正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(妙法蓮華経並開結 略要旨私考)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

無量義とは一法より生ず(無量義経)

法華経が説かれる瑞相(序品第一)

方便は真実を説くための手段(方便品第二)

譬喩を用いた教化育成を(譬喩品第三)

信じることで理解を深める「信解」(信解品第四)

妙法の力用は草木の薬となる(薬草喩品第五)

成仏を証明する「授記」(授記品第六)

化城即宝処(化城喩品第七)

悪酒に酔う人々の心に宝珠あり(五百弟子受記品第八)

学と無学について(授学無学人記品第九)

五種法師と衣座室の三軌(法師品第十)

七宝の塔が地から涌出する意義(見宝塔品第十一)

提婆達多は悪人成仏を示す(提婆達多品第十二)

我不愛身命 但惜無上道(勧持品第十三)

諸天昼夜 常為法故 而衛護之(安楽行品第十四)

上行菩薩を上首とする地涌の菩薩(従地涌出品第十五)

釈尊の本地が説かれる如来寿量品(如来寿量品第十六)

現在の四信と滅後の五品とは(分別功徳品第十七)

随喜と五十展転の功徳(随喜功徳品第十八)

六根清浄の功徳とは(法師功徳品第十九)

折伏は不軽菩薩の精神で(常不軽菩薩品第二十)

結要付嘱とは(如来神力品第二十一)

摩頂付嘱とは(嘱累品第二十二)

我滅度後 後五百歳中 広宣流布 於閻浮提(薬王菩薩本事品第二十三)

妙音とは自行化他に渡る御題目の声(妙音菩薩品第二十四)

経文に説かれる観音様の意味とは(観世音菩薩普門品第二十五)

陀羅尼とは南無妙法蓮華経(陀羅尼品第二十六)

外道を信仰している父を折伏する妻子(妙荘厳王本事品第二十七)

普賢菩薩の誓願(普賢菩薩勧発品第二十八)

五欲を離れずして六根清浄を得る(観普賢菩薩行法経)


無量義とは一法より生ず(無量義経)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 「無量義とは一法より生ず」(法華経19)とは、開経である『無量義経』の「説法品第二」に説かれています。その一法とは「法華経」であり、釈尊が説かれた無量義という全ての経文は、「法華経」から出ているのです。それが「無量義とは一法より生ず」ということです。
 無量義とは八万四千の法門を意味し、法門が膨大になる理由について釈尊は『無量義経』の「説法品第二」において、
「善男子、我先に道場菩提樹下に、端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす」(法華経23)
と説かれています。つまり、人には色々な性格があり、住んでいる環境がまちまちであるため、方便力を以って多くの法門を説き、成仏に向かわせたのであります。
 その『無量義経』の句の後に、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経23)
という有名な経文が説かれています。一法である「法華経」以外は、方便であり真実ではないと釈尊自らが説かれたところです。法華経以外を依経とする宗派には、矛盾が生まれる部分です。他宗派を信仰する人を、折伏する上で大事な文証となります。
 更に折伏では、『無量義経』の「説法品第二」に、
「方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども」(法華経26)
と説かれるように、法華経以外の方等十二部経では、即身成仏できないことを釈尊が説いています。つまり、法華経だけが唯一即身成仏を説く教えになります。他経では歴劫修行を説き、即身成仏を否定します。他宗派で説く即身成仏を破折する大事なところになります。
 『無量義経』は、「徳行品第一」(法華経1)「説法品第二」(法華経16)「十功徳品第三」(法華経31)から成っており、釈尊の真実の経典である『法華経』を説くための、大事な意義を持つ経です。
 『御義口伝』に「無量義経五箇の大事」(御書1796)が説かれており、「無量義」について御指南です。「第一 無量義経(むりょうぎきょう)徳行品(とくぎょうほん)第一の事」「第二 量(りょう)の字の事」「第三 義(ぎ)の字の事」「第四 処(しょ)の一字の事」「第五 無量義処(むりょうぎしょ)の事」という、『無量義経』に関する五つの大事なことを仰せです。その結びとなる『御義口伝』の一説に、
「然る間法華の為の序分開経なり」(御書1798)
と仰せになり、『無量義経』が説かれることで『法華経』が現れてくるのです。『無量義経』は非常に重要な意義を持つ経典であり、「無量義とは一法より生ず」ことになります。


