ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

万人を発信者に変えたインターネット社会の到来をもう少し懐疑の目で見た方がいい。

2012年11月15日 | Weblog
「別海から来た女」佐野眞一著より。

(前日のつづき)
この事件の被告、木嶋佳苗はネットではかなり饒舌だったようだ。そして、メールでは言葉巧みに独身で結婚願望のある中年男性にウソを重ねて、金銭を要求している。見知らぬ他人とメールをはじめて、間もなくお金の話が出てくること自体も怪しい。

筆者はメールという整ったフォントは、公共性をまとっているという表現をしている。それが危険をカモフラージュする“信頼性”という罠になっているようだ。

佐野氏はこうも言う。「結婚詐欺は数年前まで男の“専売特許”だった」と。しかし、この事件では立場はまったく逆転していた。女は自分の華美な生活を維持しようと詐欺を繰り返していたのだ。

そして行き詰るとすぐに殺人にまで発展してしまう。実に恐ろしい。その方法は睡眠薬で眠らせ、その間に練炭による一酸化酸素中毒で死亡させるというものだった。実にアナログ的ともいえる。

事件の被告は当然ながら異常者ではあるが、毒婦ということばも当てはまる。佐野氏は「(被害者となった)彼らにもう少し人間を見る洞察力があれば、最悪の結果だけは免れた気もする」と述べていた。

ネットでは誰でもが思いつきでいきなり発信者となることができる。そこでは何が真実で何がウソかはわかりにくくなっている。また人は誰かとつながりたいという本能もあるのだろうが、気をつけねば・・・な。


ネット世界の言葉の跳梁とリアル世界の言葉の不毛の隔絶・・・

2012年11月14日 | Weblog
「別海から来た女」佐野眞一著より。

数年前に起きた結婚詐欺連続殺人事件について書かれたノンフィクションだった。最近もこれよりさらに恐ろしい事件で64歳の女を含め8人が逮捕されたというニュースがあった。この事件の真相の解明はまだ先になるだろうが。

この本で扱われている事件では一人の30代の女が、ネットを使って知り合った中高年の男から詐欺で多額の現金をだまし取り殺人にまで発展していた。また殺人以外でも数件多額の詐欺事件を起していた。

佐野氏は以前『東電OL殺人事件』を書いていたが、それを超える事件だと言っている。(この時点で)この事件を解く最大のキーポイントはネットという匿名世界が、暮らしの中に浸透していたからこそ起きたとも言える。

この事件の被告木嶋は、佐野氏の言葉を借りれば、「まるで“仕事”のようにメールやブログを書いている」という。ところが、リアルの世界では会話らしい会話はなく、言葉の貧困さを指摘していた。そのギャップは不気味ですらあったようだ。


アイデアは雑談から生まれる。

2012年11月13日 | Weblog
「雑談の達人に変わる本」中谷彰宏著より。

上手に雑談ができる人は、アイデアを生み出すのもうまいようだ。それは、リラックスして最新の情報で話しているからでもあるのだろう。

たまたま生まれたアイデアは強いらしい。むしろ、ウンウンうなってつくったアイデアは弱いようだ。雑談することで、偶然いいアイデアは思いつくことはある。

たまに「瓢箪から駒」ということわざを思い出すが、そんなものこそ、ヒットにつながるという。これは筆者の経験から言えることだった。

雑談をすることでアイデアが生まれるなら、会議よりもいいのかもしれないな。しかし、いくらこちらが雑談したところで、相手の反応が鈍ければ、アイデアも生まれないだろうが・・・

やはり、雑談もお互いの感性が合わないと、期待したほどの結果は出てこないかもしれない。その前に、まず自分が雑談できるほど豊富なネタを持っているかどうか・・・


事務会話以外の雑談ができる関係を築く。

2012年11月12日 | Weblog
「雑談の達人に変わる本」中谷彰宏著より。

雑談はある意味、肩書の壁を越えられるようだ。たとえば趣味が共通していれば、営業マンと得意先、セールスマンとお客様の関係でも、いきなり接近できる。

お店に行って、感じがいいと感じられるときは、いい雑談ができたときでもあった。オーダーは事務会話だが、それ以外に何を話せるかがポイントでもあるのだろう。

中谷氏はウェイターのサービスは、お客様との雑談だというが、それも何となく納得できる。お客さんにとっても、ウェイターさんと雑談できるとうれしく感じる時もある。

お店の印象が残るのも、たんに店の雰囲気や料理だけでなく、人との会話である場合が多い。お客さんと話すことがサービスとなっているかどうかで、その店の印象は異なってくるだろうな。

