たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

業界が育ったからと言って両端の人たちが豊かになるわけでも無い

2010-04-20 22:28:31 | 音楽・アート
なんとなくちょっと前から思ってること…。

今,マンガというのはとても大きな市場を持っています。出版社はマンガ本や雑誌で多くの収益を上げてますし,実際出版数もかなり多いです。マンガを原作としたドラマや,メディアミックスによるアニメや映画化も多いです。また海外でも日本のマンガは評判が高く,海外でも多くの手段で日本のマンガが読まれていたりします。

従って,マンガという作品に関わる人は,漫画家かと読者,そして昔から編集者のみならず,出版業界,放送業界,海外流通,その他多くの業界…など膨大な人数がいるでしょう。多くの人間がその作品が挙げる利益で収入を得て生活をしているように思います。

ですが,ふと考えると,マンガというのは,その作品を作り出すマンガ家とマンガを買って読むという読者が,そのマーケットでの最低単位…というかスタートだったと思います。昔は出版でもマンガは軽く見られており,たいした収益を上げていなかったと聞きます。それでもいろんな名作が産まれてました。

こういう風に昔は一部の人達がこじんまりと市場をつくっていたのが,いつのまにか消費者が増えて,それに対応して生産者が増え,そしてその間に立つ多くの流通業者が増え,さらにタイアップなどの周辺業者が増えて市場が拡大するというケースは結構あります。そしてその市場がどんどん右肩上がりで上がっていると,経済的に注目され多くの投資がされます。いろんな業態…というか金儲けの仕組みが考えられて,関わる人がどんどん増えていきます。

ところがある時点で,その成長に陰りが見えると,その市場は行き詰まった…とか,はじけた…とか急に言われる様になります。儲けを見込んで参入した業者が倒産したり,業者の数自体が減ったりもします。

こういう変化を端からみてると…というかマンガの例でみてたのでマンガでみると,そういう変化は,じゃぁマンガ家自身と読者という最小単位に対してどれだけの恩恵を与えたのだろうか?…ということです。確かに一つのマンガが流通の発展や広告のタイアップにより多くの利益を産み出せば,マンガ家は多くの利益を得て,良い作品をつくった見返りを得るでしょう。読者も多くの作品に触れる機会や,関連した商品を得ることが出来るでしょう。

しかし,市場が大きくなるということは,そのマンガ業界に入るマンガ家の数も増え,利益を得るマンガ家が増えると共に,食えないマンガ家も増えます。読者も多くの作品に触れることができますが,粗悪な作品にお金を払う機会も増えるでしょう。新しいファン達と考えが合わず,がっかりとすることも増えるかも知れません。そして市場が傾いたと大騒ぎした結果,その騒ぎに巻き込まれるマンガ家とファンもたくさんいるんじゃないでしょうか?。

マンガに限りませんが,良く言われるのは,こういう市場の拡大によって,その業界で多くの富を得る人が増える一方で,肝心の最初のクリエータ達がたいした報酬を得てない…とかいうことはよくあることです。そもそも,こういうクリエィテブな業種が良い作品を作り出せるのは,作家がお金よりも本人の楽しみや自己表現のために,採算度外視で作品をつくるからであり,そこに経済的な戦略が入ると,おかしくなるような事もあるように思います。作家達が,劣悪な条件で大量の良質の作品を作り出していることが自体が,その業界を支えているって事もよくあります。そこに更なるムチャな成長戦略などを投入されても,良い効果が産まれるのだろうか?…等と思います。

こういうことはマンガに限った話じゃなくて,例えば初期のコンピュータのフリーウェア等の業種もそういう部分があったように思います。ただ,わたしは趣味の業界が膨れ上がることに否定的なわけでもありません。売れることによりいろんな事が可能になり新しい表現が産まれることもよくあるからです。ただ市場規模や収支などの数字だけをみて,こういう趣味の業界をドライブする…というのにちょっと疑問を感じたりします。

以下,ちょっと今日読んだ記事で…,集英社がマンガのスキャンを差し控えて欲しいと訴えるのを,海外の人が,スキャンするから我々が読んであげるんだみたいなことを言われると,そこまでして海外の人に読まれたいかね?…とも思います。…というか,別に世界中で売れなくても,もっとこじんまりとでもファンとしては特に問題ないのに,と思ったりもしました。

