穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

シナ哲学という言葉はないようだ

2022-05-12 09:44:24 | 哲学書評

 ちょっと調べたんだが、インド哲学という分野はあるがシナ哲学という言葉はないようだ。私が自分の無学が暴露されると一番心配したのは、西周が哲学と言うことばをひねり出したのは、シナ古典に典拠があるのではないか、ということだったが、ちょいと当たったところ、それはないようで、一安心。
 さて漢和辞典によると哲には異体字がほかに三つある。つまり全部で四つ。そのうちの全部に共通しているのは「口」という部分がある、一つ口があるのは二つ、二つあるのは一字で三つあるのも一字である。だから「口」が関係ある。つまりしゃべくり、あるいは弁論ということだ。
 つぎに「吉」というパートが二つあるのは一つ、三つあるのが一つである。つまり「いいこと」ということだ。ほかに竹というパートが一回あるのが二字ある。これはなにかな?竹のようにまっすぐな理論と言うことかもしれない。

 また斤と言う部分が一つあるのは一字、二つあるのは二字である。斤とは斧という意味である。断ち切る、すなわち分別する、判断するという意味だろう。
 哲は「あきらか」とも読む。また、名付けでは「あきら」、「さとる」、「さとし」などとも読む。哲学と言う造語にはこの意味も含まれているかもしれない。

 


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