つい先日、地方の某ホテルのレストランで夕食をしたときだった。スタッフの女性が食材の説明をしてくれた時、たまたま私のスープ皿にその食材が入ってないことに気づいたのだ。

すると、確認してすぐに新しいものを持ってきてくれたのだ。こんなことは、当然と言えばそれまでだが、その時の対応の仕方が、実にスピーディーで感じが良かったのが印象的だ。あまり事務的でなかったのが良かったかも。


本題が通るかどうかは、本題に入る前の雑談できまる。

2012年11月11日 | Weblog
本題が通るかどうかは、本題に入る前の雑談できまる。
「雑談の達人に変わる本」中谷彰宏著より。

かつて中谷氏が博報堂に勤務していた頃の経験が語られていた。得意先にプレゼンに行く時は、ほとんど本題の話をしなったという。それていて、その企画は通ったようだ。

つまり、雑談がメインになってしまい、ついでに企画を見てもらうようなスタイルをとっていたらしい。こんなことは一般の営業でもしばしばあるのではないだろうか。

用件のみいきなり切り出しても、なんだか味気ない。まずは、身近な雑談から始まる方が、スムーズにいきやすい。その雑談がいかに面白いかで、自分を売り込むことができる。

企画の話だけでは、その人がどんな人かはわからない。しばしば、商品を売る前に自分を売り込め、といわれるが、まさにそこがポイントになっている。雑談の仕方でセンスも伝わってしまうだろう。

雑談を通じて、信用してもらえるかどうかの問題だ。この人なら間違いないと印象づけられるなら、話も簡単だ。大事なのは、プレゼンそのものより、雑談であることも考慮したいものだな。

緊張と弛緩が適度なバランスで混ざり合うのが、喫茶店という場所・・・

2012年11月10日 | Weblog
「15分あれば喫茶店に入りなさい」齋藤孝著より。

筆者はもともと身体論の分野を得意としている。そのためか、心身を疲れさせないためには、緊張と弛緩の繰り返しが大切だと指摘していた。筋肉を適度に使わないで、固定化した状態のままだと肩こりや腰痛になってしまうという。気をつけねば。

だから適度の運動は筋肉も使うので体調もよくなり、しなやかになるようだ。確かに体が軽ければ心も軽い気がする。また心身がリラックスできるかどうかは、体の動かし方だけでなく、アイデアの出る場所かどうかとも関係があるという。

仕事場で緊張ばかりしているうちはいいアイデアも浮かばない。また、家の中でごろごろしていても思いつきも少ない。むしろだるくなってしまうことのほうが多い。そこで、意外にいいのが喫茶店のようだった。

リラックスでき、自由な雰囲気だからこそ新しい発想も浮かんでくるのだろう。たとえ、いい書斎を持っていても、喫茶店でのほうが能率があがるという人もいるようだ。喫茶店の書斎化でモチベーションも上がるかな・・・


「情報の海に漁をしに出かけていくための網を作る場所」

2012年11月09日 | Weblog

「15分あれば喫茶店に入りなさい」齋藤孝著より。

実際、15分しかないと思えば、喫茶店に入るのをためらってしまう。逆に30分あれば、喫茶店に入ることはしばしばだが、結果的に10分か15分程度で出てきてしまうことはよくある。

それはもしかしたら、思っていた以上に整理がはかどってしまった時かもしれない。さて、上記フレーズの場所とは喫茶店のことを言っているが、実におもしろい表現だと思った次第。

喫茶店が情報の網を作る場所だなんて、いったい今まで考えた人がいるだろうか。確かに情報の整理ができていれば、仕事もやりやすい。私自身もその整理を喫茶店でよくやったものだった。

筆者は、情報の海を網も持たずに、ただ泳いでいるだけの人があまりにも多すぎます、と語っていた。いつも自分のなかに課題や懸案があれば、雑談をしている時にも情報は得られるようだ。

つまり、心に引っかかっている懸案事項を整理しておけば、情報社会の中を、自分専用の網を持って漁に出掛けられるというわけだった。網を作りに喫茶店にいってみるかな・・・


