私はアヤコちゃんをカレーを食べているおじさんたちのところに連れて行った。
一人ひとりのおじさんがどんな表情でどんな風にカレーを食べているか、良く見るように彼女に伝えた。
この良く見るようにとは、客観的な視点から眺めるように見るのではなく、心で見ると言うことに他ならない、大切なものはほんとうに心で見なくては見えないものである。
私は彼女がおじさんたちを心で見るように、そうなれるように、出会うおじさんたちの話を聞かせた。
そして、もうほとんどのボランティアが居なくなった後、私のことをずっと待っていてくれたIさんのところに行った。
彼はアヤコちゃんの前でも、HIVであることを包み隠さず話し、入院時のことを語ってくれた。
彼はその時のことを振り返り、意識不明で心肺停止になった時、そのまま死んでいれば良かったとさえ言っていた。
それは彼のどうすることも出来ない本音でもあっただろう、死んだら楽だったと彼は言ったが、そうか、と私はゆっくりと答え、続いて、誰も死んだ後のことは分からないから、それも分からないと言うと彼は笑っていた。
私には彼を癒す言葉など持ち合わせていないことを知る、だが、それに嘆かない、嘆くのは自分の意思であり、彼の意思でないからである。
嘆きたいのは彼自身である、私の心はそこに焦点を合わせる必要があるだけである。
ただ傍にいて、ただそっと傍にいて、彼の話を肯定的に聞くことが私に出来る最良のことかも知れない。
彼は言ってくれた、野田さんに会えて生きていて良かったと。
御世辞かも知れないが、私のようなものにそんなことを言ってくれるなど想像もしていなかった。
その後、また他愛もない話を歩きながらして、Iさんとは別れた。
アヤコちゃんはおじさんたちの生の声を聞いて、一週間前とは何かが変わって、おじさんたちを見るようになってくれたら嬉しいと思った。
それはマザーのこの言葉、そのものの願いである。
{私たちの働きは表面的ではなく、深くならなければなりません。
私たちは、心に届かなくてはならないのです。
心にまで届くには行いの中に愛がなくてはなりません。
人々は、聞くことよりも自分の目で見ることに引きつけられるのです。
もし、手伝いたいと思っている人がいるなら来て見てもらいましょう。
現実の姿は、抽象的な理想よりもずっと人を引きつける力があるのです}
私はこのマザーの言葉に少しだけ付け足したいことがある、それは例えば山谷に来る場合、それまで路上生活者に対する自己の概念を知り得ること、そして、それを分からなくしてから、彼らの前に立つこと、簡単に言えば、あらゆる思い込みを無くして、一人ひとりをしっかりと心で見ることである。
そして、神さまのために美しいことをしようと心掛けることである。
マザーの言うようにすることは決して簡単ではない、しかし、そこに紛れもない真実を私たちは見ているのではないだろうか。
私はまた山谷に行くようになって、ホッとしている。
なぜなら、山谷はカルカッタの香りが漂うところだからである。
この街もマザーの歩いた街だからである。