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少数のために

2010-12-16 21:53:54 | 社会
民主主義は決定手段として多数決を用いるので,そこだけみると多数派のために物事が決まっていくように思います。ですが,実際はそれじゃダメで,少数派の事も考慮しないとダメ…という気がします。ですが,それは感覚的なもので,きちんと綺麗に納得が行く説明が難しいと思います。

一つとして「ニーメラーによる詩」がうまく説明してるように思います。要は,他人事だと思って,無視していたら,結局はいつか自分に回ってくる…というような話。つまり言い換えれば,自分は少数派じゃないと思っていても,自分が少数派にならないとは限らないということ。

ただこの詩自体が少数派とは書いておらず,自分と信条が違う人を守らないと自分も守られない…という話なので,少数派のの話にはピンと来にくいという気がします。

アンカテさんがかいた「景気と道徳と表現規制」後の方で引用している,マイノリティの規制の話は,それよりももっと直接的でわかりやすいと思います。要は全てにおいて多数派…という人はいないでしょ?。人は誰もが少数派の部分があるので,それを守るために少数派を守るという合意が必要だ…ということなのだと思います。

アンカテさんの話は国の規制と個人(家庭)の規制をあげて,国が規制を行うことの危うさ…を書いてます。この事自体は説得力があると思うのですが,幾つか気になることもあります。経済については個人の中での規制と国の規制…と両極端ですが,実際は昨日も書いた通り,税制等のように国が個人に対して「得になる行動をつくる」ことによって選択肢を残しつつ,誘導する…ということが良くあります。保険の税控除で,数年前に地震保険が対象になったのも,国が個人に対して緩やかに地震保険に入れと誘導してることになります。

そう思うと,表現の話も情報の話も,多分個人の規制と国の規制という二つのやり方じゃないやり方があるんだろうと思います。業界の自主規制とかじゃなくて,もう少し個人がそうありたいと思うような緩いやり方,お店もこうした方が得というようなやり方,そんなものがあるんではないでしょうか?。

少数派をまとめて多数派の利益に沿うようにするには強制的な力ではなく,もう少し緩やかな力で行くようなやり方もあるのだと思います。少数派がトラブルなく多数派と同化していく前例は幾らでもあったのではないでしょうか?。それは少数派がそうすれば得なやり方だったのではないか?と思います。少数派の利益を守ることが結果的に少数派を多数派と同化させることなのかも知れません。マンガの規制の件は,わたしは落しどころが見えないのですが,こういう風に考えられないか?と思いました。
コメント
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