カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

同じ道。

2014-04-16 17:35:37 | Weblog

 1948年12月21日、この日マザーは初めてTaltalaのスラムに出かけたのである。

 マザーが亡くなった後になり、シスターたちはこの日のことを知り、それ以来、毎年12月21日、マザーハウスのチャペルのボードにはマザーが初めてスラムに向かった日と書くようになった。

 マザーは21日から23日、Taltalaと、そして、PanBaganに向かっている。

 そのどちらも小さな場所である、そこのスラムの家族たちを訪ね始め、路上の貧しい人たちのケアを一人で始めた。

 クリスマスイブ、クリスマスの後に、26日Tiljalaのスラムに向かい、27日28日とMotijihilに行き、一月の最初の週にそこで木の下で青空教室を始めた。

 物を教えるためにマザーは地面に字を書いて教えていた。

 教えることの大切さを知ると同様に恐ろしいほどの貧しさの中で苦しんでいる病人たちに会い、セントテレサ教会の一画に同じく一月の最初の週にディスペンサリーを開いた。

 マザーはこの頃、Little Sister of the Poor修道院に身を寄せていた。

 朝晩吐く息が白くなる寒さ、この寒さが時に貧しい人たちの息を止めさせていく中である、その日々の仕事を終え、マザーは一人また身を寄せていた修道院までの長い道のりを、その当時ロードサキュラーロード{現在のAJCBossRoad}をどんな思いで歩いていたのであろうか、私は今回のカルカッタの滞在時、同じ道を歩く度にマザーの当時の思いを感じようとしていた。

 {つづく}

あんのこと、そして、ヘレン・ケラー。

2014-04-15 16:27:21 | Weblog

 カルカッタから帰って来てから、私は愛犬あんと穏やかな日々を暮している、今日もあんと春を愛でていた。

 今朝は多摩川の方に散歩に行った。

 そして、あんは初めて矢野口の橋を渡り、調布市に行けた。

 以前は歩道を歩いていてもダンプなどの大きな車が通るとその音に怖がり、橋を渡ろうなどとしなかったあんだが、今日は違いを見せ、ちゃんと成長していることを示してくれた。

 しかし、やっぱり根本的に小心者のあんは少しだけ歩いて、また来た道を戻り、矢野口の橋を渡って、いつもの多摩川のグランドに行った。

 それでも、それだけでも、私はあんのその小さな変化が嬉しいのである。

 あんはやれば出来る子である、とニコニコしてしまうのである。

 多摩川のグランドで一休み、タンポポが辺り一面にとても綺麗に咲いていて、その微かな甘い香りが私を満たしていった。

 あんの小心者話として、この前こんなことがあった。

 あんとミニに乗って、野川公園に行った時のことである。

 野川公園の近くには調布飛行場があり、セスナ機が離発着している。

 あんと公園を歩き始めると、私たちの頭上をちょうどセスナ機が大きな音をたてながら飛行場に着陸しようと通り過ぎた。

 その時、あんはその音に驚き、そして、絶対に当たらないはずであるが、飛行機を避けようとして即座に伏せをしていた。

 辺りには大きな木がたくさんあるのに、それでも、身を低くしているあんを見て、私は大笑いをした。

 こんなあんなのであるから、出来なかったことが出来るようになると、私には嬉しく思えて仕方がないのである。

 
 話を変えるが、私は帰って来てから、井上隆氏の本を探している。

 カルカッタでシスタークリスティーが彼の本を絶賛していた。

 マザーハウスのボランティア用の本棚にはシスタークリスティーが日本に帰国した時に買ってきたであろう、彼の本が何冊かあった。

 読んでみると良いと言われながらも、やはりカルカッタではまったく言って良いほど本は読まなかったので何一つ借りることはなかった。

 読んだのはクリスティーから借りたカテキズム的な本とベンガル語の教本、「マザーテレサの秘められた炎」と「マザーの書簡集」のみだった。

 永井隆氏の本はシスターマイケルからも、日曜の彼女のシェアリングに参加した時に勧められた。

 医師でもある彼女から、医師でもあったカトリック作家を進められて、私の興味が湧かないはずはなく、帰国してから、まず行き慣れた古本屋に行ったがまったくなく、ネットで彼のことを調べたりしていた。

