昭和三十九年五月に行われた第二十七回本部総会において、池田は正本堂の建立寄進を打ち出しました。
昭和四十七年十月に正本堂が建立されるに当たり、池田はいまだ広宣流布が達成されていないにもかかわらず、自分がそれを達成したという慢心を起こして、正本堂を「日蓮大聖人御遺命の戒壇」であると主張し、それを認め
させようと宗門に迫りました。しかし時の御法主日達上人はそれを拒否し、『訓諭』をもって、「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」と、創価学会による広布進展の功績を正本堂の意義に含めたうえで、正本堂を、広布途上における本門戒壇の大御本尊を御安置する殿堂と意義づけられました。
この日達上人の御指南に承伏できなかった池田は、宗門に対する反感を強める一方、「日蓮大聖人ご遺命の事の戒壇堂を自分が建立したのだ」、という慢心を増長させ、昭和五十二年の教義逸脱問題を引き起こすことになるのです。
池田は、正本堂建立を機に宗門に根強い反感を抱くと同時に、「学会は主、宗門は従」との本末転倒の考えをもとに、宗門支配を画策し、宗門に対してさまざまな圧力を加え始めました。
昭和五十二年には、学会に批判的な僧侶に対する吊るし上げを次々と行い、公然と宗門批判・僧侶否定の指導をするようになりました。
このように創価学会は、日蓮正宗の教義信仰から次第に逸脱し、ついには御法主上人の許しを得ることなく、紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に模刻するという大謗法を犯すに至りました。これがいわゆる創価学会の「五十二年教義逸脱問題」です。このときの教義逸脱の主なものは、
○創価仏法の原点は、戸田会長の獄中の悟達にある
○途中の人師論師は無用である(唯授一人の血脈否定)
○『人間革命』は現代の御書である
○池田会長は主師親三徳具備の大導師である
○寺院は単なる儀式の場、会館は広布の道場である
○供養は在家でも受けられる
などです。
なお、当時、創価学会が宗門支配、もしくは分離独立をひそかに画策していた事実は、側近幹部が池田へ提出した次の報告書に明らかです。
『山崎・八尋文書』(昭和四十九年四月)
「一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、(中略)いつでも清算できるようにしておく方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です」
『北条文書』(昭和四十九年六月)
「長期的に見れば、うまくわかれる以外ないと思う」
「やる時が来たら徹底的に斗いたいと思います」
創価学会の数々の逸脱行為に対し、宗門僧侶を中心として学会批判の声が全国的に広がり、脱会者が続出しました。池田はこのままでは創価学会の崩壊につながると危惧し、日達上人に謝罪して事態の収束を願い出ました。
そして昭和五十三年六月三十日、創価学会は聖教新聞に「教学上の基本問題について」と題して、教義逸脱に関する訂正文を掲載しました。しかし、その内容は不明瞭で、会長である池田大作の責任を明らかにするものではありませんでした。
さらにこのころ、創価学会による本尊模刻問題が発覚し、同年九月二十八日、学会は急きょ、七体の模刻本尊を総本山に納めました。
これらのことで、窮地に追い込まれた学会は、同年十一月七日、総本山において、幹部二千名による「創価学会創立四十八周年記念代表幹部会」(通称お詫び登山)を開催し、謝罪の意を表明しました。
しかし実際には、その逸脱は何ら改められず、宗内から池田大作の責任を問う声があがったため、池田は昭和五十四年四月二十四日に創価学会会長を、同月二十六日には法華講総講頭をそれぞれ辞任しました。
これを受けて日達上人は、同年五月三日、本部総会の席上、「創価学会が日蓮正宗の信徒団体としての基本を、今後忠実に守ること」を条件としたうえで、学会問題の収束を宣言されました。
池田の辞任後、第四代会長には北条浩が就任し、昭和五十六年には第五代会長に秋谷栄之助が就任しています。
第一章 十一、今回の「創価学会問題」はどのようにして起こったのか
昭和五十九年、御当代日顕上人は、大石寺開創七百年を記念して二百カ寺の建立寄進を願い出た池田大作の反省の心を汲まれ、池田を法華講総講頭に再任されました。
