穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

アップデート要求 28:プレスリリース

2021-02-22 07:55:33 | 小説みたいなもの

 山野井に電話しようと手を伸ばすと同時に先取使用権を争うように電話が喚きだした。広報室長の原田からだった。

「出荷に合わせてプレスリリースを出そうと思うんだが、一、二確認したいことがあってね。今ちょっといいかい」

「ああ、何だい」

「出荷予定を具体的に入れたいんだが、もう決まっているんだろう。具体的な日時とか出荷先や数量を入れたほうがインパクトがあると思うんだがね。教えてくれるか」

「うーん、予定はあくまでも予定だからな、あんまりコミットするようなことは発表したくないな」

「そうか、分かった。それともう一つ例の葵研究所との提携のことだがどう書いたものだろう?」

一瞬わき腹にきついフックを食らったように息が詰まった。「それはやめたほうがいい。まず徳川さんに報告して了解を得ないといけないだろう。なかなか連絡のつかない人だからな。了解もなしに一方的に発表すると苦情を言われるかもしれない」

「そうか、じゃあ彼の了解を取ってくれよ。それまで待っているから」

「連絡を取ってみるよ。プレスリリースは何時出すの」

「今週の金曜日の午前中の予定だ」

 原田との電話を切ると徳川氏の電話番号をプッシュした。珍しくすぐに応答があった。ざらざらした老人のような声だったので彼は別人かと思い「徳川さんでいらっしゃいますか」とまず確認した。電話の反対側で「そうです、どちら様ですか」とむせるような咳の間に苦しそうに答えた。

「北国製薬の河野でございます。お風邪ですか」と聞いた。風邪ならいいがこの頃は時節がら咳をするとすぐにコロナを連想してしまう。コロナ薬の開発者がコロナにかかってしまっては笑い話にもならないと河野はちょっと心配した。

「いえ、忙しかったものですから。それにあちこちしていましたのでちょっと体調をくずしました」と慌てて弁解した。

「そうですか、お大事に。一二、ご相談したいことがありまして今よろしいですか」と相手の体調を気遣って聞いた。

「大丈夫です、何でしょう」

「実はご報告が遅れましたが、いよいよ来週から出荷できるようになりました」

「そうでしたね」と相手はすでに知っているようだった。今日の国会中継を彼も見ていたのかもしれない。

「それで、今週末にマスコミに発表するのですが、御社のお名前も発表してよいでしょうか」

電話の向こうでひとしきり咳き込む気配がしてから「そうですね、どうお書きになるのですか」と心配そうに確認した。

「御社のアイデアをいただいて実験、生産したといったことですが」

「そうですね、しょうがないことでしょうね。あんまりマスコミが押しかけてこないようなご配慮をお願いしますよ」

それで、彼は山野井の要求を思い出した。

「今のことに関係しますが、別件なんですけど山野井氏と言うフリーのジャーナリストが何回も御社を取材したいから住所を教えてくれと言っているのですが、どうしましょう。住所は私共も知らないのですが、山野井氏にそちらの電話番号や、あるいはメールアドレスを教えて構わないでしょうか」と恐る恐るお伺いを立てた。

「ああ、山野井さんね」と相手は名前をすでに知っているように答えた。

「直接相手に会って取材を受けるというのが煩わしければ電話取材という手もありますし、メールで取材を受けることも出来るかと思います。それならそんなに煩わされることもなさそうですが、、」

「なるほど、そうですね。メールアドレスは教えてもいいです。しかし、山野井さんにだけですよ」と彼は応諾した。

「それでは、その旨相手に連絡します。風邪をお大事に」

「有難うございます」

また、苦しそうに咳き込みだした相手を労わるかのように彼はそっと受話器を置いた。