ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

仕事と洒落っ気や遊びは、くっついているから楽しい。

2010年02月13日 | Weblog
「仕事が面白くなる発想法」岡野雅行著より。

これは「やる気が出る“しかけ”をつくる」というタイトルの部分にあったフレーズだった。結局そういう発想で楽しそうに仕事をしていると、人や情報も寄ってきて、結果が出せるようになると岡野さんは語るが、まさにそれは的を得ている。

社員がみんなしかめっ面して年がら年中机に向かってたって、いい仕事ができるわけじゃない。むしろ遊びで仕事をやるべきだという。

岡野さんの会社では、社員が誰かひとり休むと、残りの社員みんなで旨いものを食いに行っちゃうらしい。すると翌日休んだ社員が出て来て、残念がることしきりだそうだ。会社にはそれくらいのユーモアがあってもいいのだ。

ある社員は、岡野さんのところに来て仕事が楽しくてしょうがないという。それは、以前の会社では日曜日の夕方くらいから、明日が月曜日だと思うと気持ちが暗くなったが、今では逆に月曜日だ、またおもしろくなると思って来るようだ。

やる気がでるしかけは、結局自分で工夫して作るしかないのだろうな。そんなマニュアルなどどこにもないし。どれだけ仕事を通して遊べるかがポイントかもしれないな。

本当に真面目な人というのは、人づきあいというのが大事だということを知らない。

2010年02月12日 | Weblog
「仕事が面白くなる発想法」岡野雅行著より。

ということから、岡野さんはただ真面目なだけでは成功しないという。そういう人は人づきあいが価値が低いと思い込んでいるからだった。もちろん不真面目すぎても成功はしないだろうが。

真面目な人は人と会ったり、すすんでコミュニケーションをとったりもしていない。人へのサービスがない。そんなことから、その人の御輿を担ごうという人も出てこないのだ。

最初から手堅くまとまっているのでは、先が知れている。むしろ人を驚かせたり、くつろがせたり、遊ばせたり、喜ばせたりのリズム感、アドリブのセンスがある人のほうが成功するようだ。

一見完璧でスキのない人には近づきがたいものがある。どこか崩したところがある方が、人間は親しみを感じられる。人が寄ってくる人にはスキがあるというのも条件のようだな。だからこそ結果的にかわいがられるのかもしれないな。

いわばジャズでいうアドリブのような感覚で仕事をしている・・・

2010年02月11日 | Weblog
「仕事が面白くなる発想法」岡野雅行著より。

実にさわやかな表現でもあると感じた次第。岡野さんは図面を持たずに機械での仕事をこなしている。あるのはポケットに入っている切れっぱしのメモだけだった。

ジャズみたいに最初のきっかけさえあれば、あとは全部アドリブでやってしまう。図面があることでそれに縛られ、発想が広がっていかないからだそうだ。図面があることでうまくいかないこともあるらしい。

さらに、図面を書いている人は、そもそも金型を実際に作ったことがなかったり、機械に触れていない人だと指摘する。机上の空論ということにも近いかもしれない。

それは、ちょうど手術をしたことがない人が、手術のマニュアルを書いたり、料理をしない人がレシピを書いているようなものだという。実にわかりやすいたとえでもあった。

だから、どんなに出来のいい図面でも、岡野さんのいう完成レベルからすれば60%の出来でしかなかった。アドリブというと簡単そうに聞こえるが、それは相当な訓練を積んだ人だけに許されることに違いない。

自由に、縛られずに、先を読んで全体像を考えながら仕事をすすめていく。さらに何度も手直しをして、納得がいくまで繰り返すのだ。実に根気のいる仕事でもある。

「気持ちは図面に書けない」

2010年02月10日 | Weblog
「仕事が面白くなる発想法」岡野雅行著より。

この本のサブタイトルには、“世界一の職人が教える”とある。金属製品を何工程にもわたって変形させてつくる金型は、人の手による微妙な調整がなければ完成しないという。岡野さんは、最後の「もう気持ち薄く」なんていう微調整こそが、本当のキモの部分だと語っている。

