老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

関電高浜原発の再開に思う。

2016年02月05日 19時47分19秒 | 原発関係
 つい先日、関電の高浜原発が再開されました。
関電の供給地域に住んでいる住民としては、非常に複雑な気持です。

 12月末のこのブログでも触れましたが、福島の事故への対応などを見ていると、この日本における原発への依存は非常にリスクが大きい様に思われます。
万が一の場合は地元の福井県だけでなく京都府・滋賀県・兵庫県など近隣自治体への大きな影響が予想されるのに、これらの自治体の同意を取り付けず、且つ地震などのリスクが危惧される高浜という立地場所で関電がこれほどまでに原発再開を急いだ理由が判りません。

 逆に、関電はこの高浜原発再開に際して、避難路の確保問題やこれらのリスクには余り触れずに、電力コスト削減に依る企業体質の強化メリットと産業界への貢献を最大の理由としています。

 そうなると、湧いてくる疑問は、
「原発は電力会社にとって、そんなにコストが安くて、魅力ある電源なのでしょうか?
素人目には、リスクが多く、廃棄物の処理も決まっていないという状態を考えれば、将来も非常に不安定にしか見えないのに…」

ということです。

 素人なりに色々と調べて見て、少しカラクリが見えてきました。
どうやら1986年5月に改定された「原子炉等規制法」によって、それまで発電事業者が負ってきた放射性廃棄物の安全管理および事故時の損害賠償の責任は,事実上廃棄を担当する事業者である日本原燃(株)に転嫁されたようです。
これにより発電事業者は普通の企業なら当然追うべき“産業廃棄物の処理”問題からは解放され、高レベル放射性廃棄物の処理処分に関しては,むしろ日本原燃や原環機構という中間組織を媒介にして,国と電力会社が一体となった無責任構造になり,そのつけは国民と将来世代に回されていると言わざるを得ない状態の様です。
(※この原発の廃棄物処理問題については、「経済学研究63-2 北海道大学2014.1」などを参照させていただきましたが、原子力行政に詳しくはないので、間違った理解をしているようならご指摘下さい)

 こうなると、原発の廃棄物処理問題(責任・費用負担問題)も、12月にこのブログでも触れました、我が国の財政問題(増大する一方の国の借入金)とも同じく、“将来のことは知らん。とりあえず今が良ければ…”という同じ精神構造から出てきたものでしょう。
迷惑を蒙るのは、またしても子供や孫たちの世代です。
特に原発については、最終処分地や処分方法も決まらない状態で、正に「トイレのないマンション」との非難を浴びながらの再開には、産業界最優先で庶民感情を無視する現在の政治の在り方が凝縮されている様に思えます。

 話は変わりますが、この4月から『電力自由化』策が導入され、消費者が電力会社を選択できる様になりますので、少しでも原発依存率の少ない、或いは脱原発が期待できる供給会社を選ぶべく、友人たちと情報交換しています。(まさ)