 そして、たぶん四谷の女子パウロ会の本屋に行けばあるだろうと言うことだけは分かった。

 ネットで調べていると、彼はヘレン・ケラーにも会っている、どうして会ったのかはまたいつか分かるだろうから、それも楽しみになった。

 ヘレン・ケラー繋がりで言えば、彼の本を探しに行った時に偶然買った柴犬の雑誌にこんな記事があった。

 それは昭和初期に飼い主を二度雪崩から救った柴犬タマ公の武勇伝を来日していた彼女が知り、それをアメリカに帰ってから伝え、評判になり、恐らく日本犬が海外で表彰された第一号になったと言う記事があった。

 ちなみにヘレン・ケラーの愛犬は生涯秋田犬だったと言うことも、その記事にあり、初めて知り、日本犬だったのかと、柴犬ではなかったにせよ、何だか嬉しかった。

 三重苦の彼女が秋田犬とどう関わったのかは、彼女の言葉から活き活きと察することが出来るだろう。

 The best and most beautiful things in the world cannot be seen or even touched. They must be felt with the heart.
 
 世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。 ヘレン・ケラー。


日本のカルカッタ。その2。

2014-04-14 18:53:18 | Weblog

 私はアヤコちゃんをカレーを食べているおじさんたちのところに連れて行った。

 一人ひとりのおじさんがどんな表情でどんな風にカレーを食べているか、良く見るように彼女に伝えた。

 この良く見るようにとは、客観的な視点から眺めるように見るのではなく、心で見ると言うことに他ならない、大切なものはほんとうに心で見なくては見えないものである。

 私は彼女がおじさんたちを心で見るように、そうなれるように、出会うおじさんたちの話を聞かせた。

 そして、もうほとんどのボランティアが居なくなった後、私のことをずっと待っていてくれたIさんのところに行った。

 彼はアヤコちゃんの前でも、HIVであることを包み隠さず話し、入院時のことを語ってくれた。

 彼はその時のことを振り返り、意識不明で心肺停止になった時、そのまま死んでいれば良かったとさえ言っていた。

 それは彼のどうすることも出来ない本音でもあっただろう、死んだら楽だったと彼は言ったが、そうか、と私はゆっくりと答え、続いて、誰も死んだ後のことは分からないから、それも分からないと言うと彼は笑っていた。

 私には彼を癒す言葉など持ち合わせていないことを知る、だが、それに嘆かない、嘆くのは自分の意思であり、彼の意思でないからである。

 嘆きたいのは彼自身である、私の心はそこに焦点を合わせる必要があるだけである。

 ただ傍にいて、ただそっと傍にいて、彼の話を肯定的に聞くことが私に出来る最良のことかも知れない。

 彼は言ってくれた、野田さんに会えて生きていて良かったと。

 御世辞かも知れないが、私のようなものにそんなことを言ってくれるなど想像もしていなかった。

 その後、また他愛もない話を歩きながらして、Iさんとは別れた。

 アヤコちゃんはおじさんたちの生の声を聞いて、一週間前とは何かが変わって、おじさんたちを見るようになってくれたら嬉しいと思った。

 それはマザーのこの言葉、そのものの願いである。

 {私たちの働きは表面的ではなく、深くならなければなりません。

 私たちは、心に届かなくてはならないのです。

 心にまで届くには行いの中に愛がなくてはなりません。

 人々は、聞くことよりも自分の目で見ることに引きつけられるのです。

 もし、手伝いたいと思っている人がいるなら来て見てもらいましょう。

 現実の姿は、抽象的な理想よりもずっと人を引きつける力があるのです}

 私はこのマザーの言葉に少しだけ付け足したいことがある、それは例えば山谷に来る場合、それまで路上生活者に対する自己の概念を知り得ること、そして、それを分からなくしてから、彼らの前に立つこと、簡単に言えば、あらゆる思い込みを無くして、一人ひとりをしっかりと心で見ることである。

