三四郎は言った。「外で大声で泣きわめく子供が多くなったような気がしますね。昔から外でむずかる子はいたが、大声で喚き散らす子はあまり見たことがない」
いかつい肩をした男は「そうですね。劇場か音楽会につれて行かれた子供が騒ぐことはありましたけどね。気違いの様に泣き叫ぶということは、昔はなかったようだ。もともと親が幼児を音楽会に連れて行く方が常識がないのであって、こどもが何時もと違う雰囲気に我慢できなくなっておとなしくしていないのは無理がない。いわば子供をそう言う場所に連れて行く親に社会常識が無かったんですよ。最近はそう言うことが若い親達にも分かって来たらしいが」と答えた。
「最近のは、幼児がどうしても自分の我を通そうとして泣きわめいている様に感じられる。子供は自分の意志をまだうまく伝えられないから親も子供が何を欲しているのか分からないで途方にくれるんじゃないですかね。もっともそれが最近の声を限りに当たりはばからず泣き叫ぶ子供が増えて来た理由にはならないでしょうがね」
「あなたのお子さんはどうですか」
「わたしは不幸なことにまだ独身です」
「なるほど、失礼しました。しかし、それは幸運なことにと言うべきでしょう。それが正解です。子供を持つと実にやっかいだ。女房を持つことも相当面倒くさいけどね」と彼は悪戯っぽく笑った。
「子供というものはね」と彼は続けた。「無邪気なものだと思いますか」と反問した。
「そうですね、機嫌の良いときはね。まあ、子供によりけりなんでしょうが」
読書家の男は言った。「昔ある人がいった。子供の手足は無邪気でも、魂は決して無邪気ではない、とね」
「へえ、誰です。よほど子供嫌いな人だったんでしょうね」
かれはじらす様にしばらく間を置いてから言った。「有名な宗教家ですよ。古代ローマの末期、キリスト教神学の基礎を確立したという聖アウグスティヌスがそう言っています。ある人がこの言葉を解釈している。子供は手足の力が弱いから無邪気を装うことで大人を自分の意志に従わせることが出来るということを狡猾にも学ぶのですな。一種の方便だと言うのです。アウグスティヌスはこうも言っていますね。幼児もすでに罪をもっているとね。つまりインノセント(無罪、無邪気という訳もある)ではないというのですよ、神に対しては」
「しかし、新約聖書でしたっけ、キリストが天国は幼子のようなものだとか、幼子のためにある、とか言っていたようだが」
「たしかに、それとの兼ね合いは問題でしょうね。アウグスティヌスほどの学者だ、その問題にも折り合いをつけているんでしょうよ。前に読んだ記憶が有るが忘れてしまった」と彼はからからと笑った。その大声にさっきの幼児がびっくりしてこちらの方を見た。