カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

やっと読み終わった。

2012-05-17 12:46:18 | Weblog

 昨日ガンディーの真理を読み終わった。

 長い間読破出来なかった本だったので、思わず読み終わった途端、少し拍手したくらいだった。

 まったく難しく複雑に表現されたエリクソンの後期の作品だった。

 最後にはインド紙幣の500ルピーにある塩の行進の話で終わったが、不思議なことに終わりが近づけば近づくほど、もっと読みたくなった。

 ある種のドラックに似ている依存症というべきものにすでに毒されているかのように、もっともっとと、その先のガンディーの細かな行動にすでに魅了され、好奇心が煽りだされていた。

 でも、もちろん、それと同時に思わず拍手したくらいにある爽快感もあった。

 以前にも書いたが、これで終わりではないと言う感もある。

 また読み直してみたい宝物の本になった。

 八年前自分のクリスマスプレゼントとして買ったガンディーの真理、いま、ようやく、そのプレゼントを受け取ったと言える。

 この本をもっと深く理解、解釈するためには、自分自身の成長も必要であろう。

 これから、ガンディーが影響を受けたというトルストイやラスキンも読んでみたいと言う宿題も授かった。

 だが、今日からは少し読み始めていたフランクルの回想録を読むことにする。

 この前NHKにこの本の訳者である山田邦男氏が出ていて、フランクルについて、いろいろと語り、禅との類似点などはとても興味深いものだった。

 そして、山田氏が口先で話すのではない、お腹から言葉を出していくような語りはとても素敵だった。

 さて、お腹から理解・解釈出来、それを身にするように本を読もうと思っている。

 

