日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

六万九千三百八十四文字の仏

2021-09-03 | 御住職指導

正林寺御住職指導(R3.9月 第212号) 

 

 「六万九千三百八十四文字の仏」との文字を眼にされて、どのような想像をされ感想を持たれたでしょう。群盲象を評す意見が聞かれそうです。
 正確にお答えできる方は、爪上の土のように少ないのではないでしょうか。おそらく現代流に、スマホなどの検索エンジンやSNSを利用されて意味を調べる方が多いのではないでしょうか。利用された時の結果は、種脱雑乱した諸説が飛び交う意味を目の当たりにし、正確性に欠けるでしょう。師弟相対である手継の師匠より正確な答えを求めることが必要です。すでにご存じの方は、日蓮正宗の寺院にて正法を正師から教示いただいていることになります。

 蔵の財となるスマホなどの普及により文明的には非常に便利な世の中になりましたが、同時に正法誹謗の罪障によるコロナ禍での不便さもあります。時として、スマホからの情報源は慎重に判断すべきであることを心得ましょう。そのため正しい疑いは必要であり、宗祖日蓮大聖人も立宗宣言以前は、仏教の正邪を見極めるため真実を追究するために遊学あそばされました。正しい疑いは物事の正邪(善悪)を見極める術になります。

 さて、「六万九千三百八十四文字の仏」との意味は、法華経一部八巻二十八品の総文字数のことで、文上の法華経であります。写本や刊行本に種々あり、たとえば字数にも「二十」を「廿」に、「三十」を「卅」と書いた本が存在し多少の増減があります。一般には仏法的な普通の義として習慣的に六万九千三百八十四字を定数とされて伝えられています。
 日蓮大聖人は『本尊供養御書』に、
「法華経の文字(もんじ)は六万九千三百八十四字、一々の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一々に皆御仏なり。」(御書1054)
と仰せであります。同じ文字を眼(目)にするにも、人界では黒と見え、仏界からは仏様と拝見します。人界からは肉眼、仏界からは仏眼と、五眼の肉眼(にくげん)・天眼(てんげん)・慧眼(えげん)・法眼(ほうげん)・仏眼(ぶつげん)により文字の拝し方に違いがあります。また、「黒き文字と見え」る場合には、帰納法的論法が根拠となる群盲探象化した解釈が古義蘭菊します。つまり、『船守弥三郎殿許御書』に、
「肉眼(にくげん)はしらず、仏眼は此をみる。」(御書262)
と仰せであります。
 それはまた、法華経の文字ではなく、スマホなどからの情報源を眼にする場合にも、肉眼と仏眼の違いは歴然と生じるでしょう。目に見える肉眼を頼ると、事実や本質を見失う可能性があります。冷静さ慎重さが必要で、一喜一憂は禁物です。『聖愚問答抄』に、
「騒乱(そうらん)する事なかれ」(御書409)
と、『四条金吾殿御返事』に、
「賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。(中略)此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給ふなり。」(御書1117)
と。まさに『唱法華題目抄』には、
「悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧みにして愚癡の人の心を取って善心を破るといふ事なり。」(御書224)
と仰せのように、悪知識である詐欺的なサイト・メールやフェイク動画などには、善心を破られないよう用心すべきです。
 では、仏眼である仏の眼は、どうすれば身に付けることができるのか、『観心本尊抄』に、
「法華経の文に人界を説いて云はく『衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめんと欲す』と。涅槃経に云はく『大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと雖も名づけて仏眼(ぶつげん)と為(な)す』等云云。末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずるは人界に仏界を具足(ぐそく)する故なり。」(御書647)
と、『六識事』にも、
「大乗を学ばん者は肉眼有りと雖も名づけて仏眼と為す。耳鼻の五根例して亦是くの如し。」(御書799)
と、大聖人は御教示であります。六根清浄の功徳の一分としての仏眼であり、『法師功徳品第十九』に、
「是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。是の人は、当に八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん。」(法華経474)
と説かれています。仏眼を身に付ける結論として、師弟相対から手継の師匠より、日蓮正宗の寺院にて正法を正師から聴聞することであります。つまり、大乗を学する者が肉眼であっても仏眼を具えることになります。「大乗」とは、末法において法華経の文底下種仏法であり、日蓮大聖人が説かれた一切の仏法、「血脈の次第 日蓮日興」(御書1675)との仏法を唯授一人の血脈相承あそばされた僧宝の方が説かれる教えのことであります。ゆえに御法主上人猊下からの御指南が根本となります。
 御法主日如上人猊下は、
「法華経の文字を数えると六万九千三百八十四字あるわけですけれども、その一字一字が一仏であるとの意味であります。」(信行要文 三 P112)
と、また、
「法華経の行者に衣を供養する功徳を説いて、(中略)『御供養された帷子を着て仏前に詣で、法華経を読み奉れば、法華経の文字は六万九千三百八十四字であり、一々の文字は皆、金色の仏であるから、衣は一つであるけれども、六万九千三百八十四の仏に、一々に着せ奉ることになる。それ故、この衣を御供養していただいたので、夫婦二人にはこれらの仏が訪れて、我が檀那であるとして守ってくださるでしょう。』」(信行要文 七 P70)
と御教示であります。

