のこと。信者に大金を出させる宗教は怪しい…とは思うのですが,大金を払わせることによって,信者の俗への執着を捨てさせることが出来ることも出来るわけです。現代人はなんだかんだでお金を信仰の様に信じており,それゆえに,お金という物差しを持ち込むと精神的に揺さぶることが出来るわけです。

宗教が本当に神秘的な力を持っていれば,お布施なんて不要だろうと思うのですが,お金が不要であっても,お金を信者に払わせることは,それなりの効果があるんだろうなと思ってました。

ですから,同じようにプラシーボ効果を高めるための手段として高額なお金を払わせるというのは有効なんだろうな思います。プラシーボ効果も「(不確実ですが)効果」はあるのですから,まったくの無意味ではありません。自己暗示みたいなものです。

さて,一方で最近医療費の高額化が話題です。保険診療は患者の負担額に上限がありますが,それゆえに国の財政を圧迫したりしてます。癌とか有効とされる新薬が一月に数十万円とかするとか聞くと,それって本当にそんなにするんですか?とも思います。薬の値段は材料費や製造費ではなく,開発費が乗っかってきてるので,実際の根付けは多分ビジネス的な観点で決まっていると思います。日本の認可の条件に価格が含まれているのか分かりませんが,認可が取れれば患者の自己負担を超えた額は保険組合が払うわけで,使う医者や患者は躊躇しないでしょうから,薬メーカとしては高くつけておいたほうが美味しいのかも知れません。

薬だってもしかしたら高いほうが効くと患者に思わせているかも知れません。ジェネリックがある薬でさえ,そうじゃないほうが効く…という話を聞くので,薬は高いほうが効くという信仰はあるんだと思います。さらに日本で治療が出来ない病気を海外に行って数千万円使って治す…という話もたまに聞きます。

もし薬は高いほうが効く,とかお金を大量に使えば,普通は助からない病気が助かる…という考えがまったくなくなり,値段と治療の有効性は無関係である…というのが常識になったら,もしかしたら,プラシーボ効果のためや,信仰の有効性として大量のお金を使うという考えも無くなるかもしれません。そうなればいいのにな,というか医療費安くならないかな…とふと思いました。

プラシーボ効果ってもっと科学的に研究されてもいいと,私は思います。
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あの人が出来てるから何とかなると思う生き方

2010-09-24 05:51:12 | ココロ
だいぶ前からちょくちょく思うこと。

わたしは自分があることを出来るかできないか?というのを考えるとき,自分以外でも出来てる人は結構いるから大丈夫だろう…という考え方をわりと良くします。いいのか悪いのか良くわかりませんが,それであまり大きな痛い目にあったことがありません。全然無いわけじゃありませんが。

でも世の中には多分逆の「人は出来ても自分は出来ない」という考え方をするか,もしくはそういう風に考えずにただ出来ないと思う人が多い様に思います。まぁ単に言い訳としてそう考えているだけかもしれませんが。

誰にでも訪れそうな例で挙げれば,例えば,就職で出来るできないという話,あと結婚できる出来ない,特に結婚して家族を食べさせることが出来るか?とかいう話,そして子供を作って育てられるか?とかいう話。この手の話で出来そう無いとやる前にいう人が結構見かけます。でも私は,自分以外の多くの人が,結婚して家族を食べさせたり,たくさんの子供を育てたりしてまぁ何とかなってる。すこしうぬぼれた言い方をすると,そういう人には,自分より稼ぎが少なかったり,能力的にも人それぞれだったりします。だから,自分も多分何とかなるでしょう…と思って,結婚したり子供を作ったりしました。就職は自分ははるか昔だし状況も今とは違うけど,やっぱりいろいろ自分で条件をつけなければ,働いて食べていってる人がいると思えば,やっぱり自分が今そういう状況でも,まぁなんとかなるんじゃ無いかという気がします。

