とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(番外)タラ・クリステン・リピンスキー -1998 Nagano Olympics - Exhibition "Anastasia", "The Rainbow"

2018-03-12 18:00:39 | 日記
タラ・クリステン・リピンスキー。こういうすごい選手もいましたね。オリンピックは奥が深すぎる。


[HD] Tara Lipinski - 1998 Nagano Olympics - Exhibition "Anastasia", "The Rainbow" リピンスキー Липински



タラ・クリステン・リピンスキー(Tara Kristen Lipinski 1982年6月10日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の女性フィギュアスケート選手で現在はプロスケーター。1998年長野オリンピック女子シングル金メダリスト。1997年世界フィギュアスケート選手権優勝。


経歴

1982年フィラデルフィアに生まれ、3歳でローラースケートを始める。フィギュアスケートは6歳のときに始めた。1994年の全米選手権ノービスクラスで2位となり、翌1995年全米選手権ではジュニアクラスで2位、同年世界ジュニア選手権で4位となり注目を集めた。
1995-1996年シーズン、全米選手権ではシニアクラスで3位となり、優勝が期待された世界ジュニアでは5位、初参戦の世界選手権ではショートプログラムでコンビネーションと単独の3フリップで転倒し23位スタートとなったが、フリープログラムでは3サルコウ+3ループ、2アクセル+ハーフループ+3サルコウを含む全てのジャンプを成功し、フリー単独では11位、総合15位となった。このあとコーチをリチャード・キャラハンに変えた。

1996-1997年シーズンより本格的にシニアに参戦する。チャンピオンシリーズのスケートカナダおよびスパルカッセン杯で2位、ラリック杯で3位、ファイナルでは優勝を果たす。続く全米選手権優勝、世界選手権優勝と一気に世界の頂点に上り詰めた
この快進撃の原動力となったのは、3回転-3回転のコンビネーションであった。当時リピンスキーはトリプルループ-トリプルループという、当時の女子シングルではかなり難易度の高いコンビネーションジャンプを用いていた。

1997-1998年シーズン、ミシェル・クワンにスケートアメリカ、全米選手権で敗れて2位になるも、持ち味である3回転ループ-3回転ループ、終了間際にトリプルトウループ-シークエンス(ハーフループ)-トリプルサルコウを跳ぶという2つの難度の高いコンビネーションを武器に、技術的に魅せる構成を組む。このコンビネーションに失敗しても、後半でダブルアクセル-シークエンス-トリプルサルコウ-ダブルループの3連続ジャンプに即席で挑戦するなど常に意欲的な姿勢で可能性を見せた。

長野オリンピック

長野オリンピック本番では、ショートプログラムで序盤のトリプルルッツ-ダブルループのコンビネーションジャンプが、ルッツの踏み切りがインサイドとなるミス(いわゆるフルッツ)が有り、同じアメリカ代表のミシェル・クワンに次いで2位発進となる。そして逆転優勝をかけたフリースケーティングでは、プログラムの後半にトリプルループ-トリプルループのコンビネーションを成功させ、さらに最後にはトリプルトウループ-シークエンス-トリプルサルコウも確実に決め、3回転-3回転のコンビネーションジャンプを2回披露してみせた。

その結果、ミシェル・クワン(2位で銀メダル獲得)を技術点で抑えて総合首位となり、冬季オリンピックのフィギュアスケートでは史上最年少となる15歳8ヶ月での金メダルを獲得した。なおフリーの順位点では9人の審査員のうち6人がリピンスキーに1位、3人がクワンに1位をつけた。アメリカの審査員はクワンに1位をつけたものの、総合的にはリピンスキーが断然優れており、しかもすべてのジャンプで安定した着氷と、スローパートで柔らかなスケーティングを見せていた。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(307)飾りじゃないのよ涙は/中森明菜

2018-03-12 03:30:01 | 日記
1980年代のアイドルとして松田聖子と2強を争った中森 明菜。2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦で復活ライブを視た時は感激しました。
私が体調を崩して入院し気落ちしていた時、弟の嫁が中森明菜のパネルに貼った写真を見舞いに持ってきてくれました。病院に中なので恥ずかしかったですが、とても癒されました。ずっとベッドのそばに飾って眺めていました。・・・今となってはほんとに懐かしい思い出です。


飾りじゃないのよ涙は


中森 明菜(なかもり あきな、1965年7月13日 - )は、日本の歌手、女優。80年代アイドル。本名同じ。東京都大田区生まれ、清瀬市育ち。明治大学付属中野高等学校定時制中退。研音、コレクション、コンティニュー、N.A.P.C、楽工房を経てFAITH(ファイス)所属。所属レーベルはユニバーサルJ、ユニバーサルミュージック内の私設レーベル歌姫レコーズ。


概要

16歳の時に出場した日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』合格を機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結。

1982年にシングル「スローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒット。翌1983年には、「セカンド・ラブ」、「禁区」などもヒット。1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を争った。

以降も「北ウイング」、「飾りじゃないのよ涙は」など連続してシングル・ヒットし、1985年の「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」と1986年の「DESIRE -情熱-」で2年連続となる日本レコード大賞を受賞。

別冊宝島の調査によると、1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中1位であった。同じく1980年代、当時の女性アイドル中年間シングルオリコンチャート最高位の座は4回獲得している(1984年、1985年、1986年、1987年)。

チャート1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系)に安田成美とW主演し、その後も1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系)で永作博美と共にW主演など女優としても活動。2002年にはユニバーサルミュージックに移籍し、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表。歌姫シリーズの第2弾として発売されたこのアルバムはヒットを記録する。以降、『歌姫3 〜終幕』、『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』などカバー・アルバムのシリーズ作をリリースする。2004年にはプライベートレーベル歌姫レコーズを設立した。

2010年10月、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。それ以降メディア出演は元より、公の場へ一切姿を現していなかったが、2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦に「スペシャルゲスト」として、ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継で登場し、4年3か月ぶりに芸能活動の復活を果たした。 2015年1月、シングル 「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム「歌姫4 -My Eggs Benedict-」をリリース、活動を再開する。(「Wikipedia」より)