 さらに、その仏眼から法華経を見る時には、「広・略・要」を心得て拝することが大切であります。『法華題目抄』に、
「題目計りを唱ふる福計るべからずとみへぬ。一部八巻二十八品を受持読誦し、随喜護持等するは広なり。方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。但(ただ)十四句偈(げ)乃至題目計りを唱へとなうる者を護持するは要なり。広略要の中には題目は要の内なり。」(御書355)
と仰せであります。広とは一部八巻二十八品で六万九千三百八十四文字であり、略とは方便品寿量品等、要とは特に題目のことになります。要である南無妙法蓮華経の題目を中心に唱え福計るべからずところ、『聖愚問答抄』に、
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」(御書406)
との御指南に通じていきます。
 『六難九易抄』に、
「南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字一字もも(漏)れずか(欠)けずおさめて候」(御書1243)
と。

 スマホなどの検索エンジンやSNSを利用されて意味を調べた方で、以上の正解にたどり着かれた方はおられたでしょうか。最先端のAI(人工知能)でも無理ではないでしょうか。正解にたどり着くことができなかった方は、日蓮正宗の寺院・教会にて正師である御住職や御主管から、さらなる御法門を聴聞されて、仏法上から「世のため人のため」に、正確な仏法を伝えて行きましょう。それが自分のためになります。さらには、法界をも動かしコロナ禍での厄災を止めることになります。