その後、池田大作は宗門への恭順を装っていましたが、平成二年十一月十六日、ついに増上慢の本性を露わにして、全国の学会員に対し衛星放送をとおして、法主誹謗と宗門蔑視のスピーチを行いました。その内容は、
「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません」
(第三十五回本部幹部会スピーチ)
「五〇周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ…」(同)
というもので、これは昭和五十三年の「お詫び登山」における反省懺悔を反故にする、法華講総講頭にあるまじき発言です。
これに対して宗門は、平成二年十二月十三日、学会との「連絡会議」の席上、「お尋ね」文書をもって池田スピーチの真意を確かめようとしましたが、学会側はこの文書の受け取りを拒否しました。そのために宗門は同月十六日、同文書を学会本部に送付しましたが、これに対して学会は、誠意ある回答を示すどころか、かえって敵意を露わにした「お伺い」と称する詰問書を送りつけてきたのです。
このような経過のなかで、宗門は同年十二月二十七日に宗会を開き、かねてからの懸案であった、法華講本部役員の任期に関する「日蓮正宗宗規」の一部改正を行い、これにより池田をはじめとする総講頭・大講頭は、その資格を喪失しました。
第一章 十二、「創価学会問題」の実状と創価学会の破門に至る経緯について
平成三年の初頭から創価学会は、全組織を挙げて御法主上人や宗門への誹謗・中傷やいやがらせを開始し、日蓮正宗の信仰の命脈である下種三宝や血脈相伝の否定、創価学会が独自で始めた友人葬の執行など、日蓮正宗の化儀・化法から大きく逸脱する謗法を犯すようになりました。
これに対して宗門は、日蓮正宗本来の信仰姿勢に立ち返るよう訓戒を重ねましたが、創価学会はまったくこれを聞き入れず、さらに誹謗を繰り返したのです。
そこで宗門は、平成三年三月に、これまでSGI(創価学会インタナショナル)に委任してきた海外信徒の指導を宗門が直接行うこととし、また同年七月には、創価学会組織を通じて許可してきた総本山への登山方式を、所属寺院による「添書登山」方式に切り替えました。
謗法行為を重ねる創価学会に対し、同年十月、宗門は「通告文」を送って強く反省を促しましたが、学会はこれを聞き入れず、御法主上人及び宗門への誹謗・中傷を繰り返したため、宗門は十一月七日、創価学会に対して「解散勧告」を行いました。しかし、学会がこれを無視して、宗門に対する悪口雑言をエスカレートさせたため、十一月二十八日、創価学会を破門に付したのです。
さらに宗門は、その実質的責任者である池田大作に対し、弁疏の機会を与えましたが、それに対し何らの返答もないため、平成四年八月十一日、池田を信徒除名処分に付しました。
このときの処置は、あくまでも創価学会組織と責任者である池田大作に対するものであり、個々の会員を日蓮正宗から排除するものではありませんでした。
第一章 十三、創価学会員が日蓮正宗の信徒資格を喪失した経緯について
宗門から破門された創価学会は、池田大作の信徒除名処分以降も、さまざまな謗法を重ね、平成五年十月には、ついに『ニセ本尊』を作製し販売するという、仏法の根幹にかかわる大謗法を犯すに至ったのです。
これらの状況のなかで、宗門は平成九年九月三十日、「宗規」の一部改正を行い、「本宗の檀信徒が本宗以外の宗教団体に所属したときは、その資格を喪失し除籍される」という規定を設けました。
これを受けて、宗門は創価学会員に対して二カ月間の猶予を設け、平成九年十一月三十日を期限として、創価学会に籍を置く者は信徒資格を喪失する旨を通告しました。
このような経緯を経て、創価学会に所属する会員は日蓮正宗信徒の資格を喪失するに至りました。
こうして創価学会は、組織も会員もともに、日蓮正宗とはまったく無関係の団体となったのです。
第二章 一、創価学会のすばらしさは外部の人にはわからない
あなたは創価学会がすばらしいといいますが、何をもってすばらしいと判断するのでしょうか。
あなたが「すばらしい」という創価学会に嫌気がさして、創価学会を脱会する人が大勢いるのです。その人たちのすべてが、「創価学会の中にいるときは気づかなかったが、脱会してみると、創価学会がいかに異常な集団であり、間違った集団であったかがよくわかった」といっています。このことは、あたかも自分の背中は他人にしか見えないように、創価学会の外に出て、初めて創価学会の実態を正しく認識することができるということです。
