散歩者goo 

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昨日記140413日(園芸 ジム・筋トレ カトゥリ・カルミナ)

2014年04月14日 17時14分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
曇 16.1/10.6℃
昨日は、休日モードで朝二度寝し目覚めたのは8時前だった。
7時前に起きる予定だったので、朝食抜きにするか考えたが、いつもどおりの朝食を食べた。
TVの日曜美術館で歌麿の数年前に発見され修復を終えた深川の雪についての時代背景や作られたいきさつを知ることが出来た。
細部にわたっての解説も聞いた。
この作品に関しては、以前NHKの番組でも詳細に取り上げていた。
歌麿の3部作は、古今東西の名画の一つに違いないと思っている。

今まで美術のいろんな人や事実に接して、美術の才能ある人は沢山いることを知った。
そういう人たちの多くは、描かずにはいられない人達で、しかも発想が自由に湧き出て、どんどん描ける人達なのだ。
その中から、更に目の肥えた人をうならせる絵を描けるわずかな人たちのみが歴史に名を残す巨匠であり、歌麿や北斎や写楽もその一人なのだと思った。
これと同じ構図は他の芸術分野でも共通することだろう。

午後からは、以前からずっと思案して実行しかねていた裏庭の用水槽に植えている、巨峰の手入れを行った。

去年は、土の手入れをしなかった。
更に巨峰の幹の中に、カミキリムシかシロアリか何か分からない虫が侵入していて、木の芯を食い荒らしているようなおが屑が、幹に開けられた小さな穴から大量に出てきたので、巨峰の芯に虫の食い跡が無くなるところまで幹を短く切り落とした。
時期的に芽吹きが終えて成長段階のことで、その結果巨峰はすべての新芽をなくし丸坊主になり、ブドウの花芽が出る時期だったので巨峰の結実を諦めていた。
その上肥料もやらなかったのが、去年はそんな過酷な状況でも新芽が出て(場合によるとそのまま枯れるかも知れないと思っていた。)葉も茂ったので、たまに時期がずれても二番咲きのようなものがあることを期待していたが、そうしたことも無く結実は無かった。

今年は用水槽(戦前の空襲対策用のコンクリート製の防火用水槽)の内側の周囲の土を幅・深さとも10cm程度掘り起こした。
掘り出した土の部分には根がかなり張っていたが、出来るだけ根を残すようにした。
直径1cm余りの大きな根が1本、用水槽の割れ目を通って外に出て地面に根を下ろしていることを知った。
最近、巨峰が用水槽の土だけでよく茂るな、と不思議に思っていたがその理由がこれでわかった。

掘り出した土をバケツに入れて表に運び出し、篩いに掛け土を細かくし、ミミズや大きな石やゴミを取り出した。
その後、プランターの使用済み用度を、篩いに掛けて裏庭の巨峰の用土に混ぜ、更にその上に大量の油粕を混ぜて、巨峰用の新しい土にした。
出来上がった新しい土を再び用水槽の中にいれて作業を終了した。
言葉で書くと簡単だが、実際の作業は土の量も多く大変だった。

夜になってジムに行き、先週一度しか行っていなかった筋トレをした。
筋トレ後、ついでにランニングのインタバルも行い、最高速度時速13kmで15秒(分ではない)走ったが、はじめは足がついていななくて、足がもつれそうになった。
数回するとついていけるようになったが、限界を知った。

夕食後、Eテレで久しぶりに、カルミナ・ブラーナの全曲を聴いた。
(CDは持っているので何度も聴いているが、)
カルミナブラーナの前に、カトゥリ・カルミナという曲を初めて聞いた。
同じウォルフの作曲だ。
いずれも、男と女の性愛も含む恋の要素が入っているが、カトゥリ・カルミナのほうは、より直接的な悦楽の表現が多かった。
今回のカルミナ・ブラーナの訳では、修道院・酒・人生云々は変わらないが、より恋の悦びに関連する表現・賛歌が強く現れているように思えた。
この曲を聴きつつ、愛はお金に関係ないといわれるが、あると思った。(以前にも書いたが、出かけるにも、飲食するにも最低限のお金は必要である。)
私はお金が無いため、肉体的にも精神的にも枯れてはいないのに、愛とか性から遠ざかってしまったと思っているが、それも仕方ないことだと諦めている。
その意味では、私もカルミナ・ブラーナの修道僧達と同じなのかもしれないと思った。
(多分人間は肉体的能力<活力>と、性的活性<プラトニックも含む愛や恋は男女の性の存在が前提である。>は比例しているのではないかと思っている。)

