日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

法華経の行者には値(あ)ひがたし

2020-02-05 | 御住職指導

正林寺御住職指導(R2.2月 第193号)  

 

 いよいよ一年後の令和三年(2021)二月十六日は、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年をお祝い申し上げる大佳節を迎えます。

 大聖人は法華経の行者です。末法時代に入ってから一番始めに法華経の教説に従って純粋に修行をされた上行菩薩であります。また、一番始めの「法華経の行者(別)」は、地涌の菩薩の眷属につらなる「法華経の行者(総)」として、弟子檀那が成仏と罪障消滅するための尊崇すべき御本尊を御図顕あそばされる御境界でもあります。その御境界が宗祖大聖人です。

 大聖人は『曽谷殿御返事』に、
「釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別(そうべつ)の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。」(御書1039)
と仰せであります。御法門を弘宣する法華経の行者には「総別の二義」、つまり二つの立場があります。
 総じて拝した場合、三大秘法の南無妙法蓮華経を信受し実践する日蓮正宗の僧俗であります。別しては宗祖日蓮大聖人のことで、末法の御本仏の異名でもあります。
 ゆえに、総じての行者は日蓮正宗の僧俗であり、別しての行者は日蓮大聖人だけであります。以上が当宗における法華経の行者の意義になります。

 反面、創価学会で主張する御書文証が確認できない、「第二(二番目)の法華経の行者」などは存在しません。つまり「第二の法華経の行者」は、総別の二義から逸脱し、大聖人も御在世中に全く予見されなかった、日寛上人も日亨上人も御存知ではない、当然、御歴代上人も知らない、昭和時代に突如出現し異流義化した人師の説山法山規を度外視した、創価流行者のことです。その「第二の法華経の行者」とは池田大作氏です。

 もし、肯定して存在を認めるのであれば、世界広布という名のもとに「法華折伏破権門理」(御書1359・御書全集1556)を忘失し、名聞名利を最優先した有名無実の行者のことでしょう。さらに、その行者は総本山での丑寅勤行を軽視し、学会葬を強力に推し進め、東京の信濃町や八王子を重要視して「富士山は広宣流布の根源」をも見失った、八相作仏を顕現できない宇宙の法のみを根本とした創価学会仏を創り出し、大聖人の御書よりも人間革命と新・人間革命を重点に置く行者でもあります。そして究極は、創価学会総本部広宣流布大誓堂安置の慈折広布の御本尊を優先し、大聖人の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊受持の対象としないことです。それが「第二の法華経の行者」ではないでしょうか。それはつまり、聖者を装う僣聖増上慢が本性です。

 まさに僣聖増上慢と天地雲泥の差が歴然とある、値いがたい法華経の行者について、大聖人は『種々御振舞御書』に、
「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし」(御書1059)
と断言あそばされ、さらに大聖人は『日女御前御返事』に、

「設(たと)ひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。」(御書1232)
と仰せであります。別して末法の法華経の行者である日蓮大聖人には値いがたいということです。大聖人は『日女御前御返事』に、
「聖人は千年に一度出づるなり。仏は無量劫に一度出世し給ふ。」(御書1232)
とも仰せであり、私達は値いがたい法華経を修行させて頂け、総じての法華経の行者である境遇に感謝致しましょう。
 感謝申し上げる方法について御法主日如上人猊下は、
「総本山第二十六世日寛上人は、三宝の御恩に報ずる道は折伏以外にないことを『報恩抄文段』に、
『邪法を退治するは即ち是れ報恩(中略)正法を弘通するは即ち是れ謝徳(中略)謂わく、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫(な)きが故なり』(御書文段384)
と御教示されています。」(御指南集25-62)
と御指南です。

 一切衆生救済のために、値いがたい別しての法華経の行者を大聖人は滅後、唯授一人の血脈相承という形で末法万年に備えられました。大聖人の御遺命である「血脈相承に随順せよ」です。その時々の御法主上人猊下は、総別の二義の上から今あるべき、総じての法華経の行者について適切な御指南を下さる立場でいらっしゃいます。現在は第68代まで続き、御法主日如上人猊下であります。

 現実に世間では、経典の法華経に値うことはできても、真の総別の二義を峻別された法華経の行者には値いがたいのは事実であります。法華経の題目よりも爾前諸経(念仏・般若心経等)が重んじられる世の中を目の当たりにすれば、邪法の興盛(こうじょう)する国であることは一目瞭然です。たとえ法華経に値えたとしても釈尊の脱益文上の法華経と大聖人の下種文底の法華経があり、白法隠没した釈尊の脱益文上の法華経に値う確率が多いのが現実でしょう。また、総別の二義と能所をわきまえない異流義化し組織力を誇示した創価学会や冨士大石寺顕正会の偽物も流布されているために困難です。

 その現実は、まさに大聖人が『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり(中略)今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛(こうじょう)する国か勘(かんが)ふべし。」(御書403)
と仰せのように、末法の正法が弘りがたい現実と、末法にすべき修行、折伏を厳命あそばされています。