創価学会は、日蓮正宗の信仰に背反しており、仏法のうえでは明らかに間違っています。
また世間的に見ても、創価学会は敵対者に対する瞋り・憎悪・怨念の心を会員に植えつけて攻撃させるなど、非人道的な悪しき集団となっています。
したがって、そこに所属する会員は、大謗法の悪業を積むことはもちろんのこと、人間としての道にも反する大きな罪を犯しているのです。
その創価学会を「すばらしい」「正しい」などと思い込んでいるあなたは、創価学会のたくみなマインドコントロールにかかっていることを知るべきです。
あなたが、学会と運命を共にすると決めたのは、仏法の道理や正邪によるのではなく、偏った情報や思い込みによるのではありませんか。
あなたが執着している創価学会では、「日蓮大聖人の御精神を実践する」「大聖人の教えを広宣流布する」という言葉をさかんにいいますが、信仰の根本となる末法の御本仏日蓮大聖人の仏法の実体はありません。
すなわち、日蓮大聖人の仏法の根幹である本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈が創価学会にはないのです。しかも創価学会は、自らの非を覆い隠すために、日蓮大聖人の仏法を正しく受け継いでいる日蓮正宗を、あらゆる悪口雑言をもって罵っています。このような集団が、人々を成仏に導く清浄で正しい宗教であるはずがありません。
あなたは、仏法の正邪を深く考えることなく、「学会と運命を共にする」「思い切った」と決めつけていますが、あなたが安穏な成仏の境界を味わうのか、それとも業火に焼き焦がされる地獄の苦しみを味わうのか、この大きな違いをよくかみしめ、今一度、冷静に考えてみるべきです。
ちなみに、『聖人御難事』には、
「たゞ一えんにをもい切れ」(御書一三九八㌻)
という御文がありますが、これは「見境なく思い切ってしまえばよい」という意味ではありません。それは、この御文の前段に、
「我等現には此の大難に値ふとも後生は仏になりなん」(御書一三九七㌻)
とあるように、いかなる法難に遭っても、即身成仏の正法を迷うことなく信仰し貫くことを教えられたものなのです。
創価学会員のほとんどが、あなたのような考えで凝り固まっています。特に、創価学会員の家に生まれて、幼い頃から「学会こそ絶対」との教育を受けて育った人や、若い頃から学会に身を置いて「池田先生こそ最高の指導者」などと教えられてきた人が、あなたのような考えをもっているのです。
〈役職の魅力〉
創価学会の幹部は、口では「役職などは信心と関係ない」といいながら、本心では「幹部になると末端会員を指導できる」「幹部は会員から尊敬され、羨望の眼差しで見られる」などの役職の魅力にとらわれて、「学会こそ、わが生きがい」と感じている人が多いのは事実です。
〈精神的閉鎖集団の共同意識と思い込み〉
「世間の人とのつき合いには気を遣うが、学会員同士ならば『先生』の一言で同じ認識を共有できるから、創価学会の組織は居心地がよい」と思う人も多いでしょう。
また、多くの学会員が「権威と闘う創価学会」「世界平和に貢献する創価学会」などのスローガンを、自分の信念そのものと思い込んでいます。
このような現象は、創価学会だけに見られるものではありません。オウム真理教の例を引くまでもなく、新興宗教のほとんどの信者が、「教団の中がもっとも居心地がよい」「教祖様こそ人生のすべて」と思っています。このような偏った「共同意識」や「思い込み」は、精神的閉鎖集団によく見られるものです。
〈マインドコントロールによる幻想〉
マインドコントロールの大きな特徴は、教団や集団によって誘導されているにもかかわらず、信者はあたかも自分の意志によって判断し、行動しているかのように錯覚していることにあります。
こうしたマインドコントロールは、一つのことを何遍も繰り返す「繰り返し効果」によってもたらされ、一種の催眠状態にあるといわれています。
人間は、自分の頭で考え、自らの意志で行動することが本来の姿なのですから、マインドコントロールされている人や催眠術にかかっている人は、人間の尊厳を自ら放棄しているともいえます。したがって、催眠状態にある人が、いかに「自分は幸福だ」といっても、それは幻想からくる思い込みにすぎないのです。
