AD22α
ソファに落ち着くと、山本は傍らのボストンバッグを引き寄せてジッパーを引っ張った。なかに一杯詰め込んだせいか長年使い込まれて、がたが来ているのか途中で引っかかって動かなくなってしまった。ようやく引き開けると表紙がめくれ上がった大型のノートを引っ張り出した。胸のポケットから万年筆を取り出すと、新しいページに大きなのたくったような字で今日の日付を書き、『コロナ取材』と書き込んだ。そこで筆を止めて
「早速ですが、そちらで開発中のコロナワクチンのことなんですが」と二人を上目使いに見上げた。
「順調に進んでいるようですね。開発はおたくと葵研究所というところで共同でされていると報道されていますね」
河野は口を開いた。共同研究と言うよりか、うちがアイデアを買ったということですね。「それで当社では、それを実際に大規模に実験して開発中ということなのです」
「なるほど」というととトップ屋の山本は河野の顔を見た。「アイデアですか。それでこの葵研究所を取材しようとしたのですが、所在が分からないのですね。というよりか所在地を引き払って行き先が不明なのです。それで御社に来たわけなんですよ」
河野は怪訝な表情をした。「直接訪ねていかれたんですか」
「ええ、その足でこちらに伺ったようなわけです。いまでも連絡をとっておられるのでしょう」
「必要な時にはそうしていますが、実はそのアイデアと言うのが非常によく出来ていましてね。ほとんど連絡することもないのです」
「しかし引っ越し先はご存知なんでしょう。いくらなんでもおたくに連絡しないで行方をくらますなんてことはないでしょう」
しばらく河野は困ったように相手を見ていたが、「ええ勿論」
「教えてもらえますか」
「そうですねえ、困りましたね」と2,3秒考えてから「研究者には変わった人がいますからね。なんでも最近マスコミが聞きつけて取材に来たらしいんですよ。それで引っ越したようですね。なにしろ少し変わった人ですから」
「取材嫌いなんですか」
「ええ、新しい連絡先は教えないでくれ、と言われてましてね」
相手は疑わしそうな表情で河野の言い分を思案していた。
ドアが軽く上品にノックされた。原口が「ハイ」と答えると静かにドアを開けて若い女性がお茶を乗せたトレイを捧げて入ってきた。彼女はお茶をテーブルの上に置き、来客の前にはさらに小さな瓶を三本置いてから一礼して退出した。
客は自分の前だけに置かれた小瓶を怪訝そうな顔で見ていた。
原口が如才なく「当社の新製品でして疲労回復剤です。お試しください」と勧めた。
「へえ精力剤みたいですね」
「まあそうです。頭もすっきりとします」
「カフェインでも入っているのですか」
「いいえ、漢方薬の成分で工夫しています」
客は一本を取り上げると茶色の小瓶を興味津々に覗き込み、貼ってある効能書きを読んでいる。河野は広報室の応対に感心した。ほんのわずかの間に広報とコネのある雑誌記者に問い合わせて客の好みを聞き出して用意したのだろうか、それともこういう客にはこの手の精力剤に興味があると考えたのだろうか。とにかく広報室はすばしこい、と感心した。
「ずいぶん高そうなドリンクですね。市販だとどのくらいするのですか」とまず彼らしく値段を聞いた。
「いや、それは、、」とあまり直截に言うわけにもいかずというように言いよどんでいると彼は畳みかけて「三千円、いや五千円くらいするんじゃないですか」と露骨に値踏みした。
「いや、まあ、、」と原口は困ったように笑った。