これらの記事だけで上記の事を思ったわけでもありませんが…。
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理不尽を理解して利用したほうがいいと思う

2010-04-09 12:43:35 | 社会
ネットで見かけた文章,ある企業のおじさんが学生に怒鳴ったという話。学生が「やりたいことことがある」と言ったのかな?それを怒ったんですが,実はおじさん的には「見込みがある」と思ったとのこと。

最初これを読んでわたしは「ツンデレかよ,わかりにくいな」と思ったんですが,はてなブックマークを見ると結構このおじさんが批判されている様なので,少し思うところを。

まぁ会社においてどういう人材が望ましいかは会社によるし,教育方針も会社によるので,わたしはこのおじさんの様にはやら無いけど,こういう教育が望ましい職種もあるんでしょう。批判が多い文ですが,わりと共感できる部分もわたしは多いです。

一つは学生が1年程度で考えたことは,実際に社会にでたらあっという間に壁にぶつかって頓挫することが多いということ。社会経験が少ない人はうまくいくケースをイメージできていても,そこにある障壁は案外イメージできてません。ですから一つ大きな壁にぶつかっただけで,そこから先に進めなくなったりします。それが出来るようにあらかじめいろんな異常系の想定が出来る様になるために社会経験が必要だったり,人とのつながりが重要だったりするのです。

というわけで,タイトルで上司と飲みにいったほうがいいというのも,情報を得たり,協力を得る体制を作るために重要で,決して年寄りの機嫌を取るためではないのです。まぁすべての飲み会がそうだとは言いませんが。

ブックマークを読んで思ったのは,ブックマークでこのおじさんとか文を書いた人を批判している人は,いったいどういう論拠で批判してるんだろうな?ということ。確かにこのおじさんの態度は理不尽だと思うけど,その理不尽さをこの文はさらしてるので,ある意味ネタバレという意味では親切でもあるんだけど。で,ネットで理不尽だといって批判していても社会にでたらその理不尽さを避けられないケースが多いんじゃないですかね。だとすれば,それとどう付き合っていくか?ということを考えたほうが良いように思うけど。

ちょっと話が発散して今いましたが,一番思ったのは,この文に対する文句を読んでると,やりたいことを批判される事とか,やりたくないことをやれといわれることとか,そういうことに対して単に理屈をつけて反発してる様に見えるなぁということです。実際の世の中はやりたいことをやってやりたくないことをやらないだけでは,逆にやりたいことが出来なかったりするんですけどね。

ちなみにわたしがこのおじさんのいた場所にいたら,話をニコニコと聞いて「ふーん,頑張ってね」と無責任にいうか,もしくはもっと論理的に,論破することをするような気がします。わたしは自分の方が意地悪だなぁと思うんですけどね。
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幸せへの新しいプラス

2010-04-06 20:25:34 | 音楽・アート
谷山浩子さんがブログで便利になり不幸になるみたいな事を書いている件。話題になってるかな。

わたしは幸せを感じるには「プラスの変化」が必要だと思っているので,現状が満たされていたら,幸せを感じるのは難しいな…と思ってます。だからといって「無理やり」不幸や不便な状態を作り出して,そこに小さな幸せを感じさせるというやり方は,全体主義とかカルトとかがそういう手法を使ったりしますが,反対です。これに対する明確な答えはわたしは持ってません。

というわけで,谷山浩子さんが「一つの」音楽や本の価値が下がりつつも,その便利さから逃れることができないというのを嘆いている気持ちは良くわかります。この文章は概ね共感します。

ですが,最後の「アナログ盤がCDになった時に、もうそれは始まっていた気がする」っていうのは違うと思うんですよ。それをいうなら,音楽がラジオで放送されたりレコードで売り出された時点でそれは既に始まってます。

想像するに,昔は音楽なんて生演奏しか聴けなかった。だからレコードになったときに,それまでは一回しか聴けないと集中して聴いていたのが,何回も聴けるし…と音楽を聴く有り難みが下がったかも知れません。ラジオも無い頃はプロの演奏なんて旅芸人とかぐらいしかいなくて,町や村に歌がうまい人が何人かいて,それを聴いたり,みんなで歌ったりするのが音楽との接し方だったのかも知れません。音楽というのは聴くものではなく,参加するものだったのかもしれません。そういえば,昭和のはじめには飲み屋街には流しがいたものです。