 そして、神さまのために美しいことをしようと心掛けることである。

 マザーの言うようにすることは決して簡単ではない、しかし、そこに紛れもない真実を私たちは見ているのではないだろうか。

 私はまた山谷に行くようになって、ホッとしている。

 なぜなら、山谷はカルカッタの香りが漂うところだからである。

 この街もマザーの歩いた街だからである。


日本のカルカッタ。

2014-04-13 17:13:19 | Weblog

 先週の土曜日、久しぶりに山谷に行ってきた。

 ここでもいろんな人たちから「洗礼、おめでとう!」と祝福された。

 私はまた一月のマザーハウスでの洗礼式を思い出し、少し照れながら「ありがとうございます!」と答えて行った。

 私を喜ばせたのは、それだけではなく、カルカッタで会ったアヤコちゃんや他にも二人の子がボランティアに来ていた。

 カルカッタのボランティアを終え、日本に帰ってきた子たちは、やはりそれまでの生活の忙しさゆえか、路上生活者に接するためらいからか、いろいろな理由があるだろうが、なかなか山谷に来れるものではないことを長い間の経験から知っている、それゆえに私は日本での再会と山谷に来てくれたことを喜ぶのである。

 私はその一週間前にも来ていたアヤコちゃんを連れて、カレーの列に並ぶおじさんたちに挨拶をしていった。

 もちろん、そこに行く前に「アヤコちゃん、愛を届けに行こう」と伝えた。

 いつものように下駄を鳴らしながら、階段を降りる私を見ると、おじさんたちは皆ニコニコし、ザワザワしていた。

 「おはよう!久しぶり!元気にしていたかな?」と彼らに語り掛けていった。

 まだ髭を剃っていない私の顔を見るのがとても面白いらしい、彼らは自分の顎のあたりをさわり、私の顔に髭があることを面白がっていた。

 そして、中には大声で「お帰りなさい!」と言ってくれたおじさんまでいた。

 私にとって彼らの笑顔は桜の開花を見るようなものであった、可能な限り一人ひとりの心模様をその表情から見落とさないように私は丁寧に挨拶をしていった。

 カルカッタでボランティアやシスターたちに迎えられた喜びと同じ喜びをその時は私をおじさんたちから受けていた、私を待ってくれていた人がここにもいたと感謝の思いに春の風はその祝福にあふれていた。

 列の中にはあのHIVのIさんもいた。

 彼のことはボランティアのミチムコさんが三月の終わりにメールで私に会いたがっていることを知らせてくれていた。

 私は少し立ち止まり、彼の話を聞くと、彼は一月に心筋梗塞になり、心肺停止になり、死の淵をさまよい、一ヶ月間入院していたと照れ臭そうに苦笑いをしながら話してくれた。

 先に列の最後まで行っていたアヤコちゃんにも、彼のことを教えた。

 私は彼女に深くおじさんたちを知ってほしいと望んでいた、深く知ることにより、愛が生まれていくことを感じてほしかった。

 心と言うものは不思議なもので、あることを知るのと知らないのとではまったく物の見え方まで違ってくるのである、ならば、私たちは愛の心で美しいものを見た方が良いのでないだろうか、慈しみの心で誰かの哀しみを愛で包み込むようにしたいのではないか、それを行うのも心次第であり、また気付きによるところである。

 {つづく}

 

ママの仕事。

2014-04-11 15:07:01 | Weblog

 私がこのブログでママと書く女性はNZ出身のジョアンのことである。

 彼女は私の洗礼によりゴッドマザー{代母}にもなり、私の生涯、彼女はずっとママになったのである。

 彼女は私を空港まで見送ってくれた。

 その時、彼女が今抱えている仕事のことを聞いた。

 その中でもシスターから頼まれたケースで40歳のガンのターミナルの母親、その二人の子供のことに胸を痛めていた。

 その二人の子供には母親以外家族なく、また激しいほど貧しいスラムに住んでいた。

 子供たちはシュシュババンで受け入れられないだろうかと私が聞くと、ママもそうなるだろうと話していたが、子供が母親を亡くしたすぐ後にそうしたことを容易には受け入れられないことも私たちには分かっていた。

