ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

いい教育は人生の祝祭になるし、悪い教育は公害になる。

2009年04月16日 | Weblog
「教育力」齋藤孝著より。

いきなりかなりインパクトのあるフレーズに出くわした。実際に教育の現場にいるだけに実感としてそう感じているのだろう。齋藤氏は大学の教職課程で、教員志望者に授業をしている。そんな立場からの意見だから説得力もある。もし、これを一般人がいっても誰も納得しないかもしれない。

教育力とはいっても、すべてが教師向けの話ではないとも受け取れる。親子の間でも教育はある。会社に入れば一般的には新入社員教育が施されるだろう。別に一か所に集まらなくても現場でのマンツーマンの教育もある。

こう考えれば、学校時代の教室で行なわれる以外の方が多いかもしれない。もちろん教師自身も新人のうちは教育される立場だろう。そこで大事なのは教師自身が学び続けることだと齋藤氏は述べている。

教える相手がいるからこそ、学ぶ意欲が持続するという良さもあると指摘している。なるほど、これは一般の仕事に置き換えてみれば、買うお客さんがいるから、商売も継続できるとも考えられる。また身近なところでは、読んでくれる誰かがいるからブログも継続できるとも言えそうだ。

教師は単に教え方を知ってるだけでは、十分ではなかったのだ。しかも教える立場の人は最低限読書の習慣は必要だという。つまり教えることの専門家であると同時に、学ぶことの専門家であらねばならないと主張する。

また学ぶことのプロフェショナルであるからこそ、教える側に立つことができる、と似たような表現で繰り返し述べていた。教育者だからこその実に熱いメッセージだとも感じられる。

努力を客観視するための測定方法・・・

2009年04月16日 | Weblog
「朝日新聞」土曜版。2009.4.11付より。

これは「勝間和代の人生を変えるコトバ」というコーナーのなかにあったものだった。そして、この努力の測定方法とはどれだけ時間をかけたかということだった。

この日のタイトルは「努力は、かけた時間によって測定できる」となっていた。これは勝間さんが38歳でたどり着いた考えだという。実にシンプルでわかりやすい。

もちろん、いくら時間をかけたからといっても、その時間の密度こそが大事だろう。努力もどこまですれば満足ということはなかなか判断がしにくいもの。いずれにしても、結果が出なければ無意味になってしまうこともある。

たとえば、受験を例にあげれば、いくら努力しても人がそれ以上の結果を出せば、不合格になってしまうこともあろう。また逆に大した努力もせずに一流校に入れれば、それはそれでカッコよく見える(かもしれない)。

時間という区切りならば、努力が見えやすいのは確かだろう。自分は○○年間これをやってきたといえるものがあれば、それは努力してきたといえそうだ。なかなか年単位で努力を継続するのは大変そうだ・・・