教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

日本科学史学会編『科学史研究』に掲載されるまで

2008年07月08日 23時55分55秒 | 研究業績情報
 仕事が忙しくなってきました。
 さて、ご存知の方もおられると思いますが、ようやく私の2本目の全国レフェリー論文(審査を経て全国誌に掲載された論文)が活字化されました。

 題目:「1880年代における西村貞の理学観の社会的役割―大日本学術奨励会構想と大日本教育会改革に注目して」
 掲載誌:日本科学史学会編『科学史研究』第47巻No.246、岩波書店、2008年6月、65~73頁。

 題目にある「理学」というのは、明治期における“science”の一般的訳語で、今でいう科学のことです。本論文は、科学の制度化が世界的に同時進行していた1880年代において、専門諸理学(科学)の連携を想起たらしめた西村貞の理学観を、その社会的役割、すなわち組織(大日本学術奨励会・大日本教育会)形成・改革における役割に注目して明らかにしたものです。
 論文内容は、日本科学史の問題意識に基づいて構成されていますが、日本教育史・日本教育学史の問題にも基づいています。西村は、イギリスの大英学術振興協会(BAAS)を参考にして大日本学術奨励会を構想しましたが、そこに当時BAASにはなかった「教育部門」を立ち上げようとしました。この独特の科学組織の構想は、西村独特の教育理論における理学観を基盤として構成されています。そして、このような理学観を基盤とした科学組織の構想は、大日本教育会の改革の思想的背景の一つになっていました。
 と、おおざっぱに述べれば、こういう論文です。この論文は、多くの方々に支えられて活字化されました。そもそもこの論文は、2005年春から2006年春にかけて、『教育学研究ジャーナル』や『日本教育史研究』に投稿した内容が出発点になっています。この間、多くの先輩からアドバイスや直接の指導をいただき、両誌の査読者から貴重な意見をいただきましたが、結局、両誌ともに掲載できませんでした。
 その後、いろいろ考えた末、『科学史研究』へ投稿しました。2006年8月に受理されましたが、その後もすんなりいきませんでした。『科学史研究』の最初の審査結果は、大幅修正後の再審査。さらに2回の大幅修正の指示をうけ、論文を大幅に修正。当時は頼れる人もおらず、ほぼ孤軍奮闘状態でしたが、時々先輩に感想をいただくことができました。また、『科学史研究』の編集委員や審査員には、審査の度に有益なアドバイスや批判をいただきました。幅広い人材をカバーする日本科学史学会の会員構成、『科学史研究』の刊行回数の多さ、審査受付期間の長さ、審査基準の明確さなど、制度的な部分にも物理的・精神的に助けられた思い出もあります。今回の論文は、そういった過程を経て、足かけ約2年(前史を含めれば約3年)かけて、やっと、やっと、活字化にこぎつけることができたものです。
 直接声をかけてくださった先輩方や先生方、各学会・研究会の審査員および編集委員の方々の支えなくして、この論文はありえませんでした。忙しい中、私の研究につきあってくださり、本当にありがとうございました。こんな場ですが、ひっそりと感謝の言葉を述べたいと思い、記した次第です。
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