それがラジオやレコードという放送やパッケージの発生で一人のプロの音楽家が大量のリスナーを独占することになってしまった…のは100年くらい前ですかね。今みたいに一人のリスナーが大量に音楽を入手できるのが前時代からして異常なら,一人のミュージシャンが多くの聴衆を独占したのも異常な状況だったのかも知れません。

という事を想像しました。わたしはおそらくそれぞれの時代に幸せはあるんだと思います。ただその時代の幸せを享受した人が次の時代を同じ手段で楽しむことはできない…というだけじゃないですかね。

それから,音楽を大量に入手できるのは,確かに単価は安くなったかも知れませんが,おそらくそれよりも歳をとって自由に使えるお金が増えたことの方が多いんじゃないかな?と思います。今も子供は時間はたくさんあるけどお金はあんまり無い,だから一つの遊びを何度もやる,またはお金がかからない遊びをする…というのは変わらないと思います。

音楽が知り合い同士で歌い合うものだったから,プロの演奏をラジオやレコードで聴くようになったとき,前の世代の人は音楽が自分達の手を離れて遠くに行ったように感じたかも知れません。でも,一流の演奏に接する体験を新たにしたのでしょう。それは違う体験で,この違う体験を得る事自体が「プラスの変化」の様にも思います。

そうであれば,CDや本が売れなくなり,電子媒体になっていくと,それは何か違う接し方があるんじゃないでしょうか?。個人的には一つの曲が何百枚も売れなくなる,っていうのは,逆にもしかしたら曲やミュージシャンとリスナーの距離が近くなる事なのかもしれない…とも思ってます。音楽出版の力を借りなくても音楽をリスナーに届けることができるようになってきたし,著作権的にはまだ整理されてないけど,人の音楽を引用して改変して音楽楽しむことも技術的には可能になってきてます。

多分わたしたちより若い人達は,わたしたちとは違う幸せを感じているんじゃないかな?…と思います。

一つだけ書くと,そういう中では音楽という趣味が相対的に減っていくのも新しい幸せかも知れないけど,わたしは音楽が好きなので,それだけは避けたいというか,音楽できちんと食べていける人がちゃんとある程度の人数維持できて欲しいな…とは思います。

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怖れるから不親切になる

2010-04-03 10:27:10 | ココロ
突っ込みを怖れるあまり不親切になる…,ということをふと思いました。いや,なんとなくそういうことよくあるなと。

ちょっと生活の中で,外部の人からお願いが書かれた文書をもらったのですが,それが最低限の要件しか書いてなくて,お願いをするのであれば,もう少し背景とか狙いとか書いてくれれば意図がわかるのに…と軽く憤慨。…が良く考えたらわたしも仕事の上でそういうお願いの文書やメイルを書いてしまうことはよくあります。

そういう場合って,仮に凄く相手に申し訳ないとか思っていて,詳しく説明しようと思っていても,背景とか狙いとか外部状況とかいろいろ文書に書いて整理していくうちに,だんだん文書自体がわかりにくくなったり,誤解を産みそうな記述が入ってきたりして,伝えるのが難しい…とか思っていて,最後はしょうがないので最低限の要件だけ残して消してしまう…っていうことになることが多い気がします。実際に部下とかの文書を推敲するときも,部下が詳しく書こうとするほど,だいたいわかりにくくなり,「要件だけシンプルに書いた方がいい」と指導してしまう気がします。

まぁ会社とかで実際にあって説明する場合は,そういう細い話は付録とか参考情報としてつける場合もありますが,メイルなどで送る場合はそういう部分は省いたりもします。

というわけで,無味乾燥な依頼を受取ったときは,案外裏にそういう葛藤があったのかも知れないな…という気もします。

よくよく想像すると,良く医者を訴える患者…というのも「説明不足」に怒って訴えるケースが多い気がしますが,それも医者からすると,本当は詳しく説明しようと思ったんだけど,専門的だし,ややこしいし,それにいろいろ書くと,まぁそこにいろんな落ち度が見える場合もあるし,落ち度がなくても,妥協点や,状況が許さなかったこととかそういう部分がいろいろカイマ見えて突っ込まれると,辛いなとかそんなことを思ったり,結局わかりにくいからシンプルに要件だけ書いたというという様なことが起きていたのかも知れません。

