穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「分析哲学」とはアンブレラ・タームである

2022-02-25 12:17:18 | 哲学書評

 さて、相変わらず小川榮太郎先生ご推薦の有栖川アリス「双頭の悪魔」を通読中です。ようやく二百ページになって死体が転がるという超スロモー展開です。そうしたら癖がついたのかもう一つの死体がポロリと出てきました。現在650ページ分の400ページと言ったところです。これだけスローペースだと結末を読んでおしまいにするのですが、ゆっくりとシリアル・リーディング中です。それだけ我慢できるのは文章はしっかりとしているからでしょう。

 さて、話題は変わりますが、当ブログの看板は小説と哲学の二枚看板なのに、最近は哲学関係をすっかりご無沙汰していましたが哲学ネタで久しぶりにご機嫌を取り結びます。

 先日日課の一日百万歩、いや一万歩計画を消化するために大型書店をうろついておりましたところ、ちくま学芸文庫の新刊でエイヤーの「言語・真理・論理」が目に留まりました。いや懐かしかったですね。もっとも読んだことはないのですが、書名は昔から聞いていた(有名な、令名高い)本です。日本での分析哲学流行の走りのころは有名な著作で人口に膾炙していました。それなのに、読んだことがないのでどれどれと書名が懐かしく購入したわけです。

 見ると1955年に岩波書店から出たものをちくまで拾ってきたものらしい。つまり戦後まもなく昭和三十年以来ほかの翻訳は出ていないらしい。これが読んでみると訳文のせいか、非常にわかりにくい。翻訳が悪いのか、と思い原書を探しましたが注文になるので中止しました。書店の係がすぐに検索のためにPCをたたき出したので、かなり問い合わせがある本らしい。最近復刻版が出て、やはりどうもわからん、と原書をチェックした人が多いようです。

 訳文のせいもあるのでしょうが、主張を裏付ける例示引用がまったくない。例示がなくても腑に落ちる書物と言うのはあります。ウィトゲンシュタインのトラクタトスなどはそうでしょう。反対に補強する例示がないと何をいっているのか分からない本がある。この本はそちらのほうのようです。

 エイヤーによると、彼の学説はバークリーを淵源とし、ラッセルとウィトゲンシュタインのあとを継ぐものだという。ま、これで大体わかりますが、それではかれがそれらの先陣をどう咀嚼したかとなると、全くわからない。著者自身の言によると、この本は広く長い間教科書として使われてきたという。そうするとやはり訳文に問題があるのかな。

 もっともこれは二十歳代の若書きでその後大分考えの変遷があると、ものの本に書いてあるから、のちの著作は書き方も変わってきているのかもしれない。

 それと、これは一般論ですが分析哲学の歴史の中でどういう位置に彼がいるのかと言うのがとらえどころがない。ある人がうまいことを言った。分析哲学と言うのは「アンブレラ・ターム」だというのです。

 つまり「分析哲学」と言うのは分析哲学と言う傘の下にある哲学すべてで、てんでんばらばらの内容だというのですね。これは至言だと思います。統一的歴史的な流れの中で個々の哲学者を位置付けることは難しいのです。これがドイツ観念論と言えば、一塊のグループで誰と誰ではここがこう違うと明確に位置付けられるが、分析哲学者はそういうわけにはいかない。どう違うんだということが分からない。非常に煩瑣な議論が多いので大筋がつかみにくい。ある人は分析哲学と言うのは中世のスコラ哲学と同じだといったが、その通りでしょう。

 

 



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