美味しいの。

2012-05-16 11:52:54 | Weblog

 今朝あんは石坂がゴミを出しているのを見ると、ダッシュして石坂のところに行き、いつものように顔をペロペロした。

 その前は強い陽射しに「暑いな~」なんて感じで家の前の駐車場を仕方なくクンクンしていたのに、自分の「石坂だ」の声で石坂を見つけ走っていった。

 ほんとうに石坂が好きみたいである。

 それから石坂が仕事に行き、あんは用が済み、もう家に帰ろうと座り込みを決めるが、少しだけと言うことで散歩に出かけた。

 なるべくあんがいつも通らない場所に歩こうと決め連れて行く、新しくクンクン出来るところに興味を持ってもらい、あんの脳の活性化を補うために。

 それでも、やはり暑い陽射しは黒い毛皮を着たあんには辛いようなので短い散歩にして、帰りはアリス{柴犬}に会うことにして帰ることにした。

 そこであんは今日初めてアリスのお母さんにおやつをもらった。

 すると、もうあんはアリスのことはどうでも良くて、アリスのお母さんに離れなくなった。

 これであんは今まで以上にアリスのところまで喜んで来るようになるだろう。

 あんは美味しいものをもらうと、もう二度と忘れない。

 こうやって、あんは喜んで行く場所が増えることは嬉しいのである。

 あんがいろんな人に可愛がられることは嬉しいことである。

 あんはその愛を感じ、今日もすくすく育っている。

 あんが感じた愛を自分も分けてもらって微笑んでいる。

 清々しい青空のもと。

マザーの書簡集。

2012-05-15 12:46:22 | Weblog

 土曜日に山谷で広瀬さんがこんなことを言っていた。

 「マザーの書簡集、アマゾンに出ててさ。値段が9800円だったよ」

 「えっ、そうなんですか。自分が探した時にはなかったですが・・・」

 「いや~、どうしようかなと思ったんだけど、やっぱり元の値段が800円なのにね・・・。そうそう、この前シスター{MC}のところにも行ったけど、書簡集はなかったよ」

 「じゃ、片柳君に電話してみては?」

 「それはね・・・」と言って笑う。

 「トーマス{韓国人のMCブラザー}が読み終わったら貸してもらうよ」

 「そうですか、素晴らしい本ですからね。良いですよ」

 トーマスは辞書を片手に日本語のマザーの書簡集を読んでいる。

 そして、以前自分に会うと、ニコニコしながら、「あの素晴らしい!」と言っていた。

 あらゆるマザーの本のなかでマザーの書簡集はほんとうに素晴らしい。

 それはすべてマザーの言葉、手紙、思いであるからである。

 それも彼女の迷い苦悩、弱さ、強さ、喜び、真意、真理、神との対話など、ありありを生の声で描かれたものである。

 こんなに素晴らしい本をドン・ボスコは増刷しないのは不思議なくらいである。

 まして、その本でお金儲けをしようとしている人がいることは悲しいことでもある。

 これからMCの列聖会から出される本が版権取得の問題などが少なく、安全かつ良い翻訳の形で出版されることを切に祈るのみである。

 

シンクロ。

2012-05-14 12:32:55 | Weblog

 自分たちはまことに言い表すことの出来ぬ繋がりのなかに生きている。

 誰と誰が会った理由など、どうこう言えないだろうが、それも必然であったと言う感覚を持てる人は少なくないだろう。

 こうした自分たちを超えたところのものに神さまの存在を人間は感じてきたのだろう。

 土曜日山谷の午後に久しぶりに山谷にある喫茶店バッハでカナコに会った。

 彼女とは2003、4年にカルカッタで一緒に働いた。

 そして、その時に一緒に働いていたトシエのことも話した。

 彼女はその後MCに入り、ノビスまでにはなったがMCを離れてしまった。

 自分は彼女がMCに入るその日に新宿御苑でいろいろと話した。

 もちろん、それからもカルカッタで白のサリーを着た彼女に会ったが、MCの規則のために挨拶程度の会話のみしか話していなかった。

 土曜日には、トシエの心配を二人でしていた。

 次のカナコからメールが来た。

 なんと土曜日の夜に突然トシエから電話が来たとのことだった。

 元気そうだったとあったので嬉しかった。

 神さまが何かを伝えてくれたのだと思える。

 こうした繋がりのなかを今日も自分たちは生きている。

 カナコからエルサレムに行ったお土産をもらった。

 ナザレなども歩いたとのことだった。

 ちょうど今山谷に行くときにはジーパンのポケットに遠藤周作のキリストの誕生を入れ、電車の読んでいた。

 お土産はジョーダン川の聖水だった。

 これも何かの繋がりがあるのだろう。

 あの方のお導きであろうか。

 自分たちの想像を超えたところに毎日は存在していて、それは常に見守られて、何かを問うているように思えてならない。

 あらゆることにイエスと言えることに意味があるのだろう。

 あなたもあなたの目には見えぬ繋がりのなかに生きている。

 そこには自分の知らなかった自分に出会えることをも意味する。

 それに気付けるように。

 有り難く気付けるように。

 

穴澤天神社の階段。

2012-05-11 12:54:45 | Weblog

 暑くなってくると、あんは朝の散歩をいつも以上に行きたがらなくなる。

 あんは黒いから、暑さの吸収が良いからかもしれない。

 しかし、それもどうにか言いくるめて散歩に出掛ける。

 そんなあんではあるが、階段を登るのが大好きみたいである。

 今日も穴澤天神社の階段をそれまでの歩き振りが嘘のように登っていく。

 ここの階段は50段ぐらいはある急な階段で、勢い良く登るあんに付いて行くのがたいへんである。

 この神社には湧き水が湧いてて、近所の人たちが汲みに来るが、そこにある階段はペットの進入禁止になっていて通れないので仕方なく急な階段を登るか、また車の通れる坂道を登って神社に行くようになっている。

 今日は急な階段を登った。

 一段抜かしで登っていかないとあんには追いつけないので、かなり必死になるが、これまた楽しそうなあんの顔を見るとがんばれねばと思い付いて行く。

 登りきった左手に行くと神社があり、そこは新緑が気持ち良く、少し息切れをした自分とあんを優しく迎えてくれる。

 ここは涼しく気持ちが良い。

 被っていた帽子を取り、一礼をして、新緑を楽しませてもらい、あんには少しおやつをあげ、帰りもしっかり歩くように言い聞かせる。

 どこかで山藤の花が咲いているのか、甘い香りを葉が触れ合う清々しい音とともに風が運んでくる。

 「あん、気持ち良いね!」とあんに話しかける。

 あんはちょっと微笑んだようにトコトコ歩く。

 満たされた思いが辺りを包み込んでいた。

 甘い香りの風吹くなかを。

 今日も良い日であるように。

 あなたに良い風が吹くように。

  