 総じての立場から日蓮正宗の僧俗も法華経の行者でありますが、久遠から教化されていない本未有善という機根を有した行者であり、大聖人の願兼於業(がんけんおごう)との崇高な境界、純粋な地涌の菩薩とは異なります。「願兼於業」について第六十七世日顕上人は、
「この『願兼於業』のところに実に深い意義が篭められておると拝するのです。(中略)大聖人様は無量生の間、迷いに迷って、この土に生まれてきたと仰せになっておる所がございましたけれども、実はそうではなく、久遠元初の御本仏がその尊い大慈悲をもって、末法の一切衆生を救わんがために苦しみの凡夫の境界に同じて、その凡夫の悩み苦しみのなかから志を立てて法華経の行者としての仏の意義を顕すのであるということを、ここにはっきりと拝することができると存じます。」(大日蓮 第577号 H6.3月号)
と御指南であります。

 私達の場合は、大聖人が『種々御振舞御書』に、
「無量劫(むりょうこう)よりこのかた、をやこ(親子)のため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。」(御書1056)
と仰せの境界であります。そのため無量劫より積まれた過去遠々劫無始以来の罪障と向き合い、自行化他で消滅させながら一生成仏を目指し信心修行させて頂く三毒強盛な荒凡夫の行者になります。それが総じての法華経の行者であります。つまり、久遠から教化されてきた純粋な地涌の菩薩ではなく、末法に入ってから大聖人が御出生あそばされた後、数百年経過する過去世のなかにおいて順逆二縁を結んだ仏縁により、十二因縁の上から始めて今世、地涌の菩薩の眷属に加えさせて頂いた初心者的な立場であります。

 第九世日有上人は『連陽房雑雑聞書』に、
「夫れ人間は隔生即忘して前世の事を知らず」(歴全1-379)
との理由から過去世の記憶はありませんが、大聖人は『守護国家論』に、
「法華経流布の国に生れて此の経の題名を聞き、信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。設ひ今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なり。」(御書153)
と仰せであります。

 以上の理由から法華経の行者についての総別の二義に大きな違いが、まさに、このところにあります。私達は、大聖人の御境界と異なる、本未有善を自覚した法華経の行者です。

 本未有善の法華経の行者は、過去遠々劫無始以来の罪障と煩悩を多く背負っているために、その振る舞いも不軽菩薩の大神通力等を備えた振る舞いには至らず、三毒強盛な習気、三障四魔が邪魔するため、時には折伏行にも弊害が生じて順調にいかない場合が多々あります。

 また、誓願目標が重くのしかかる時もあるでしょう。その重さは、信伏随従すれども不軽軽毀(きょうき)の先謗(せんぼう)の強きゆえとの罪障の重さでもあり、同時に地域広布における三世間(五陰・衆生・国土)の過去遠々劫無始以来、習気化した邪宗邪義の害毒、謗法罪障の重さでもあります。その重さを末法万年尽未来際までには完全に一蹴させて仏国土を実現するための折伏誓願目標でもあります。それは有り難くも護法の功徳力による転重軽受の証しとなる重さでもあるでしょう。誓願目標達成させて頂くことにより、依正不二の原理につながり立正安国の実現があります。

 折伏行は困難な中でも折伏への気持ちを持続させていく信心活動にこそ、本当の罪障消滅があり一生成仏があることを確信すべきです。末法の仏道修行は自行化他にわたるからであります。他宗派での滝行等の荒行と称する難行苦行は、当宗の折伏行による三類の出現により総ての難行苦行の要素が網羅されています。そのため末法の時は「読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。」との理由があります。

 大聖人は『御義口伝』に、
「煩悩の淤泥(おでい)の中に真如の仏あり。我等衆生の事なり」(御書1753)
と仰せであり、本未有善の煩悩多き行者の命の中に、尊い仏性があります。つまり「九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都」(御書1388)であり、三因仏性を理解して、本門の本尊を信じ、題目を唱えることにより、三毒強盛な荒凡夫の身の上に本有の三因仏性が顕われ、即身成仏することができるのであります。その自信と誇りを堅持することが、本未有善の法華経の行者には大切です。小さな自信の積み重ねから確信へと高まり堅持された不退転の境界が、法華講員の心の財ともなります。まさしく大聖人は『持妙法華問答抄』に、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし。」(御書298)
との仰せを心肝に染めて、堅持していくことで地涌の流類に加わることができます。そして、講中一結・異体同心へとつなげることができます。

 また、地涌の流類に加わった、総じての法華経の行者の使命は、別しての法華経の行者を御内証に秘められた御法主上人猊下から一天四海本因妙広宣流布に向かって御命題を賜り、値いがたい別しての法華経の行者、つまり大聖人の御一身である本門戒壇の大御本尊のもとへお連れ申し上げる総本山への登山推進、大御本尊と縁を結ばせ折伏教化する尊い使命があり、本当の広宣流布を大聖人から託された行者でもあります。その大聖人から託された行者が、日蓮正宗の僧俗であり法華講衆です。創価学会や顕正会ではありません。
 まさに法華講衆だけに託された、日蓮大聖人の御遺命である「広宣流布に向かって精進し、本門寺の戒壇建立を期せよ」との実現につながります。