 ママはシスターたちがスラムや村などの訪問で出会った病院ケースの患者のケアやオペの手配などをしている。

 とても忙しい日には一日に7人の患者のオペがあった時もあったと言う、こうしたことはボランティアの中ではあまり知られていない仕事である。

 患者はカルカッタに限らず、ビハールや他の州からも来ることもある。

 そのどれもどうしようもない悲惨なケースである、また悲惨なケースであるからこそ、シスターたちから頼まれるのである。

 4月1日にブログに書いた母親と子供のことを詳しく書こう。

 その日ママは偶然ある患者のオペでHopeの病院にいた、そこにシアルダーのディスペンサリーからHopeの救急車でメリーが精神障害者の母親と栄養失調の子供二人と来た。

 その家族のことを話し合うため、私はアドレーションに行く前に、ママの家により、ママとメリーから詳しく話を聞いた。

 メリーがほんとうにたいへんだったようである、救急車の中で母親は女性に対して激しいほどの怒りをすぐに現し、一人の子供を抱いていたメリーから子供を奪うと、もう一人の子供に脇に抱えたらしい、それも首を絞めるように無理やり抱いていたとのことだった。

 だが、男性の運転手だけにはとても優しく、母親の頭の中ではすでに自分の旦那と言うまでなっていたと言う。

 母親は病院でもママやメリー、女性にはとても暴力的で暴れてしまい、Hopeは受け入れられないと判断した。

 だが、五歳{到底五歳には見えないほど痩せ細り小さかった}と言う上の子供は何もしなければ三日で死ぬだろうと医師は判断していた。

 それにも関わらず、Hopeのスタッフはシアルダーに送り返すと言い出したので、ママを怒り、スタッフに警察を呼ぶように言い聞かせた。

 ネグレクトとして警察ケースにすれば、また路上に戻るようなことはなくなるからである。

 結局その母子は警察扱いになり、Hopeの病院から近い国の病院のバングーラ病院に収容された。

 しかし、悲惨な話はこれで終わらない、母親にはもう二人少し大きな子供がいて、その子供たちはビハールからカルカッタに来る途中、列車の中ではぐれてしまい、行方不明になっているとのことだった。

 このインドで行方不明になった貧しい子供が親ともう二度と会えないのは誰もが知るところであろう、それを聞いたボランティアの誰もが言葉を失い、胸を痛めた。

 母子をシャンティダンと言うことも、私たちは考えたが、やはり無理やりに母親と子供を離すことはシスターたちには出来ないことである、胸の痛みの取れぬことであるが、これも出来ることの中での最良のことだったかもしれない。

 この日メリーは疲れ切っていた、ママの腕には母親につけられたであろう傷もあった。

 ママの仕事はこんな感じである。

 今思えば、カルカッタでの私の時間が許せば、ママと何日か一緒に仕事をして、病院との連携などを学ぶことが必要だったと思う。

 なぜなら、ボランティアやシスターたちの中であれ、ママほどカルカッタの病院、または貧しい人を診てくれる医師たちを知っている人はいないからである。

 そんなママである、私は私の生涯を持って、誇りに思える素敵なママである。

 

美しいことを。

2014-04-10 18:45:00 | Weblog

 「私もマザーのように人を救いたいです」と言う人と会うことがある。

 しかし、オリエンテーションでもよく話していたことだが、マザーは人を救いたかったのか、と言う問いを投げ返す、と言うよりも深く問い直してもらう。

 もちろん、マザーは人を救いたいと思ったこともあっただろうが、でも、そこをもっと深く感じみれば、彼女の生涯の重要なテーマ、それはやはり神さまのために美しいことをすると言うことに他ならない。

 誰かに褒められたい、誰かに認められたいではなく、そうではまったくなく、ただただ神さまを喜ばすために、神さまを悲しませないために、神さまのために美しいことをしようと切に願い祈り、貧しい人の中にいる神さまに愛の手を差し伸べてきたのである。

 「あなたたちにもここでそうしてほしい」と伝え続けた、また言葉にすることはなかったかもしれないが、この先の人生の中でも、何かに迷い、何かに苦しむことがあったなら、なおさら、その時にそうしてほしいと。

