たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

NHKスペシャル 働き盛りのがん

2010-01-31 21:10:31 | 医療・福祉
年末に放送されていた(今日,放送されてましたね)NHKスペシャル 働き盛りのがんをちょっと前にみました。見終わってみるといい番組でした。

NHKはそのちょっと前に立花隆が自身のガン経験と取材により作った番組をやってましたが,そちらの方はわたしの経験からは共感できない部分が数多くありました。今回も首をかしげるような内容だったら…と思って,録画したものの観ませんでした。

内容は実際に五人のがん患者,しかし皆さんしっかりと生きている人たちが
でていて,あと娘さんをガンで亡くした児玉清が出ていて,自分達の経験と考えを語ってました。あとメインの方のガンの経験,ガンの手術を5,6回した人の経験をドラマ仕立てで再現してました。再現ドラマがあるということで過度にドラマチックに作ってるのか?と思っていたのですが,そこまで不自然な感じはせず,真摯に作ってる感じもありました。

それでも最初のがん発見から手術を何度もするあたりまでは,わたし自身の経験から想像しても,その方の辛さに強く共感してしまい見るのが辛くて仕方なかったのですが,それでもその後のトークで他の患者の方々生の声,そして皆さんがいまもしっかりと生きている姿を見せられ,感動は高まるものの,辛さは若干和らいだ形で見れました。

見て思うこと,話を聞いて思うことはたくさんあるので,今,書き出すのは難しいのでまた追々書くかもしれませんが,一つだけ書くと,ガンというと悲劇的結末ばかり描くTV番組が多い中,数多い苦労をしつつも長く強く生きておられる方にスポットを当てた番組を作ったことは良かったのでは?と思います。
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ストレスの種類

2010-01-27 22:33:21 | ココロ
ストレスはがんを誘発するか?という文を見てちょっと思ったこと。「ストレス」って一くくりにするのをよくみますが,じっさいはいろいろあるのではないでしょうか?。よくストレスが病気を引き起こすという実験で,動物に常に物理的な刺激を与え続けるとか,うるさくして眠れなくするとか休めなくするとか,いろいろと辛い状況を与えて,そして病気にするとかいうのをみます。それをもって「ストレスが病気の原因」っていうのは,まぁその刺激が病気の原因というのは判るのですが,それ以外のストレスも同じように病気の原因…といえるかどうか?よくわからないなぁってこと。

ストレスというと精神的ストレスというのもあるのですが,そのストレスが無いと人間が動かなかったり成長しなかったりというのもあり,じゃぁストレスはあったほうがいいの?無いほうがいいの?というのが紛らわしくなるわけです。プレッシャーという言葉も,人にとっていいものをさす場合と悪いものをさす場合がありますが,同じような話でしょう。

もちろんまったく同じものが悪く働いたり良く働く場合もあります。ただそれ以前に本当はもっと綺麗に分類出来るようなストレスがあるんじゃないかな?という気もしてます。ストレスの分類を整理するという研究実績とか無いのでしょうか?。

身体的な刺激のストレスの実験をもって,ストレスは病気になるとかいっていると,それを利用して,精神的なプレッシャーを与えると同じように病気になる…みたいな解釈が出来上がってしまいます。現在精神的ストレスで病気にかかる人は結構いるのですが,そのわりには相変わらず,ストレスに関する分類や整理がイマイチされて無いか,されていても知られておらず,どうも雑な議論ばかりがされてるなぁと思います。
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高校に行けば幸せになれるんだろうか?

2010-01-25 09:28:55 | 社会
紙屋研究所さんの「高校生に全面敗北・完全屈服した橋下知事」という文を読みました。橋下大阪知事と高校生が対談し議論したもので,報道では高校生が論破されたような印象だったのが議事録を読むと逆という印象らしい。そしてその後知事は高校生の要望を一部受け入れようとしているという話のようです。

確かに議事録を読むと知事の方が話をそらしている様に取れます。まぁどっちもどっちという部分もありますが,知事の方が行政のトップなんだから,きちんと納得できる説明を出来て無いという点でやっぱりだめかな,という気はします。で,知事が高校生の要望を取り入れてるというのは美談の様にも思いますが,知事の政治的な判断があったのかもしれません。