法華経が説かれる瑞相(序品第一)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 日蓮大聖人は『瑞相御書』に、
「仏、法華経をと(説)かんとし給ふ時、五瑞六瑞をげん(現)じ給ふ。其の中に地動瑞(ちどうずい)と申すは大地六種に震動す」(御書918)
と仰せであります。法華経が説かれるときには、必ず瑞相があります。それが「序品第一(法華経55)」にあたり、様々な瑞相が説かれています。
 是くの如く我聞ききという「如是我聞」からはじまり、不思議な瑞相に弥勒菩薩が疑問を持ち、文殊師利菩薩が過去の経験上から、最高の仏法(法華経)が説かれる前兆であると答えます。
 その瑞相とは『星名五郎太郎殿御返事』に、
「法華には六瑞あり。所謂雨華地動(うけちどう)し、白毫相(びゃくごうそう)の光、上は有頂(うちょう)を極め下は阿鼻獄(あびごく)を照せる是なり。又多宝の塔大地より出で、分身(ふんじん)の諸仏十方より来たる。しかのみならず、上行等の菩薩の六万恒沙・五万・四万・三万、乃至一恒沙・半恒沙等大地よりわ(涌)きい(出)でし事」(御書365)
と「六瑞」を御指南です。この「六瑞」に「此土の六瑞」と「他土の六瑞」があります。
 「此土の六瑞」とは、説法瑞・入定瑞・雨華瑞・地動瑞・衆喜瑞・放光瑞です。
 「他土の六瑞」とは、見六趣瑞・見六諸仏瑞・聞諸仏説法瑞・見四衆得道瑞・見菩薩所行瑞・見仏涅槃瑞です。
 「此土の六瑞」と「他土の六瑞」は、如何に有り難い仏法が説かれるかを裏付ける現瑞であります。
 これらの瑞相をはじめて体験する弥勒菩薩等の大衆は問いを発し、文殊師利菩薩が答えの中で、過去無量無辺不可思議阿僧祇劫という久遠における日月燈明仏の説法化導を示し、今の釈迦仏の現瑞相が、燈明仏の現瑞と同じであることを説くのです。ここでは、秘かに本門の久遠実成の由来を説示しています。
 折伏では、「六瑞」とまでいかなくとも、瑞相に似た演出も時には必要であります。瑞相を示すことで、人々の感情に様々な執着心を解きほぐす作用があり、大事なことに集中させるときに有効です。教化育成にも相手の感情を操る手法が必要でしょう。「六瑞」は仏様の神通力です。
 『御義口伝』に「序品七箇の大事」(御書1720)が説かれており、「第一 如是我聞(にょぜがもん)の事」「第二 阿若・陳如(あにゃきょうじんにょ)の事」「第三 阿闍世王(あじゃせおう)の事」「第四 仏所護念(ぶっしょごねん)の事」「第五 下至(げし)阿鼻地獄(あびじごく)の事」「第六 導師何故(どうしがこ)の事」「第七 天鼓自然鳴(てんくじねんみょう)の事」という七つの大事が説かれています。日蓮大聖人が、久遠元初の自受用身の立場から「序品第一」について御教示されたところです。
 「序品第一」は、通じて法華経の総序であり、別しては迹門十四品の序分であるため、通序・別序と分けられます。
 「序品第一」での瑞相は、最高の文底下種仏法である御題目が説かれる上で非常に大事な意義を持つのです。