 私はこのことをオリエンテーションでよく話した。

 すると、キリスト教やマザーのことすら、あまり知らない日本人であれ、このマザーの言葉「神さまのために美しいことをしよう」と言うことは誰もが不思議なくらい自然に受け入れたように思えた。

 それと見続け、私はふと思った。

 これは人間本来に備わっている自己実現の欲求の一つではないかと思わざるを得なかった。

 誰のためにでもない、ただひたすらに神さまのために美しいことをする、そこには私たちが普段失いかけている純粋な生きる知恵の泉があるのかもしれない。

 もちろん、いつもどうしても他人の目を気にしながら生きていくしかしょうがなかった人たちには、逆説的なそこにこそ救いが見出せそうな期待を感じさせたのかもしれない。

 いづれにしろ、私たちの本能の中には、「神さまのために美しいことをしたい」と言う魂が生き続けていると言って良いのではないだろうか。

 私たち一人ひとりはマザーのどこに自身の心が触れたのであろうか、そこを深く問い続けることにより、マザーとの生き生きとした出会いがあり、マザーはあなたに語り始めるかもしれない。

 マザーの愛はあまりに大きく、そして、今もなお、とても強いのである、このことは帰り際に現総長のシスタープリマとも話し合った。

 忘れないでほしい、マザーは完璧なほどに優しい愛の人である。

 今日もマザーは言っているだろう、「神さまのために美しいことをしよう」と。

 

オリエンテーション。

2014-04-09 13:40:08 | Weblog

 私がボランティアのオリエンテーションを始めたのはたぶん十年ぐらい前だろう、それまでは頼まれても頑なに断っていた。

 そして、しっかりとやるようになったのは三年前と今回ぐらいかも知れない。

 私はずっとオリエンテーションが苦手だった、と言うより、告白すれば面倒だと考えていた。

 それはほんとうにいろんな人たちがマザーハウスに来るので、ステーションの以外の仕事に心を奪われたくないと考えていた。

 しかし、六年前か、そのもう少し前かも知れない、自分の嫌がることをしてみようと考え始めてから、積極的にオリエンテーションもしようとした。

 私の嫌がるそれは何かを知るために、その意味を探るために、またマザーの言う通り、「喜びながら、それをする」ことが出来るのかどうかの私を知りたかった。

 やり始めれば、私は語りだした、そして、ボランティアに来る人たちがどうかカルカッタでの日々を安全に過ごし、またマザーの愛をどうやったらより良く、より深く感じ持って帰ってくれるかにどのように語れば良いのかをずっと考えていた。

 今回一月は洗礼のこともあり、オリエンテーションには顔を出さなかった。

 洗礼式が終わり、一段落着き、一月の終わりにそれまでオリエンテーションをしていた子が帰国することになり、私が代わった。

 もちろん、台本もない中である、日によってうまく喋れる時もあれば、そうでない時もあったと思う。

 それに体調が優れない時や午前患者を施設に運んだ日などは休み時間があまり取れず、今日は行きたくないと実際思ったことがあった、にも関わらず、私は代わって以来一度も休むことなく最後までオリエンテーションが出来て、心から幸せだと思えたと同時に神さまは喜んでくれたであろうかと考えた。

 最後の日は三人の日本人に話した。

 そこで今まで話すことはなかった私の本音も話した、それはここに来た子たちがキラキラした思いやマザーの愛に満ちて帰れるように話してきたと。

 まったくおこがましい願いではあるが、私はずっとそう願っていた。

 私の最後のオリエンテーションが終わると、シスターメルシーマリアは「Tetsuはみんなの前で歌われるのが嫌でしょ{私は今回も最後の朝、前に出て、みんなから歌われるのを避けていた}。でも、私たちはあなたに歌いたいの」と最後に彼女とシスターマーガレットの二人だけに「Thank you! Thank you! Thank you!」と歌われた。

