素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

ここ最近、小さいながらよく揺れる

2022年05月03日 | 日記
 一昨日の夜22時20分頃、くつろいでいたら急に食器棚がガタガタ鳴り出した。ほどなく弱い揺れがあった。急いでテレビをつけると京都府南部を震源とする地震があった。とテロップが出た。震度は4.おそらくこちらは震度3ぐらいかな。

 ここ2週間余りで4回目である。今回の揺れが一番強かったように思える。こう続くと少し嫌な気分になる。ジムでも地震のことが話題になった。しかし、話はてんでんバラバラでまとまらない。阪神淡路大震災の時のことに関連づけて話す人もいれば南海トラフを心配する人。歴史に関心のある人は秀吉の時代に伏見城が倒壊した大地震のことを話す人など百家争鳴。いずれも[有馬-高槻断層帯]と[六甲・淡路島断層帯]のなせることだが、中でも秀吉の頃の話が盛り上がった。

 ところが、大河ドラマや本、歴史番組などとそれぞれが得た情報がまちまちな上に記憶も曖昧ときているので聞いていてもスッキリと落ちなかった。私自身も記憶が断片的なので致し方無かった。

 どうも気になって調べてみたら、秀吉は大きな地震に2回出くわしていたのだ。これが話がこんがらがった原因であったと納得した。

 1つは、戦国時代末期の1586年1月18日(天正13年11月29日) 日本中部で発生した天正大地震(テンショウオオジシン)と呼ばれる巨大地震である。織田信長の亡き後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、徳川家康の討伐を計画していたのだが、地震で予定していた計画を中止して 一目散で大坂城へ逃げ帰り 避難したという。地震がなければ徳川の時代はこなっかたと熱弁していたAさんはこの地震のことが頭にあったというわけ。

 もう1つは、文禄5年(1596年)9月5日 子の刻(23時~1時)に 京都・伏見付近で発生した 慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)。晩年の秀吉が建てた「伏見城」が完成した矢先の大地震で「伏見城」の天守閣や二の丸は倒壊、御殿や櫓(やぐら)も崩れた。地震勃発時 秀吉は伏見城にいて、『当代記』という史書によると、被害のなかった伏見城の台所施設で一晩を過ごし 夜明け後 「伏見城」から1キロ離れた木幡山(こはたやま)に仮設住宅を造り、避難生活を送った。

 当時の秀吉は 長男の逝去という不幸、朝鮮出兵の不調や秀次事件、利休事件など。失政も多かった時期で、この「慶長伏見地震」は秀吉にとって 大きな痛手となった。地震で秀吉は命を縮めたと持論を展開していたPさんはこの地震が頭にあった。

 2つの地震をほとんどの人は1つと思っていたので話がかみ合わなかったのは当然だ。脳にはいい刺激になったから良しとしよう。面白い動画を見つけたのでまたみんなに紹介しよう。

【秀吉もびっくり】天正地震と慶長伏見地震(地震の基礎知識のおまけつき)
コメント
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