「創価学会こそ人生のすべて」などといって、創価学会の主張を何の疑いもなく鵜のみにし、それを自分の信念であると思いこんでいるあなたは、まさに池田創価学会にマインドコントロールされているというべきです。
一度しかないあなたの人生を、より価値あるものとするためにも、今までの偏った先入観を捨てて、日蓮大聖人の仏法の原点をよく考えてみるべきです。
第二章 四、若い頃から「広宣流布」のために闘ってきた。創価学会をやめることは、今までの人生を否定することになる
創価学会は、昭和十二年の発足以来、平成三年までの約五十年間、日蓮正宗の信徒団体として日蓮大聖人の仏法を宣揚し、広宣流布をめざす折伏布教に大きな成果を挙げました。これは、多くの学会員が広宣流布の実現をめざして、昼夜の別なく折伏に尽力してきたことによるものであり、この仏道精進によって個々の会員は大きな功徳を受けることができたのです。
しかし、平成二年の池田スピーチに端を発した創価学会の宗門への背反行為と、それを改めない池田の執念にもとづく指導に盲従したことによって、創価学会に所属する者はすべて日蓮正宗の信徒ではなくなりました。このことは、宗門にとっても、広宣流布のために努力してきた学会員にとっても、じつに不幸な結果となりました。
「若い頃から広宣流布のために闘ってきた」というあなたは、長い間すべてをなげうって信心に励んできたものと思います。しかし、あなたがめざした「広宣流布」とは、日蓮大聖人の正法をもって不幸な人々を救っていくことであって、創価学会組織の拡大とか、自分の名誉のためのものではなかったはずです。
第二十六世日寛上人は、『撰時抄愚記』に、
「今末法に於ては、必ず応に文底深秘の大法広宣流布すべし(中略)文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり」(文段二八九㌻)
「此の本尊は広布の根源なり」(同二九〇㌻)
と仰せられ、広宣流布とは本門戒壇の大御本尊を弘宣することであり、この大御本尊こそ、広宣流布の根源であることを明白に御教示されています。
いうまでもなく、本門戒壇の大御本尊は御歴代上人によって、日蓮正宗総本山大石寺に厳然と護持伝承されているのです。すなわち、日蓮正宗を離れて真の広宣流布はあり得ないのですから、広宣流布のために生きてきたあなたにとって、日蓮正宗から離れることは、自分の人生を否定することになるのです。
第二祖日興上人の御在世当時、佐渡の信徒の中に、「自分は日蓮大聖人の直々の弟子だ」と名乗る人や、血脈の大事を知らずして、日興上人以外の人を師匠とする人がいました。
日興上人はこれらの信徒に対して、
「この法門は、師弟子をたゞして仏になり候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に墜ち候なり」(歴全一―一八三㌻)
と御教示されています。
この御文は、同じ南無妙法蓮華経を唱えたとしても、唯授一人の血脈を所持される日興上人を師匠として、その御教導に従わなければ、無間地獄に墜ちることは疑いないと厳しく戒められたものです。
あなたは、以前には日蓮正宗の信徒として信仰に励んでいたでしょうが、現在の創価学会は日蓮大聖人以来の血脈を否定し、数々の謗法を犯して日蓮正宗の教義信仰に背く邪宗教になり果てました。まさしく師弟子の道に狂った教団になったのです。
したがって、あなたがいかに総本山の大御本尊を心に念じて勤行をしても、それは正しい師弟相対の信心ではなく、信心の血脈が流れていないのですから、功徳がないばかりか、かえって堕地獄の現罰を被ることになるのです。
①「宗門は学会を利用するだけ利用して切った」
あなたは、何をさして「宗門が学会を利用した」というのでしょうか。
学会員の言い分の主なものとしては、
○学会員一人ひとりが御供養をすることによって正法興隆に寄与してきた
こと
○学会員が身をもって総本山や末寺に協力してきたこと
○創価学会が、組織力や政治力をもって宗門や寺院の維持発展に寄与して
きたこと
などを創価学会の功績として挙げることでしょう。しかし、これらの宗門への寄与や協力は信徒としての仏道修行であり、本来あるべき姿なのです。戸田会長は、昭和二十九年十二月に、当時の学会員に対して、