仕事の方でも,もちろん自分より優秀な諸先輩は山の様にいるけど,そうでない人もそれなりにいて,その人たちも何とか役割をこなしていった…という事を考えると,多分何とかなるだろう…ということを常に思ってます。失敗しないと考えてるわけでも無いけど,失敗しても,いろんなことで,まぁ何とかなるだろうと。

こういうことを考えてると「甘い」といわれるかも知れませんが,でもやる前に障壁を作ってやら無いよりはやった方がいいかと思うことも多いし,でも何でも無鉄砲にやるのではなくて,自分以外にちゃんとやってる人のお手本が見えていれば,いざというとき,その人たちがどうやってるかを見習えばいいというのもあります。

もちろん何かをやるときはあきらめなくてはいけないことも多いです。子供を持てば独身時代の様な生活はできません。でも多分それも含めて何とかなるんでしょう,独身時代の様に生活せずに子持ちとして生活をすれば多くの人がそれに我慢できてるように我慢できるだろうと始めたら,それはそれなりに楽しかったりもします。

ちょっと汚い言い方ですし,自分より劣ってる人を見るというのは,更に汚いことの様にも思いますが,ただ理想ばかりみてデッドロックになるよりは,そこまで行っても何とかなるんだよな…と気楽に人並みに生きればいいように思います。
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永遠の片想い

2010-09-22 22:09:32 | 医療・福祉
以前何度か日記で取り上げたことがありますが「粘る稀なガン患者」というブログがあります。このページは膵内分泌細胞ガンにかかっているブログ主さんが書かれていたブログです。膵内分泌細胞ガンというのは,わたしが四年前に手術した腫瘍と同じ病気です。ブログ主さんは発見時に既に転移があったため,手術不可能で,抗癌剤治療をやられてきました。最初は承認薬で治療をしてましたが,承認薬が効かなくなると未承認薬を使って更に命を延ばしてました。海外の医療文献等も読まれ,医者とも活発に議論をし,実に積極的に治療を行っており,膵内分泌細胞ガンという情報の少ないガンにとっては,非常に有効なデータとなるブログだったと思います。またガンに絡んで時事のことを語ることも多く,多く共感を受ける内容がありました。

膵内分泌細胞ガンは進行が遅いガンだと言われますが,転移がある状態から8年以上治療を続けておられる姿は,わたしのガンが再発しても8年は生きれる可能性があるわけだ…と思え,非常に勇気づけられたものです。

正確にはこのページを知ったのは,はっきりとはおぼえてませんが,わたしの手術前か直後で,ブログ主さんは当時はまだ治療を初めて4年程度,そのあとの投薬の変化も非常に興味深く読んでいたものです。

そのブログ主さんが今年度に入り,仕事をお辞めになり,その後しばらくしてどうも体調が良くなさそう…という感じになり,気になってましたが,二週に一度更新されていたブログが今週は更新されないので,気になっていろいろ調べたら,どうやら13日に亡くなられていたようで…。その事を知りショックを受けております。

この方はブログでは素姓を一切明しておられませんでしたが,昨年奥様が小腸がんで亡くなり,絵描きであった奥様の追悼展があったため,その個展を観に行きました。会場はお客さんが多かったため,ブログ主さんを遠目で観ましたが,声をかけることもなく記帳だけして帰りました。今年も追悼展が再度行われるということになり,記帳したからでしょう,案内が自宅へ郵送されてきており,今年も行こうと思っていたところでした。

今回の追悼展は他にも作品を出す方がおられたので,その方のページからブログ主さんの死と,追悼展が行われることを知ったのですが,その開催を前に亡くなったということで,なにか頂いた案内が結果的に亡くなった方からの手紙…ということになってしまいました。