 愛し愛されるためにここに来た感謝以上の感謝が身を包んでいた。

 今回のオリエンテーションではマザーの祈りを良く紹介もした。

 だが、それは不覚えのまま話したので、ここで全文を載せておきます。

 「あなたの中の最良のものを」

 人は不合理、非論理、利己的です。
 気にすることなく、人を愛しなさい。

 あなたが善を行なうと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
 気にすることなく、善を行ないなさい。

 目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
 気にすることなく、やり遂げなさい。

 善い行ないをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
 気にすることなく、し続けなさい。

 あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
 気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい。

 あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
 気にすることなく、作り続けなさい。

 助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
 気にすることなく、助け続けなさい。

 あなたの中の最良のものを世に与えなさい、けり返されるかもしれません。
 でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです。

 マザーテレサ。

 少し間違えて話していたかも知れませんが、それはどうか許してください。

 そして、また改めてこのマザーの祈りから、聞こえてくる、問いかけてくる何かを大切に持ち続け、あたため続けて行ってほしいと私は望んでいます。

 マザーは決していつ何時もあなたを責めあげたりしません、今もなお、あなたをどう勇気づけようかと祈り続けていると信じてください。

 そして、この言葉をマザーの立場、経験、愛と行いから読み返してください。

 あなたの心のどこかに触れたマザーとの鮮やかな出会いがそこに待っています。
 

暖かな多摩川。

2014-04-08 17:36:50 | Weblog

 今朝朝食を食べてから、まず出かけたのがあんの爪切りのために近くのホームセンターに向かった。

 実はあんは私のいない間、ずっと爪は伸びっぱなし、それくらいなら良いのだけれど、なんと少し肥ってしまったのである、約400gぐらいである。

 運動不足であることと母親のおやつのあげすぎが問題であるだろう。

 でも、私が帰ってきたので散歩をしっかりとするから、たぶん、もとの体重ぐらいには戻るだろうとあまり心配していない。

 ホームセンターに着き、トリミングのところに行くと、午後二時にならないと予約などがあり、爪を切れないとのことだった。

 とりあえず、二時に予約をして、そのまま多摩川の河原に行った。

 あんはとても嬉しそうに草むらの上をサクサクと歩き、クンクンもしていた。

 のんびりとした優しい風景だと心は喜び、ゆっくりと辺りを見渡してから、瞳を閉じ、感謝の思いを祈りにした。

 タンポポが何とも愛らしくて、どこもかしこも、誰も彼も、微笑んでいるように咲いていた。

 私が草むらの上にゆっくりとしゃがみこむとあんも近づいてきて座った。

 しばらく春の暖かな陽射しとその香りを楽しんでいた。

 インドから帰って来て、寒い日が続いたが、今日は暖かでとても助かった。

 毎年の桜咲くこの時期に桜をバックにあんの写真を撮る場所がある、そこの桜は今年もとても綺麗に咲いていて、私を喜ばしてくれた。

 二時にまたホームセンターに行こうとミニのエンジンをかけたが、やはりバッテリーが上がっていた。

 すぐに石坂に連絡して、充電器を借りてきて、今も充電中。

 石坂の昼休みにホームセンターにあんと一緒に石坂の車で連れて行ってもらった、彼も買い物があったので助かった。

 あんはまた爪切りの時、「ギャーギャー!!!」と吠えていた。

 「ほんとうにすいません」とあんの爪を切ってくれたトリマーの女性に礼をしっかりと伝えた。

 あんはもう何てことない澄ました顔をしていた。

 帰ってからは、パソコンの上を片付けたり、洗面所のところに写真を飾ったり、マザーハウスでもらったマリア像などを飾ったりした。

 もうすっかりカトリック信者の家らしくなってきた。

 少しずつゆっくりとこの日本に心と身体を合わせていくのに、この桜咲く春はその優しさに満ちている。

最後の日の朝。

2014-04-07 18:06:49 | Weblog

 前夜私の最後のディナーはジョジョスでグレッグ、ジェニィ、メギン、チャッド、マリオのメリーを抜く、シアルダーのメンバーで食べた。

 私とグレッグは缶ビールを一本ずつ、メギンとチャッドは一本を二人で分け飲んだ。

 マリオとジェニィはビールは飲まなかった。

 話は多岐にわたり、MCファーザーになったリチャードの話になった。

 もう20年ぐらい前の当時彼は彼女と来ていたが、そこで別れることになり、彼女はMCシスターに彼はMCファーザーに入会した。

 そんな話にしていて、冗談でチャッドもMCファーザーにと言うことを私やグレッグが言い出すと、メギンは「やぁ~だ~!チャッドがMCファザーなんて!」と若い奥さんの彼女は駄々をこねる少女のように言い始めた。