人が引き寄せられるのは、昔の話ではなく、今の話・・・

2012年11月08日 | Weblog
「雑談の達人に変わる本」中谷彰宏著より。

すでに過ぎ去ったことの話などされてもあまり興味深くはないものだ。話はやはり新鮮であるほど聞いていても面白い。一番バカバカしいのは人の昔の自慢話を聞かされる時だ。

むしろその人の失敗や苦労をした話やドジな話のほうが興味深く聞くことができる。突っ込みを入れられるような話のほうがいいのかもしれない。あまりにも完璧すぎるのもつまらない。

中谷氏は、講演会では冒頭からいきなり本題を話さないで、「今、そこで面白いことがあったんです」と話し始めるという。これは、その講演の話が他でやった繰り返しではないということの証拠でもあった。

昔こんなことがあった、というような話を聞かされるよりも、今経験したばかりの話のほうが面白く聞くことができる。雑談もそこそこ盛り上がらなければ、意味はないようにも思えるな。


雑談を一言で言ったら、面白くありません。

2012年11月07日 | Weblog
「雑談の達人に変わる本」中谷彰宏著より。

雑談はもともとまとめられないもののようだ。しかし、私などは雑談が得意ではないので、しばしば「つまりそれはそういうことなんだね!」というようにまとめてしまうことがしばしばだった。

中谷氏は「雑談のヘタなオオヤジは、まとめが好きです」と書いていたが、まさにそれは自分のことのように思えた次第。頭のなかで「要するに~」などと思ってしまったらきっと雑談も発展しないのだろうな。

むしろ、それより一言でいえるようなことを、どんどんいろいろな方向に拡げていけることが雑談の面白さであるようだ。そのへんのセンスが大事なのだろう。

もっとも雑談ができるということは、無駄話がうまいというのとは違うようだ。ある程度の内容がなければ、聞いている方も面白くは感じない。普段から幅広い知識を持ち合わせていることも大事なことだろうな・・・


「懸案フック」のある人にしか、そこにある情報が見えてこない・・・

2012年11月06日 | Weblog

「15分あれば喫茶店に入りなさい」齋藤孝著より。

つまり心に引っかかるものを持っていたほうが、いろいろな情報が気になりまた刺激にもなって、ものごとが見えてくるということだろう。問題意識を持つこととも似ている。

「懸案事項」をもっているかどうかで、情報を捉えられる量も異なってくるようだ。たとえ、雑誌をぱらぱらとめくっていても、「懸案フック」があれば、話題が引っかかってくるのだ。

これは別に喫茶店でなくてもできそうだが、実際にあいた時間があれば、喫茶店で具体的にリストアップするものいいようだ。

たとえば、フリーランスの人ならいろいろな人とのつながりで仕事をしていかねばならない。そのためにも、いろいろなフックが必要になってくる。

そして、筆者は会社勤めをしている人でも、これからは同様にそんな「フリーランス感覚」を持っていたほうがよいとアドバイスしている。


喫茶店を「教会化」する。

2012年11月05日 | Weblog
「15分あれば喫茶店に入りなさい」齋藤孝著より。

いったいこれは、どいういうことだろうと、気になった次第。喫茶店はなにかの作業をするには意外に適していたりもする。私も今まで外に出る仕事が多かったこともあるが、仕事場の机では落ち着いてできない作業などを喫茶店でしてきたことも多い。

筆者はまた、そこは心を整える場所でもあると考えていた。そういえば、一人でいる時はゆっくりと物ごとを考えることもできる。そんな意味で「書斎化」どころか「教会化」でもあるという。

そして、齋藤氏はお気に入りの同じ本をしばしば持って喫茶店に入り、パラパラと繰り返しめくるのもいいともいう。つまりその本を自分にとっての「聖書」のようにしてしまうものありだった。

当時齋藤氏は翻訳をするために『論語』をつねに持ち歩いていた。すると、いつも孔子と一緒という感じになったと振り返っている。そういえば先日書店には筆者による「論語」についての本が並んでいた。

自分がリスペクトできる著者の本をつねに持ち歩いていると、沁み込みよくなり、精神も整ってくるというアドバイスもあった。それを読む場所としてニュートラルな場所である喫茶店は相応しいのかも。


喫茶店での仕事も積み重ねれば相当な山となる。

2012年11月04日 | Weblog
「15分あれば喫茶店に入りなさい」齋藤孝著より。

筆者はもともと喫茶店の愛好家だが、意外にも『シェイクスピア全集』を訳した小田島雄志さんもそうだったようだ。その全集は全37巻にも及ぶという。

ふだんから、ある喫茶店でかなりの仕事をしていたらしい。そんなことから、喫茶店での仕事も積み重ねれば、すごいものになるということがわかる。

さらに、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんも喫茶店派だったのだ。考えごとは家でするのが苦手だそうだ。むしろ喫茶店のような雑然としたなかでのほうが物事を考えられるというからすごい。