そんな気持ちは図面には書けないものだったのだ。だから、図面がいくらよくても最終的な完成まではいけないのだ。マニュアルには書いていない部分こそが、他人にはできない自分だけの発想だった。

ここに面白い例があった。「がま口」の留め金の部分だった。留め金を閉じるときに「パチン」という音がする。この音がどうすれば出るかなどは、図面には書かれていない。感覚で覚えていくしかなかった。

その人でなければ完成させられない技術を持っているのは強いことだと感じた次第。世界一の職人さんはこういう独自のノウハウをたくさん持っているに違いない。それは豊かな経験と発想がなければ得ることはできないのだろうな。

人は赦すことで強くなることができる。

2010年02月09日 | Weblog
映画「インビクタス/負けざる者たち」より。

これは映画の主役、マンデラ大統領の言葉だった。正確ではないかもしれないが、そのようなセリフがあった。またそれが映画の主題ともなっている。

27年間の監獄生活から出て来て、その後国の平和のために国民を一つにまとめるために懸命に仕事に励んでいる。本来なら厳しい収容所から出たら、それに対して復讐を試みたりしたくなるものだが、すべてを赦すというところに人間の大きさを感じさせる。

クリント・イーストウッド監督との名コンビでモーガン・フリーマンがマンデラになりきっている。完全なハマリ役だった。実に見事な演技だと感心させられた。

またもう一人の主役はラグビーチームのキャプテン役のマット・デイモンだった。必死にチームを奇跡的な勝利へと導いたのだ。若者らしいエネルギーがほとばしっていた。

マンデラは地元南アフリカでのラグビーのワールドカップと国民の気持ちをあらゆる過去を赦すことで一つにしていこうと、実にクリエイティブで柔軟な考えを示していた。やはりノーベル平和賞を受賞するだけの偉大な人物は違うものだと感じさせる。

監督のイーストウッドは今年の5月で80歳になるというが、まだまだ元気で映画をとり続けるらしい。この映画は監督として30本目だった。すごいエネルギー!しかもいつでもカッコいい!

「運」には身分証明書もなく、自己紹介もない。

2010年02月08日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

つまり「運」は、それと気づかれずに、すぐ近くに忍び寄っているものだということらしい。それにしても上記フレーズは、面白い表現だと思った次第。

ここには筆者自身の変わったエピソードが書かれていた。かつて氏がニューヨークに住んでいた時、ロスに行く用事があってホテルを手配してあった。ところがそこが手違いで押さえられずに他のホテルに行くことになってしまったのだ。

そして、そのホテルに入ろうとした瞬間に、何と!うんこを踏んでしまったという。こんなことはめったにないことだろう。日本にいても、ニューヨークにいてもないことだったろう。このホテルでも時間が5分ずれていれば踏むことはなかったはずだ。

秋元さんはこんな経験から、これはきっと「何かがあるのではないか」と感じたようだ。運とは関係のない単なるアクシデントだったかもしれない。しかし、それがエッセイのネタになったり、インパクトのある笑い話になったり、ここで書かれている運についてのエピソードにもなったりしている。

ということになれば、考えようによっては良運だとも思えるようだ。結局は自分がそれをどう捉えるかの問題かもしれないな・・・

「汗」をかく努力を怠ると「運」は逃げる。

2010年02月07日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

まずは発明王、エジソンの言葉を思い出す。「天才とは1パーセントの才能と99パーセントの汗だ」というやつだ。ということは、天才でも99パーセントは努力せねばならないということだ。

秋元氏はまた次のように考えてもいた。「成功は98パーセントの運と、1パーセントの才能と、1パーセントの汗なのではないか」と。

でも成功するためには、とにかくかなりの汗が必要だとも思える。さらに運も当然必要だろうか。いくら才能があって汗をかくような努力をしても、それを正当に評価してくれる人との出会い、(それは時には運ともいえるが)がなければ成功には結びつかないだろうな。

ということで、私は汗、根性、出会い、運、才能、センス、体力、精神力、時代、さまざまなものがバランスよく組み合わさっていることが仕事がうまくいく方法だとも感じているが。