今度こそ会場で一言ご挨拶が出来るだろうか?…等と考えたりもしてました。わたしの方は先日の検査で手術後四年が経過し,再発の怖れかなり減ったと医者には言われています。一方8年間治療を続け生きながらえたブログ主さんの容態が悪くなりつつも,しっかりとしたブログを作り続けているのを読むのは,凄く不思議な感覚でした。少しずつ違う方向に進んでいるのだろう…とは思いますが,それでもブログ主さんは,わたしにとってはすばらしい指針であったと思います。でもわたしも手術直後は,自分自身がブログ主さんと同じ方向に歩むことになるのが怖くて,ブログにコメントを書けませんでした。今年の5月に初めて「以前から読んでます」と書けたところでした。おそらくブログ主さんはわたしのことは認識されておらず,わたしが一方的に尊敬の想いを募らせていただけでしょうが,コメントを書けたこと,そして追悼展の案内をもらったことは,少しだけ「やっと少し距離が近づけた」という様な感覚を持ちました。

もっともっと長く生きて,普通の人の寿命ぐらい生きていらっしゃったら良かったのに,そして一度しっかりとお礼を言いたいな…と思ってました。とても残念ですが,安らかにお休みになることを祈っております。
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エクスキューズと批判

2010-09-21 21:20:02 | 社会
「学校の教育が不十分」と題された記事をネットでをみました。またモンペか?と思ってよく読むと,親に対して学校の教育が充分か?と聞いているのと,親として充分か?というのを聞いて,大半が充分ではないと答えたという記事の様です。

「(学校・親として)の教育が充分か?」と問われれば,親は,大半は不十分だと答えるのではないか?

これは別に学校に不満を感じるというわけではなく,親としてまだ子供にしてあげられる事,してあげるべき事があるんではないか?と思えばこういう回答になります。つまり親として自信が無いことに対してこういう回答が出るわけです。親として自信が無い親が学校に対しては充分だと思うかというと,やっぱり「これでいいのかな?」という意味で不十分とこたえる気がします。

もちろん親はもっと自分に自信を持ってもいい,今の親としての教育で充分だと思えばいいという考えかも出来ますが,自信が無い親の気持ちも分かります。

で,あれば,この記事のタイトルは少し不適切な気がします。こういうタイトルはあたかも教育行政への批判の様に受け取れますが,実際は親が「もっと自分も学校も子供に何かやるべきことがないか?」と思ってる状態ですから。

さてそうは書きましたが,実際は自虐的な態度だけじゃなくて,学校を批判する親も多いかもしれません。それは親としては何かしてあげたいという思い,もしくは何もしなかったとあとで後悔したくないという思いからやってるのかもしれません。文句をいっておけば言い訳になるし,もっと良くなるだろうという思いでしょう。

でも実際は親がそれぞれバラバラに学校に文句をいうと,現場は混乱するし,親が学校に文句をいうと,子供は学校を信頼しなくなるし,ということで悪いことも多い気がします。なにかしてあげたいと思うのは気持ちは分かりますが,文句をいうと良くなることばかりではない…,ということも知っておくべきではないでしょうか。
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寄付を集めるための物語

2010-09-19 20:42:06 | 社会
WIREDにあった寄付は統計的な数字より,特定の人の事情を説明したほうが集まるという話。当たり前じゃん,というのが感想。

内容はある災害で人が何人死んだとか,被害総額がどれくらいだとかそういう数字を並べるよりも,だれか特定の被害者でもいいので取りあげて,その人の家族の話とか,生活っぷりとかをドラマ仕立てで報道したほうが寄付があつまる…というようなことらしい。

「慈善行為というものが、つまるところは人間の同情心に根ざしたものであり、論理的かつ実利的な計算に基づくものではないから」と書いてあるが,その通り。実際は困った人を助けるという風潮が形成されれば,自分が困ったときも助けてもらえる可能性が上がるという論理的な思考から慈善行動をすることは可能だし,そういうこともあるのだけど,そうじゃなくて単純にその人の「状況」に同情して寄付をすることの方が多いんだと思います。