とはいえ,やっぱりこの手の話は難しいな…とも思います。確かに貧しくて生活に困窮していてなおかつ勉強をする気がある子供が普通の人並みの教育を受けられるようにするというのは必要だと思います。ただ,知事もいう様にどうして公立だとだめなんでしょう?というのはあります。公立がだめだから私立に行きたいという理屈と公立に通らないから私立に行きたいだとだいぶ事情が違います。地方によって公立と私立のレベルのバランスは違うので,なんともいえません。

公立に受かる学力が無いということで私立に行きたいけどお金が無いという人は,学校に行きたい気持ちはあっても,果たしてそういう高校に行って,なにか将来役に立つ事が身につくんだろうか?,高校に行けさえすれば,なにかが好転するんだろうか?と少し思いました。もちろん入試の物差しで使っている学力が適当か?というのはあるでしょう。

最後の教育を受ける権利の話をしてるのですが,教育は義務でもあって義務は中学まで,権利がいつまでかは規定されて無いと思います。学力も経済力も関係なくすべての人が高校に行けるようになったら,世の中からは中卒というのはなくなるのでしょうか?それとも本人が希望したときのみ中卒というのはありえるのだろうか?とか少し思いました。

ちょっと前に大学院で博士課程にいった人すべてが企業にとって欲しい人材じゃないという話を書きましたが,すべての人が学校教育を受けるのであれば,それだけ多様な人を学校から排出する必要があるでしょう。すべての人が高校にいって同じような価値基準で順番をつけられたら,それこそその人に合った道というのが閉ざされるような気もします。

難しい問題ですが,大学や高校の全入が必ずしも社会や本人に幸せを増やしている気もしないので,安易に全入ばかりを追うのはどうかなぁと思ったりもしてます。高校に行かなくても他の選択が十分にあり,そして高等教育を受けた人並みやそれ以上の収入を得られる道っていうのは無いのかなぁ…などと思います。
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オーディオのIT化の形

2010-01-19 21:44:04 | 音響
CESの話題でオーディオ関連のを見ていて,結構盛んだなぁと思いました。ここ数年オーディオが元気だなぁと感じていて,それは主にiPodのおかげだよなぁとは思ってます。

最初はiPod用のスピーカとかヘッドホンがたくさん発売されました。わたしは最初は元々圧縮オーディオであるiPodにそんなに高級なスピーカをつけても…と思っていた(というか今でも思ってる)んですが,このブームは結局のところiPodだけではなく,オーディオ自体の関心を高めたのか,普通のオーディオも様々なスピーカが出てきた気がします。

あとその純粋オーディオとは別の方向で,やっぱりiPodを基点として,PCとの連携や,外部センサ,そしてbluetooth等の製品の充実が現在起きてます。これは直接オーディオの品質というよりは,別の機能。また利便性を上げるものだったりします。ただ,よくよく考えるとオーディオのIT化というのは,本来こういうものかもしれません。技術の高度化が音質に出るという時代はやっぱりオーディオは終わっていて,でも一方でオーディオ業界は音質追求以外に何をやっていいかわからなくて,SACDとか出したりしましたが,ユーザの起爆剤になるのは音質ではなくIT化による多様性や利便性の向上だったのでしょう。

そしてその利便性向上が,単にそれで終わるかというと,結果的にオーディオマーケットの充実から高音質オーディオにも注目が集まったということの様に思います。まぁ実態として昔のオーディオより音が良くなってるわけでも無いんですけどね。

実はわたし10年ほど前に「オーディオは果たして復活するのか?」という文を書いてます。そして,ずっと状況を見ていましたが,まだオーディオの復活は完全には始まってないと思ってました。でも,ふと今回,これが今のオーディオ復活なんだろうなと思いました。昔のオーディオブームとは明らかに違うんですが,家電売り場に大量のヘッドホンがならぶ今はやっぱりブームなんでしょう。

なんかそう思うと,感慨深いものを感じます。
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研究の大学から教育の大学へ再び…