方便は真実を説くための手段(方便品第二)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 釈尊が説かれた仏法は、爾前権教において方便力を巧みに活用され、真実の仏法である法華経に導きます。そして記別を授け成仏させるわけです。
 私達が朝夕の勤行唱題で読誦する「方便品第二(法華経88)」は、迹門十四品の中心であり、重要な意義があります。「諸法実相」において理の一念三千が説かれ、全ての衆生が成仏できると理論的に説かれます。
 方便には、「法用方便」「能通方便」「秘妙方便」という三方便があります。これは天台大師が『法華文句』の三の巻に説かれます。日蓮大聖人は『三種教相事』に、
「方便品を釈するに三の方便有り。文句の三・四に釈せり。法用(ほうゆう)方便随他意の方便、体外の方便、他経能通(のうつう)方便随他意の方便、体外の方便、他経。秘妙(ひみょう)方便 随自の方便、法華の方便。亦体内の方便と云ふ」(御書70)
と三方便について御教示です。「法用方便」「能通方便」が、人の機根を中心とする随他意・体外の方便であり、「秘妙方便」が、仏様の立場が中心となる随自意・体内の方便であります。
 『御義口伝』に「方便品八箇の大事」(御書1725)が説かれています。「第一 方便品の事」「第二 諸仏智慧 甚深無量 其智慧門の事」「第三 唯以一大事因縁の事」「第四 五濁の事」「第五 比丘比丘尼 有懐増上慢 優婆塞我慢 優婆夷不信の事」「第六 如我等無異(にょがとうむい) 如我昔所願(にょがしゃくしょがん)の事」「第七 於諸菩薩中 正直捨方便の事」「第八 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道の事」という八つの大事です。
 その中で「第一 方便品の事」において、
「所詮謗法不信の人は体外(たいげ)の権(ごん)にして法用(ほうゆう)・能通(のうつう)の二種の方便なり。爰(ここ)を以て無二無別に非ざるなり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是(これ)秘妙方便にして体内なり。故に妙法蓮華経と題し、次に方便品と云へり。( 中 略 )謗法の人今之(これ)を知らざる故に之を秘と云ふ。( 中 略 )大謗法の人たりと云へども妙法蓮華経を受持し奉る処を妙法蓮華経方便品とは云ふなり。今末法に入って正しく日蓮等の類の事なり。妙法蓮華経の体内に爾前(にぜん)の人法を入るゝを妙法蓮華経方便品とは云ふなり」(御書1725)
と仰せです。仏様が説かれる方便力で一切衆生を誘引し、妙法を人々が受持することで、成仏できることを御指南であります。
 釈尊は「方便品第二」に、
「正直捨方便。但説無上道(正直に方便を捨てて 但無上道を説く)」(法華経124)
と説かれ、法華経は真実であり仏様の立場から説かれた本当に成仏できる教えであります。法華経以外は全て方便であり、法華経に導くための手段であったわけです。
 法華経では更に本門において、三大秘法の御本尊様が秘められており、この御本尊様に導くため、一度人々の立場を主体に考えて方便を説かれたのです。それが「三方便」という「法用方便」「能通方便」「秘妙方便」となります。
 真実の仏法は、方便を捨てたところにあり、そこに歴劫修行ではない即身成仏があります。日蓮正宗では「方便品第二」を読誦するのは、「所破」「借文」という意義があり、爾前権教を破し、方便力を使って真実の法門に入らせる「開示悟入」という意味があります。故に、勤行唱題では「方便品第二」を読誦することが大切なのであります。


譬喩を用いた教化育成を(譬喩品第三)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 法華経には譬喩が盛りこまれ、難解な法門を弟子が理解するように釈尊は説かれます。「譬喩品第三(法華経128)」では、「三車火宅の譬え」が説かれ、大白牛車という最高の乗り物において、成仏することを諭していきます。
 「三車火宅の譬え」とは、長者の家が火事になった時、中にいる子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、外に出ようとしません。そこで長者は、子供たちのほしがっていた羊車・鹿車・牛車の三車を門外に用意したといい、子供たちを救い出し、その後にもっと立派な大白牛車を与えました。
 長者は仏で、火宅(火事の家)は三界となる、迷い多き六道輪回の世界、子供たちは一切衆生に譬えられ、羊車・鹿車・牛車の三車は声聞・縁覚・菩薩の三乗の教え、大白牛車は法華真実の教えを譬えています。
 日蓮大聖人は『三車四車事』に、
  「三車・四車  
  ひつじのくるま 羊車(ようしゃ)しゃうもんにたとう あごんぎゃう
  しかのくるま  鹿車(ろくしゃ)えんがくにたとう
  うしのくるま  牛車(ごしゃ)ぼさつにたとう 華厳・方等・般若
  をヽきにしろきうしのくるま 大白牛車(だいびゃくごしゃ) 法華経」(御書1210)
と御教示であります。日蓮正宗を信心すれば、立派な大白牛車に乗れますが、他宗の信仰では大白牛車より劣る羊・鹿・牛に乗ることになるのです。現代においては、更に進化していますので飛行機や新幹線に譬え、信心を促していきます。
 信心を知らない多くの人は、仏様が説かれる随自意の教えに、理解できない部分があります。このところを回避するのが「譬喩」です。
 「譬喩」は、その人が生活の中で縁する事柄を、上手に活用することが大事です。法華経に説かれる「七譬」は、その一例です。「譬喩」の応用は、私達が生活の中で経験する、全ての出来事にあり、信心を理解させる「譬喩」に活かされます。つまり、信心をしての体験談が、難しい御法門を理解させるための大切な「譬喩」になります。
 『御義口伝』に、「譬喩品九箇の大事」(御書1733)が説かれております。「第一 譬喩品の事」「第二 即起合掌の事」「第三 身意泰然快得安穏の事」「第四 得仏法分の事」「第五 而自廻転の事」「第六 一時倶作の事」「第七 以譬喩得解の事」「第八 唯有一門の事」「第九 今此三界等の事」という九つの大事です。
 「譬喩品第三」では「十四誹謗」(法華経157)についても説かれ、法華経を信じない者は阿鼻地獄である無間地獄に堕ちることを示されます。「十四誹謗」とは『松野殿御返事』に、
「有る人此を分かって云はく『先に悪因を列(つら)ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に鎬慢(きょうまん)・二に懈怠(けだい)・三に計我(けいが)・四に浅識(せんしき)・五に著欲(じゃくよく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰蹙(ひんじゅく)・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善(きょうぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり』と。此の十四の誹謗は在家出家に亘(わた)るべし。恐るべし恐るべし」(御書1046)
と仰せです。信心では「十四誹謗」を恐れながら修行することが大事です。


