自分たちはまことに言い表すことの出来ぬ繋がりのなかに生きている。
誰と誰が会った理由など、どうこう言えないだろうが、それも必然であったと言う感覚を持てる人は少なくないだろう。
こうした自分たちを超えたところのものに神さまの存在を人間は感じてきたのだろう。
土曜日山谷の午後に久しぶりに山谷にある喫茶店バッハでカナコに会った。
彼女とは2003、4年にカルカッタで一緒に働いた。
そして、その時に一緒に働いていたトシエのことも話した。
彼女はその後MCに入り、ノビスまでにはなったがMCを離れてしまった。
自分は彼女がMCに入るその日に新宿御苑でいろいろと話した。
もちろん、それからもカルカッタで白のサリーを着た彼女に会ったが、MCの規則のために挨拶程度の会話のみしか話していなかった。
土曜日には、トシエの心配を二人でしていた。
次のカナコからメールが来た。
なんと土曜日の夜に突然トシエから電話が来たとのことだった。
元気そうだったとあったので嬉しかった。
神さまが何かを伝えてくれたのだと思える。
こうした繋がりのなかを今日も自分たちは生きている。
カナコからエルサレムに行ったお土産をもらった。
ナザレなども歩いたとのことだった。
ちょうど今山谷に行くときにはジーパンのポケットに遠藤周作のキリストの誕生を入れ、電車の読んでいた。
お土産はジョーダン川の聖水だった。
これも何かの繋がりがあるのだろう。
あの方のお導きであろうか。
自分たちの想像を超えたところに毎日は存在していて、それは常に見守られて、何かを問うているように思えてならない。
あらゆることにイエスと言えることに意味があるのだろう。
あなたもあなたの目には見えぬ繋がりのなかに生きている。
そこには自分の知らなかった自分に出会えることをも意味する。
それに気付けるように。
有り難く気付けるように。
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