「私もマザーのように人を救いたいです」と言う人と会うことがある。
しかし、オリエンテーションでもよく話していたことだが、マザーは人を救いたかったのか、と言う問いを投げ返す、と言うよりも深く問い直してもらう。
もちろん、マザーは人を救いたいと思ったこともあっただろうが、でも、そこをもっと深く感じみれば、彼女の生涯の重要なテーマ、それはやはり神さまのために美しいことをすると言うことに他ならない。
誰かに褒められたい、誰かに認められたいではなく、そうではまったくなく、ただただ神さまを喜ばすために、神さまを悲しませないために、神さまのために美しいことをしようと切に願い祈り、貧しい人の中にいる神さまに愛の手を差し伸べてきたのである。
「あなたたちにもここでそうしてほしい」と伝え続けた、また言葉にすることはなかったかもしれないが、この先の人生の中でも、何かに迷い、何かに苦しむことがあったなら、なおさら、その時にそうしてほしいと。
私はこのことをオリエンテーションでよく話した。
すると、キリスト教やマザーのことすら、あまり知らない日本人であれ、このマザーの言葉「神さまのために美しいことをしよう」と言うことは誰もが不思議なくらい自然に受け入れたように思えた。
それと見続け、私はふと思った。
これは人間本来に備わっている自己実現の欲求の一つではないかと思わざるを得なかった。
誰のためにでもない、ただひたすらに神さまのために美しいことをする、そこには私たちが普段失いかけている純粋な生きる知恵の泉があるのかもしれない。
もちろん、いつもどうしても他人の目を気にしながら生きていくしかしょうがなかった人たちには、逆説的なそこにこそ救いが見出せそうな期待を感じさせたのかもしれない。
いづれにしろ、私たちの本能の中には、「神さまのために美しいことをしたい」と言う魂が生き続けていると言って良いのではないだろうか。
私たち一人ひとりはマザーのどこに自身の心が触れたのであろうか、そこを深く問い続けることにより、マザーとの生き生きとした出会いがあり、マザーはあなたに語り始めるかもしれない。
マザーの愛はあまりに大きく、そして、今もなお、とても強いのである、このことは帰り際に現総長のシスタープリマとも話し合った。
忘れないでほしい、マザーは完璧なほどに優しい愛の人である。
今日もマザーは言っているだろう、「神さまのために美しいことをしよう」と。