ルターの宣言。

2012-05-10 12:35:03 | Weblog

 ガンディーの真理の作者エリクソンは、宗教的現実主義の神髄として、ガンディーはこの宣言を彼自身のものとしたと書いている。

 「ルターの宣言」

 キリストは今日現われる。
 神の道とは、われわれを動かすものなり。
 われわれはつねに生まれ変わり、新たになり、甦るべし。
 充分になすということは、つねにもう一度始める、ということに他ならない。

 ガンディーは深い葛藤のなか、常に生まれ変わるように新たなものになり、成長し、自己を統合し、時に死の入り口より復活をしてきた。

 真理の把握を万人にどう伝えるか、と言うことをなすために、何度も自己の誤りを受け容れ、それを乗り越え、そして、唯一無二の人になった。

 それは自分たちも一人ひとりがかけがえのない存在であり、唯一無二の存在であることを知らしめる。

 大小ではなく、また誰かと比べるものでもなく、ルターのこの言葉を胸のうちにあたためることにより、何かは変わっていき、何かは育ち、何かは輝いていくのではないだろうか。

 祈りのうちに。

 

 

読解力。

2012-05-09 12:52:02 | Weblog

 ガンディーの真理を読んでいて、痛切に思うのが自分の読解力の貧しさと低さである。

 だから、この本を手にしてから、もう7年ぐらい経っていたのだろう。

 だが、さすがに最後に近くなっていけば行くほど、この本に吸い込まれるようになってきた。

 一字一句読み逃すことのないように電子辞書とノートとガンディーの自伝を近くに置き、分からない字は調べ、またそれをノートに記入しながら、それは悪戦苦闘しながら読んでいる。

 ガンディーは激しい赤痢になり、神経衰弱になり、それは自伝には「死の入り口」と書かれている。

 その一年間を乗り越え、彼はその反発と克服からの喜びであろうか、新たかな解釈を得、活き活きとそのマハトマの生命力を生み出していく様は圧巻である。

 細かなことは到底書ききれないが、自伝では書かれていないその時期の彼の言葉を読んでいくと、真理への確信、サティヤーグラハがインド人全体にどう根付いていくものか、「ヒマラヤも一本道では歩けない」と言うほど、それが難しいことを受け入れ、にもかかわらず、それを見出そうと必死な姿があまりにダイナミックであり、かつ、神のご加護のうちにあったことを知る。

 さて、あともう少しで終わってしまうが、それが終わりでないことを確信しながらも、この本を身体で感じながら、ゆっくりとインドを思い浮かべ、またそのとりこになりながら読んでいこう。