 9月は「重陽の節句」にあたり、9月12日は竜口法難(御難会)です。日蓮大聖人は外用上行菩薩から内証久遠元初の御本仏との御境界へと発迹顕本あそばされた、法華経の行者であります。
 大聖人は『四条金吾殿御消息』に、
「月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたす(助)け」(御書479)
と、刑場にて太刀取りは強烈な光に目が眩んだ、その時の光り物は月天子でありました。
 その月天子は諸天の守護の証であります。ところが『王日殿御返事』に、
「法華経の一字は大地の如し、万物を出生す。(中略)此の一字返じて月となる、月変じて仏となる」(御書1546)
と仰せであり、『さじき女房御返事』に、
「法華経の六万九千三百八十四の文字の仏にまいらせさせ給ひぬれば、六万九千三百八十四のかたびらなり。」(御書1125)
と仰せの、六万九千三百八十四文字の仏となり大難を逃れたとも、文底下種仏法から拝し奉ります。大聖人の御身を法華経の文字、一字一字が「かたびら」となり包み込まれ、何ものをも近づけず遠ざける守護の用きが現証として顕れた、光り物の現象と拝します。
 それは、『単衣抄』に、
「帷(かたびら)をきて仏前に詣でて法華経を読み奉り候ひなば、御経の文字は六万九千三百八十四字、一々の文字は皆金色の仏なり。衣は一つなれども六万九千三百八十四仏に一々にきせまいらせ給へるなり」(御書904)
と、『御衣並単衣御書』にも、
「法華経を説く人は、柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)と申して必ず衣あるべし。(中略)衣かたびら(帷子)は一なれども、法華経にまいらせさせ給ひぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。」(御書908)
との御指南に添い奉り、法華経の身業読誦であると拝します。
 まさに『経王殿御返事』では、
「法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。(中略)いかなる処にて遊びたは(戯)ぶるともつヽ(恙)があるべからず。遊行(ゆぎょう)して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。」(御書685)
と仰せの現証と自受法楽の御境界と拝します。それはまた『四条金吾殿御消息』の、
「日蓮が難にあ(値)う所ごとに仏土なるべきか。裟婆世界の中には日本国、日本国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口(たつのくち)に、日蓮が命をとゞめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか」(御書478)
と仰せである御本仏の御境界のことであります。

 御法門から佐前佐後の御化導の意義上では、法華経身業読誦の過程での「則(すなわ)ち変化(へんげ)の人を遣はして 之が為に衛護(えご)と作さん」(法華経333)と、「刀杖も加へず」(法華経403)、「刀尋(つ)いで段々に壊(お)れなん」(法華経569)等の「諸余怨敵皆悉摧滅」(御書1407)との意義を存した佐前において上行菩薩を表面(外用)とした諸天の守護と拝され、佐後においても佐前の御化導を踏襲し誘引されつつ、御本仏の御境界を顕著にすべき過程から、月変じて仏となる六万九千三百八十四文字の仏から守護された現証へと拝信申し上げます。まさしく、日蓮大聖人の御身には、外用上行菩薩から内証御本仏の御境界へと発迹顕本あそばされた重要な意味が存することを、大聖人の御書から重ねて拝信申し上げます。
 その過程から、日蓮大聖人の「御名」について『四条金吾女房御書』に、
「法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。」(御書464)
との仰せは、法華経に説かれる『如来神力品第二十一』の、
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経516)
との御振舞と拝します。
 『撰時抄』に、
「法華経を持つ者も亦復是くの如し。又衆星(しゅしょう)の中に月天子最も為(こ)れ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是くの如し等と御心えあるべし。当世日本国の智人等は衆星のごとし、日蓮は満月のごとし」(御書870)
と。

 佐後での御振舞は、御本仏の境界から御本尊書写との重大な御化導があります。六万九千三百八十四文字の仏とは、まさしく末法の一切衆生を救済すべく、文底秘沈された三大秘法の御本尊が在すと拝せられ、日蓮大聖人が隠し持たれてきた秘法も文の底に秘し沈められております。
 『日蓮正宗要義』に、
「表現上六万九千三百八十四文字の法華経とその題目との間における、本迹・種脱の区別は未だ明瞭でないが、その義は含まれていて、化導の展開に従って次第に明瞭となるのである。(中略)佐前の御書の綱格は概して題目の弘通であり、題目の実体である末法出現の本尊の実義を顕わされないため、一往台家に付順し法華経二十八品と所弘の妙法を通同の上に示されている。後の佐渡期から見るとその法門の相違が明らかである。」(改訂版146)
と示されてあります。
 第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「文を釈するに、且く三段と為す。初めに文相を詳らかにし、次に種脱を詳らかにし、三に本尊を詳らかにするなり。初めに文相を詳らかにするとは、この一文にまた三意を含む。所謂文義意これなり。」(御書文段263)
と、文義意を心得て拝することが大事であります。