ここまで書いてきて、思い出したのは、野球での全力疾走だった。俊足の打者が内野ゴロを打って全力で走り込めば、相手野手も焦って暴投することも考えられる。また時にはイレギュラーのゴロになったりもある。このどんな凡打でも全力で走ることはイコール汗をかくともいえそうだ。

単なるラッキーで仕事がうまく運ぶ時もあるが、それは決して実力だと勘違いしないことが大事だろうな。たまたま今回よかっただけで、次回はどうなるかもわからない。まあかなりの実力があれば別だろうが。

「ムダ」の中に、もしかすると、時間を有効利用した以上の「ご褒美」があるような気がする。

2010年02月06日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

ここでは時間とのつきあいについて触れられていた。秋元氏自身は、時間を有効につかうことがヘタな人間だという。締め切りを山ほど抱えながらも、テニスの試合を夜更けまで見続けてしまったりするそうだ。

しかし、時間をいくら有効活用したとしても、それがすべてではないと思っているらしい。だから、一見ムダだと思える時間のなかにも、「ご褒美」が潜んでいるとも考えている。

ムダな時間を過ごせるということは、どこかで凝縮された時間を効率よく使っているということだとも言えそうだ。仕事中の外出先で喫茶店に入り、お茶を飲んでぼーっと何もせずに過ごしている時などに、意外にいい仕事のアイデアが浮かんできたりもする。

そう考えると、ムダそうに見えても、100%ムダともいえないことも多い。管理されてばかりの時間からは、自由な発想は生まれにくそうだな。また同僚や同じような職種の人との付き合いからは、独創的でインパクトのある発想も難しいかも。

情報とは「食材」である。

2010年02月05日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

つまりそれは、魚、野菜、果物、肉などと同じもののようだ。あとは、それを自分なりにどう調理して、一品の料理に仕上げるか、また皿に盛り付けるかという意味だった。

ということは、まずどんな料理を作りたいかがなければ、材料も揃えようがない。秋元氏はスタッフ全員に言っていることは「まず、面白いものをつくれ」ということだった。

もし、それが面白いシナリオなら、映画でやるかDVDかゲームソフトにするかなどのツールは次に考えていくことだった。情報という食材をどう盛り付けるかがそれらのツールでもあったのだ。

パソコンあるいはインターネットなどのツールはまず、作りたい料理、材料がなければ意味がないということになる。先ほどの魚、野菜、果物、肉などはどれも鮮度が大事なものばかりだ。

内容のあるコンテンツを作り上げるには、同じく材料の良しあしが問題なのだろうな。あとはその料理人の腕次第か。いくらいい情報(=食材)が揃っていても、それをきっちり料理できなければな・・・。

自分で情報を読み解くときは、あくまでも独断と偏見・・・

2010年02月04日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

じつはこのフレーズもはじめにさらりと読んだときには気づかなかったが、読み返したときにどうもひっかかったのだ。この部分はちょっと難しく書かれているが、要するにみんなが情報だと思ってないことに気づけるかどうかの問題でもあった。

自分の興味や感性で判断することで、オリジナルな情報になりうるということでもあった。他の人には大して意味のないことも、自分にとっては有益な情報だったりすることもある。それは時にはふだんからの経験や知識の積み重ねに左右されるのだろう。

むしろみんながすでに知っていることなどは、ほとんど情報としての価値はないといえる。映画なら、監督や出演者を知っていることよりも、その作品から何を感じ得ることができたかのほうが大事なのだ。

またあまり人が関心を持ってはないが、自分が値があると思って得た情報に、自分なりの解釈を加えて人に披露できた時はうれしいと感じる瞬間でもあるな。最大公約数的な情報は面白くもないし。

カルピスの原液ができれば、時代に合わせてさまざまな飲み物がつくれる。

2010年02月03日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

秋元氏はよく、スタッフに「カルピスの原液をつくれ」といっているそうだ。それは要するにいろいろなものに応用のできる骨太でパワーのある企画という意味だったのだ。それを「原液」と表現している。