 それがとても愛らしく、一同笑った。

 そして、私は言った、「メギン、子供を作れば、ファザーズになれる」と言うと、「それが良い!」とメギンは笑った。

 日々の疲れもあり、九時過ぎには解散した。

 グレッグはこの日の午前中ホテルパラゴンからセントラルステーション近くにあるクリスチャンブラザーズの施設に移っていた。

 だから、それまで毎朝私のゲストハウスの角に5時35分に待ち合わせていたが、その夜、待ち合わせの約束はしなかった。

 最後の夜とはなかなか寝れるものではない、思いにふけりながら荷物を詰めたり、明日の朝の用意や駅や残ったボランティアに渡すものの整理などもあったし、何よりも部屋が暑すぎた。

 だが、私はいつもより早い4時半に目覚ましを掛け、部屋の電気をすべて消した。

 眠った記憶がまったくない感じのまま、目覚ましのなる10分前に目が覚めた。

 とうとう来てしまった最後の朝である、想像は何度もしてきたし、味わったことも何度もある最後のカルカッタの朝、やはりこれにはどうしても慣れることは出来なかった。

 ただ今日はいつもよりも早くマザーハウスに行こうと思った、そして、速足で歩くいつもの道もゆっくりと歩いていくことにし、すべてを見ることなど不可能であることを知っているにも関わらず、すべてを見ようと思い、歩き出した。

 まずいつもと言うか、グレッグが来て以来、彼がいつも待っていてくれた角に自然と目が行く、時間がいつもよりも早いし、約束もしてない、彼が待っていることなどあるはずがないのに、どうしても私は彼を探してしまった。

 辺りを一周見渡してから、マザーハウスの方へ歩き出した。

 ボランティアにマザーハウスで渡すビニール袋を二つ持って、ほんとうにゆっくり歩いた。

 いつもまったく見ない方も見渡し、空も何度も眺めたりしながら、そして、時に後ろから誰か来ないかなども気になり、何度か見たがやはり誰も居なかった。

 私がカルカッタに来た一月この道は朝ミサに向かう時間真っ暗だったが、今もうすでに明るくなっていた、見るもののすべてが確認出来るようになっていた。

 そんな来たばかりの時の気持ちを振り返っていると、後ろから「グッドモーニング!ブラザー」と声が聞こえた。

 聞き覚えある声であるグレッグの声だった。

 いつの間にか彼は私のすぐ後ろにいた。

 たぶん、私の姿を確認し、速足で近づいて来たのであろう。

 私は喜んで振り返った。

 その瞬間涙が出そうになったので、無言になってしまった。

 ただグレッグが私のバッグを持っていることに気が付いた。

 そのバッグは私が駅の仕事でずっと使っていたバッグである、昨夜彼にあげたのである。

 彼はすでに同じようなバッグを私と一緒に買いに行き、使っていたので、そのバッグはグレッグの子供が使ってくれれば良いと思っていた。

 だが、彼が嬉しそうに私の使っていたバッグをしょっているのを見るととても嬉しかった。

 それは彼は言葉にはしなかったが、いつも一緒であると言う意味に他ならない、私が日本に帰ろうと、私の心とともに働いてくれると言う意味に他ならない、もっと私と働きたいと言うグレッグの愛に他ならなかった。