「信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山へ尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない」(戸田城聖全集四―二三七㌻)
と指導しています。
創価学会員に功徳があったのは、学会員が信仰する日蓮正宗の教えが正しいものであり、学会員の御供養精神が清純なものであったからにほかなりません。
学会員が成仏を願い、幸せを願って御本尊へ御供養し奉仕した真心は、必ず本人の福徳となり、その功績は正法の興隆に立派に役立ったのです。
今になって宗門を「我々の真心を踏みにじった御供養泥棒」などと誹謗するのは、自らの福運を無にするばかりか、さらには大きな罪を作ることになります。
また創価学会では、「学会が苦労して折伏した会員を、宗門が甘言をもって脱会させ、寺の信徒としている」といって、宗門を「信者泥棒」呼ばわりしています。しかし、破門以前の創価学会員はすべて日蓮正宗の信徒だったのです。まして、現在のような三宝破壊の謗法集団にとらわれている会員を救い出すために、宗門が折伏の手を差し伸べるのは当然のことです。
謗法の集団から正法に導くことを「泥棒」呼ばわりするなどは、全く的はずれな誹謗です。
②「宗門は、日蓮大聖人仏法を正しく伝える清流だと思っていたが、
実は謗法まみれの濁流だったことがわかった」
創価学会では、
○宗門はもともと謗法まみれだった
○今回の問題よって、宗門の謗法が次々と明らかになった
といっていますが、宗門は日興上人以来、富士の清流を厳格に守り、日蓮大聖人の仏法を今日まで正しく伝えています。
創価学会では、日蓮正宗の七百五十年の歴史に言いがかりをつける一つの材料として、「歴代の中には謗法を犯した法主がいる」などといっていますが、のちに述べるように、歴代法主上人に謗法があったなどということは、まったくありません。
また、このほかにも、信仰の根幹や成仏の道とは関係のない些細なことがらを取り上げて、「宗門にも謗法があった」と大げさに騒いでいますが、これらは会員を洗脳するための悪宣伝です。
創価学会は、「今回、宗門が濁流だったと初めてわかった」といっていますが、これは破門された創価学会が、宗門を尊崇してきた従来の主張を、百八十度転換せざるを得なくなった口実として、「今回初めてわかった」などといっているにすぎません。
これはまた、創価学会が「宗門にだまされてきた」と会員に思い込ませるための狡猾な手段でもあるのです。
創価学会がいうように、もし宗門が「謗法まみれの濁流だった」というならば、創価学会が宗門の信徒団体であった時代でも、学会員には御本尊の功徳がなかったはずです。しかし実際には、学会員は無量の功徳を得ていたではありませんか。これは、大御本尊の功徳が絶大であるとともに、宗門の教導が正しく、謗法など一切なかったからにほかなりません。
③「信頼していた宗門と僧侶に裏切られた」
日蓮正宗の僧侶は、宗祖日蓮大聖人の御精神を継承される御法主上人の御指南を身に体し、どこまでも慈悲を根本として信徒の教導に当たってきました。これは七百五十年にわたる宗門僧侶の基本精神であり、創価学会員に対しても変わらないものでした。
そのために創価学会員から日蓮正宗僧侶は信頼され、それぞれの地域において麗しい僧俗関係を築いていたのです。
しかし、平成二年十一月の池田大作による御法主日顕上人を誹謗するスピーチは、僧俗双方にとって思いもかけなかったことであり、お互いの信頼関係を根底から崩す悲しむべき出来事となりました。その後の創価学会問題の経緯については〈各論第一章十一・十二・十三〉に述べてありますので、よくお読みください。
創価学会は、宗門の僧侶が突然、創価学会攻撃を始めたかのように主張していますが、創価学会問題の一切の原因は、池田大作の御法主上人誹謗のスピーチにありました。
しかも、その後の創価学会の宗門攻撃にはすさまじいものがありましたが、宗門僧侶は慈悲と忍耐をもって会員を善導し、その誤りを正すために努力しました。これは創価学会に対するいやがらせや攻撃ではありませんし、まして、創価学会員への裏切り行為などというものではなかったのです。
なお、創価学会の誤りに対する僧侶の心情について、第六十六世日達上人は、
「人々の無理解のため、或いは悪意の中傷に紛動されて、もっともたよるべき信徒が寺院を非難中傷し、圧迫するようなことがあれば、僧侶はまことに悲しい思いをいたして、否応なく反論しなくてはならないのであります」(昭和五十三年十一月七日・創価学会お詫び登山の折 大日蓮号外一三㌻)
