Eur-Asia

西洋と東洋の融合をテーマとした美術展「ユーラシア(Eur-Asia)」の開催を夢見る、キュレーター渡辺真也によるブログ。

へらでお好み焼きを食べることは果たしてアートか?

2007-09-22 07:30:17 | Weblog
広島にて地元の美大生とお好み焼きを食べに行った時のこと。

広島では、関西と違い、お好み焼きを箸ではなく、へらで食べるのが通だそう。え~、本当に?と思って回りを見てみると、確かに皆、へらから直接、器用にお好み焼きを食べているのだが、私にはなかなか真似できない。この食事用のへらは比較的小型で、確かにお好み焼きを食べる様のサイズとして適している様だ。お好み焼きを鉄板から直接、あつあつのまま食べる為の工夫だろうか。

「これって、アートですよね」と地元の美大生に聞かれた際、「いや、これはアートではない」と私は答えた。その後、その学生さんからメールを頂き、なぜそれがアートではないのか、もう一度私の答えを聞きたい、というリクエストを頂いたので、ここにその理由を書いてみたい。

そもそも、アートとは、アートのためだけにに捧げられた、「美」そのものや、意味の亀裂、コンテクストによる意味の変容といった、アートとしての価値以外には全く意味を持たないものである。例えば、草間弥生の「かぼちゃ」の彫刻やギューちゃんのボクシング・ペインティング、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」さえも、美術作品として以外、全く意味を持たない。

例えば、へらで食べるお好み焼き、という状況に比較的近いパフォーマンス・アートを例にとって考えてみよう。

リクリット・ティラバーニャがギャラリーにてパッタイを振舞うというパフォーマンスを行い大変な話題になったが、ここにおけるティラバーニャの行為は、ギャラリーという通常美術作品を扱うスペースにおいて、あえてパッタイ、という彼のルーツの一つである(彼はタイの外交官の親の元、ブエノスアイレスにて生まれた)タイの民族料理をふるまう、という意味の亀裂を扱っている。すなわち、ギャラリーにおいてアーティストが振舞うパッタイは果たして芸術だろうか、というコンテクストによる意味の変容や意味の亀裂というデュシャン的な問い、さらにはグローバル化した世界における多様な価値観、という問題などを、ティラバーニャは見事に現代美術の領域でやってのけたのである。

一方、広島にてお好み焼きをへらを使って食べることは、アートではなく、生活慣習である。それはアート的、美的、芸術的であっても、アートではない。それは、中村俊介のフリーキックが芸術的であっても、それが芸術作品とならないのと一緒である。(しかし、ダグラス・ゴードンの様にジダンの芸術的プレイをテーマとして芸術作品を制作することは可能だし、赤瀬川源平の「トマソン」の様に、意味不明な建造物を「超芸術トマソン」、と呼ぶことも可能だ)

仮に言うとしたら、へらを使ってお好み焼きを食べるのは、アートではなく、無理やり美術のコンテクストに落とし込むとしたら、それは「工芸」や「民芸」の領域に入ってくると言う言い方もできるかもしれない。

いかにあつあつのお好み焼きを鉄板から食べるのか、という問いに対する現実的な答えが、へらから直接食べるという方法であり、これは慣習である。確かにへらを使って器用にお好み焼きを器用に食べる姿を見ていると、これはアートかと錯覚してしまうが、これは慣習であり、アートっぽい行為であったとしても、アートではない。

話は変わるが、イサム・ノグチがベニス・ビエンナーレにあえて工芸品に近い「Akari」シリーズを出品して、当時確実と言われた受賞をあえて逃してしまったのは、彼はこの芸術の持つコンテクストそのものを破壊してしまう、という冒険があったからの様に思えて仕方がない。そこには日本が未だに抱える輸入言語としての美術、芸術という問題が徘徊している様に思える。

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