信じることで理解を深める「信解」(信解品第四)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 信心は、信じることにより理解することが出来、疑うところには仏法を正しく理解することが出来ません。
 『涅槃経』には、「信解四句分別」という信と解の関係を、四種に分別しています。信而不解(しんにふげ)・解而不信(げにふしん)・亦信亦解(やくしんやくげ)・非信非解(ひしんひげ)という四つです。
 信而不解とは、法を聞いて信ずるけれどもその義を了解しないこと。解而不信とは、理解はするが信じないこと。亦信亦解とは、法を信じ、かつ領解すること。非信非解とは、信じもせず理解もしないことです。
 更に日蓮大聖人は『顕謗法抄』に、
「四句あり。一に信而不解(しんにふげ)、二に解而不信(げにふしん)、三に亦信亦解(やくしんやくげ)、四に非信非解(ひしんひげ)。問うて云はく、信而不解の者は謗法なるか。答へて云はく、法華経に云はく『信を以て入ることを得(法華経175)』等云云」(御書290)
と「信解四句分別」について、以上の御指南の後に詳しく説かれます。
 『法華経』において「信解品第四」(法華経185)が説かれており、『御義口伝』では「信解品六箇の大事」(御書1737)があります。「第一 信解品の事」「第二 捨父逃逝の事」「第三 加復窮困の事」「第四 心懐悔恨の事」「第五 無上宝聚不求自得の事」「第六 世尊大恩の事」の六つの大事です。
 そのなかの「第一 信解品の事」に、
「御義口伝に云はく、法華一部二十八品の題号の中、信解の題号此の品に之(これ)有り。一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は元品(がんぽん)の無明を切る所の利剣なり。其の故は、信は無疑曰信(むぎわっしん)とて疑惑を断破(だんぱ)する利剣なり。解とは智慧の異名なり。信は価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。信は智慧の因にして名字即なり。信の外に解無く、解の外に信無し。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚(むじょうほうじゅ)不求自得(ふぐじとく)の大宝珠を得るなり。信は智慧の種なり、不信は堕獄の因なり」(御書1737)
と御教示であります。理解を得るには信じることが何に大事であるか、説かれているのです。信じることで、迷いを断ち、無上の宝聚を得られるのです。
 「信解品第四」では、「長者窮子の譬え」が説かれています。「長者窮子の譬え」とは、長者の子供が幼い時に家出し、長い間、他国を流浪し困窮したあげく、父の城にたどり着きます。一見して、それが我が子であることを知った長者は、窮子を掃除夫として雇い入れ、後に財産の管理を任せました。やがて臨終を前にした長者は、窮子に実の子であることを明して、財宝の一切を譲り渡しました。長者とは仏、窮子とは衆生に譬えられ、一切衆生は仏の化導によって、仏子であることを自覚し、成仏の大益を得ることができるのであります。
 「長者窮子の譬え」では、巧みに種熟脱の三時を五時にわたって説叙して、領解のままをのべて説いています。大通下種からはじまり、熟益を経て、擬宜・誘引・弾呵・淘汰・開会して脱益し、一連の流れを「長者窮子の譬え」を用い信解を促しています。