 貧しい読解力も育てながら。

呪縛。

2012-05-08 12:39:36 | Weblog

 ずっと読みきれていなかったガンディーの真理も二冊目に行き、ようやく、ガンディーが生涯で17回の断食の最初であるアーメダバードでの断食のところを読み終わった。

 この最初の断食で彼は心理的に物凄く揺れる、にもかかわらず、だんだんと確信、真実とへ近づいていく。

 しかし、そのすぐあとのイギリスへの兵士募集を募ることに無我夢中なる。

 一ヶ月前にビハールでは貧しい農民たちにサティヤーグラハを説いていたにもかかわらず、彼は今度その間逆である兵士募集を説いた。

 それも当時のインド総督、またその秘書官にかなりのおべっかの手紙を書いたりしていた。

 どうしてガンディーがそのような行動に出たかと言えば、それは父親との関係からの克服、やり直しであった。

 目上の上のもの、絶対なる力のあるもの、イコール、それは父親であり、同一視し、彼にとっては絶対なる奉仕を神経症的にしてしまうのであった。

 しかし、ガンディーの呼びかけには農民の誰一人賛同しなかったばかりでなく、彼を反対に見下したりするものもいた。

 これは当たり前でもあった。

 敵を愛せと説いたものが一ヶ月も経たないうちに今度はある意味人殺しに行きなさいと言ってきたのであるから。

 ガンディーはここで激しい赤痢になり、重体になり、数ヶ月間散歩もできなくなった。

 その間神経衰弱なりながらも、ガンディーがここで自分の誤りに気付く、この真理を見出すガンディーだからこそ、彼はマハトマ{偉大なる魂}になっていく。

 こうしたところを読んでいくと、人の一生とは幼年期に培った親との関係を否応なしにずっと持ち続ける恐怖すら感じる。

 だが、それと同時に、誤りを認め、そこと対話するものは、親の呪縛から解かれ、自分らしい自分になり、ほんとうの意味での自分になりえる。

 病気により、彼は自分を整え、心理へと統合していった。

 そこを神が見守ったことは確かのように思える。

 ガンディーの真理はとても深く重い本であり、難しいところもあり、読みきれていない感は拭えないが、それでも、素晴らしい。

 無意識に培った親への恨みやその罪悪感は、人の神経症的行動や怒りに出やすい、いつまでも親の声を聞き続け、それを形を変え、従わざるを得ない生き方を選んでしまう。

 そこに幸せはあるのか。

 自分を苦しめているだけではないのか。

 また周りにもその苦しみを与えているだけではないのか。

 問う必要があるように思えてならない。

 苦悩に耐え、またその苦悩が自己を成長させる。

 あなたがそうさせるのである。

 この瞬間もである。

 祈りの必然を感じずにはいられないだろう。

 

パパと同い年。

2012-05-07 12:35:24 | Weblog

 昨日はサイんちで同級生内藤と内藤の友達クロちゃんと飲んだ。

 みんな41歳であることに気が付く。

 バカボンのパパと同い年であることに。

 「41歳の春だから~」と歌い、41歳の春に乾杯した。

 サイんちにはあんの友達ハナもいるので、あんを連れて行こうとしたが、ちょうどカミナリがあり、あんは尻尾を垂らし、テーブルの下に非難していたので連れていけなかった。

 七時半に一度家に帰り、あんもサイんちに連れて行った。

 家から出るときにハナちゃんちに行くと言うと、もうノリノリに勢い良く歩き出し、途中クンクンと電柱を嗅いでも、「ハナちゃんちに行くよ!」と言うと、クンクンを止め、歩き出し、すぐにハナちゃんちに着いた。

 あんは大喜びでハナちゃんに会い、お互いに尻尾フリフリしていた。

 ただサイんちに新しく加わった猫タロは「ウゥ~」と言っていた。

 そうそう、食いしん坊万歳のあんはハナちゃんにあがると、すぐにハナちゃんの食べていないご飯を食べようとした。

 仕方ないから、少しだけハナのご飯を頂いて、あんにあげた。

 あんはバカボンのパパと同じ年のみんなに可愛がってもらえた。

 あんは嬉しそうな顔をしてた。

 そして、家に帰ってきた。

 41歳の春は41歳の夏に向かっていた。

 

マザーテレサのマニア。

2012-05-04 12:48:45 | Weblog

 マザーテレサのマニアと言われることもたまにある。

 マザーテレサが大好きなことに嘘はない。

 ただマニアと言うか、そんなことの関係のない、神の愛を持ち働いている人たちを見てきた。

 そして、自分は自分よりもマザーと詳しい人たちと働いてきた。

 バーニーやジム、ママ、ジョンなどはほんとうにそうである。

 自分の存在理由のためにマザーの名を語るのではなく、ただ彼女と神の愛のために生きているその純粋性を忘れてはならないと自身に問う。

 ガンディーが言ったように「キリスト不在のキリスト教徒」にならないように、それは「マザー不在のマザー好き」にならないように自身に問う。

 自分は祈らなくてはならない。

 祈りが枯れることなく、ひたすらに祈りが必要である。

 乾きを感じ、渇きを見出し、潤うように。

 このうちが。