余談
そういえば、土曜日のZoonでのギャラリートークの後、パーティーがあり、テーブルを出し入れを手伝ったが、テーブルを収納するときに狭い入口で私の足がよろけて危ないという声が後ろの観客から聞こえていた。
失礼な話だと思いつつ、心の中で半ば苦笑しながら聞いていた。(私は年寄りなので、ステレオタイプ的に高齢者は、すべて筋肉が弱り判断力も鈍り、よぼよぼに近い人と決め付けているのではないかと感じた。)
前の方で、机の行き先が変わり方向ががもたついていたので、その間壁に寄せてもたれたことはあったが、疲れてとか、力が限界で寄りかかったことではなく、相手の動く方向が定まるまで間、壁に荷重をかけて少し楽をしただけである。
あのテーブルは、感覚的に多分私一人だけで片側からだけで持ち上げることが出来る重さだった。
無論運ぶ途中で私の重心がぐらついたことは全く無かったし、机の出し入れ後も疲れたときに出る腕や足の疲れは全く無かった。
少なくとも、普段ジムではウエイトトレーニングで45kg以上のものを1セット10回以上押したり引いたり引き下げたりしている。
その意味では数回なら多分50kg程度のものを持って歩けると思っている。
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昨日記140412土(国立国際・郭徳俊展講演会  Zoon アーティストトーク)

2014年04月14日 12時42分16秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
薄曇 18.9/6.9℃
午後から、国立国際美術館に行った。
郭徳俊展の講演会があるので、危機に行った。
学芸員の安来正博氏の「郭徳俊の芸術世界」というテーマでの講演会の予定だったが、郭氏が来ておられたので、二人の対談となった。
有名な、大統領シリーズの作品を、ホワイトハウス前の歩道で展示したこともスライドを交えて話されていた。

昨日は、5時から阪急箕面線の桜井駅南の桜井市場にあるギャラリーZoonでも企画のグループ展PRISMアーティストトークがあったので参加した。
国立国際美術館から、箕面・桜井のギャラリーZoonまで大急ぎで移動し、少し遅れた程度で間に合った。
アメリカの作家も含め若手作家7名?の作品説明があった。
出席できた日本の女性作家達は、直接自分の作品を説明した。
女性作家の作品は、非常に集中力を傾注した作品が多かった。
特に竹村氏と野田氏の作品は、画面の要素の中に、微小な同じ図形の繰り返しが含まれている点共通した要素があった。
部分的にはアールブリュットの作家の一部と共通した傾向を感じさせる。
特に竹村氏は、背景に無数の丸を基調としており、モチーフも円形がが中心となっていて、一気に描ききらねば気がすまないという。
なんとなく少し草間弥生と共通する臭いを感じさせる。
今回のグループ展では、それぞれ全く異なった現代美術の表現なのでいろいろ考えさせられた。

ある意味、今回の展覧会は、普段から言っている現代美術の多様性、それぞれの表現におけるパラダイムの違い、即ち文法文脈及び価値観の違いを知るいい例だとも思われた。
例えば、ミニマルの視点・パラダイムでポップアートを評価できないのであって、ミニマルはミニマルのコンセプトやベースとなる価値観考え方があり、それに伴った評価のための文法文脈があり、同じくポップアートにはその中にもいろいろ傾向が分かれるが、それぞれ別の価値基準があるのだ。

帰宅途中、梅田の家電量販店によって、パソコンを調べたが、南の家電量販店より高いことが分かったので、今後南の家電量販店を中心に機種選定しようと思っている。
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