とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 594 無法松の一生(度胸千両入り) 村田英雄 

2019-01-19 00:45:38 | 日記
学生時代のコンパでの定番曲になり、随分長い間唄い続けました。大学も小倉にありましたので、自ずとそうなったと思います。映画では三船敏郎主演の作品が印象に残っています。


無法松の一生(度胸千両入り) 村田英雄 UPB‐0078



村田 英雄(むらた ひでお、公称1929年(昭和4年)1月17日 - 2002年(平成14年)6月13日)は、日本の演歌歌手、俳優。佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)出身。出生は福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)である。本名、梶山 勇。血液型はAB型。新栄プロダクションに所属していた。愛称は、ムッチー。


浪曲師から歌手へ

福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、実父・広沢仙遊、実母・矢野ツタ子の子として生まれる。生後まもなくツタ子の姉弟子である出利葉スミ子の養子となる。その後、スミ子が梶山春雄と結婚し、一家は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。

4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』初舞台を踏む。その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね、楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下に弟子入りし、当時師匠が住んでいた大阪市西九条に移住し修行を開始する。64番目の弟子であった。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。

1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。6月19日、福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した。
1947年に少女浪曲師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。

1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現 新栄プロダクション)前社長・西川幸男(浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)に宛て、自ら手紙を書きマネージメントを依頼。師匠・酒井雲と西川が合意、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名。数年後に妻子を呼び寄せる。新婚当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。

1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。

尚、従来、舞台と映画で知られていたこの作品を取り上げたのは、師匠である酒井雲自身が浪曲界でも屈指の読書家であり『文芸浪曲』(文字の読み書きの出来ない人々にも文学に親しんでもらおうと考えだした芸題群の事)という浪曲のジャンルを確立し、この事を見習って、自身も北九州を舞台とした代表的な文学作品であった同作を取り上げた事と、文学界きっての偏屈者と噂された原作者の岩下俊作自身が浪曲ファンで浪曲化を承諾したといわれる。

しかし、同年に三船敏郎&高峰秀子主演によるリメイク版映画の公開があったものの、ヒットに恵まれず(わずかに「人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみ)NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。

1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立する。
「王将」は1962年に三國連太郎&淡島千景主演(監督:伊藤大輔、脚本:伊藤大輔、東映東京)、1973年には勝新太郎&中村玉緒主演 (監督:堀川弘通、脚本:笠原良三、東宝)でそれぞれ、映画化され、村田の代表作の一つとなった。

1973年、持病の糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中の1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また1981年〜1982年には、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』でその豪快なキャラクターや逸話をネタとして取り上げられた事で若年層からの人気も獲得する。

1988年、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた三橋美智也、春日八郎と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材に歌った曲が多い。また『二階堂伸』、『北くすお』のペンネームで作詞、作曲もこなしている。

俳優としては1939年の新興キネマ京都作品の少年浪曲師としての初出演を皮切に、1974年まで任侠映画等に多数出演。身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌と鍛え上げた声で1960年代後半は東映任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。鶴田浩二・高倉健・北島三郎・千葉真一らと多数共演した。

持病の糖尿病が再び悪化した1991年以降も闘病生活を送りながらも「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し、話題を集めた。
1993年 芸能生活60周年を記念し、『俺は村田だ!!』を出版。
1997年 半生記『生命あってこそ』を出版。芸能生活65周年記念パーティーを開く。

1999年11月13日 福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)の生家に石柱を建立、翌2000年10月18日に若宮八幡宮に生誕地記念碑が建立される。
2000年 石田須眞子と再婚(但し未入籍)。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 (番外)梶田 凪  Bars 2018 N H K Cup

2019-01-16 17:40:08 | 日記
何とまたまた十代のすごい選手が登場しました。十代は各方面で活躍していますね。

Naki Kajita Bars 2018 N H K Cup



甲斐清和高校2年生。昨年の体操全日本選手権・個人総合3位!


今のところこうことしかわかりません。しかし、大器ですね。オリンピックの楽しみが増えました。

梶田凪 さんのインスタグラム
体操選手 の梶田凪さん のインスタグラム(Instagram)アカウントです。
2,028
NAGI KAJITA
JAPAN🇯🇵gymnast☆山梨Jr./甲斐清和
[BIHAKUEN]UVシールド(UVShield)

https://instagrammernews.com/user/2205717563

あちこち「SYOWA」 593 三波春夫~俵星玄蕃フルバージョン~

2019-01-13 23:54:35 | 日記
唄を演じる類まれな歌い手でした。この「俵星玄蕃」は最高傑作として後世に残る名曲です。あたかも歌舞伎か映画を見ているような迫力があります。どの歌手も一人でこれだけの迫力は出せないと思います。