 竜口法難での発迹顕本あそばされた時の御振舞について『種々御振舞御書』に、
「日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。」(御書1060)
と、法華経の六万九千三百八十四の文字の仏を父母に回向あそばされたと拝します。

 9月は秋季彼岸会の月でもあります。日蓮正宗での彼岸会に奉修される法要では、御先祖はじめ縁ある故人を六万九千三百八十四文字の仏が、成仏へと導いてくださる意義深い法要になります。つまり、「法華経は一切衆生を仏になす秘術なり」であります。

 さらに、日顕上人第三回御忌の法要を総本山客殿において9月16日・17日に奉修されます。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、代表者による参詣に限定されます。当寺におきましても寺院の感染拡大予防ガイドラインを遵守して奉修いたします。
 令和元年(2019)10月11日、御法主日如上人猊下大導師のもと、日顕上人の御本葬の儀が総本山にて厳粛に奉修され読経中には、丁度、雨が降ってまいりました。その雨は意義深く、釈尊法華経の『普賢菩薩勧発品第二十八』に、
「法雨を雨らす」(法華経606)
と説かれ、大聖人も『法華初心成仏抄』に、

「法雨を雨らす」(御書1311)
と仰せの「法雨」と拝します。それは五眼の上から、法眼の眼から見える雨と拝し奉ります。一水四見といわれるように、境界により見え方に違いがあります。
 大聖人は『生死一大事血脈抄』に、

「臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を『是人命終為千仏授手(ぜにんみょうじゅういせんぶつじゅしゅ)、令不恐怖不堕悪趣(りょうふくふだあくしゅ)』と説かれて候。悦ばしいかな一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎(らいごう)し手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し。」(御書513)
と仰せであります。「歓喜の感涙押へ難し」とは、御本葬時に、御本仏日蓮大聖人をはじめ諸仏が来迎された御姿に触れて、諸天をはじめ、御遷化あそばされた日顕上人の感涙との意義深くも有難い雨と拝し奉ります。そして、「悦ばしいかな一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎(らいごう)し手を取り給はん事」とは、まさに「六万九千三百八十四文字の仏」との法華経普賢品に説かれる「是人命終為千仏授手」との御指南に添い奉ることを、第三回御忌御報恩にあたり拝信申し上げます。拙僧は勿体なくも、日顕上人より衣免許を御当職中に賜りました事に対し奉り、改めて「六万九千三百八十四文字の仏」の意義を心肝に染め深謝申し上げます。

 最後に昨年来、群馬県にも緊急事態宣言が発令されています。新型コロナも第2波・第3波よりも猛威を振るっています。その原因には、邪宗邪義は当然ながら様々な要因があります。なかでもウイルスが変異し、デルタ株・ラムダ株など第4波・第5波へとフェーズが変わりました。五濁悪世のため予測しがたい現実があります。
 大聖人は『妙法比丘尼御返事』に、
「疫病(やくびょう)月々におこり」(御書1260)
と仰せのように、今後も邪宗邪義が蔓延る限り、予断を許さない状況が続くでしょう。
 御法主日如上人猊下は「令和3年8月度 広布唱題会の砌」に、
「今、新型コロナウイルス感染症が爆発的に蔓延し、末法濁悪の世相そのままに騒然とした様相を呈しております。(中略)世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、誤った宗教・思想にその原因があることは、既に大聖人様が『立正安国論』において明示されている通りであります。」(大日蓮 令和3年9月号 第907号)
と御指南です。立正安国の精神を心肝に染めて、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の本年、折伏誓願目標の達成をめざして御報恩のまことを尽くすためにも、僧俗一致・異体同心の団結をもって、あらゆる困難を乗り越えて前進しましょう。

 

宗祖日蓮大聖人『如説修行抄』に曰く、
「法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせ(攻)めを(落)として法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ(繁)昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだ(砕)かず、代はぎ(羲)のう(農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕はれん時を各々御らん(覧)ぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。」(御書671)

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