穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Z(9)章 幼児は猿の進化したもの

2017-04-02 09:45:14 | 反復と忘却

三四郎は地下に潜った。長い午後をあても無くみやこの東から西へ、北から南へとホームに入って来た地下鉄に計画もなく飛び乗って移動し座席に座っていて尻が痛くなると地表に出て徘徊するのが彼の日課である。昼間だから車内は空いている。週末は仕事があるから外に出られない。ウィークデーの昼間は街を徘徊して管理人が帰ったころにマンションに帰ってくる。 

同じようなことが続く日がある。三四郎はこれを統計的特異日と呼んでいる。赤ん坊を抱きかかえ、乳母車を曳いた若い母親が電車に乗って来た。赤ん坊を連れた女性は座席が空いていても座らないことが多い。子供を抱いたまま座ると必ずと言っていいほど赤ん坊がむずかりだす。ある動物学者は人間が虎や猫だった時代から引き継いだ遺伝子に組み込まれているそうだ。 

彼ら(進化の系統樹の下の方の先祖である)は子供を連れて移動する時に子供が大きな声でなくと天敵に見つかり襲われて命を落とす。だから移動の時におとなしくしている子供だけが生き残り、その遺伝子が優性遺伝して人間に至ったというのだ。

移動する時にはライオンの様に親の口に咥えられてぶらぶらしたり、母親の背中におんぶされて揺れ動く。あるいは猿の様に母親の腹の下で母親にしがみついて運ばれる。だからそう言う時にはおとなしくしている。電車の中でも母親が立っていて電車の振動や母親のからだが揺れたりしているときは赤ん坊は下等動物時代から受け継がれたすぐれた遺伝子記憶でおとなしくしているそうだ。そう言えば、赤ん坊を乗せた乳母車を母親が前後に動かしているのをよく見かける。

「するってえと」と彼は考えた。最近街で見かける多くの泣き叫ぶ赤ん坊は優性遺伝子を引き継いでいないのだ。どうしてだろう。はたと彼は気が付いた。昔なら優性遺伝子を引き継いでいない子供は嬰児の時代に淘汰されていたのではないか。現代の小児科医療の進歩はめざましい。昔なら病気や虚弱体質や何かで淘汰されていたそういう子供達が生き残る様になっているのかもしれない。

そんな他愛のない妄想に彼が耽っていると車内に突然大音響が響き渡った。見ると母親は疲れたのか赤ん坊が太りすぎて重いのか、母親が腰痛なのか、座席の一番端に生気のない顔をして座り込んでいる。赤ん坊は顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。赤ん坊のすべすべした顔の皮膚が厚くなって深い皺を刻んでいる。まるで猿のようなご面相になっている。それを見てかれは妹のことを思い出した。彼女もよく泣いて我を張る子供で成長して異常に物欲の強い人間になった。やはり声を張り上げて泣く時には顔の色が不健康に赤化し、皮膚が厚くなり深く皺が刻まれ、その皺の谷間を涙が流れた。成長してからは流石に泣きわめくという「手段」は取らなくなったがそのかわり「ボス猿の毛繕い」という新しいきわめて有効な手段を身につけたのである。

サル学の有益なること、レヴィー・ストローズによる原始社会の研究が「現代人間の研究」の進化に与えた影響に優るとも劣らない。これは三四郎が得た今日の市中徘徊の成果であった。

 


Z(8)章 幼児は無邪気ではない

2017-04-01 09:24:46 | 反復と忘却

三四郎は言った。「外で大声で泣きわめく子供が多くなったような気がしますね。昔から外でむずかる子はいたが、大声で喚き散らす子はあまり見たことがない」

いかつい肩をした男は「そうですね。劇場か音楽会につれて行かれた子供が騒ぐことはありましたけどね。気違いの様に泣き叫ぶということは、昔はなかったようだ。もともと親が幼児を音楽会に連れて行く方が常識がないのであって、こどもが何時もと違う雰囲気に我慢できなくなっておとなしくしていないのは無理がない。いわば子供をそう言う場所に連れて行く親に社会常識が無かったんですよ。最近はそう言うことが若い親達にも分かって来たらしいが」と答えた。

「最近のは、幼児がどうしても自分の我を通そうとして泣きわめいている様に感じられる。子供は自分の意志をまだうまく伝えられないから親も子供が何を欲しているのか分からないで途方にくれるんじゃないですかね。もっともそれが最近の声を限りに当たりはばからず泣き叫ぶ子供が増えて来た理由にはならないでしょうがね」

「あなたのお子さんはどうですか」

「わたしは不幸なことにまだ独身です」

「なるほど、失礼しました。しかし、それは幸運なことにと言うべきでしょう。それが正解です。子供を持つと実にやっかいだ。女房を持つことも相当面倒くさいけどね」と彼は悪戯っぽく笑った。

「子供というものはね」と彼は続けた。「無邪気なものだと思いますか」と反問した。

「そうですね、機嫌の良いときはね。まあ、子供によりけりなんでしょうが」

読書家の男は言った。「昔ある人がいった。子供の手足は無邪気でも、魂は決して無邪気ではない、とね」

「へえ、誰です。よほど子供嫌いな人だったんでしょうね」

かれはじらす様にしばらく間を置いてから言った。「有名な宗教家ですよ。古代ローマの末期、キリスト教神学の基礎を確立したという聖アウグスティヌスがそう言っています。ある人がこの言葉を解釈している。子供は手足の力が弱いから無邪気を装うことで大人を自分の意志に従わせることが出来るということを狡猾にも学ぶのですな。一種の方便だと言うのです。アウグスティヌスはこうも言っていますね。幼児もすでに罪をもっているとね。つまりインノセント(無罪、無邪気という訳もある)ではないというのですよ、神に対しては」

「しかし、新約聖書でしたっけ、キリストが天国は幼子のようなものだとか、幼子のためにある、とか言っていたようだが」

「たしかに、それとの兼ね合いは問題でしょうね。アウグスティヌスほどの学者だ、その問題にも折り合いをつけているんでしょうよ。前に読んだ記憶が有るが忘れてしまった」と彼はからからと笑った。その大声にさっきの幼児がびっくりしてこちらの方を見た。