妙法の力用は草木の薬となる(薬草喩品第五)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 草木は環境を意味し、私達人間の行い如何で草木の存命を大きく左右します。私達が、御本尊様を受持し御題目を唱えれば、草木が一番住みよい環境を作り出すことが出来ます。
 多くの人が信心をしないために、環境破壊が進行しています。環境破壊を根本から止めるには、日蓮大聖人の教えに随順し、実行する以外にありません。
 実行すれば、どのような功徳があるのか『法華経』の「薬草喩品第五」に、  
「現世安穏。後生善処。(現世安穏にして後に善処に生じ)」(法華経217)
と釈尊が説かれています。つまり、環境破壊を食い止められることを説かれています。草木の育つ世界を安穏にし、更に未来生まれてくる草木を、善い環境に生じさせることが出来ます。
 私達も信心を真面目に行えば、必ず安穏な生活を得て、未来には善い処に生まれることが約束されます。それが「現世安穏にして後に善処に生じ」ということです。
 「薬草喩品第五」には、「三草二木の譬え」があります。故に、
「雖一地所生。一雨所潤。而諸草木。各有差別。(一地の所生、一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木に、各差別有り)」(法華経215)
と説かれるように、実相一味の法が、機によって三乗五乗と分かれることを示されています。
 「三草二木の譬え」の内容が、大地に生える草木は、それぞれの種類や大小によって異なりがありますが、大雲が起こり慈雨が降り注がれると、すべての草木は平等に潤います。
 大雲とは仏、慈雨とは教法、草木は一切衆生に譬えられ、衆生は機根に応じて一仏乗の法を二にも三にも聞くが、仏は大慈悲をもって実相一味の法を衆生に施し、利益を与えるのであります。つまり、妙法の功徳は一切衆生に対し、平等に与えられるのです。ただし信心をしなければなりません。
 その方法が「薬草喩品第五」に、
  「如説修行(説の如く修行する)」(法華経218)
と説かれるように、経典に説かれる如く修行することです。そこに妙法の有り難い功徳に浴することが出来るのです。修行をすることで「薬」を飲むことが出来、「現世安穏 後生善処」の功徳を得ていくのであります。
 『御義口伝』には「薬草喩品五箇の大事」(御書1741)が説かれ、「第一 薬草喩品の事」「第二 此の品述成段の事」「第三 雖一地所生一雨所潤等の事」「第四 破有法王出現世間の事」「第五 我観一切普皆平等無有彼此愛憎之心我無貪著亦無限碍の事」という五つについて仰せです。
 『御義口伝』に、
「御義口伝に云はく、法華の心を信ずるは種なり。諸法実相の内証に入れば仏果を成ずるなり。薬とは九界の衆生の心法なり。其の故は権教の心は毒草なり。法華に値(あ)ひぬれば三毒の煩悩の心地を三身(じん)果満(かまん)の種なりと開覚するを薬とは云ふなり。今日蓮等の類(たぐい)妙法の薬を煩悩の草に受くるなり。煩悩即菩提・生死即涅槃と覚らしむるを喩(ゆ)と云ふなり。釈に云はく『喩とは暁訓(ぎょうくん)なり』と。薬草喩(やくそうゆ)とは我等行者の事なり」(御書1741)
と御指南であります。つまり妙法の力用が草木の薬となり、当然私達にも有り難い、三毒を取り除く良薬になるということです。毎日の勤行唱題にその働きがあります。