と御指南されています。
また創価学会は、宗門僧侶に対する悪意に満ちた中傷記事を連日、聖教新聞などに大々的に報道していますが、その内容に一々は教義の正邪や信徒の成仏とはまったく関係のないものであり、そのねらいは、「宗門僧侶は学会員をだましてきた悪人である」と、会員に思い込ませることにあるのです。
ですから、あなたが「宗門僧侶に裏切られた」などと思っているのは、創価学会の情報操作によるものであり、決して正確な判断ではないのです。
④「宗門は創価学会員をだましてきた」
あなたに限らず、創価学会員は何かにつけて「学会は宗門にだまされてきた」とか、「法華講員は宗門にだまされている」などといいますが、宗門と学会のいずれが信徒をだましているのかを判断するには、どちれが終始一貫した主張をしてきたかを見れば明らかです。
宗門は、教義・信仰・化儀のすべてにわたって、何ひとつ変わってはいません。宗門は、宗祖日蓮大聖人の教えのまま、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本とし、唯授一人の血脈を継承される御法主上人に随順して正法広布に邁進しています。
一方、創価学会は、そのときの状況によって主張や指導がめまぐるしく変わっています。破門以後の創価学会は、従来の主張や指導とは異なった僧侶不要論、血脈否定論などを唱え、化儀・信仰においては『ニセ本尊』の作製、葬儀形式や観念文の変更などを行い、平成十四年には組織の基盤となる「会則」「規則」まで大幅に改変しています。
破門以前においても、創価学会は宗門との間に交わした約束を何度も反故にしてきました。特に顕著なものとして、創価学会が昭和二十七年に「宗教法人」を取得するに先立ち宗門に誓った「三原則」を反故にしたことが挙げられます。
その三原則とは、
一、折伏した人は信徒として各寺院に所属させること
二、当山の教義を守ること
三、三宝(仏・法・僧)を守ること
です。
この三原則は、昭和五十二年頃の創価学会の教義逸脱によって破られてしまいました。そのため、当時の北条理事長(第四代会長)はこれを反省し、
「創価学会は昭和二十七年の宗教法人設立時の三原則を遵守し、日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてまいる方針であります」(昭和五十三年十一月七日・創価学会お詫び登山の折 大日蓮号外二㌻)
と発表して、この三原則を二度と破らない旨を誓いました。
しかし今回、創価学会はこの三原則のすべてを踏みにじり、大謗法集団に転落していったのです。
創価学会が、信徒団体として宗門に誓った約束を二度も踏みにじった事実を見ても、創価学会が信用に値しない集団であることは明らかです。
ですからあなたが「創価学会は宗門にだまされた」と主張することは、まったく事実と反対の認識であり、それは故意に宗門を貶めるためか、さもなければ、創価学会の悪宣伝にマインドコントロールされていることにほかならないのです。
「死んだ先のことなど考えていない」などというあなたは、日蓮大聖人の仏法をまったく理解していません。
日蓮大聖人は、
「恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世なり」(聖愚問答抄 御書四〇〇㌻)
と、死後の成仏を心がけることこそ大切であると教えられています。
また、あなたは「成仏」という言葉を誤解しています。成仏とは、臨終や死後のみをさすのではなく、現世のみならず来世においても崩れることのない絶対的な幸福境界を築くことです。
このことを日蓮大聖人は、
「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(上野殿後家尼御返事 御書三三六㌻)
と御教示されています。
「死んだ先のことなど考えていない」といっても、あなたは、三世にわたる生命論や未来の成仏を否定しているわけではないでしょう。にもかかわらず、あなたがそのようにいうのは、日蓮大聖人が説かれる即身成仏の法門に照らして、宗門から「創価学会は間違っている」と指摘されることから逃れたいためでしょう。
あなたが大事に考えている現世の幸せはもちろん、未来永劫の幸せは、正しい仏法である日蓮正宗の教えを信仰しなければ得られないのです。