2010-01-12 22:40:19 | 社会
前回,研究現場として大学とか企業とかの話を少し書いたのですが,その後にネットでの巡回先を回っていると,山口先生が「大学の歴史」について書かれていたり,雑種路線でいこうさんの「成熟経済を蝕む仮定法の亡霊」というのを書かれていたりするのを読みました。後者はちゃんと理解できないにしても,思ったのは,昨日わたしは企業の話も書いたのですが,このところのこういう話は大学の問題を皆さんは論じているのだな…ということです。えっ,当たり前だろう?って(^^;)。まぁそうかもしれませんが,昨日は研究分野とか日本全体の研究の話かと思ったのです。世間一般には研究というと大学と思う方も多いんでしょうね。

わたしの感覚でいうと企業における研究は,バブルの崩壊の後に急激に規模が縮小したように思います。それまで大企業の多くで基礎研究をやっていたのが,やめて製品開発に重点を置くようになりました。これは分野によるとは思いますが,学会の発表も企業の発表は減り現在に至っているという気がします。ですが,大学の方は,10年位前に大きな変化があった様に思います。わたしは外から観ていたので,間違った認識をしてるかもしれませんが,博士課程が増え,同時期に国は科学研究に力を入れると言って,大学に多くのお金を公募という形で流した気がします。大学はその公募のお金を獲得する計画を出し,得たお金で,博士課程を卒業した学生を助手や研究員として1,2年程度の契約で雇いました。

しかし,博士課程卒業生は毎年排出されますし,再契約の競争は激しく,博士課程を卒業しても仕事がなかったり,助手をしていても更新が出来ず,次の研究機関にもいけないとかそういう人がどんどん出始め,高学歴ワーキングプアという言葉も生まれました。それでも何とか回っていたところを(?),新政権になり,国からの研究予算の先行きに暗雲が立ち込め,そして,研究者の雇用不安がさらに増えているのが現状じゃ無いのでしょうか?。

その前から,高学歴ワーキングプアは問題になっていましたが,これは,一つは企業が欲しがる人材と,大学が博士課程やその後の研究員として育成した人材像がずれていたことにも起因します。

子供の数が減る一方で大学の数は増え,国立大学は独立法人化され,さらに博士課程を増やす。学部生は全入時代で大量に増えますが,さらに以前にくらべて研究者としてスキルに問題があるような修士や博士も大量に増えた気がします。レベルの高い大学も国の助成金により研究員を増やしますが,助成金によるポストなので短期契約になります。大学の生き残りと基礎研究を強化してノーベル賞をとりたい国の思惑から起きた大学のあり方であり,社会に出て企業人や職業人として役に立つ人材を輩出するあり方になっていたのだろうか?と思います。

もちろん研究により身につけたスキルはいろんなことで役に立つかも知れません。でも企業にはいろんな人材が必要で,しかもその比率というのがあります。研究者肌の人間は意外に少なくていいものだったりもします。いくら優秀な人材を育成しようとしても,それが一様な人材であれば社会であぶれるのは当然のことでは無いでしょうか?。とはいえ,わたしは大学にも人材教育という意味で期待はしてます。全入時代であれば以前は企業のOJTや,丁稚奉公で覚えていたことも,大学で習得させる必要があるでしょう。修士や博士はそこまで入らないにしても,学士教育を変えて,社会に多彩な人材を輩出していくように変えていかなくてはいけないのではないでしょうか。

そういう意味では,大学の先生も今まで以上に多彩な人を使い,さらに企業と連携した形での教育をする必要があるのだと思います。
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大学の研究,企業の研究

2010-01-10 06:48:18 | 社会
ネットで「音声認識研究の閉塞感は他人事ではない」という文をから「「何かが欠けている音声認識研究」についての話」というのを知りました。わたしは音響研究者で音声認識研究者ではありませんが,一応音声認識の研究をやってる知人もたくさんいるので,なんとなく思うことを。

講演の話を読んで,こういう感覚は別の分野の研究でもあるだろうなと思いました。音声認識もあまり進んでないのかもしれませんが,わたしが携わっている研究分野ももさほど進んでいる感じがしないと思っている人もいるでしょう。でも何か未発見のものがあってそれが見つかるとまた火がつくだろうなという様な感覚はあります。個人的な経験では20年以上にやりつくされたものを,今の機材と精度でもう一度やってみると,見えてないものが見えたりすることがあって,結構有用な場合もあるんですけどね。行き詰まったら原点に戻ることは重要かなと。それについては,案外基本的な技術が継承されてなかったりするという問題意識もあります。