成仏を証明する「授記」(授記品第六)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 『法華経』において、成仏の証明となる「授記」が成されます。つまり、爾前権教にはない、声聞と縁覚の「二乗作仏」が説かれます。
 授は与える義、受は得くる義、記は事を記すということで、すなわち成仏の事を記すので、仏意によれば授記、機情によれば受記となります。
 また、行因・得果・劫国・仏寿・正像・国浄の六事を分別するため「記別」ともいいます。
 私達、日蓮正宗を信心するものには、一生成仏を全うし、命終において通夜葬儀の時に「戒名」を頂くことで、成仏の証明「授記」が成されます。
 「授記」については、『法華経』の「授記品第六」(法華経229)に説かれます。『御義口伝』には、「授記品四箇の大事」(御書1743)が説かれ、「第一 授記の事」「第二 迦葉光明の事」「第三 捨是身已の事」「第四 宿世因縁吾今当説の事」という四つの大事について仰せです。
 『御義口伝』には、
「第一 授記(じゅき)の事、文句の七に云はく『授は是(これ)与の義なり』と。
 御義口伝に云はく、記とは南無妙法蓮華経なり、授とは日本国の一切衆生なり。不信の者には授けざるなり、又之(これ)を受けざるなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経の記を受くるなり。又云はく、授記とは法界の授記なり。地獄の授記は悪因なれば悪業の授記を罪人に授くるなり。余は之に准じて知るべきなり。生の記有れば必ず死す、死の記あれば又生ず、三世常恒の授記なり。所詮中根の四大声聞とは我等が生老病死の四相なり。迦葉(かしょう)は生の相、迦旃延(かせんねん)は老の相、目連(もくれん)は病の相、須菩提(しゅぼだい)は死の相なり。法華に来たりて生老病死の四相を四大声聞と顕はしたり。是即ち八相作仏なり。諸法実相の振る舞ひなりと記を授くるなり。妙法の授記なるが故に法界の授記なり、蓮華の授記なるが故に法界清浄なり、経の授記なるが故に衆生の語言音声三世常恒の授記なり。唯一言に授記すべき南無妙法蓮華経なり云云。」(御書1743)
と御指南であります。御本尊様を受持し御題目を唱えなければ、「授記」はないのです。つまり、日蓮正宗で信心をしなければ本当の成仏はありません。
 『法華経』の説かれる具体的な「授記」は、釈尊の弟子への記馥があります。智慧第一の舎利弗は「譬喩品第三」において華光如来、頭陀第一の迦葉は「授記品第六」において光明如来、多聞第一の阿難は「授学無学人記品第九」において山海慧自在通王如来、解空第一の須菩提は「授記品第六」において名相如来、説法第一の富楼那は「五百弟子受記品第八」において法明如来、神通第一の目連は「授記品第六」において多摩羅跋栴檀香如来、論議第一の迦旃延は「授記品第六」において閻浮那提金光如来、天眼第一の阿那律は「五百弟子受記品第八」において普明如来、密行第一の羅睺羅は「授学無学人記品第九」において蹈七宝華如来という記別を釈尊より受けています。
 私達も一生成仏を目指すところ、成仏の証明が頂けるのであります。


化城即宝処 (化城喩品第七)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 「化城即宝処」とは、『法華経』の「化城喩品第七」(法華経245)に説かれる法門です。仮の真理として説かれた化城(三乗)が、そのまま宝処(究極の真理である一仏乗)にほかならないということです。そのことを解り易く説明されたのが、七譬の一つ「化城喩品第七」に説かれる「化城宝処の譬え」になります。
 化城宝処の譬えとは、宝処に向かって五百由旬の遠い路を旅する人々がいましたが、途中、険路が続いて皆疲れ切ってしまいました。その時、一人の導師が三百由旬を過ぎたところに方便力で化城をつくり、人々を休息させたのです。しかし、人々がそこに満足しているのを見た導師は、この城が仮の城であることを教えて、人々を真の宝処に導きました。
 導師は仏、化城は二乗の涅槃、宝処は法華経の一仏乗に譬えられ、仏の化導によって二乗の衆生が一仏乗の境界にいたることを説います。これが「化城宝処の譬え」です。
 「開三顕一」の哲理を譬えたもの、「化城即宝処」とは、無常即常住・九界即仏界・生死即涅槃を意味します。
 「化城」とは、現実的に考えた場合、一時的な目先の目標です。教化育成においては、高い目標を掲げる前に、化城的な役割をなす、成し遂げやすい目標を立てることが大事です。着実に物事を成功させる要素にもなるわけであります。そして、最終的な大目標となる「宝処」を得ることが出来ます。それが「化城即宝処」であります。
 私達が生きていく、人生の設計に於いても「化城即宝処」の応用が出来、非常に大事なことです。
 「化城喩品第七」に、
「宝処在近。此城非実。我化作耳。(宝処は近きに在り、此の城は実に非ず。我が化作ならく耳)」(法華経281)
と説かれています。故に、爾前権教は実ではなく、法華経が「宝処」であることを促しています。
 『御義口伝』に、「化城喩品七箇の大事」(御書1745)が説かれています。「第一 化城の事」「第二 大通智勝仏の事」「第三 諸母涕泣の事」「第四 其祖転輪聖王の事」「第五 十六王子の事」「第六 即滅化城の事」「第七 皆共至宝処の事」という七つの大事です。
 「第一 化城の事」には、
「御義口伝に云はく、化とは色法(しきほう)なり、城とは心法(しんぽう)なり。此の色心二法を無常と説くは権教の心なり。法華経の意(こころ)は無常を常住と説くなり。化城即宝処なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、色心を妙法と開くを化城即宝処と云ふなり。十界皆化城、十界各々宝処なり。化城は九界なり、宝処は仏界なり。化城を去って宝処に至ると云ふは五百由旬(ゆじゅん)の間なり。此の五百由旬とは見思・塵沙・無明なり。此の煩悩の五百由旬を妙法の五字と開くを化城即宝処と云ふなり。化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり。」(御書1745)
と仰せであります。「化城即宝処」とは、御本尊様に御題目を唱える勤行唱題にあります。自行においては、成仏を目指す上での用法を説かれ、化他行於いては、「化城」が爾前権教であることを諭し、「宝処」が法華経であると折伏することであります。