やはりあえてそんな場所で集中力を発揮するのだろう。ふつうなら喫茶店でできるような仕事はたかが知れているものだと思いがちだ。

しかし、人によっては、雑然とした雰囲気だからこそ考えごとに適しているという人もいるようだ。今まであまりそんなことは考えたことはなかったな・・・


お客さんのニーズを創造するマーケティング。

2012年11月03日 | Weblog
「そうそう、これが欲しかった!」小阪祐司著より。

感性価値創造というものは、たんにお客さんのニーズを満たすマーケティング活動ではなかった。むしろそれはお客さん自身がそれまで気づかなかったニーズや欲求を発見することが大事だったのだ。

お客さんのニーズを創りだす感性価値創造のマーケティングができれば、企業が売り上げを創りだすことが可能でもあった。お客さんの感性に訴えて、行動を起こしてもらえるかどうかが大事で、そこでは値引きはあまり大きな問題ではなかった。

店頭でのPOPの書き方一つでで売上げは、大きく異なってくるものだ。しかも感性を揺さぶるものは、言葉だけではなかった。視覚、聴覚、臭覚、触角、味覚に訴えることで、お客さんの感性は動くものだった。つまりそれが「感覚訴求」というものらしい。

スターバックスはそれで、成功した例でもあった。あらゆることで、居心地のいい空間が作れるかを追求しているからだろう。またBGMにまでこだわっているらしい。お客さんは「なんかいいな」と感じれば消費行動を起こしてくれるわけだった。


感性価値創造の取り組みを企業がいかに推進していくか・・・

2012年11月02日 | Weblog
「そうそう、これが欲しかった!」小阪祐司著より。

「感性価値創造」という言葉も初めて目にした言葉だった。「価値の創造」とは、お客さんの心のなかに起きる現象だった。お客さんの心に変化を起させることができるかどうかで結果は大きく異なってくる。

感性に対する働きかけで、お客さんの心に変化が起きて、「欲しい」「買うべきだ」という価値が生じることだった。たとえば、店頭で商品名と価格だけが書かれたプライスカードを見ただけでは、すぐに買う気にはならない。

むしろ大事なのはその商品の情報でもあったのだ。価値がしっかりと伝達されてはじめて買おうという気になるものも多い。もしその商品の背景にある物語が語られていれば、興味を持ってもらえる確率も増すだろう。

「宮内庁御用達」や「モンドセレクション最高金賞受賞」などというフレーズがあれば、何もない方よりもそちらに手が伸びてしまうのではないだろうか。きっと美味しいに違いないと直感で思ってしまうだろう。

ちょっとした伝え方で商品そのものの価値創造が異なってきてしまう。言葉だけではなく、写真やイラストでもそれは伝わってくるだろう。優れたCMはそこがうまいのだろうな。


世は感性消費の時代・・・

2012年11月01日 | Weblog
「そうそう、これが欲しかった!」小阪祐司著より。

サブタイトルには“感性価値を創るマーケティング”とあった。このような言葉はあまりなじみがない。ここにそれがどんなものかの例があった。

それは「あなたも、ミズダコ漁で使う『タコ箱』のオーナーになりませんか?」というものだった。穴の開いた箱を海中に沈め、エサを使わずにミズダコをとう漁法だった。

二か月間で五回引き上げて、入っていたタコを浜ゆでして宅配してもらえるもので、確率は100%というわけではない。これは北海道のある町の水産課が、水産資源PRで募集したものだった。

一箱五千円で100口募集したら、なんと二万件以上の応募があったという。予想の200倍以上だったのだ。応募した人はどうしてもミズダコが必要だったわけではない。むしろ生活が面白くなるかどうかだったのだ。

つまりそのようなことが、感性消費というものだった。「生活が面白くなるかどうか」は「心の充足」でもあったのだ。主催者からみれば、うれしい悲鳴だったことが起きたわけだ。

まじめにやっても、モノがなかなか売れない時代でも、アイデア次第で予想の200倍以上も申し込みがあるということだった。「生活が面白くなるかどうか」これが最大のポイントのようだ。