穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ゼノンのパラドックスに対する対応のタイプ

2022-09-07 08:13:07 | 哲学書評

ゼノンのパラドックスに対する反応のタイプに三種あり

1:新旧の数学理論で解釈しようとするもの、例えば現代で言えばバートランド・ラッセル。彼は集合論で説明しようとしていたと記憶する。
数式と言うのは人間が作り出した一種の言語だからね。もっともゼノンの逆理は四つあって、ウサギと亀は第二番目の逆理だが、ラッセルは第三のパラドックスについてだったかもしれない。もっとも四つのパラドックスは通底する前提があるので。

2:論理の形而上学的前提を否定する。ベルグソンはこれにあたる。「ウサギと亀」論には時間と運動は空間と同様に分割できるという形而上学的前提がある。ベルグソンは時間は分割できないと振りかぶる。根拠はあまり説得力はないが、たしかにゼノンの論理は時間や運動の二分割、そして二分割の無限連続から成り立っているから、この前提を崩せれば逆理なんてないことになる。

 そしてベルグソンの特色はこの否定が論理のお遊びではなく彼の全哲学の基礎になっていることである。時間は分割できないから、記憶はすべて残る。記憶はすべて持続するという彼の哲学がこの形而上学的前提の上に乗っかっている。
 

3:これは私の考え方に近いが、この逆理は人間が作り出した言語(数学を含む)の限界である。あるいは致命的欠陥である。実利的にはこの逆理を大上段に振りかぶらなくても、実生活上あるいは工学上は全く問題は起こらない。

 サルが人間に進化したように人間が全く違うより高等な種に進化して、あたらしい言語を獲得しない限り、このパラドックスは解決しない。

 


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