三四郎が愛読する戦前の急進的国家神道の指導者である土野面提手(ドノツラ・テイシュ)の著書によると、一人の人間は八百万の霊魂が高分子的に固まったものである。死とはその高分子的結合がバラバラになることである。個々の霊魂は変化しない。
植物も霊魂が高分子化したものであるが、集約度が人間に比べて少ない。そこに死んでバラバラになった人間の霊魂が憑依すると、その植物は異常に成長速度を速める。母が亡くなった後でその霊魂の大部分は成層圏から飛び出したらしいが、一部は庭の植物の上に落ちたと思われる節がある。母は園芸が趣味でよく庭いじりをしていたので自分が丹精した草花に惹かれたのであろう。
なかでも母が好んだ紅蜀葵は普通では人間の背丈を超えることはないが、すざましい勢いで伸びて二階のベランダより高くなった。幹の太さは木の様になった。そのかわり花はつけなくなった。
さて、なぜこんな話をしたかというと、人間の魂の集約度は鼻あたりが高いという。日本人の鼻は、勿論女性も含めて、大きい。肉厚である。黒人ほどではないが。白人の鼻は高いが肉は薄めである。美とはほど遠い。理想的な美は日本人と白人の中間であろうか。これは滅多にいない。これがいたので有る、しかも埼京線の車内に。鼻孔の縦横の比率も理想的であった。この女性を見て三四郎はぱっと燭光に射られれた様になった。もっともそれだけなのだが。美と崇高の観念を抱かせる美人に遭うと三四郎はかならず金縛りになる。それが愛情に変化することはない。まして肉情まで降りて行くことは有り得ない。
普通は愛情から肉情に降りて行くのが結婚とか同棲になるのだろうが。三四郎はいまではそれほどではないが、若年のころ、まだ獣欲が熾烈な時には情欲を喚起したのは一言で言えば不均衡であった。ピカソの描く女のようであるとか、上半身と下半身の比率が6:4とか7:3つまり尻がその辺りで揺れている女であった。アメリカ人などが日本女性に惹かれるのもそのようなアンバランスにあるようである。八頭身で腰高(つまり足が長い)な女性はいくらでもいるから珍しくない。
その女性も池袋でおりた。三四郎の視線に気が付いたようで三四郎の前をゆっくりと誘う様に歩いていたが、三四郎は何しろ金縛りの状態であるから、女神を避けるかのようにホームを反対方向に歩いていった。