悪酒に酔う人々の心に宝珠あり(五百弟子受記品第八)

2005-11-15 | 妙法蓮華経並開結 略要旨私考

 『法華経』の「五百弟子受記品第八」(法華経290)に「貧人繋珠の譬え」があります。貧人繋珠の譬えとは、ある男が親友の家で酒に酔って眠ってしまいました。親友は外出するので、眠っている男の衣服の裏に無価の宝珠を縫いこんで出かけました。男はそれとも知らずに、他国を流浪し、少しの収入で満足していました。再び親友と出会った時、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、無価の宝珠を得ることができたのです。
 酒に酔って眠った男とは声聞、親友とは仏に譬えられ、小乗の悟りに満足する愚かな衆生が、仏の真実の教えを知って、はじめて成仏の大利益を得ることを説いています。
 世の中の信心を知らない多くの人々は、心の中に無価の宝珠があることを知らずに、様々な苦悩に喘ぎ、人生に息詰まっています。御本尊様を受持し御題目を唱えることで、悪酒の酔いから覚め、有り難い宝珠に気付くのであります。
 「五百弟子受記品第八」では、物忘れの激しい「須利槃特」が普明如来の記鱧を受けています。物忘れで悩む方は、御本尊様を受持し御題目を唱えれば、物忘れが解消され、必ず成仏するのです。教化育成で教える大事なところでしょう。
 『御義口伝』には、「五百弟子品三箇の大事」(御書1747)が説かれており、「第一 衣裏の事」「第二 酔酒而臥の事」「第三 身心遍歓喜の事」という三つの大事について仰せです。
 「第一 衣裏(えり)の事」では、
「御義口伝に云はく、此の品には無価(むげ)の宝珠を衣裏(えり)に繋(か)くる事を説くなり。所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、一乗妙法の智宝(ちほう)を信受するなり。信心を以て衣裏にかくと云ふなり。」(御書1747)
と仰せであります。「第二 酔酒而臥(すいしゅにが)の事」には、
「御義口伝に云はく、酒とは無明なり。無明は謗法なり。臥とは謗法の家に生まるゝ事なり。三千塵点の当初に悪縁の酒を呑みて五道六道に酔ひ廻(めぐ)りて今謗法の家に臥したり。酔とは不信なり、覚とは信なり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る時無明の酒醒(さ)めたり。又云はく、酒に重々之有り。権教は酒、法華経は醒めたり。本迹相対する時迹門は酒なり、始覚の故なり。本門は醒めたり、本覚の故なり。又本迹二門は酒なり。南無妙法蓮華経は醒めたり。酒と醒むると相離れざるなり。酒は無明なり、醒むるは法性なり。法は酒なり、妙は醒めたり。妙法と唱ふれば無明法性体一なり。止の一に云はく『無明塵労即ち是菩提なり』と。」(御書1747)
と「悪酒」について御指南です。更に「悪酒」から目覚める方法を仰せなのであります。謗法の家には、「悪酒」が蔓延しており、悪道へ導く縁が蠢(うごめ)いています。生活の中では、謗法の「悪酒」に紛動されないように精進することが大事です。
 「悪酒」に酔っている人でも、正信に目覚めて信心に住すれば、御本尊様から「宝珠」を得て、安穏な生活を送ることが出来るのです。