で,リンクしたtiharaさんは古井先生のおっしゃったことに引っかかりを感じているようですが,たぶん「成果」とか「積み重ね」というものが指すもののイメージが少しずれてるのかな?と思います。そう思えばこの方がおっしゃってることもさほど違和感はありません。

思ったのはtiharaさんもmamorukさんもおっしゃってることには同意するけど,視点が若い研究者というか,大学の研究者だよなぁということです。研究の場というと大学とか公的な研究機関で,しかも2年とか3年契約で研究をする若い研究者を想像してるんだろうなという気がしました。そういう人は,これから20年30年とやっていく職業としての研究分野,そして仕事のあり方としての問題意識でしょう。

わたしは企業で研究をしてるから,少しイメージが違います。成果というと論文を書くことだけじゃないし,むしろサービスや製品を可視化することですから,学術的には進んでなくても,アプリケーションで成果は出せるし組み合わせることも出来ます。あと企業にもよると思いますが,企業での研究者は成果が出ないと研究者としての職場は追われますが,会社をクビになることは少ないので,まぁそういう意味ではダメもとでやってみることも出来ます。上司が有能なら,そこで何らかの成果を出させることもあるでしょう。

ただし,大学でしか出来ない研究というのも山の様にあって,そういうものに企業が期待している部分がたくさんあるので,大学での研究のあり方が問題といえば問題だと思います。

わたしが今,思うは,バブル崩壊以降企業での基礎研究が非常に希薄になって既に20年。日本の企業研究者が非常に少ないこと,そしてその一方で大学で大量の博士が排出され,就職が出来ず短期契約研究者としていること。契約が厳しいので競争原理が働いて優秀な学生が増えてること自体はいいのかもしれませんが,ご指摘の通り,息の長い研究が出来なくなってると思います。

そういう意味で,危機感は分野に限らず,日本の研究のあり方としてあります。もちろん企業も大学もどんどん成果をだして盛んな分野もあるんでしょうけど,そういう中にも,本当に基礎的な成果が出ているところもあれば,どことはいいませんが,流行みたいな感じでリソースが集まってるところもありますから。

そういえば10年位前かしら?,日本政府が基礎研究に力を入れると研究費を増やしましたが,たぶん,そのお金は企業研究所ではなく,大学に投入されました。それは間違っているとは思いませんが,非常に不安定な職業研究者を大学に増やしてしまったなぁとも思います。

まぁ諸刃の剣ってことなんでしょうけど。
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献血

2010-01-06 09:22:23 | 医療・福祉
ネットで若者の献血離れという話が載ってました。

それを取りあげている2chの意見がひどいと思ったので,少し献血について思うことを書きます。ひどいと思ったのは,献血をしない理由を考えて正当化するために,まるで社会とか輸血を受ける人の方が悪いかのように書くこと。自分がしたくないとはっきり書くほうがまだいいと思います。もちろん献血はすべての人がするべきとは思わないし強要するものでも無いとは思いますが,するのも自分の意思,しないのも自分の意思でしょう。

さて,わたしは小学校の低学年のとき病気で手術をし,その時に出血が多かったので輸血を受けたそうです。そういう気持ちが頭にあったので,16歳で献血が出来るようになってからは,よく献血に行っていて,30回か40回の表彰も受けたことがあります。ですが,それくらいやったあたりで,献血の基準が厳しくなり,輸血経験者は献血が出来なくなりました。PL法の施行で業者の責任が重くなったこと,あと肝炎が話題になっていたこともあるでしょう。ちなみにわたしは輸血は受けたことがありますが,その後の検査で肝炎はBもCもウィルスは持ってないことが分かってます。ちなみに現行の献血が出来る人はリンクの通りです。

最初のスレッドのコメントを見てると自分がいつか輸血を受けるかもしれないという意識は無いのかなぁと思います。ただ,わたしが3年前に受けた癌の手術のときは,開腹して,内臓を取り出したにもかかわらず輸血はなかったそうです。今は自分の出した血を回収して体に戻すとかいうのもできるらしいので,病気での手術では以前ほど輸血は要らなくなってるのかもしれません。ただ怪我とかで出血したら回収できないことも多いので,やっぱり輸血は必要だと思います。事故で怪我をするなんていうのは,だれでもありえる話ですから,やっぱり誰かが献血をしないといけないのです。