中学の時、クラス対抗で合唱の発表会があり、私たちのクラスは「チャンチキおけさ」を歌おうということで終礼の時教室で練習しました。すごい、学校で流行歌が歌える、しかも調子のいい「チャンチキおけさ」。私たちは大声をあげて練習しました。しかし、担任の先生がある日突然「この唄はやめにしよう。校長に叱られた」と悲しそうに告げました。私たちはがっかり。そういう訳で曲目を変更して練習を始めました。しかし今思い出しても何を唄ったか思い出せません。因みにその担任の先生は若いころ歌手を志していたそうです。

三波春夫~俵星玄蕃フルバージョン~



三波 春夫(みなみ はるお、1923年7月19日 - 2001年4月14日、本名・北詰 文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。自身の長編歌謡浪曲などの作詞・構成時のペンネームとして「北村 桃児(きたむら とうじ)」を用いた。俳号は「北桃子(ほくとうし)」。


「三波春夫」歌謡界デビュー・歌藝(うたげい)の道

1957年(昭和32年)6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。デビュー盤は「メノコ船頭さん(C-4084)」で、B面は及川ウメ子(後に及川三千代と改名)の「サテ、なんとしよう」だった。第2弾が「チャンチキおけさ/船方さんよ」のカップリングであった(C-4091)。その後デビュー初年度にして半年間でシングル7枚、10曲を発表、いずれも大ヒットとなり一躍人気歌手の仲間入りを果たす。特に「チャンチキおけさ」は、故郷を恋しむ思いに満ちた歌詞が当時、集団就職で都会に出ていた若者の郷愁を誘った。

翌年、1958年(昭和33年)、第9回NHK紅白歌合戦に「雪の渡り鳥」で初出場。
1959年(昭和34年)、テイチクの歌謡曲(流行歌)レコード売上で年間1位が「大利根無情」、2位が「忠太郎月夜」、3位が「チャンチキ酒場」と年間トップ3を独占した。

1960年(昭和35年)36歳。3月1日から、歌手としては初の1か月公演を大阪新歌舞伎座で開催。芝居と歌謡ショーの昼夜2回公演を日28日間、休日なしで行う。

1961年(昭和36年)38歳。8月、東京・歌舞伎座公演での1か月公演を開催。以来、1月は名古屋・御園座、3月は大阪・新歌舞伎座、8月は東京・歌舞伎座での『三波春夫特別公演』を1980年8月まで20年連続で定例公演とし、定着させた。この中で上演する芝居は三波が企画し、その7割の作・演出を花登筺が手がけている。デビューから数年間は山口組三代目・田岡一雄率いる神戸芸能社の傘下で仕事をした。しかし、三波は暴力団関係者と親密な交友関係を持つことはなかった。

1963年(昭和38年)6月、東京オリンピックを明くる年に控え、テーマソング「東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される。三波のほかに、三橋美智也(キング)、橋幸夫(ビクター)、北島三郎&畠山みどり(コロムビア)、坂本九(東芝)らが歌っているが、中でもテイチク・三波盤 が250万枚を売り上げ突出して大ヒット。100万枚突破の際には祝賀パーティーが開かれ、作曲した古賀政男も出席し、古賀本人の指揮の下、三波が生歌を披露している。

1964年(昭和39年)4月、北村桃児(きたむら・とうじ)のペンネームで自ら作詞・構成した長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」を発表。浪曲師時代の経験を活かし、歌と浪曲を融合させ、浪曲特有の啖呵(台詞)や節回しも取り入れながら、長時間の浪曲をコンパクトに楽しんでもらおうと創作した『長編歌謡浪曲』は三波歌謡の象徴となり、「俵星玄蕃」はまさに代表作の1つとなった。これ以降、歌手活動だけに留まらぬ精力的な創作活動を展開、「豪商一代 紀伊國屋文左衛門」(1966年)など数々の日本史上の人物や出来事を題材にした作品を発表した。

1967年(昭和42年)3月、1970年(昭和45年)3月から半年間、大阪で開催が決まった日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソング「世界の国からこんにちは」が8社競作で発表され、総売上げが300万枚を突破する。この曲でもテイチク・三波盤 は130万枚の大ヒットとなった。この頃から、「国民歌手」、「国民的歌手」が三波の代名詞となった。また、1970年の万博開催後、三波はリベリアで発行された日本万国博覧会開催記念切手に登場している。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことだった。

戦後日本の復興の象徴ともいえる二つの国際的平和の祭典のテーマソング「東京五輪音頭」・「世界の国からこんにちは」の2曲は、三波が生涯を通じて大切に歌い続けたことで、歌手・三波春夫の代表曲として長く知られることとなった。ちなみに晩年、1994年(平成7年)の『芸道55周年記念リサイタル』でのMCで三波はこの2曲を「生涯の宝物でございます」と語っている。
1975年(昭和50年)三波春夫名義で『おまんた囃子』の作詞作曲を手掛け50万枚のヒットとなる。