記事は論理的な人の方はその人の状況を知っても寄付額が上がらないと書いてるけど,論理的な人ってどうやったらわかるんだろうという気はする。それよりその人の状況を知ると寄付額が上がるというのは,要は,人は他人よりも知り合いの方が,家族の方が,より同情と助け船は大きくなるということだと思う。これは人を助けるときに優先順位をつけることであり,それは身近な人,つまり遺伝子の近いの方を助けるという進化論には合理的な行動だと思うけど。

さて,それはそれでいいとして,ちょっと悩ましいのが,こういう人間の性質からいうと,時々見かける「ある困っている人」について,TVとかのメディアで人となりから取りあげて,お涙を頂戴するというのは,個人的にはあまり好きじゃないのだけど,困ってる人からすると,戦略的に有効である場合が多いということになる。だからメディアが視聴率を稼ぐために煽るのと困った人というのは利害が一致してる。かつ,メディアを観て寄付をする人も,それですっきりするのだから,みんなが利害が一致していて,いい事尽くめじゃないか,という気も一見する。

でも,なんかこういうのって割り切れないんですよね。何故割り切れないかというと,多分上にある論理的な思考で考えると,本当に困っている人は他にいるんじゃないか?というのが頭に過ぎってしまうからかな。それとも論理的な思考自体を止められていることに,なにかしら不安感を得るから?だろうか。

まぁよく分からないけど,そもそも人はほとんどが「物語」を元に行動してるもんだと思う。だから別にもとの気の内容には,そんなに驚くべきことはないと思いました。
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Twitter

2010-09-14 05:50:12 | 社会
ちょっとTwitterについて,幾つか思うところを簡単にメモ。つぶやき風に短文で書く:-)。

わたしは有名人とか企業の担当者が結構書いていて,その声が読めるから読んでいる。

そういう意味ではコミュニケーションツールというよりメディア。

有名人や企業が書くのは,つぶやき(140字)という書きやすさと,フォロアーという読んでいる人の数がわかりやすいというシステムから,ブログやホームページに比べ,書く意欲が湧きやすいからか?

わたしは基本的にはリードオンリーのつもりだが,なにもないと失礼かな?と思い,簡単に機械的なつぶやきをしている。

タイムラインが物凄い勢いで流れるので,付きっきりになれる人と,なれない人で,多分格差が産まれてる。文章力とかネタの豊富さよりそっちの方が大きい気がする。

有名人のつぶやきに対して意見が直接言える,というのが一般ユーザには魅力なのかも知れない。2chにはなかった仕掛けだし,ブログも有名人はコメントを塞ぐ人が多かったので,これもTwitterの仕掛けといえる。

端からみてると,無視スリャいいのに…というコメントに,反応してる人が結構多い。

ブログはコメント開けておいて,無視すると炎上するけど,twitterはどうかね?。

みんなが自分のところに書くというスタイルなので,他の人のところを炎上させるのは出来ないと思うんだけど。

きちんと反応する人の方が第三者からみても好感度が高いのはブログとかも同じだけど。

メイルと違い特定の相手を狙ってメッセージを投げにくいし,読んだかどうかもわかりにくい。詳しく突っ込んだ議論がしにくいという意味では,
深いコミュニケーションがとりにくいシステムだけど,根付くのかな。
文章が短いのは読みやすいという利点はある。コピーみたいなもの。
書く方も書きやすい。ただし正確にはなってないよなとも思う。
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スキャンダルと政治

2010-09-12 09:44:33 | 社会
正論というのは,論理的には正しいことを指すのでしょうが,それをいつ言い出すか?というのは,決してフェアではなく,言い出し手の立場や感情とかに影響されてるんじゃないの?という気がします。

というわけで,日本の政治がスキャンダルに弱くて,それでダメになっているという話。最近急に少々のスキャンダルで優秀な政治家を退陣させるのは良くないのでは?。日本人は清廉潔白すぎる…みたいな話を良く聞きます。