 私に言葉に詰まりながらも、「バッグの中は確認した?」と彼に聞いた。

 「もちろん!」と彼は答えた。

 グレッグと最後の朝に会えたのは偶然ではない、必然に違いない、最後の最後まで神さまは私を喜ばそうとしていた、ずっと祝福してくれていた。

 何か言葉を出すともう出した途端一緒に涙も出そうになるので無言でマザーハウスまで一緒に歩いた。

 ただただ朝焼けはあまりにも美しかった。

 私にはそうにしか見れなかった。
 

晩酌しながら。

2014-04-06 18:01:58 | Weblog

 今日はシスターたちとの約束通り、調布教会に行き、信徒の転出届けを出してきた。

 ミサの間、頭の中では、今のこの時、この言葉はカルカッタでの英語のミサでのあの言葉だったと回想したり、実際に英語を小さく口ずさんだりもした。

 何度か行った調布教会のミサではあったが、あることに気が付かなった、それは聖体拝領の時、誰もが手で御聖体をもらうのである。

 それを見て、さて、私はどうしようかとしばらく考えた、と言うのはカルカッタではいつも口で御聖体を受けていたからである。

 その意味はカルカッタにいた時にブログに書いたことであるが、マザーが御聖体を手で受けることを好まなかったと言う話をシスタークリスティーから洗礼式の前に聞いたからである。

 マザーがなぜ手で御聖体を受けることを好まなかったかと言うのは、手で御聖体を受ける場合、ほんの少しでも御聖体が欠けたり、それが塵にすらなってしまうことを畏れ、御聖体・イコール・イエスの身体をそのようなことになって受けぬように口で受けていたのである。

 私は誰一人として、口で受けていない聖体拝領だったが、やはり口で御聖体を受けさせてもらった。

 ミサを終え外に出ると、昨年12月カルカッタに行く前に会った神父さんがいて、転出届けを渡す際に、そのことを聞いていたところ、日本では手で受ける人が多いとのことであった。

 実はアイルランドでも手で受けるのが普通のようである、マザーの聖体拝領のことをアイリッシュのバーニーやジョン、メリーに話した時、彼らはそう言っていた。

 ちなみにマザーハウスのシスターたちは誰も手では受けず、みんな口で受けている。

 このことを岡さんに話すと、彼女は口で受けるようになっていた。

 今日はミサの後、またキャラ神父のお墓に行った。

 この前はクリスマスの夜だったので気付かなかったが、神父の墓石の上には司祭帽が形づけられていた。

 それほどキャラ神父の人間性の高さを当時誰もが知っていて慕っていた証しかもしれないと思った。

 私が帰ろうとした時、そこに老夫婦が来て、その墓のことを聞くので、こことぞばかりに「沈黙」のことやキャラ神父のことを話すととても喜んでくれた。

 すぐ近くに桜吹雪が舞っていた。

 
 昨夜晩酌しながら、ふと思った。

 カルカッタではほんとうにこんな風には酒を飲まなかったということ、いや、実際飲めなかったということ。

 いつも体調に気を付けることを何よりも第一にしていた、すべては仕事を精神的にも体力的にも落ち着いて出来るかどうかを重視していた。

 そこで何よりも大切にしていたのが睡眠である。

 どうやったら睡眠時間を十分に取り、身体を休めることが出来るかと常に考えていた。

 帰る間際は気温40度近くあり、湿度はいつも90%以上だった。

 なので、部屋の中は蒸しに蒸していた。

 だけど、グレッグとの時間は別であった、彼はわざわざ私に会うために家族よりも一週間早く来てくれたので、彼が来てからは一日だけを除き、毎晩彼とは酒を飲んだ。

 と言っても、ビール二本以上は飲まず、ビール一本だけにすることもあった。

 私はそれでも嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。

 兄弟のように親しい二人の十年ぶりの再会である、話すことも山ほどあり、また話さぬ時間であれ、ともに時間を過ごすことが出来たのは神さまからのかけがえのない贈り物であった。

 身体は疲れにより、太陽アレルギーによる発赤が出来始めていたが、それでも、それは非ではなかった。

 もしかすれば、もう二度と会えぬかもしれないと思っていたし、また次いつ会えるかは私には皆無だったのである。

 心の底から嬉しい喜びに満ちた時を過ごせた。

 酔いつぶれることなどなかったが、それもしてみたい気持ちがなかった訳でもないが、何はともあれ、ほんとうに幸せだった。

 そんなことを思い、今夜もそれを酒の肴にし、晩酌をしようと思う。