カミユは形而上という言葉がすきのようだ。ペストは連帯を形而上的に描こうとしたのだろうが、重い。疾走感が文章にない。転落は連帯ごっこから落ちこぼれた人間がアムステルダムの場末のバーで見知らぬ客を捕まえて世間を洒落のめそうという趣向であるが、軽快なところがない。洒落のめそうというなら切れと洒脱感がなければいけないが、泥臭い。皮肉に洒落のめそうという意図が逆効果になっている。
サルトル等が目ざす連帯(して革命を目ざそう)というのは早く言えば徒党を組むということで、これもおよそ田舎染みている。そうして必然的に徒党を組む弊害(犯罪的行為、スターリンなどの)に行き着く。それを鋭く糾弾したまではカミユが正しかったのだが。
ところで、カミユの自動車事故死はソ連当局の仕組んだ暗殺という説を唱える人が多いという。
世間の不条理(私も定義不明のままこの言葉を暫時使わせてもらうが)には革命ではなくて個人の反抗で立ち向かうというカミユの態度は立派なものだと同感する。連帯・革命は成就すれば自由を奪う(なによりも人間の内面の)。当たり前である。自由よりもドグマつまり教条を最高位、つまり新しい神とするのだから。そして権力を握った連中がすなわちドグマの体現者となり、無謬不可侵の神となる。非人道的な独裁国家となる。現代の世界にもまだ例が残っている。