瓶に入っているカルピスの原液は、その後「カルピスソーダ」にもなり、薄めずにそのまま飲める、自販機でも買える「カルピスウォーター」にもなっている。さらには、さまざまなフルーツカルピスも登場している。もともとは、それらはすべてカルピスの「原液」が元になりその時代に合わせて作られてきていた。

コンテンツや企画自体に価値があれば、アナログだろうがハイテクだろうが、メディアは選ぶことができる。パソコン自体はツールや手段であって、それを使って何ができるかのほうが問題だった。コンテンツがなければどんな素晴らしいソフトやハードがあっても役には立たない。そこで、自分のことを振り返ってみた。もしかしたらそうかもしれないと思うものがあった。

それは“オリジナル一筆箋”だった。約15年前のことになるが、時どき仕事で一筆箋を使っていたが、気に入ったデザインのものが見つからなかった。そこで、パソコンで作り始めたのが始まりだった。数週間遊びながら作っている間に、数十種類のテンプレートが出来上がったのだ。

その後はいくらでも応用でオリジナルなものを作ることができ、自分で使うばかりでなく周囲の人にもプレゼントできている。それは実用ばかりではなく、作ること自体がおもしろいから続いている。根底には、ちょっとしたサプライズを演出したいというような、エンターテイメント感覚があるということも確かだが。

根拠のない自信を持てるか。

2010年02月02日 | Weblog
「企画脳」秋元康著より。

筆者は“必勝法がないにもかかわらず、「自分はジャンケンに弱い」と尻込みするような人間は、発想・企画力で他人に勝つことはできない”と語っている。これは自身の経験から出てきた言葉だろう。

つまり、どうやって人より前に出て、企画を売り込んでいくか、どうやってコンペを勝ち進んでいくかと考えた場合、必要とされるのが、この「根拠のない自信」だったのだ。

ジャンケンに必勝法がないとすれば、ある意味「気迫」「運」「勢い」だけともいえそうだ。自分は強いんだという、思い込みをまず持ってしまうことがポイントらしい。自己暗示とも捉えられる。

マイナスのイメージはすぐに思い浮かびやすいものだ。できれば、根拠のある自信を持ちたいものだが、何の根拠がなくても「オレは負けるわけがない」と思うことも時には有益になるものらしい・・・。

感受性の散歩を満喫・・・

2010年02月01日 | Weblog
「朝日新聞」2010.1.30付けより。

実にユニークな表現だが、これは作家の落合恵子さんの連載エッセイからのワンフレーズだった。この日のタイトルは“やわらかな時間”となっていた。いったいどんな時間を過ごしたのだろう・・・。

どこの場所とは書かれていないが、「寒椿が紅色の花を点々と落とす海沿いの道~」という記述がある。仕事で出かけた空き時間にそこを歩いていると高齢の女性とすれ違ったのだ。

その人は手ぬぐいで頬かむりをして、両手に泥つきの大根をぶら下げていたという。そして、すれ違いざま「こんにちは」と声をかけられ、落合さんも慌てて「こんにちは」と返答したそうだ。そして、あの大根はどう調理されるのだろうかなどと勝手な想像をめぐらしている。

さらに進んでいくと、今度はランドセルを背負った男の子たちとすれ違ったのだ。何がおかしいのか、弾けたように笑い肩をぶつけあっていると表現している。そこからは無邪気な子供たちの元気で明るい様子が伝わってくる。そんなこともたちも、あと10年もしないうちに、海のない遠い街でここでの会話を懐かしむ子もいることだろう、などと想像してる。

その後夕方になったらしく、次のように書かれていた。「空に薄くかかる雲の輪郭が金色に縁取りされて、輝きだした。もうすぐ夕焼けの時間だ。なんだかとても丁寧な時間を贈られたような・・・」さすがに作家らしく、実に抒情的な表現だと思った次第。

そして、最後のワンセンテンスのなかに、上記に上げたフレーズが含まれていた。「『御馳走さま!』と言いたくなるよな、柔らかで懐かしい時間の中で、感受性の散歩を満喫させてもらった」と。なんだかあわただしい日々を過ごしていると、こんな表現が新鮮に思えくるな・・・