第二章 八、創価学会は「御書根本」「大聖人直結」だから正しい
①御書根本
日蓮大聖人の仏法を信仰するうえで、御書の御教示を根本としていくことは当然です。しかし、御書の御文を正しく解釈するためには、相伝によらなければなりません。
日蓮大聖人は、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意 御書九二㌻)
と御教示されています。この御文について第二十六世日寛上人は、
「宗祖の云わく『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云。『塔中及び蓮・興・目』等云云」
(撰時抄愚記 文段三三七㌻)
と述べられ、「相伝」とは、日蓮大聖人以来の唯授一人の血脈相承にもとづくものであると御指南されています。
現在の創価学会が主張する「御書根本」とは、相伝によらず、自分の都合のいいように御書を解釈することであり、それは唯授一人の血脈を否定するためのまやかしにすぎません。
かつて池田大作も、
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。(中略)外見から見ればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る八―二二八㌻)
といっていました。しかし、池田が率いる現在の創価学会は、唯授一人の血脈を否定しており、この池田の言葉とは、まったく違ったものになっています。これはまさしく自己矛盾以外の何ものでもありません。
また創価学会は、「御書根本」といいながら、御書の御文に背いています。
その一例を挙げると『松野殿御返事』に、
「法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(御書一〇四七㌻)
とありますが、「法華経を持つ者」、すなわち日蓮正宗の僧俗を誹謗中傷している創価学会は、この御教示に違背し、御書に反しています。
したがって、創価学会のいう「御書根本」などは、その場限りの口先だけのものであることは明らかです。
②大聖人直結
創価学会が「大聖人直結」を主張する真意は、日蓮正宗の御歴代上人の血脈相承と七百五十年の伝統を否定して、池田大作がただちに日蓮大聖人の教えを受け継いでいるかのように会員を欺くためです。
日蓮大聖人は『身延山付囑書』に、
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(御書一六七五㌻)
と、大聖人の仏法の一切は日興上人ただお一人に伝えられ、この唯授一人の血脈相承に背く者は「非法の衆」であり、大謗法であると御教示されています。唯授一人の血脈は日興上人から日目上人へと嫡々付法相承され、御当代日顕上人に伝えられています。
第二祖日興上人は佐渡の信徒たちに対して、
「案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人、謗法にて候なり」(歴全一―一八四㌻)
と仰せられ、付法の貫主であられる日興上人をさしおいて「日蓮大聖人直結の弟子」を名乗ることは謗法であると厳しく戒められています。
したがって創価学会が、唯授一人の血脈を否定し、「大聖人直結」を主張することは、日蓮大聖人と日興上人の御教示に背く大謗法であり、増上慢のきわみなのです。
なお、これら「御書根本」「大聖人直結」などの邪説は、昭和五十二年教義逸脱問題の折に創価学会がいい出したものです。この時、創価学会は宗門からの指摘を受けて謝罪し訂正したのですが、平成三年以降、ふたたびこの邪説をもち出して主張しているのです。宗門はその後も、再三にわたってこれらの邪義を徹底的に破折してきました。それにもかかわらず、創価学会は臆面もなく同じことを繰り返し主張しています。このことは、宗門から破門された創価学会にとって、これらの邪義にしがみつく以外に宗教として生き延びる道がないことを物語っています。創価学会の現状はじつに哀れで、みじめというほかはありません。
第二章 九、創価学会の信仰面について
①「広宣流布を実現する団体は創価学会しかない」
創価学会は、何かというと「広宣流布」を口にしますが、本来、広宣流布とは、日蓮大聖人の仏法を正しく全世界に弘め、一切衆生を救済することを意味します。
