「おこしやす」と一緒に松阪から持ち帰った「人生の四季に生きる」(日野原重明・岩波書店)で日野原さんは、人生を四季になぞらえて
書かれている。「春」では「生きる喜び」、「夏」では「仕事と幸福」、「秋」では「病む心とからだ」、「冬」では「老いの生き方」という題がついている。
日野原さんの長い人生に大きな影響を与えたものが3つあるように思えた。1つは、1932(昭和7)年に京都大学医学部に入学した1年後に発症した結核の療養による1年間の休学。2つ目は、1937(昭和12)年に卒業してからの8年簡易及ぶ戦時下での医療現場での奮闘。3つ目が、昭和45(1970)年に起きた日航の「よど号」ハイジャック事件。たまたま58歳になった日野原さんが乗り合わせていたのである。四日三晩韓国の金浦空港で閉じ込められ他の地に解放された。
日野原さんに習って自分自身の人生を四季になぞらえて考えてみると、30年区切りでいいかなと思った。生まれてから30歳までが春(青春)組合の青年部も30歳で終わる。30歳から60歳までが夏(朱夏)。60歳から90歳までが秋(白秋)、まだ3分の1しか生きてないが冬(玄冬)は90歳からだろう。そこまで生きるかどうかわからないがこれぐらいのスパンで考えるのが良いと思った。
「おこしやす」も「人生の四季に生きる」もまだ半分ほど読んだだけだが、人生の先達の言葉はシンプルで飾り気がないだけに心に沁みるものがある。
日野原さんが「まえがき」でとりあげていた「徒然草」の百五十五段も味わい深いものがあった。
【原文】世に従はん人は、先(ま)づ機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、その事ならず。さやうの折節を心得(こころう)べきなり。但し、病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついで悪しとてやむことなし。生(しょう)・住(ぢゅう)・異(い)・滅(めつ)の移りかはる、実(まこと)の大事は、たけき河のみなぎり流るるが如し。しばしもとどこほらず、ただちに行ひゆくものなり。されば、真俗(しんぞく)につけて、 必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足をふみとどむまじきなり。
春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪えずして落ちるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちつるついで甚だはやし。生・老・病・死の移り来る事、又これに過ぎたり。四季なほ定まれるについであり。死期(しご)はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。沖の干潟(ひかた)遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
【現代語訳】世間に順応して生きようとする人は、まず時機というものを知るべきである。順序が悪いことは人の耳にも逆らい、心にもあわず、その事は成就しない。そのような時機を心得るべきである。
ただし、病にかかり、子を産み、死ぬ事だけは、時機をはからず、順序が悪くても止めなくてもよい。
発生・存続・変化・滅亡の四相が移り変わという真に大事なことは、勢い激しい河がみなぎり流れるようなものだ。
少しも滞る事が無い。すぐに実現していくものである。
であれば、脱俗していようと、俗世間にどっぷりだろうと、必ずやり遂げようと思う事は、時機がどうこう言ってはならない。少しの用意もせず(さっさと実行せよ)。足を踏み留めてはならない。
春が暮れて後に夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春はすぐに夏の気配を催し、夏の間から既に秋は通い、秋は秋であるままに寒くなっていき、十月は小春日和となり、草も青くなり梅もつぼみをつける。
木の葉の落ちるのも、まず落ちて芽が出てくるのではない。内部から芽吹くのに押されて、古い葉が落ちるのである。変化を迎える気というものは、内部で準備しているのだから、変化を待ち受ける手順はたいへん速い。
生れること・老いること・病・死。これらが移り来る事は、又季節以上に速い。四季はそれでもやはり決まった順番があるが、死ぬ時期には順番がない。死は前からばかり来るものではない。いつの間にか、後ろに迫っている。
人は皆死ぬことを知っていて、待っていても、それほど切迫した状態ではない時に、自覚なしにやって来る。沖の干潟ははるか遠いといっても、足元の磯から潮が満ちているのと同じである。
書かれている。「春」では「生きる喜び」、「夏」では「仕事と幸福」、「秋」では「病む心とからだ」、「冬」では「老いの生き方」という題がついている。
日野原さんの長い人生に大きな影響を与えたものが3つあるように思えた。1つは、1932(昭和7)年に京都大学医学部に入学した1年後に発症した結核の療養による1年間の休学。2つ目は、1937(昭和12)年に卒業してからの8年簡易及ぶ戦時下での医療現場での奮闘。3つ目が、昭和45(1970)年に起きた日航の「よど号」ハイジャック事件。たまたま58歳になった日野原さんが乗り合わせていたのである。四日三晩韓国の金浦空港で閉じ込められ他の地に解放された。
日野原さんに習って自分自身の人生を四季になぞらえて考えてみると、30年区切りでいいかなと思った。生まれてから30歳までが春(青春)組合の青年部も30歳で終わる。30歳から60歳までが夏(朱夏)。60歳から90歳までが秋(白秋)、まだ3分の1しか生きてないが冬(玄冬)は90歳からだろう。そこまで生きるかどうかわからないがこれぐらいのスパンで考えるのが良いと思った。
「おこしやす」も「人生の四季に生きる」もまだ半分ほど読んだだけだが、人生の先達の言葉はシンプルで飾り気がないだけに心に沁みるものがある。
日野原さんが「まえがき」でとりあげていた「徒然草」の百五十五段も味わい深いものがあった。
【原文】世に従はん人は、先(ま)づ機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、その事ならず。さやうの折節を心得(こころう)べきなり。但し、病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついで悪しとてやむことなし。生(しょう)・住(ぢゅう)・異(い)・滅(めつ)の移りかはる、実(まこと)の大事は、たけき河のみなぎり流るるが如し。しばしもとどこほらず、ただちに行ひゆくものなり。されば、真俗(しんぞく)につけて、 必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足をふみとどむまじきなり。
春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪えずして落ちるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちつるついで甚だはやし。生・老・病・死の移り来る事、又これに過ぎたり。四季なほ定まれるについであり。死期(しご)はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。沖の干潟(ひかた)遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
【現代語訳】世間に順応して生きようとする人は、まず時機というものを知るべきである。順序が悪いことは人の耳にも逆らい、心にもあわず、その事は成就しない。そのような時機を心得るべきである。
ただし、病にかかり、子を産み、死ぬ事だけは、時機をはからず、順序が悪くても止めなくてもよい。
発生・存続・変化・滅亡の四相が移り変わという真に大事なことは、勢い激しい河がみなぎり流れるようなものだ。
少しも滞る事が無い。すぐに実現していくものである。
であれば、脱俗していようと、俗世間にどっぷりだろうと、必ずやり遂げようと思う事は、時機がどうこう言ってはならない。少しの用意もせず(さっさと実行せよ)。足を踏み留めてはならない。
春が暮れて後に夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春はすぐに夏の気配を催し、夏の間から既に秋は通い、秋は秋であるままに寒くなっていき、十月は小春日和となり、草も青くなり梅もつぼみをつける。
木の葉の落ちるのも、まず落ちて芽が出てくるのではない。内部から芽吹くのに押されて、古い葉が落ちるのである。変化を迎える気というものは、内部で準備しているのだから、変化を待ち受ける手順はたいへん速い。
生れること・老いること・病・死。これらが移り来る事は、又季節以上に速い。四季はそれでもやはり決まった順番があるが、死ぬ時期には順番がない。死は前からばかり来るものではない。いつの間にか、後ろに迫っている。
人は皆死ぬことを知っていて、待っていても、それほど切迫した状態ではない時に、自覚なしにやって来る。沖の干潟ははるか遠いといっても、足元の磯から潮が満ちているのと同じである。