 御法主日如上人猊下は「七万五千名大結集総会の砌」に、
「皆様には、一人ひとりが広布の戦士として講中の中核となり、次の目標を目指していよいよ御精進くださることを心からお祈り申し上げ」(大日蓮 第763号)
との御指南、本未有善の行者でも「広布の戦士」へと境界が向上することを期待あそばされています。

 その広布の戦士としての心がけるべき絶対条件に、僧俗一致・異体同心の団結。その絶対条件を基礎とした、地道な折伏と育成による広布の人材を澎湃として輩出し、熾烈な広布の戦いに耐え得る強靭な講中組織を築き、世界広布への確固たる法礎を築くことを、広布の戦士の気概として必要とされます。講中組織には個々の罪障を消滅し長所的な能力を活かした、広布の戦士を育成して適材適所に配属する組織体勢のことです。長所的な能力とは、まさに大聖人が『小乗大乗分別抄』に、
「仏の御弟子頭陀(ずだ)第一の迦葉、智慧第一の舎利弗、神通第一の目連等の十大弟子云云」(御書705)
と仰せである、それぞれの能力を尊重された僧俗一致・異体同心の団結の構築であります。
 そして、御法主日如上人猊下の法華講員八十万人体勢とは、まさしく広布の戦士の八十万人体勢を御構想と拝し奉ります。

 その御構想を実現するためには、まず第一歩目に一丈の堀を越えて、過去遠々劫の罪障を自行化他により菩提に変えて、振る舞いをも変えていく法華経の行者、月々日々に広布の戦士となる境界にさせて頂けることを確信するところからスタートします。

 スタートには、大御本尊への絶対的確信です。その絶対的確信とは、値いがたき法華経の行者を大聖人は滅後、唯授一人の血脈相承という形で末法万年に備えられましたが、本門戒壇の大御本尊の御威光により、血脈相承は絶対に断絶することはなく、御入滅された御本仏の日蓮大聖人に血脈法水は、滅不滅・常住此説法の尊い御振舞から「諸余の怨敵皆 悉く摧滅せり」(法華経538)との御加護を賜りながら、広宣流布の暁まで確実に継承されていくとの冥の照覧に対し奉る絶対的確信です。それがまさに、大御本尊への絶対的確信であります。その絶対的確信から血脈を尊崇申し上げることが肝心です。つまり当宗の「二大事」のことであります。

 大聖人は血脈相承が絶対に断絶しないことを『生死一大事血脈抄』に、
「過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云ふなり」(御書514)
と、三世にわたり釈尊と上行菩薩の相承は当然でありますが、大聖人滅後、唯授一人の血脈相承の過程において御歴代上人の生死に、迷いの九界である本未有善の凡眼凡智から様々な状況に見えたり想起しても、信仰の寸心を改めて「離れ切れざるを法華の血脈相承」との仰せに絶対的確信を堅持すべきです。

 昭和時代に罪障消滅しきれなかった、異流義である本未有善の性が途轍もなく強盛な、創価学会顕正会正信会には、その絶対的確信、血脈への尊崇は「神話」「詐称」などと主張し一欠片もなく皆無であります。血脈の尊崇に大事な、大聖人の「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず」(法華経439)との滅不滅・常住此説法との御振舞を敬虔に拝することのできない、罪障と共存する「一切衆生 悉有仏性」との正因仏性はあるものの、平成時代から耳根得道を失うため縁因・了因仏性が具わらず成長が止まり有解無信な本未有善の組織となったのが創価学会顕正会正信会であり、御入滅あそばされた大聖人の尊い御振舞に確信が一切持てない失礼千万な衆生です。

 信仰の寸心を改めて、無始以来、本未有善の罪障を深く自覚され、仏意仏勅の教団などと、今世限りの境遇に自惚れている場合ではありません。隔生即忘し前世の罪障が災いして異流義化した現証に気が付くべきです。その前世の罪障が消滅できずに大聖人の御書を拝するため、余事が交わり歪んだ見解が生まれることを即刻さとるべきでしょう。そして、御法主上人猊下の御指南である善言を聞いて、悪言と思うことのないように厳に謹むべきです。

 最後に、大御本尊への絶対的確信は、総じての法華経の行者である法華講衆には大事であり、広布の戦士として、まずは心肝に染めるべき基本的な意識です。それがまさに、大聖人の御遺命である「血脈相承に随順せよ」です。そして、二大事である大御本尊と御法主上人猊下を外護申し上げる使命が、法華講衆には唯一あります。

 一年後には宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年を迎えます。その深く尊い因縁を強く固く自覚し、御命題の法華講員八十万人体勢構築を何としても達成すべきです。

 以上のことを心得て伝統の二月を法華講の皆さんは精進しましょう。

 

宗祖日蓮大聖人『日女御前御返事』に曰く、
「黄河(こうが)は千年に一度す(澄)むといへり。聖人は千年に一度出づるなり。仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼には値ふといへども法華経には値ひがたし。設(たと)ひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。」(御書1232)

 

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