何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

副作用情報に消極的

2009-03-06 22:28:51 | 薬害は人災だ
 SSRIによる“他人を傷つける行動”の副作用が業界紙に流れた。ある薬剤Pでは、28報告中23例において因果関係が疑われているが、そのうちメーカーが因果関係を認めているのはたったの3例にすぎない。むやみに因果関係アリと認められても困るのはわかるが、現場でそのように判断されているにもかかわらず、認めるための判断材料が足りないとしており、あらゆる角度から確認されなければ認められないとするようでは困る。真実を霧に包んでしまおうとしているかのように映る。

 また外資系B社では、副作用に関する記事を書籍で解説するにあたり、自社製品のブルーレターが一例として紹介されることを拒否した。理由は、少しでも自社品のマイナスイメージ的情報が、ひと目について欲しくないからだという。

 またO社では、自社製品の疾病禁忌症例について照会があった際、自発報告だけで文献はないと回答した。その後、照会先からある文献の所在を紹介され、提供が求められた際に初めて、実はその文献は知っていたことを認め、コピーを送付してきた。

 同じくB社でも疾病禁忌に関する問い合わせがあった際に、問い合わせ者は当該薬剤の合併症患者に対する危険性の程度をたずねたのだが、自発報告に見られた内容を答えるのみで、核心の疑問にせまる情報は提供して来なかった。


 お客さま相談窓口等の問い合わせ窓口は各社に設置されたが、安全性に関する情報の提供はことごとく消極的である。少しでもひと目につかないようにしたい、その話題が大きくならないようにしたい、などという意図が透けて見えるようなのはたいへん残念である。

 こうも続くと業界全体にその風潮があるのではないかと思いたくなるが、良心のある、安全性確保に前向きな製薬企業はきっとあると信じたい。
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ビジネス・プロフェッショナル

2009-03-06 22:15:10 | Book Reviews
「ビジネス・プロフェッショナル 「プロ」として生きるための10話 大久保幸夫・著、ビジネス社、2006年2月10日

p.4-5 プロにとってもっとも恥ずべき行為は、職業倫理に照らし合わせて「悪い」と判断されることが目の前で展開されているにもかかわらず、そのことに対して何も発言せず黙ってしまうことです。
 プロにとってのそのような行為は自己否定です。生涯の仕事として選んだ道に対する侮辱行為であり、プロ意識が欠如していなければ見過ごせるはずがありません。それにもかかわらず黙ってその仕事を受け売れているというのは、「プロ意識」が崩壊してしまっているからでしょう。

p.25 経営合理性の前に、従業員としての職業倫理を持っていなければ、長期的に見た場合にはむしろ企業にとっては大きなリスクになってしまう可能性がある。そのことを回避するために、従業員にはやはりプロフェッショナルとしての意識、評価が必要であるという考え方に企業も少しずつ変わってきています。

p.70 「自律の壁」を破るきっかけとなるのは、自分の視界が内向きか外向きかということが非常に大きなポイントとなります。

p.83 「あなたにはプロとして守るべき職業倫理がありますか?」
 この問いは、職業人から「求道者」としての域に達しているかどうかを聞いているのです。卓越したプロ医師がその職業倫理を守るのは、「そうしないと患者が危険だから」ではありません。ましてや「倫理規定にそう書いてあるから」でもありません。医師という一つの道を探究する人間として、社会に対してあるべき姿を追求しているのにほかならないわけです。

p.87-8 自分自身の内側からわき上がる意識、他者の目を通じて感じる意識、実技的な面から見て判別される意識、この三つの角度からの意識が合体してプロ意識が構成されていると考えています。

p.122 プロの世界にあって、企業社会の中での「配属」という出会いによって、お互いが望んだわけでも認めたわけでもなく引き合わされた両者の間で、師匠と弟子の関係が成立するかどうかというのは、実は大きな疑問です。

p.138 プロは、最新情報の学習を常にしています。プロは、自分の専門領域における情報を知らないということがあってはならないからです。

p.158 「道徳性を無視すれば、世の中のニーズに反してしまうために、結局は経済合理性や効率を損なう」という、主従でいえば「従」としての論理として道徳性が存在しているわけです。このため、自由競争の論理や管理の論理の中では、しばしば道徳性が無視されがちになります。その意味でいうと、「プロフェッショナル」は、「優れた仕事をすることそのものが喜び」なのであり、自制的な意味での道徳性とは異なり、道徳性を高め守ることそのものが一つの目的と化しているといえるのです。言い方を換えれば、「プロたるものは職業倫理を守るべき」なのではなく、「職業倫理を高め守ることがプロとしての道」だということです。

p.168 最初にその事象を認知した人が見て見ぬふりをする行動をとってしまうと、次にその事象を認知した人は言い出しにくくなるのです。すなわち、不正をもっとも早く発見できるプロが見逃してしまった瞬間に、傍観者が働いてその不正が止まらなくなってしまうのです。

p.170-1 自分の仕事の領域が、社会にどのような役割を持っているのか、いま自分が行う判断によってそれがどのような影響を与えるのかということについて、ビビッドに感じるのがプロなのです。

p.171-2 企業とはどうしても性質的に倫理が機能しにくいものです。なぜなら、企業は経営合理性に抗えないからです。経営合理性とは、人より儲けたいという利己心ではなく、株主のため、従業員のための考え方でもあるわけです。
 自らの収入を最大化するよりも、満足や他者の利益のためにすぐれた仕事をすることに専念するプロの論理は、会社の経営方針から生まれないからです。プロの論理は、プロの存在によって生まれるものなのです。

p.175 プロの論理がなぜ会社の論理と違うかというと、プロの論理は科学性や人間性に基づいたものだからです。会社の論理が合理的な判断の下に構築されるのに対し、プロの論理は真・善・美といった事柄が大きく作用します。

p.197 バブル崩壊以降、かつてブームになった成果主義は多くの問題を抱えています。なぜなら、成果主義は報酬制度であり、人材育成の制度ではないからです。つまり、育成をせずに、成果だけでは評価しようというわけですから、持続性がありません。これでは、企業の人材価値は目減りして、いつか競争力を失ってしまいます。過去の例でも、人材育成をコアとしない人事制度は必ず失敗しています。

p.204 低成長時代にあっては、売り上げも増えなければ収入も増えないわけですから、そこに価値をおこうと思ってもおけないわけです。すると人は自然と、自分自身のこだわりや満足に価値基準を合わせようとするものなのです。
 低成長時代にあっては個人の満足を求める人々のそうした傾向が、プロフェッショナルの構造とマッチングしていることがわかると思います。
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