ただし,ちょっとひっかることも多いです。例えば今は医療の現場で患者の血を他の患者や医療従事者がとにかく触れないようにしてます。そういうのを観てると他人の血はかなり危ないものというイメージがあり,わたしも手術時に輸血を受ける可能性があると聞いたときはかなり,怖く思いました。献血の基準が厳しくなってるということも,結局血をあげることはいい事なのだろうか?という妙な引っ掛かりがあります。

あと,もう一つ引っかかるのが献血が400ml献血や成分献血をかなり強く要望しており,それがかえって献血の壁を高くしてるのでは?ということです。確かに取る方からしたら200mlとるより400ml取る方が効率がいいです。しょっちゅう献血をしてる人からしても,一度で取った方が針を刺す回数が少なくて済みます。でもめったにやら無い人や何かのついでに外出先でする気になった人に軽い気持ちで献血をしてもらうことも大事なような気もします。

質のいい血液を少ない回数で集めようとしてることが,結果的に献血の量を減らしてるって事は無いでしょうか?。

医療は医療従事者だけの努力ではうまく行きません。いつ自分が輸血を必要とするか分かりません。今は輸血経験者が献血をできないのですから,受益者はそのお返しができないわけで,その恩恵を被ってない人が,人のためになると思うかいつか自分が受けるかもしれないと思ってするしかありません。ちなみにわたしは売血には反対です。難しいとは思いますが,やっぱり情けは人のためならず,いつかの自分のためだと思うのです。ですから,献血をしておいたほうがいいという風潮は是非作って欲しいし,そのためにも,まるで輸血をしないのは社会や仕組みが悪いという様な意見はどうかな?と思います。
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宗教に自覚的な日本人

2010-01-04 06:31:17 | ココロ
あけまして,おめでとうございます。

さて,数日前にアメリカの掲示板でなぜ日本人は無神論なのに犯罪が少ないか?話題にというねたを読みました。
この手の話題…,それこそ開国の頃から言われていたはずなのであまり驚きません。
西洋はキリスト教と道徳が密接に結びついていいます。あと異教徒や無神論,特に冷戦時代は共産主義者を悪いものとして,戦争や侵略の正当化の理論として使っていました。ですから,非キリスト教徒である日本人が,案外礼儀正しかったり犯罪が少ないことがその理屈とあわずにうまく理解できないのでしょう。
日本人から観ると,教会に言われないと正しいことと悪いことの判断もつかないのか?とか,異教徒を侵略して殺した理屈が正しいわけ無いだろとかも思うのですが,そういうことをまだ自覚はして無いようです。とはいえ,日本人は無神論じゃなくて神道と仏教が社会に根付いているとか,宗教ではなく社会規範に縛られているという指摘はあってるので,まぁその辺はちゃんと理解されてるなとは思います。
もっとも日本人からすると社会というものをすっ飛ばして,個人と神が契約している西洋の思想もちゃんと理解できてるか怪しいので,同じように日本人は西洋の道徳規範はたぶん理解できて無いのでしょう。
それより興味深かったのは,このスレを観ている日本人の反応です。多くの日本人は日本人が多神教であったり,空気教であることを理解しているようです。これもたぶん30年以上前の日本人,つまり学生運動が盛んな頃だったら若い人は自分達は無宗教だといっていたんだろうなと思います。おそらく今でもあなたは神道ですか?仏教ですか?と面と向かって聞くとどっちも否定する日本人は多いでしょう。
ただ以前だったら神社に行くのを嫌がったり,天皇陛下の事に否定的だったりするのが若者だった気がしますが,今はむしろ,そういう事について肯定的な人が増えている気もします。あと占いとかのオカルトも好きな人多いし。
そういう意味では,ある時期にあった日本人の宗教アレルギーは流行というか,一時的なものだったのかな?という気がします。個人的はそれでいいと思うんですけど,なんとなく時代が変わったなぁという事を実感しております。
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