それはそうだよな,とはずっと前から思ってます。でもなぜ1年前にはそれを言わず,今言い出すのかね?とも思います。

正論を急にかざし出すというと,急に国会で議論をすべき,審議拒否はすべきじゃない…とか言い出す人もいますが,それもなんで今言うかね?…とも思います。

それをこのタイミングで言うと,まずは現政権を守りたいという立場があって,その為に正論を吐いているだけ…という風に見えます。それは正しい意見であっても,フェアじゃありません。

とはいえ,再度書くとスキャンダルに敏感すぎるのはちょっと良くないです。というか,今のスキャンダルに比べれば,麻生さんが漢字読めないとか,どこがスキャンダルなんでしょう。振り替ると,麻生さんはスキャンダルらしいスキャンダルすらなくて,ただ意味なく批判されていたようにも思います。どこがスキャンダルだったか。

一方で首相の寿命が短いといいますが,その中で長かった小泉さん。小泉さんにスキャンダルがなかったかというと,まぁ年金の話とか(瑣末だけど),最初の田中真紀子がらみとか,なかったわけでもありません。だけど,小泉さんはそれをスキャンダルに発展させなかった。だとすれば,必ずしも世論やメディアだけの問題じゃないのかも知れません。政治家もうまくやれば,スキャンダルに影響されない政治が出来るのかも知れません。そういう意味ではなぜ小泉さんは潰されなかったかを,良く再検討してみても良いでしょう。

ちょっと思うのは,鳩山さんも菅さんと違い小沢さんは案外スキャンダルに強いかも知れないな…と思います。ただ,わたしは小沢さんの言ってることは理解できない,賛同できないので,支持はしてません。

話を戻すと,そういうわけで,今更スキャンダルに弱いのが問題とか言うなよ…という話,でもそれでもスキャンダルに強い政治家も,今後出てくるんだろうな…ということ。ただし今の政治家の中に,その片鱗を感じさせる人は,あまりいません。
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瞬間最大と積分値

2010-09-09 23:02:34 | 音楽・アート
私は外出時によくiPodを聴いてるのだけど,自分が持ってるCDから自動的に選び出して聴いている。最近はJaco Pastoriusのアルバムを聴いていた。ジャコは世界最高と言われた絶頂期から一気に没落して死んだので,絶頂のプレイを収めた彼名義のアルバムはかなり少ない。その少ないことが寂しさを感じさせる。

kaienさんが「作家の評価は最高傑作で決めるべき?」と書いてるのを読んで,わたしは小説やマンガというより音楽のことをすぐに連想してしまう。駄作や失敗作の有無で評価するというのはもってのほかだと思う。でも最高傑作一本で評価するのか?というと少し違和感がある。いや,気持ちは分かるんだけど…。

コンスタントに数十年傑作を産み出してきた人と,一本傑作を作り,すぐいなくなった人を,両方とも一本の作品で評価して比べるのは,どうも違うんじゃないか?ということ。逆に何本も傑作を産み出している人は,最高傑作を選べなかったり印象が少しだけ薄かったりするんじゃないか?ということです。音楽でいうとマイルスやメセニーやキースジャレットの最高傑作はどれですか?というと選びにくい。それをジャコやジミヘンとかの作品と比べるといってもなぁ,ということ。

音楽だとなんなので,マンガにたとえを変えると,手塚治虫や石ノ森章太郎,萩尾望都の作品を一本だけ選ぶのはやっぱり無理だし,逆に私はこれらの人たちは,これだけたくさんの傑作を生み出したことも評価したいと思う。

というのと,今の漫画家は一作のヒット作品を長期連載する傾向が強く,あまり私は好きではない。新しい作品世界を模索して,駄作も傑作もたくさん作った人こそ天才では無いか?という気すらする。

作家の評価の仕方はいろいろあるとは思い,これが唯一の方法だというのは無いとは思うんだけど。
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