1976年(昭和51年)、知己のテレビプロデューサーで、「てなもんや三度笠」などで知られる澤田隆治からの企画提案を受け、自身初のリサイタルとなる「歌謡生活20周年記念リサイタル『終り無きわが歌の道』」を開催。澤田はプロデューサーとして、実現のため奔走した。

1986年(昭和61年)、11月、紫綬褒章受章。12月、第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録となる29年連続29回目の出場を果たす(ちなみにこの時点の史上最多出場は30年連続出場の島倉千代子)。だが、翌1987年(昭和62年)の第38回NHK紅白歌合戦は、出場歌手の選出方法が大幅に変更になった事も影響し、出場歌手発表前の11月6日に島倉が「30回と言う区切りを大切にしたい」と出場辞退を発表、三波も同月25日、「後進に道を譲りたい」として辞退することを発表した。

その2年後、1989年(平成元年)の第40回NHK紅白歌合戦に、3年ぶり30回目の復帰出場。紅白が40回目である事に加え、元号が「昭和」から「平成」へ変わって初の紅白であるため、初の2部構成、4時間20分に及ぶ特別編成となった。三波は「第一部・昭和の紅白」に出場し、「東京五輪音頭」を歌っている。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 592 美空ひばり(柔)

2019-01-12 17:53:20 | 日記
以前にも取り上げたという記憶が・・・。まっ、いいです。彼女こそ昭和を代表する「歌姫」ですね。貫禄、実力ともに備わった歌謡界の女王ですね。・・・ただ病魔で・・・。ご冥福をお祈り申し上げます。


美空ひばり(柔)



美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。
12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。


デビュー


デビュー当時の美空ひばり

戦敗間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、和枝8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌い加藤母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、加藤母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。

古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。

1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号で加藤母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。

そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。和枝は左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。

師・川田晴久との出会い

1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。

川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。川田に大きな影響を受けたひばりは、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。

川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた反面、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。

同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。

なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される。

全国的人気を獲得


1953年のひばり

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした

。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の史上最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。
1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。

1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。

1952年映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶようになった。初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之介とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂(のち東映社長)に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた。

三人娘の時代


美空ひばり。毎日新聞社「毎日グラフ(1954年11月17日号)」より。

1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博し、親交を深める。 
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。

1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。塩酸をかけた少女はひばりの熱烈なファンだったという。現場に居合わせたブロマイド業者らによって犯人の少女は取り押さえられ警察に突き出された。

また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。

1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田茂に頼まれ、高倉健を相手役として迎えた。

東映と専属契約を結んだ1958年から1963年の間、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」と述べている。今日、映画女優としての側面に必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが、生涯で150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という、戦後を代表する映画女優であった。

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 591 バス・ストップ  平 浩二

2019-01-10 00:36:21 | 日記
何とも切なくて、切なくて・・・。聞くたびに体全体が熱くなります。こういう名曲は消え去ることはありませんね


バス・ストップ  平 浩二



平 浩二(たいら こうじ、1949年1月23日 - )は長崎県佐世保市出身の歌手である。本名:平頼敏(たいら よりとし)。所属事務所はナインプランニング。既婚、子あり。柔道初段。前川清とは小・中学校の同級生。 弟は『おかあさんといっしょ』の3代目うたのおにいさんを務めたアニメソング歌手のたいらいさお。 2015年、佐世保市としては初の取り組みとして初代 佐世保観光名誉大使の委嘱を受ける。 2017年1月より株式会社ナインプランニングに事務所移籍。 平浩二オフィシャルサイトと平浩二公式ツイッターを開設。


経歴

長崎県立佐世保工業高等学校卒業後、大阪で船井電機に就職。五か月勤めた後、1967年に歌手を目指し上京。

1969年、テイチクレコードから『なぜ泣かす』でデビュー。
1970年、『博多ブルース』で再デビュー。

1972年、『バス・ストップ』(作詞:千家和也 作曲:葵まさひこ)がヒット。オリコン最高11位。
1978年、ワーナーミュージック・ジャパンへ移籍。

1982年、『バス・ストップ』が明治チョコレートのCMソングに採用され再発売。
1994年、ワコールグッドアップブラCMソング『よせてあげて』発売。

2000年、芸能生活30周年を記念し初舞台「恋ひとひら」に出演。
2005年、フリーボードへ移籍。

2015年、佐世保観光名誉大使の委嘱を受ける。
2017年、ナインプランニングへ事務所移籍。(「Wikipedia」より)