現在の創価学会は、「日蓮大聖人の仏法」を護持継承する日蓮正宗に反逆し、実際は「日蓮大聖人の仏法」を破壊する集団になり下がっています。したがって創価学会は、「広宣流布」を実現できる団体ではないのです。
かつて総本山第六十六世日達上人は、創価学会のいう「広宣流布」について、
「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります」
(達全二―六―二九五㌻)
と厳しく戒められました。
いまや日蓮正宗の僧侶と法華講員は、創価学会の悪質な妨害をものともせず、僧俗一致して真の広宣流布実現のために勇猛精進しています。
創価学会は広宣流布を実現するどころか、かえって広宣流布の進展を妨害しているだけなのです。
②「活動に功徳があるのだから、学会に間違いはない」
創価学会の信心活動に功徳があるといいますが、本当にそうでしょうか。
むしろ創価学会の幹部や離脱僧には、世間にも知られるような明らかな現罰が続々と出ているのです。
その一例として、御法主日顕上人や宗門を誹謗した人の末路を見れば、
○大石寺の合葬埋骨に関し、正体不明の写真を提供して誹謗のもとを作り
上げた「離脱僧O」 (97・3・4 37歳没)
○マスコミなどに宗門誹謗を宣伝していた張本人の学会本部広報室長「N
副会長」 (01・5・21 53歳没)
○日顕上人に対する相承疑惑誹謗などに荷担した離脱僧の中心的人物「O」
(03・3・2 65歳没)
○総本山に対する墓地訴訟の先頭に立っていた女優の「S公明党国会議員」
(03・8・9 66歳没)
○偽造写真もととなった写真を学会に提供した「離脱僧S」
(03・12・24 51歳没)
○池田大作の懐刀といわれ、創価新報での宗門攻撃を指揮していた「N副会長」
(04・3・14 61歳没)
といった人たちが、次々と亡くなっている事実は異常としかいえません。
日蓮大聖人は、熱原法難の際に法華講衆を迫害した大田親昌らが死去したことについて、
「大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか」
(聖人御難事 御書一三九七㌻)
と仰せられ、また、日興上人は平左衛門親子が謀叛の罪で誅殺されたことについて、
「父子これただ事にあらず。法華の現罰を蒙れり」(歴全一―九四㌻)
と御教示されています。
日顕上人を誹謗した大幹部や離脱僧らの連続する死亡は、まさに「法華の現罰」というべきです。
それでもなお創価学会は、会員に対して『ニセ本尊』を宣伝し、宗門攻撃をけしかけ、「学会活動には功徳がバンバン出ている」などといって誑惑しているのです。
あなたは創価学会が正法に背いた謗法集団となっている事実と、日蓮大聖人の仏法の一切を承継される御法主上人を誹謗する者の末路を直視し、
「過去・現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
(聖人御難事 御書一三九七㌻)
との御教示を、よくよく肝に銘じるべきです。
③「創価学会は宗門の発展に貢献してきた」
創価学会が、過去に総本山・宗門に尽くしたことは、正法を外護する信徒団体として当然であり、学会がこれまで宗門発展のために貢献してきたことを否定するものではありません。
しかし、宗門は七百五十年にわたって、本門戒壇の大御本尊の御威光のもと、御歴代上人の赤誠の御尽力により、今日まで正法を護持してきたのであり、その日蓮正宗の歴史があったからこそ創価学会員も大聖人の仏法にめぐり合うことができたのです。
こうした御本尊の功徳力と七百五十年間の宗門の歴史を蔑ろにして、「創価学会が宗門を大きくしてやった」などと主張することは、増上慢のきわみというべきです。
現在、創価学会は「日顕上人や宗門が創価学会を妬んで破門にした」などといっていますが、宗門の発展に寄与していた創価学会を、何の理由もなく宗門が破門にするはずがありません。
宗門にとっては、正法正義を護持し、謗法厳誡の精神を守ることが第一ですから、創価学会が謗法を犯したとき、宗門は毅然として訓戒し、善導に努めました。しかし創価学会がそれを聞き入れなかったために、宗門は断腸の思いで創価学会を破門にしたのです。
多くの創価学会員が宗門に尽くしてきた功績を踏みにじったのは、宗門ではなく、池田創価学会であり、それは宗門に対する怨嫉によるものなのです。
第二章 十、創価学会の思想について