詳しく丁寧に書けば,相手がその気持ちを受取って友好的に対応してくれる…ならいいんですが,逆に揚げ足を取られる場合もある…というか普通はそういうのを想像するのでしょう。

そういうことあるよな…ということで,無味乾燥な文書の裏に潜むその意図を想像するのでした。
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声から音楽を自動生成するということ

2010-04-01 18:16:04 | 音響
WiredVisionに載っていたどんな歌でもフル伴奏を付けるiPhoneアプリを観て,ほぉー,と感心しました。

この手の声とかそういう生音をコンピュータに取り込んで,単にエフェクトというのではなく音楽的に処理をする技術はわたしが興味を持って30年くらい…意外にもずっと進歩してるように思います。多くの技術はどこかで行き詰まったりするもんですが,この手の技術は技術時代の進歩と,あとアプリとしての応用の双方がうまく作用して,新しいものが生まれているのでしょう。

生音を音楽的に処理をするという場合,まず大事なのは生音のピッチ(音程)を抽出することです。エフェクタみたいにどんな音でも同じように処理をする場合はピッチの抽出は不要ですが,音楽として処理をするにはピッチを抽出しないと,その後の複雑な処理は出来ません。生音からピッチを抽出するってことを最初にやったアプリケーションはたぶんギターシンセです。わたしがギターを始めた頃1980年ちょっと前頃がたぶんギターシンセの創成期でしょう。当時からがローランドが頑張っていました。生音からピッチを抽出するにはとにかく単音として処理をするのが一番近道なので,弦それぞれにピックアップをつけて,あと音域を絞るとかそういうことをやってピッチを抽出していたのだと思います。その後1990年頃になると,ボーカルからピッチを抽出して処理をするものも産まれてきました(DigiTech のVocalistとか)。よく考えると音声符号化とかもピッチ抽出とかやってるので,出来ないはずは無かったんですよね。

で,同じ時期からコンピュータが著しく発達し,それまで時間がかかっていたピッチ抽出処理も徐々に速くなってきた気がします。そうなると処理に余裕が出来るようになり,いろんな場合わけをして複雑な処理が出来るようになりました。そうして,今度は単音だけじゃなくて和音のピッチ抽出,雑音とか複数の楽器が被ってる音からのピッチ抽出とかいろんなことにトライする研究者が増えてきたのをおぼえています。

実はその手の技術がどの程度まで発達したかは,わたしはあまり知らないのですが,ピアノの和音ぐらいはピッチ抽出処理ができるようになったように思います。

さてそういう風にピッチ抽出の精度が上がると,つまりは生音を譜面化出来るようになるのですが,同じようにその頃からそういう音楽情報から和音をつけたり,たぶんリズムを抽出して伴奏をしたりするような処理がされるようになってきました。その前にコードを入れたら伴奏をするとかいうソフトもでてきてました。この辺はルールを記述してより複雑に音楽を生成するという処理が高度化していったのだと思います。メモリ量や処理速度の増大により可能になったのでしょう。

さて今回の伴奏ソフト,聴いた感じで思ったのは,歌った声のピッチを抽出して,ハモる音をつけていること,声からリズムを取り出し,同じようなテンポで伴奏をつけていること。声のピッチから譜面情報を取り出せれば,ある程度キーの情報をつけられるので,たぶんそれを元に和音を適当につけ,定型のパターンを弾かせていることあたりがたぶん技術的な全貌なのではないか?と想像します。

この辺はここの技術よりも,その巧みな組み合わせと,あと定型のパターンとしてどういうのを入れておくか?というのが,実は結構それらしくみせるのに重要なので,その辺のセンスが結構すばらしいなと思いました。

わたし自身はこういう研究を自分でやろうとは思わないのですが,面白研究だとは思います。なかなかいいものを観たなと思いました。この分野,まだまだやれること,ありそうですね。
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